情(こころ)の芸術


梅雨のシーズンは多湿で不快指数が上昇しますね。クーラーによって除湿された部屋で快適に過ごす現代人。けれど、夏の暑さ冬の寒さ、そして梅雨の多湿感をそのまま経験してゆくことによって、日本人の抵抗力のある丈夫な体がつくられてきたのだとも思います。

こころにも当然、波が生まれます。波浪警報が発令されるような高波や荒波もあれば、平和に凪いだ海もある。感情の起伏とどのように付き合っていくのかは、もしかすると、日本の季節の移り変わりに似ているかもしれません。

 

山折哲雄さんと齋藤孝さんの対談本『「哀しみ」を語りつぐ日本人』のなかに、『感情の“ふるさと”は「季節感」にあり』というテーマがありまして、山折さんは、「“堪え忍ぶ梅雨”が感情に旨味を与えてきた」と書いています。

梅雨と言えば、食品の腐敗が非常に早い時期でもあります。感情を食品に喩えて、山折さんは子ども時代を振り返り次のように語ります。

いまあらためて梅雨の季節を思い返してみると、それはありとあらゆるものが腐敗する時期だったような気がします。いわば「腐敗→発酵」という過程をたどることで、じつはすべてのものが成長し、新たなものが生み出されていく。梅雨とはそんな季節でした。

腐敗→発酵といえば、酒や醤油、味噌などが典型ですが、これらは原料となる米や大豆を一度腐敗させ、そこから旨味のエッセンスを取り出すという意味で共通しています。

思うに、この腐敗→発酵のプロセスは、人間の感情、とくに日本人の伝統的な感情作用に大きな影響を及ぼしているのではないでしょうか。

つまり、「ストレートに感情を表出するのははしたない、浅薄だ。むしろ、洗練された真の感情というものは、一度自分自身のなかで腐敗→発酵というプロセスをたどり、そこからはじめて生み出されるものだ」という認識が、私たちの頭のなかにはたしかにあったのです。

(PHP研究所版 山折哲雄・斎藤孝共著『「哀しみ」を語りつぐ日本人』)

 

腐敗→発酵を感情に当てはめて、梅雨というシーズンは日本人のこころになくてはならないシーズンなのだと述べています。発酵させて夏を迎えるというわけです。

特にこの書は「哀しみ」(※注:悲しみではない)をテーマとしていますので、山折さんの論でいえば、「哀しみ」を腐敗させる。その次に、発酵させるのかおのずと発酵するのかわかりませんが、例として、太宰治と寺山修司を挙げています。二人とも青森出身で、厳しい北方の生活習慣が、秀逸な文学を発酵させる微生物のはたらきをしたのだろうと。

 

しかしですよ。

発酵すれば確かに良いのだろうけど、有機物が分解して腐敗したまま、さらに腐乱の状態になってしまうこともあるわけです。「哀しい」という感情が腐敗し発酵せずに腐乱していく一方であれば困ってしまいますよね。

発酵に必要な酵素が活発にはたらくには、環境が重要らしい。

失恋した時や心に傷を負ったときに、日本人は北へ向かおうとします。この習性はこの書にも書いてあるのですが、理由は判然としないようです。演歌の歌詞のせいかもしれませんが、それは逆で、古くから、なぜか北へ向かおうとする人が多いからそういう演歌の歌詞がウケたという説の方が有力なのかな。

よくわかりませんが、私にも、もの哀しい北国へのあこがれの情があります。

深雪に閉ざされた北国の冬をイメージすると、「哀しみ」を心の小箱にいったん封印して閉ざし、ゆっくりと醸成させ、発酵してくるのをひたすら待つということかもしれません。雪解けの春をひたすら待ち続けるように。

発酵させる酵素は、外部にあるのではなく、自分の心のどこかに内在しているはず。

 

極寒のロシアで生まれた、『カチューシャ』『トロイカ』『ともしび』『黒い瞳』『カリンカ』『ポリュシュカ・ポーレ』などのロシア民謡が日本人に心にフィットし、日本の子どもたちが好んで歌うのは(今はどうなのか知りませんが)、なぜでしょうか?

「哀しみ」とは、情(こころ)の芸術なのかもしれない。

 

 

漫画からの現代価値観への問題提起


今日は軽い話題から。

週刊少年ジャンプに今年から連載されている、『ぼくたちは勉強ができない』という漫画について、おもしろいので書きます。

唯我成幸を主人公に、緒方理珠、古橋文乃、武元うるかの3人がヒロイン。

全員が同じ高校の3年生で大学受験を控えている。理珠は理系の天才で理系科目は常に100点満点。ところが国語がめっぽう出来なくて0点に近い。文乃は理珠とは逆で文系の天才、しかし数学にめっぽう弱く0点に近い。秀才の成幸は理系文系両方の科目でこの二人の壁に阻まれ一番にはなれない。

こうした状況で、理珠は文系の大学学部を希望する。心理学に興味があるようだ。文乃は理系の大学学部を希望する。天文学に興味があるようだ。つまりこの二人は、現状で合格する見込みがゼロに近い。

家が貧乏で特待生を希望する成幸は、校長から、この二人のアドバイザー役を頼まれる。高校としては有名な大学へ入学できた秀才を育てたという実績が欲しいからだ。理珠には文系を断念することを、文乃には理系を断念することを、学校側としては画策しているという裏の事情がある。

既に、何人かがこの提案を受けて、理珠と文乃の指導に当たったが、苦手分野の克服はもちろんできず、得意分野の学部を受験する方向へ彼女たちの意志を向かわせることにも失敗している。

武元うるかは成幸の幼馴染で体育系が抜群の水泳部所属。ただし理系も文系もほとんどだめ。しかし校長は、成幸にうるかの教育係をまたもや命じるのだった。

成幸は理珠と文乃、うるかの希望を叶える方向で、勉強のサポートをしていく。

そうしているうちに、3人の女子が成幸の誠実性を核とした人柄に好意をもっていくという筋書き。近作ではベタなラブコメもようが中心となってゆく感じで、ちょっと惜しい。同様の、一人の男性を複数の女性が好きになる展開は、『ゆらぎ荘の幽奈さん』や新連載の『腹ペコのマリー』にも見られるし、長期連載終了した『ニセコイ』もそうだった。ありきたりの展開になれば連載終了は早いかもしれない。

 

さて、長々とあらすじを説明して、もう私自身おなかいっぱい状態なのですが、この漫画は現代価値に対する問題提起として好例になるのではないかと思っています。

一般的に、両親や担任教師は、その子どもの得意とする分野、才能を感じる分野、他者から高い評価を受けている分野に進ませようとしますよね?

「あなたはこの長所を生かす道に進んだ方がいいね」だとか、この才能が伸びればノーベル賞も夢じゃない、大リーグも夢じゃないだとか、有名大学に入学し、いろんな人から子どもが褒められれば(内心で「私が育てたからよ」)的に、親が嬉しいということもあるわけです。

高い評価を受ける能力を生かせれば、その子が社会人として食っていくのも楽だろうという親心もありそうです。

 

しかし、当の子どもたちは、大人のそうした「功利主義」「損得勘定」「打算」に染まらずに(高校生ともなれば大人の価値観に染まってしまう子どもも多いですが)、自分の興味、好奇心がわく分野、不得意でも好きな分野に向かいたいという子も少なからずいると思います。

翻って、私たちはどうでしょうか?

あなたはどうですか?

自分の長所を生かしたい、得意な道へ進みたい、お金になる道へ進みたい、他者から高い評価を受けている分野で活躍したい、という意識を優先している人がほとんどではないでしょうか?

よく考えてみればわかるのですが、これらはすべて、他者(自分の外部)が軸になっています。

自分自身が軸になっていない。

 

例えば、芸術の道へ進みたい、デザインの道へ進みたいと言っても、その道のみでは90%以上の人が食べていけないのですが、貧しい家庭で育った子どもがその道を希望するとき、さて、もしあなたがサポーター役だったらどうしますか?

とても難しい問題ではあります。

どの価値観を優先すべきか。

単純に、自分軸が他人軸よりも良いと断定はできない。

ありきたりの言いかたで言えば、本人たちが幸せになる道ならばそれが一番と。

では、そう答えた後に、本人の幸せってなんですか? と問われたらどう答えましょうか?

 

少なくとも、ある程度の人生経験を積んだ大人ならば、5年10年のまわり道となったとしても、まわり道を経験した方がその子の人生全体にとっては良いのではないかと考えると思います。まあ、私なんかは人生全部がまわり道で、直截に目的に向かえる道を死ぬまで知らずに人生を終えそうですが(苦笑)

好きな道を進む自由には、険しい断崖や厳しい寒さ、恐ろしい外敵が立ちはだかります。

我が子が断崖から落ちて死んでも後悔せず、かえってその子を誇りに思える親でいられるかどうか。どうでしょう?

自分が自由に生きて勝手に死んで、もし家族がいて、残された家族の気持ちは関係ないと言えてしまえるのかどうか?

 

たかが漫画かもしれませんし、漫画であるからああいう設定が可能だとも言えます。けれど、視点をいろいろ変えてみたり価値観をさぐっていくと、現実へ連想がおよぶ哲学になるケースもけっこうあるのです。

過去のジャンプで言えば『暗殺教室』や『トリコ』には(他にもあります)、現代価値に対する問題提起や哲学が垣間見えました。

『ぼくたちは勉強ができない』も、現代価値に対する問題提起的な作品に成長させることが出来るかどうか、作者の力量に期待したいところです。

 

 

前時代的な「人づくり」思想を粉砕しよう


現政権はアドバルーンを上げるのが得意らしく、次は「人づくり革命」というスローガンを掲げました。「日本を取り戻す」「美しい国、日本」「アベノミクス」「一億総活躍社会」などなど、エッジの効いたキャッチコピーに我々国民はその都度期待を寄せてきたのですが、例えば「一億総活躍社会」のアドバルーンの真下に行ってみたら何も造られていない空き地があっただけだった、という事実を目の当たりにし、不信を募らせてきたのでした。

「人づくり革命」という今回のスローガンは、コピーとしての切れ味も悪い。「革命」や改革から最もほど遠い政権が掲げても、ただただ、空しさだけが漂っている感があります。

 

そもそも論なのですが、「人づくり」という観念についてどう思いますか?

 

「人材育成」「人材教育」や、「人的資源」などという、ちょっとインテリっぽい言葉を我々は何の疑問も持たずに聞かされ、そしてみずからも表現使用してきたのではないでしょうか。

人は、材料なのか?

人は、資源なのか?

あなたは材料で良いですか? 資源で良いですか?

あなたの子どもや孫が社会や企業の材料や資源で、それで良いのですか?

 

私はまっぴらごめんであります。

自分としてもそうですし、子孫たちがそういう扱いをされれば怒りを覚えます。

 

国家の人材が必要だと、企業の人材が必要だと、そうした文言に鈍感になっている人たちが、その意味を深く掘り下げずに浅薄な表層価値として、人を材料や資源扱いしているわけです。なぜ疑問を持たないのでしょう。

人が「モノ」扱いされるようになったのは、産業革命以降の思想だと思います。

「モノ」扱いが高じて、「プロフェショナル」という何となく響きよい言葉に美化されて、仕事はプロフェショナルであることが良いとされることに、何の疑問も持たないのと同じ現象が生じていると考えております。

サラリーマンはプロフェショナルであれと企業から思想を叩き込まれます。

それは、「能力」であり、「利益を上げられること」であり、「個人的心情を棄てて仮面に徹すること」であり、つまるところ、お金を与えてくれる需要元の欲求を満たす「モノ的存在」であるのです。

自分はプロフェショナルとして仕事をしているんだから、プライベートでお客の立場になって自分が金銭を払うときには、提供する側は自分に対してプロフェショナルであるべきだという堅い堅い信念が、「消費者モンスター」を次から次へと生み出している時代でもあるわけです。

すべてにおける「モンスター化」は、プロフェショナル思想と「人のモノ化」に遠因があります。

 

最近は「正社員」になるために、或いは正社員であり続けるために、「他の人とは取り換えがきかない社員を目指せ」みたいなことが平気で語られています。経営者の立場からすれば、取り換えのきかない歯車なんて一つもないのです。いざとなれば簡単に交換できる。正社員でありたいと願い続ける人の心理欲求、安心感だけを満たすために、コンサルタントや評論家はそう語ってみずからの利益としているわけです。本気でそう思っている経済界の人がいるとすれば、尋常では無いおめでたい人です。

「人づくり」や「人材」などというコピーや思想は、20世紀の後半に流行しました。かくいう私も20代30代前半の頃はよく使用しました。「社員教育」なんていう、今となっては死語にあたるべき言葉も。なので「お前の口がそれを言うか」と言われても仕方ないのですが、それでは価値観を変えた人は何も言えなくなってしまいます。

 

いつまで、人の「モノ扱い」をやっているのか。

 

 

人は、つくるものなんかじゃない。

人は、みずから、おのずから「成る」のです。

「教えて育てる」「人をつくる」という前時代的な考えかた、しなびて活力のない価値観を破壊し、新しい価値を打ち立てていこうではありませんか。

 

 

 

私は生きる。どのように?


人生の目的とは何かについて少し考えました。

「人間にとって」ではなく、「私にとって」です。

しかも今の私にとってであって、過去の私にとってとは違いますし(価値観の変遷があります)、また未来においてこれがどう変わっているのかは、まったくイメージできません。

 

人生の目的とは、人生そのものである。

何かに成りたいだとか、何らかの明確な目標をもって結果を求めるだとか、そうしたものではなく、いや、かつては私もそうしたものを人生の目的に見出していたのですが、今は、人生全体が目的であるように思っています。「過程」に近いかもしれない。

生きることは生物にとって宿命です。人間にとっても。

そこに何らかの意味を見い出しても、結果的には、目標が達成されようともされなくても死んでしまうのです。死んだ後に他人さまが私の人生に価値を付けてくれたとしても、所詮、人類自体が消滅してしまう日が来ます。太陽に寿命がある限り。

人生における「何か」を目的とするのではなく、「どのように」が目的となりました。

 

私は生きる。どのように? です。

どのように? が、生きる意義であり、動機であり、同時に目的でもある。

 


 

例えば仕事においても、収入を得るために労働する。その労働の内容においては、嫌なことでも辛抱しながら忍耐強く続けることに、今までの社会は「美徳」という価値を与えてきました。会社から定められた、月の日数、時刻から時刻への時間、労働した時間が労働者にとって、自分の自由と引き換えに得られる対価です。

或いは、個人の業務受託や会社経営をしている人にとっては、時間の代わりが成果になるのですが、ここでも、苦悩しながら精神と肉体をすり減らして、収入のために仕事をしている人が大多数のように思います。

 

しかし、一方で、収入の得やすい自分の得意とする分野や評価される分野の仕事には目もくれずに、自分の好きなことを楽しみながら仕事にしている人が少ないながらも存在します。

ここでの「楽しさ」とは何か。

嫌なことでも辛抱しながら収入のために働く人と、楽しく仕事をする人と何が違うのか。

心理学者チクセントミハイが、著書『クリエイティヴィティ』において、創造する人の「楽しさ」について9つの項目を挙げておりますので引用します。

1.過程のすべての段階に明確な目標がある

2.行動に対する即座のフィードバックがある

3.挑戦と能力が釣り合っている

4.行為と意識が融合する

5.気を散らすものが意識から締め出される

6.失敗の不安がない

7.自意識が消失する

8.時間間隔が歪む

9.活動が自己目的的になる

(世界思想社版 チクセントミハイ著『クリエイティヴィティ』)

 

それぞれの項目について詳細に述べていますが、引用し自分の意見を書くにはボリュームが大きすぎますので(それぞれの項目ひとつにつき3日分くらいのブログ量になりそうなので)やめておきます。

西洋人らしい考えかたで、反論異論と付け加えたい事項も4つか5つあるのですが、そこには立ち入らないことにします。

著名な心理学者だけあって、相当に研究されている専門家としての上記の著述は、私にとって、非常に参考になりました。

チクセントミハイは、我を忘れるほど、時間の経過を忘れるほど、その活動に没頭してしまうことを「フロー」と呼んでいます。

フロー状態には、その個人に秘められた「楽しさ」が必ずあることを、彼は、例を交えながら論証していきます。説得力のある分厚い仮説です。

 

我を忘れるほどの楽しさは、動機であると同時に、目的でもあると思います。

一度味をしめた、「あの没頭する楽しさ(の過程)」を目的として活動する。

そこには明らかに、「欲求」があります。

 

消費者としてではなく、創造者として、フロー状態に喜びながら仕事をしたとすればどういうことが言えるのか。

 

生きる。どのようにして? の、「どのように?」が、フロー状態への欲求がおのずから生まれるように、自然にその欲求に「成っていく」のであれば素晴らしいと思うのです。

意識的に、その欲求を「みずからが造る」のではなく、無意識的に、「そう成ってしまった」ができるレベルが最高だと思うのですが、それはたぶん、成り行きに任せるほかはない。自分自身を信頼して、「私は生きる。どのように?」をテーマとして持ち続けることではないか。

 

倫理学者の竹内整一は、「みずから」と「おのずから」の「あわい」にこそ価値があると述べています。

私にはまだ、「あわい」が実感となって立ち現れてこないので、「おのずから」のほうを優先価値にしているのですが(昔は完全に「みずから派」でした)、竹内さんが力説する「あわい」を感じられるようになれば、また、人生観が変わるのかなと自分に期待を寄せております。

言葉を頭で理解しても、それが実感となって感性的に立ち現れてこなければ納得できないのです。それでも、頭で理解することはヒントになると思っているので書物を読むわけですけれども。

 

水のように、融通無碍に、創造的にどんどん変わってゆきたい。

 

 

 

 

死別についての思索


体のリセットを行いました。5月末に75Kgあった体重を今朝の時点で67.6Kgまで落としました。20日の時点で6Kgダウン、これで十分かと思いましたが3年かけて肉付きをアップした腰の斜め後ろのぜい肉がどうしても取れず、あと2か月かけてウェストを締めようと思っています。

お酒も飲んでますし(特にジンが中心)、鶏肉、魚類、大豆類、チーズからタンパク質とカルシウムをしっかり採っていますし、野菜の量は普段の2倍くらい食べています。

その代わり、ご飯、パン、パスタ、イモ類等の炭水化物と、甘いもの(チョコレート等)を一切食べていません。あとは有酸素運動をやっているだけです。(最初は一日2万歩を目指し数日頑張りましたが、時間的に非効率なのでやめました)

身長が177cmなのでBMIは、23.94→21.58となって正常値になりました。

ちょっと75Kgというのはショックで(それまで体重計を避けていたのですが)、32インチのジーンズが20本近くあるのですがどれもこれも入らなくなっていて、しょうがない、オーバーオールが3着あるので普段はこれでごまかしていたのですが、そのオーバーオールでさえウェストが・・・(苦笑) 寝る時、横向きに寝ることが多いのですが、布団におなかが接触する…というだらしない状態をいつかはなんとかしよう!と思っていたのですが、ま、3年ぶりにベストコンディションの体が出来てきそうです。

 


 

先月の終わりから今月にかけての一か月間、野際陽子さんや小林麻央さんが癌のために、スポーツ界では西武ライオンズの森コーチが42歳という若さで突然死されました。身近なところでも突然亡くなられたかたがいらっしゃいました。

人は必ず死ぬさだめだと、生命は無常なものだと、そう私の理性が私の頭に語り掛けますが、心のなかの特に情の部分がどうしても納得したくないと言う。

なぜ人間の心とは、「理」ではどうにもならないのか、ここに一つの哲学があります。死は哲学の宝庫です。

この一か月余り、何度も悼みました。そして考え込んでしまいました。

 

人生に何度か訪れる大切な人との別れ。

日本人は「さようなら」と言って別れます。

「左様であるならば、」の略なのですが、では、このあいさつの次の言葉に何を呑み込んでいるのでしょうか。

もし私がスペインに移住したとして、その地で生命の終わりを迎えた場合、私の子どもたちにとって生きていても会うことのできない父と、死んでしまった父と、なにがどう異なるのだろうか。そこに「さようなら」はどう在るのでしょう。

 


 

小林秀雄は死の「予感」について次のように語っています。

己れの死を見る者はゐないが、日常、他人の死を、己れの眼で確かめてゐない人はないのであり、死の豫感(※予感)は、其處(※そこ)に、しつかりと根を下ろしてゐるからである。死は、私達の世界に、その痕跡しか殘さない。殘すや否や、別の世界に去るのだが、その痕跡たる獨特な性質には、誰の眼にも、見粉ひやうのないものがある。生きた肉體(※肉体)が屍體となる、この決定的な外物の變化(※変化)は、これを眺める者の心に、この人は死んだのだといふ言葉を、呼び覺(※覚)まさずにはゐない。死といふ事件は、何時の間にか、この言葉が聞える場所で、言葉とともに起つてゐるものだ。この内部の感覺は、望むだけ強くなる。愛する者を亡くした人は、死んだのは、己れ自身だとはつきり言へるほど、直かな鋭い感じに襲はれるだらう。この場合、この人を領してゐる死の観念は、明らかに、他人の死を確かめる事によつて完成したと言へよう。

(新潮社版 小林秀雄著 『本居宣長』)

 

我々は自分自身の死を知りません。自分の死をもってしても、自分の死は知りようが無いのです。生きているから何事も知ることが出来るのですね。

みずからの死について知っているのは、みずからの死の予感だけだと小林秀雄は言います。そのとおりだと同感します。

その予感は、どのようにして心に根差すのか。

これは、他人の死(もしくは他の生物の死)に立ち会うことでしか、予感という想像力が培われません。厳しい現実の物理的な変化をもって「ああ、この人は死んでしまった」と観念する。そこには、「さようであるならば、」・・・「いたしかたない」という諦めの理性と、現実を絶対に受け容れまいとする潜在意識の情と、茫然自失の空虚感、自分の届かなさの無力感が複雑に絡み合います。

そのすべてが「さようなら」の響きの美しさを支える。

 

小林は、「己れ自身が死んだ」とはっきり言えるほど、鋭い感じに襲われると述べています。そうして、自分の死の予感というイメージが確立されるのだと。

愛する他者の死を、自分の死として、想像ではなく(成り代わるのではなく)、直観として自分が死んだと感じられる、小林秀雄の豊饒な情緒的感性がよく現れている文章だと思います。

人それぞれの心の道に、それぞれの「さようなら」。

 

 

人間個人の反同質化


3月15日の記事『社会からの多様性要請は疑問』について、更に考えを深めてみたいと思っています。

この多様性要請によって、「人間」と価値観の水平化、平均化、画一化、コモディティ化が世界中で進んでいると感じています。その揺り戻しと反動として、ヨーロッパもアメリカも、そしてわが国も、ナショナリズムへの意識が高まってきました。ナショナリズムの是非は別としまして、正常な反応だと思います。

「人間」の水平化、平均化、凡庸化については、130年も前にニーチェが「民主主義化によってそうなるだろう」と予言していました。(『善悪の彼岸』) これについては稿を改めようと思います。

民主主義は少数意見の尊重だといくらお題目を唱えても、多数により決します。現代は目的的思考が強く合理的な結果主義が蔓延しています。プロセスの意義が希薄になっている。合理的および功利的に、時間の無駄を避ける効率化が進んでいるのは議論も同じ傾向です。

 

アメリカの心理学者、アブラハム・マズロー(1908-1970)は次のように述べています。

いまの世の中では、論理的に構造化された思考や文章、分析的で明確に言語化された現実的な思考や文章こそが、優れたものだと見なされている。

だが、より詩的で神話的に、より隠喩的に、ユングの言う意味において、より原始的になる必要があることは明らかである。

(日本経済新聞出版社版 A.H.マズロー著『完全なる経営』)

 

上記について、同書の監訳者である金井壽宏は次のように解説しています。

常識的な考え方を逸脱しないことで、自分をよりいっそうプロらしく見せ、自制心のある現代社会の一員であることを示そうとするのだ。だが、このような態度を取っているうちに個性を失い、個人の内面にある創造性や喜び、ユーモア、学習、革新の源泉を枯らしてしまう人間が少なからずいる。

(中略)

組織に規律や枠組み、専門性は不要で放浪をよしとすると言っているのではない。ただ、前述のような態度を取ることで何を失うか(あるいは、すでに何を失いつつあるか)を、とくと考えてみるべきだと言いたいのだ。

 

偉大な心理学者であるマズローでさえ、学会から画一主義的圧力をかけられたとしています。

専門的であること、プロフェッショナルであることを、近代的価値観は高く評価してきました。高年齢の経営者ならば、ほとんどが「プロフェッショナルたれ」と言うでしょう。しかしこの考えかたは、私は、もう古くなっていると考えています。

プロフェッショナルとは、与えられる対価に対し妥当以上の製品やサービスを提供することに、プロであることを言います。「お金を頂いているのだから」という意識が根底にある。もちろんそれは間違いではないのですが、そうした功利主義的価値観によって、人間の「モノ化」が進んできたのです。

近未来の問題として、プロ化した技術的専門的分野はロボット化が進むことでしょう。

近未来の世界において、「より人間的な」が求められるのは自明であります。

目先のことに振り回されるのではなく、5年後10年後を見据えたときには、今の流れで誰もが考えつくようなテクノロジーの進化に乗っかるのではなく、合理性、論理性、画一性、効率性などによって失われている、「感性」や「感情」「情緒」に対してミートしていくこと(仕事においても)が、先取的な未来の生きかた戦略ではないかと、ほぼ確信しております。

そのように考えれば、人格的な高齢者の活躍の場が広がる可能性を見い出せますし、日本人の中には良質な文化・思想が眠っているとも思うのです。高齢者がロールモデルとなれば、若年齢層の人たちにも、一筋の希望の光が射し込むのではないでしょうか。

 

 

 

深淵から見られる自分


「自分探し」という言葉があります。

私にはどうしても実感できないのですが、この言葉を用いるかたは、「本物の自分」があると考えているのではないかと思います。この、「本物の自分」ということが私にはわからない。多面的な人格はあるのですが、どれもこれも本物ではなく全てを統合して「自分」になっている、という考えかたをしています。ただ、その「心の核」となる魂のようなモノはあるんじゃないかと仮説を立てています。しかしそれは人格ではなく「質(クオリティー)」みたいなイメージです。本物の自分ではない。

「自分探し」として本物の自分を見つけたいというかたは、逆に言えば、現状の自分は本物ではなく偽であり、本物の自分はこんなもんじゃない、もっといいモノのはずだだとか、もっと長所があるはずだだとか、つまり、現状の自分に不満足だと言えるのではないかと思います。

では、その現状の自分に不満足だという心の風景はどこから現れているのでしょうか。

不満足に思うのも、満足に思うのも、自分の自由です。そこには明らかに内心の自由がある。自分のことを不満足に思ってしまう、その性格の一面にこそ不満足を抱くべきであって、自分には是も非もないのではないでしょうか。

では、そうした性格はどこから造られるのか。

ズバリ言えば、潜在意識(深層の無意識)だと思います。

 

ニーチェのアフォリズム(箴言)に以下の有名な言葉があります。

怪物と戦う者は、その際に自分が怪物にならないように、注意するがいい。

また、君が長いこと深淵をのぞきこむならば、深淵もまた君をのぞきこむ。

(白水社版 ニーチェ全集 ニーチェ著『善悪の彼岸』146番)

(原文) Wer mit Ungeheuern kämpft,mag zusehn,dass er nicht dabei zum Ungeheuer wird.Und wenn du lange du lange in einen Abgrund blickst,blickt der Abgrund auche in dich hinein.

(英訳) He who fights with monsters should be careful lest he thereby become a monster.And if thou gaze long into an abyss,the abyss will also gaze into thee.

 

主著『ツァラトゥストラ』でもよく使われている『Abgrund』(深淵)を、私は、潜在意識(深層の無意識)の比喩として解釈しています。自我(意識)から自分の深層無意識を覗き込もうとするとき、無意識のほうも自我を見ている。このことから何が言えるのか。

無意識の根源は、すべて、経験したことです。(遺伝も含めて)

当然ですが「未来」は無意識にはないし、未来の想像もありません。それどころか、「今」も無意識にはない。「今」から「過去の自分の結晶」を覗き込んだとき、「過去の自分」が「今」の自我(未来の想像も含む)を見ている。そうして無意識が自我に影響を及ぼすわけです。

「本物の自分」は無意識のなかにあるのだから探し出そうと。それではどうしても、過去の自分の価値観や観念でしか「本物の自分」について考えることができなくなる、ということになります。未来に大きな可能性があるのにもかかわらず、です。

怪物も自分の無意識の中にいる。自我が自分のなかの怪物と戦おうとしたとき、自我が怪物にならないように注意しなさいと、ニーチェの言葉はそのように解釈することが出来ます。

 

どなたか、もし「自分探し」をするのならば、未来に描く自分を探してみてはどうかと思います。

そして、「怪物と戦う」よりも「怪物を味方につける」ことのほうが、圧倒的にパワーアップできそうだと思いませんか。

 

 

 

共同体としての家族


「家族ってなんですか?」

と問われたらあなたは何と答えるのでしょうか。

この質問は国会議員さんにぶつけてみたいところです。どのように答えるかでその議員の、共同体にかんする基本的な価値観がわかるような気がします。

家族は共同体の最小単位です。

 

天下国家を語るのは案外簡単なのかもしれない。家族を語るほうが意外に難度が高いように思うのは私だけでしょうか。

「家族とは〇〇だ」というふうに、一語で文学的表現で断じるのは、それがとても格好の良い表現であっても、あまりに乱暴ではないかと思う。

多くの人は、家族の「価値」に照準を合わせて語るのではないだろうか。

もっと言えば、家族であることの合理的な良さ、功利的な良さ(心情含む)、平たく言えば「家族があるとこんないいことがあるよ」という側面についてです。デメリットも同時に語られるかもしれない。

生物学的な価値について語る人も少ないだろうけどいるに違いない。

 

「価値」以外についてはどうだろう。

例えば、私を「家族」という概念へ置き換えてみる。

私の中には、「その一味」の人間やらペットらが動き回っている。喜んだり怒ったり、憎しみ合ったり楽しみ合ったり、なんだかいろいろに動くので私(家族)のすがたも多様に変化する。

私の中の誰かが、私を指さして「家族とはこういうものだ」と言ったとしよう。それで私はどうなるか、どうにもならない。人間の言葉によって私のすがたがもし仮に決まるとすれば、中にいる人たちは「決定された私のすがた」のなかで窮屈に動きが取れなくなるだろう。私としても、つまらない(苦笑)

私は何を言いたいのだろう。

「家族とはこうだ」とか、「家族の良さと悪さはこういう面だ」だとか、「こういう家族を目指そう」だとか、もちろんそれは有っても差し支えないけれど、より優先されるべきは「すがた」のダイナミズムではないだろうか。

 

家族という共同体について考えることはそのまま、会社、国家、地域共同体、グループ、地球人類、あらゆる共同体について考えることの基本になるのではないでしょうか。

「井の中の蛙、大海を知らず」という、誰もが知っている言葉がありますけれども、大海は横に措きます。中に住む蛙たちが井戸をガチガチに固めてしまいました。それが井戸のあるべき姿だとして。しかし、もうこの井戸は形状を変えることはないという固定観念を棄て、蛙たちの動きによって井戸の形状が様々な形や大きさに融通無碍に変化するとしたらどうでしょうか。

井戸そのもののダイナミズムが生まれます。

無秩序では井戸の役目を果たせなくなります。秩序は、井戸の最も外側を覆う、柔軟性に富んでなおかつ決して破れない薄い膜として必要不可欠です。この薄い膜こそが、家族の規範であり、国家の規範であります。

他方では、井戸の中の酸素はどうだろうとか、水分は、気圧は、栄養はというふうに、内部構成員に与える井戸環境をどのようにしていくのかについても、大きなテーマになります。

家族とは、自分の心の中にあって、かつ、自分がその中にもいる井戸である。「日本」という国家観念も井戸である。会社も井戸だ。いろんな井戸に複合的に、しかも同時的に自分は存在しています。もうこうなると「井戸」という表現の画像・映像では喩えられなくなりますが。

 

もちろん上記の考察は家族の一面を語ったに過ぎません。

 

合理性や功利性ばかりに目が行く現代的価値観では、ものごとを目的的に考えすぎるきらいがあって、「なにが得か、なにが損をしないことなのか」という低レベルの計算高さでしか家族を捉えられないとすれば、それは、とても不幸なことだと私は思う。

重ね重ねになりますが今日の論考は「家族とはなんだろう」のごく一部であって、家族を構成する人たち(&ペットたち)の主観からの「家族」についても触れていません。けれど、こちらは案外考えやすいと思います。構成する個にとっての「家族(井戸)」との関係、中にいる構成員との相互関係、調和、絆、いろいろあると思います。

最も大切なのは、「家族になるとこんなに良いことがたくさんあるよ」といった推奨や啓蒙ではなく、「家族をつくるには経済的にこれくらいかかる」「子育てや夫婦関係の精神的負担が大変だよね」といったリスクマネジメントでもなく、学校教育でも社会でも教わることのない「家族ってなんだろう」を、おとなも子どもも一緒になって深く考え、建設的議論を行っていくことではないかというのが本記事での私の主張です。

 

家族に希望がありますように。

 

 

 

徒党の発展型である共同体


今日は、共同体とはどうあるべきかを、まずは太宰治の随想『徒党について』を題材に考えてみたいと思います。

 

『徒党について』

徒党は、政治である。そうして、政治は、力だそうである。それなら、徒党も、力という目標をもって発明せられて機関かも知れない。しかもその力の、頼みの綱とするところは、やはり「多数」というところにあるらしく思われる。

ところが、政治の場合においては、二百票よりも、三百票が絶対の、ほとんど神の審判の前におけるがごとき勝利にもなるだろうが、文学の場合においては少しちがうようにも思われる。

孤高。それは、昔から下手なお世辞の言葉として使い古され、そのお世辞を奉(たてまつ)られている人にお目にかかってみると、ただいやな人間で、誰でもその人につき合うのはご免、そのような質(たち)の人が多いようである。そうして、その所謂(いわゆる)「孤高」の人は、やたらと口をゆがめて「群」をののしる。なぜ、どうしてののしるのかわけがわからぬ。ただ「群」をののしり、己れの所謂「孤高」を誇るのが、外国にも、日本にも昔はみな偉い人たち「孤高」であったという伝説に便乗して、以ってわが身の侘(わび)しさをごまかしている様子のようにも思われる。

「孤高」と自らを号しているものには注意をしなければならぬ。第一、それは、キザである。ほとんど例外なく、「見破られかけたタルチュフ」である。どだい、この世の中に、「孤高」ということは、無いのである。孤独ということは、あり得るかもしれない。いや、むしろ「孤低」の人こそ多いように思われる。

私の現在の立場から言うならば、私は、いい友達が欲しくてならぬけれども、誰も私と遊んでくれないから、勢い、「孤低」にならざるを得ないのだ。と言っても、それも嘘で、私は私なりに「徒党」の苦しさが予感せられ、むしろ「孤低」を選んだほうが、それだって決して結構なものではないが、むしろそのほうに住んでいたほうが、気楽だと思われるから、敢えて親友交歓を行わないだけのことなのである。

それでまた「徒党」について少し言ってみたいが、私にとって(ほかの人は、どうだか知らない)最も苦痛なのは、「徒党」の一味の馬鹿らしいものを馬鹿らしいとも言えず、かえって賞賛を送らなければならぬ義務の負担である。「徒党」というものは、はたから見ると、所謂「友情」によってつながり、十把一からげ、と言っては悪いが、応援団の拍手のごとく、まことに小気味よく歩調だか口調だかそろっているようだが、じつは、最も憎悪しているものは、その「徒党」の中にいる人間なのである。かえって、内心、頼りにしている人間は、自分の「徒党」の敵手の中にいるものである。

自分の「徒党」の中にいる好かない奴ほど始末に困るものはない。それは一生、自分を憂鬱にする種だということを私は知っているのである。
新しい徒党の形式、それは仲間同士、公然と裏切るところからはじまるかもしれない。

友情。信頼。私は、それを「徒党」の中に見たことが無い。

 

太宰治(1909-1948)『徒黨について』(昭和二十三年・1948年)

※著作権期間経過後のため全文掲載(旧字体、旧仮名遣い等を現代文に修正しました)

 

太宰が自死した年に書いた38歳時の短編随想です。

作者の人格云々については立ち入りません。内容は、「孤高」に対する批判が最初にきますが、これは作者自身が「孤高」のように思われなくはないとして、みずからは「孤低」の謙虚を装い、「孤高」を気取る人を批判したかったのでしょう。

タイトルにもあるように、この随想は「徒党」に対する批判がメインです。

作者は文学界ではのけ者のようにされ、文学界の徒党に入ることはなかった。それゆえ外部から見た徒党であって、友情や信頼を見たことがないというのも外部からの作者の主観です。

そうしたところを細かくみていかねばなりませんが、「徒党の一味」となって個人が集団に埋没していく様子は、現代の政界や経済界などをみてもそのとおりと納得することができるのではないかと思います。

個人の権威ではなく、集団としての力の権威を、個人がさも自分が大きな力を持っているように振り回す。もっとも解り易い例は政党とヤクザでしょう。また大企業にもそうした傾向のある会社はあります。「連帯感」や「同志団結」は一見聞こえが良いようにも感じますが、もろ刃の刀で正にも負にも作用する。

では、共同体はどうあるべきなのかがテーマとなってきます。

国家も共同体の一つで、わが国は民主主義を採用しています。

太宰は、この短編の後に『如是我聞』という随想を書いているのですが、そのなかで、民主主義について次のように述べています。

民主主義の本質は、それは人によっていろいろに言えるだろうが、私は、「人間は人間に服従しない」 あるいは、「人間は人間を征服できない、つまり、家来にすることができない」 それが民主主義の発祥の思想だと考えている。

良いこと言っていると思います。これが唯一の真理というのではなく、民主主義のひとつの理念として正しい。

ところが、政界も企業も、先輩議員に服従している議員、社長の家来であるような役職者や社員が大勢いて、ピラミッドを造ってしまっている。「それが組織というものだ」というのが内部構成員の主張です。

さてそれでは、年齢も役職も先輩後輩もなく、要するに縦秩序がなく、フリーな関係の横のつながりだけで民主主義ができるかどうか、会社を経営していけるかどうかを問えばそれは無理です。やはり、年齢、役職、先輩後輩などの一般社会的秩序がなければ責任の所在も明確になりませんし、単に専門的知識や知性があるだけの人、口先だけ達者で行動が伴わない人、後輩や部下を顎で使おうとする人が上の立場にいる組織ではどうしようもない。

「家来にしない」「奴隷扱いしない」という点は克服できたとしても、下の立場の人が「服従しない」というのはなかなかできないのではないか。バランスが難しいところだと思います。

 

さて、「徒党」についてどう考えるかですが、この徒党にすべてを賭けるだとか、終生その徒党の内部構成員をまっとうするだとか、そうしたことが真面目として評価されたり、美しい生きかただと評価されたりした時代もありました。

未来はどうなのでしょう。

やはり未来世界図を描いて、仮にそのとおりにならないとしても(ならないのが普通です)、現代はどうあるべきかへ落とし込んでいくことが大切だと思います。「今」流行っているからといって正しいわけではない。間違っていて揺り戻されることは多々あります。

 

政治、経済、会社、国家、学校、民主主義、少なくとも100年後はこうあるべきではないかという観点における議論があると良いと思います。

 

 

孤独のカタルシス


人類は社会的な動物で、世界地図に人の群れを俯瞰イメージしてみれば、一種類の生物が特に平地に密生し、群生している絵図が浮かびあがります。

自分たちに人類という名を与えた人類にとっては、群生しているなかでの自分らを主観的に観察することが主体となっており、たかだか80年間の生命活動に何がしかの目的や結果を見い出そうとする。人類が群生している外部の観点から、「人類が」「人類は」「私は」との言葉を使う様子を眺めてみれば、まことに滑稽ですらあります。

 

他方、雑草一本一本にそれぞれ一つの命があるように、人間一人びとりにも唯一無二の命がある。群生していても必ず孤独がある。誰にも私の心を救うことはできないし、理解することは不可能だという確たる実感があります。社会で相対的に生きているのは浅瀬であり、深淵においては絶対的な孤独にある。

人間は、群生している俯瞰、客観と、ひとりぼっちの孤独による純粋主観を併せもち、その混沌から自然に生まれてくるものがある。そうした、本来最も大切にしなければならない心の魂の自然作業が、雑駁な社会情報やひと同士のかかわりによって疎かにされ、心と時間の深奥に押し込められてしまいます。

 

イギリスの精神科医であったアンソニー・ストー(1920-2001)の名著から、まずは孫引きになりますがモンテーニュの言葉を引用します。

私たちは、自分が専有し、全て自由に使うことのできる、小さな人目につかない仕事場を確保しなければならない。そこでは真の自由と、最も重要な隠遁と孤独を達成できる。

(創元社版 アンソニー・ストー著『孤独』 )

 

モンテーニュは自由と隠遁と孤独を欲する。孤独への願望です。

孤独への願望の中には、人と接することの煩わしさや社会に群生することで不自由となる感性の鈍化を危険視する一面があると思います。

ここでストーは、同じく英国で精神科医であったドナルド・ウィニコット(1896-1971)の論文『独りでいられる能力』から以下の文章を引用します。(こちらも孫引きになります)

 

精神分析の文献においては、独りでいられる能力についてよりも、独りでいることの恐怖や独りでいたいという願望について書いた論文の方が多いと言ってもよいであろう。

またかなりの量の研究は、引きこもり(孤立)の状態、すなわち、迫害の予感を暗示する自己防衛態勢についてのものである。独りでいられる能力がもつ積極的な側面についての議論が既に始まっていなければならないと私には思われる。

(創元社版 アンソニー・ストー著『孤独』)

 

ウィニコットの著書は近年、子育ての参考書として数多く紹介されています。日本でも多くの翻訳書が出版されていますので、ご存知のお母さんがたも多いでしょう。

孤立する恐怖心から独りでいたくない、帰宅して独りだとすぐにテレビのスイッチを入れて人の声のない不安心を解消しようとする、或いは、独りでは家事が満足にこなせず生活ができそうにないという負の一面から、無意識的に孤独を拒絶してしまう。

逆に、他人との接触が怖い、自分の心が傷つくという一面から、孤独を欲してしまう。

ウィニコットは、そのような恐怖や願望を動機とする孤独については研究されてきたが、独りでいられる能力については、何の議論もまだ始まっていないということを述べています。

 

同著の第二章『独りでいられる能力』はとても示唆に富んでいますが、ここではその中間部分を端折りまして、この章の最後の部分を引用します。

したがって、独りでいられる能力の発達は、脳がその最良の状態で機能するためにも、個人が最高の可能性を実現するためにも、必要なことであると思われる。

人間は容易に自分自身の最深部にある要求や感情から遊離してしまう。

学習、思考、革新、そして自分の内的世界との接触を維持すること、これらはすべて孤独によって促進されるのである。

(創元社版 アンソニー・ストー著『孤独』)

 

独りでいられる能力によって人間の可能性が広がることはよく理解できます。

それよりも私の目を引いたのは、「人間は容易に自分自身の最深部にある要求や感情から遊離してしまう」という言説です。じっくり自分と向き合ってみれば、なるほどそのとおりと腑に落ちる。

そこで何が起きているか。

心の最深部からの要求や感情をごまかすために、無意識的な自己欺瞞が起こっているのではないかと目星をつけたわけです。それは、自我の理性によって行使されている疑いが強い。人間は理性的であることに誇りや知の価値を見い出すプラスのほうばかりに目が向いてしまっており、理性によるマイナスについてはあまりに無自覚かつ無反省です。

最深部にある要求や感情はそのまま心の魂の叫びであって、自我の小さな理性によって魂の本来的欲求はいつまでたっても満たされない。むしろ自己欺瞞によって魂は穢れてしまう。

そうしたときに、孤独でいられる能力が効いてくるわけです。

自我の小さな理性から魂を解放する、自己欺瞞を内省することによって魂が浄化される。

それは、孤独におけるひとりぼっちの内的対話でしか成し得ないこと。

 

冒頭に述べた群生する人類の無常を非論理的に並置させてみます。

 

人間が出来て、何千万年になるか知らないが、その間に数えきれない人間が生まれ、生き、死んで行った。

私もその一人として生まれ、今生きているのだが、例えて言えば、悠々流れるナイルの水の一滴のようなもので、その一滴は後にも前(さき)にもこの私だけで、何万年さかのぼっても私はいず、何万年経っても再び生まれては来ないのだ。

しかもなおその私は依然として大河の一滴に過ぎない。それで差し支えないのだ。

(岩波書店版 志賀直哉著『志賀直哉全集第10巻』)

 

ナイルの一滴としての私。

孤独のカタルシス。

 

 

 

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