1ヶ月で5億年の生物進化


三木成夫さん(1925-1987)という医学者が書いた本によると、人間の内臓は宇宙のリズムに呼応しているらしいです。そして赤ちゃん受胎後30日からからわずか1ヶ月で魚類から両生類、爬虫類、哺乳類の5億年の変化を三木さん自身が確認したと述べています。

1ヶ月間で生物進化の5億年分というのは凄過ぎる。女性の体の負担も相当でしょう。

今後、この仮説が検証されるかどうかは分かりませんけれども、人間には植物の記憶もある(海洋性植物)という説にも、私は「そうかもしれない!」とロマンを感じるタイプです。

おそらく現実主義的、科学主義的、頑なに見えた世界だけを信じるタイプの人が現代ではマジョリティーだと思います。そうした方々にとっては血液型のミステリアスなども含め、まったく興味が湧かない分野だとも思います。

可能性にロマンを感じない方々にとっては、上記の1ヶ月間5億年という仮説も、トンデモだとかオカルトだと評価するに違いない。三木さんは血液型の世界分布のことも書いてらっしゃいます。

可能性に視野を広げるも閉じるも人それぞれで良いと思います。

 

 

関係あるかないかわかりませんけれども、疲れ目や目の充血で皆さん説明書きなどを読みますか? どの目薬を買うかの判断は、価格もあるでしょうけど、最も優先するのはどんな価値でしょう?

私の場合は、素敵な印象の目薬です(苦笑)

カラーとボトルを見ているだけで、なんだか目が良くなってくるような気がしてなりませんが、同じような人もたぶんいるのでしょう。この目薬がAmazonで売れ行きナンバーワンだそうです。成分や説明をほぼ読まない私には納得。

 

さて、先日、「ひらめき」に関連して、「無意識の願望」があるんじゃないかという、ある方のブログ記事を読みまして、ここ2日間くらいそのことが頭から離れなかったのですが、思いつくままに書いてみます。

まったくそのとおりだと同感しました。無意識の中に、強く「テーマ(題材)」として引っ掛かっていることに対して創造の閃きが起きるのは間違いなさそうです。そしてそのテーマというのは、自分にとって楽しく素敵なことで、閃くとわくわくすることで、その閃きを待ち望んでいる無意識の願望がきっとあるんだと、そんなふうに考えました。

ただちょっと異なっていると思ったのは、私にとっての閃きは「知」(補完する知識)の閃きではなく、「シーン」なんです。新しいアイデアの全体像みたいなこととして閃くのです。不足しているピースが何かというのではなく、無意識の中で、幾つかの知恵や方程式同士が勝手に化学反応を起こして新しい化合物を創造作品として提案してくる、そんな感じの閃きです。

そこにはやはり、頭で考えるというだけではなく、むしろ、脳以外の「からだ」とか「こころ」とか、具体的に言いますと、肝臓だとか血管・血流、心臓、内分泌系ホルモン、大腸小腸あたりが活発になにかうごめいている感じがあって、それが脳の記憶と合わさって耳の奥からイメージされてくるみたいな、特に、朝起きたとき、深夜にぼーーっとしているときが多いんですけど、日中もあります。ひとりでリラックスしているときですね。

先ほどの「無意識の願望」が強いときというのは、知らず知らずのうちに、目や耳で、情報を無意識が拾い出している感覚があります。

そしてアウトプットしているとき。先日来より、ニーチェの『ツァラトゥストラ』の読み解きをアウトプットしているのですが、驚くことに、あそこに書いた内容は、アウトプットし始めてから関連性に閃き、書き直したものが大半です。集中力が恐ろしいくらいに研ぎ澄まされる。無意識が活性化している感覚。アウトプットし始めるとどんどん想像力が増強されて、それまで気づけなかった微かなことに、ざわっとくるんです。まるで皮膚で触れたかのように。

 

そうしたことを考えていますと、冒頭に書きました三木成夫さんの直観をもっと知りたくなってきました。人間の無意識の可能性を開くための素晴らしい知見に出会うことができたと感動しています。

 

 

 

理性的を凌駕する感情的


感情的は理性的よりも劣るというのが現代社会一般の評価のようです。理性によって感情をコントロールせよと。

アメリカから輸入されてきたアンガーマネジメントという、怒りの感情を理論武装によってコントロールするコンサルティングが流行になっていた時期もありました。あれはどうなったんだろう?

欧米の感情に対する考えかたは、理性によって制御して表面に出さないこと、自我によってコントロールすべきというものが主流だと思います。現代日本人も欧米流に親しんできました。かくいう私も20代の頃はそうした考えの啓発書を読み、ふむふむと納得していた。

けれども、年齢を重ねるにつれて何だか違うんじゃないか、おかしいぞと気づき始めてきた。それが40代の頃ですね。

 

論理や理屈、合理性に基づいて現実対処していく西洋。

一方、日本や中国では、心根、心魂といった根本的なところを宗教を使わずに修養していくことで、良い感情が出るようにするという文化が根付いていました。「できた人間になる」。

安岡先生は次のように述べています。

 

非常にできた人が怒ったというのはいいものです。
また泣いたというのもいいものです。
つまらぬ人間が怒るといかにも見苦しい。
信用のないものが泣くとこれはまた情けない。
同じ喜怒哀楽でもやっぱり人物によってみな違います。

(中略)

人物ができてくると、「咳唾(かいだ)みな珠(たま)なり」といって何でもいいものです。

(致知出版社版 安岡正篤著『呻吟語を読む』)

 

「咳唾(かいだ)みな珠(たま)なり」というのは、咳(せき)や唾(つば)に至るまで口からでるものはすべて珠玉の価値があるという意味です。「謦咳(けいがい)に接する」なんていう言葉もありますね。立派な人の咳払いを直に聞けるだけで素晴らしい体験となる。

この前後の文章で文脈的に使われている「怒り」は、冷静で理性的な「叱り」ではありません。感情的になって「怒る」なかには、珠玉の価値があるものもある。しかしそうなるためには、よほど人間ができてこないとならないということを述べています。

この書では、「涵養」という言葉が多用されています。

いくつかの辞書で調べてみると、「水がしみこむように、ごく自然に、徐々に養い育てること」という意味でした。自己研鑽や自己修養をごく自然に、時間をかけて行ってゆくことだと思います。心魂を涵養してゆく。西洋方式と違い非効率で長い時間がかかる。しかしそれだけに、老いたときには個人差が大きくなる。

 

日本人には特に、「かなしみ」という情によって、心魂を涵養してきた文化があります。
「怒り」においては義憤によって使命感をもち、志して立ちあがった偉人が何人もいます。

理性的を凌駕する素晴らしい感情的が在る、ということを主張しておきたかったのでした。
涵養は自分自身にとって大きなテーマです。

 

 

悠然と流れる心性


人間が出来て、何千万年になるか知らないが、その間に数えきれない人間が生まれ、生き、死んで行った。

私もその一人として生まれ、今生きているのだが、例えて言えば、悠々流れるナイルの水の一滴のようなもので、その一滴は後にも前(さき)にもこの私だけで、何万年さかのぼっても私はいず、何万年経っても再び生まれては来ないのだ。

しかもなおその私は依然として大河の一滴に過ぎない。それで差し支えないのだ。(岩波書店版 志賀直哉著『志賀直哉全集第10巻』)

 

2月3日の記事 『心が最強の力となる日』 に引用したナイルの水の一滴を再掲しました。この文はとても魅力的なのです、私にとって。

ナイル川はまだ見たことがありませんが、イメージによる情景が動的に浮かんできます。人類の源泉と言えるアフリカ、苛酷な気候、危険、そして砂漠。ガンジス川ともアマゾン川とも違う、ナイル川ならではの情景が心を揺さぶる。

 

ゆく川の流れは絶えずしてしかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたはかつ消えかつ結びて久しくとどまりたるためしなし。世のなかにある人とすみかとまたかくのごとし。(鴨長明著『方丈記』)

素読で音に換えると読点を付けるのが野暮に思えてならないので外しました。

日本人ならば誰もが知る方丈記の冒頭文です。多くの文化比較社会学者が指摘していますが、日本人は「歴史の流れ」というふうに歴史を大河の流れに喩えることが多く、一方西洋では歴史を建設に喩えることが一般的らしいです。

 

人類が歴史を積み重ねた上に私たちは生きている。

日本人が個人的にご先祖様を思うこととは比較できないように思います。何かが大きく違う。

西洋の歴史へのこだわりの強さは建築にもあらわれます。アントニオ・ガウディが設計にかかわったサグラダファミリア(スペイン・バルセロナ)は1882年に着工、2026年にはようやく完成するのではないかと言われています。144年かけて大聖堂を建造しているのです。

国家や文化を建設としてとらえる西洋人の感性を、私たちが「意味的」に考えて想像はできても、おそらく「感覚的」にはかなり異なっているのだろうと思います。逆もまた真なりでしょう。

 

日本人は、歴史を、流すことによって造ってきた。

世界で一番忘れることの早い国民性かもしれません。今、世を騒がしている森友学園問題も豊洲移転問題も、収束すればすぐに忘れ去られる。

ここに、忘れ去る美学、という文化の根付きをみることできます。いつまでもぐだぐだと拘るのは醜い、きれいにさっぱりと、いさぎよく、そうした心が宜しいと、男子の訓戒として体に叩き込まれた世代です。現代では多様性ということで、醜くはない、としなければならないという社会の風潮ですが、そんなことはどうでもよい。関係ない。逆に、他人に自分の美学を押しつけることも2000%ありません。

生きかたの美学としての「すがた」を教えられたわけですけれども、今考えるにこれは、処世の智恵、自分の健全な心性をはぐくむ理知的な知恵ではなかったかと、そう思うのです。

 

 

子ども同士で喧嘩をする。殴りあって蹴りあって負けて泣いて。

すると仲裁に入ったおとなが、喧嘩両成敗で水に流すように諭します。これは「何を」水に流すのかと言えば、事実を水に流してなかったことにするのではなく、「感情を」水に流すということです。

対立感情、怒りの感情、憎しみの感情、恨みの感情に至るまですべて水に流して忘れなさいと。これができなければ男子ではないと教えられるものですから、愚直な私などは微かな疑問も抱くことなく、否応なく、「ハイ」です。特に負けた時ややられ損だなあと感じる時はしぶしぶながらですよ、もちろん直後は。

でもそうして水に流し忘れ去ることが日本の男子の美学であったことは、私の心をだいぶ救ってくれたのではないかと思うわけです。それが習慣化されたことによって。

事実は残ります。歴史的事実は残っている。が、しかし、、、
感情は大河の流れに乗って大海へ行き着き、もうどこへ行ったのやらわからない。

大河の水の一滴は自分自身の感情であり、自分の一生でもある。
俯瞰的に水の一滴を日本国民ひとりひとりとみることもできる。
すると大河は日本国家ということになる。

大河の水は上に積み上げて何かを建設することはできませんが、常に新しい水が生まれ流れてくるという良さがあると思います。

私たちの心のなかにも、常に新しい水が流れこんでくる。
流された分、流れこんでくる。

 

私の子どもたちもいつかこれを読んで、実感として何かを感じ考えて、更に発展的に上書きしてくれる日がくるだろうと期待して。

 

 

『天籟の妙音』 安岡正篤先生


ITバブルの始まり2003年頃は小泉構造改革もあって、米国を中心に日本への金融投資が活発化していました。そこで起きたのが2007年の米国サブプライム・ローン問題。これが引き金となり、2008年9月にリーマン・ブラザーズが破たん、リーマンショックと呼ばれる金融危機が起こりました。

リーマンショック以前に米国の投資家は徐々に日本から引き揚げ始めており、2007年の半ばから融資市場は硬直化しました。銀行をはじめとする金融機関が企業の設備投資に融資を渋り出したのです。私の仕事にも大打撃となって、もう「経済」という魔物に失望、いや絶望したのがこの時期でした。

その頃に出会ったのが「安岡教学」です。

 


 

安岡正篤(1898-1983)先生は、Wikipedia に載っているとおり、軍人では山本五十六元帥ら、政治家では、廣田弘毅、吉田茂、池田勇人、佐藤栄作、福田赳夫、大平正芳ら、財閥では三菱、住友、三井、近鉄、東電など、広範囲にわたって日本の精神の柱となっていた碩学であります。昭和天皇による昭和20年8月15日終戦の玉音放送の文章に最終的に手を入れたのが先生で、皇室からの信頼も篤かった。しかし終生に渡り学者として号をとることもなく、大学に所属して教授となることもなく、叙勲はすべて辞退しており、「社会的名誉」を自ら遠ざけていました。

「名士は名士になるまでが名士であって、名士になるに従って迷士になる」などというが、本当にそうだ。そうなると意外に早く進歩が止まって、根が浮き上がり、倒れてしまう。実業家、政治家、学者、芸術家と称するものを見ても、およそ名士というようなものはそういうものである。

名士になるに従って、「名」の字は、「迷」という迷士になるからいろいろ失敗をやる。やはり人間は無名であらねばならない。無名にして有力になるのが本筋であり、「無名有力」になるのが、人間成功の秘訣である。

(三笠書房版 安岡正篤『「こころ」に書き写す言葉』)

名前は売れない方が良いのです。自分にとっては。
「知る人ぞ知る」がいい。肝に銘じております。

 


 

このブログのタイトルの一部「天籟の風」。「天籟」は中国の『荘子』に由来しますが、「天籟」という言葉を初めて知ったのは、安岡先生の言葉を連ねた小冊子『天籟の妙音』を書籍化した『「こころ」を書き写す言葉』(絶版)という本からです。たまたま書店で手に取って購入したのが安岡先生との出会いの契機となっています。

もっと若い頃から安岡先生のことを知っておけばよかった、と思うかと言えばそうではなく、年齢的にも、人生経験的にも、「書かれていることが実感として、体験を伴った連想としてわかる」時期にようやく入った頃でしたので、今なお先生の語っていることについて深まらない部分がまだまだあるほどです。ですので出会う時期が、例えば20代や30代でなくて良かったとさえ思います。

「天籟」とは、「風の音などの自然の音のこと」や「詩歌などの絶妙なこと」を表わします。先生の文章は、いずれも心の高鳴りに溢れたもので、格調が高く豊かな韻律があります。日常の瑣事に憔悴した心を浄化し、思索を深め、これからの自分の行くべき道を示唆するものばかりです。(同書「はじめに」より)

 


 

安岡先生の著書では、中国の四書五経(大学・中庸・論語・孟子・詩経・書経・礼記・易経・春秋)をはじめ、老荘思想、儒教諸派、陽明学、禅など、日本では中江藤樹や大塩中斎、佐藤一斎、道元らから引用されることがあります。

古典を扱う学者の著書では古聖先哲の主張が主となることがほとんどで、学者は研究者として従の立場での評論解説ばかりですが、安岡先生の場合は古聖先哲にまったく負けていない。自らの人生や世相に連関させて、より一層深いところの話に醸成させているのです。安岡先生の言説が主になっています。《六中観》などの独創思想も多く、《万燈照国一燈照隅》は、当ブログでも微力ではありますが実践しているつもりでおります。

 

ひとくちに学問と言ってもいろいろあります。欧米から輸入された近代教育システムで教わる学問は、「自分の外」のことだけです。なぜなら欧米や中東では、「自分の内」のことは教会(宗教)の教条主義によって強制的に造られることが多いように思われるからです。もちろん無宗教のかたも欧米にいらっしゃると思いますが。

日本は歴史上どうしてきたかと言えば、「自分の内」の学問のほうが長いあいだ主流だったのです。明治、大正、昭和前半にはその影響が残っていました。しかし戦後教育では、わずかに一週間に一度「道徳」の授業がある程度で、その内容も社会ルールが主体です。欧米の影響もあります。どうしたら良いのか。

「己をどのように作っていくか」「己が生きる意義とはなにか」

普遍的な人間の生きる意味などではなく、まさに実存している己をどうするのかという、当事者としての本質的な学問をやってこなかった人が現代では多いのではないでしょうか。私もそのひとりでしたが。

 

中斎先生(大塩中斎※大塩平八郎のこと)を人として、個人として考察する時に気がつきますことは、先生の学問・思想の跡を辿ってみるとよく分かるのでありますが、自分というものをいかに把握するか、自分という人間をいかに正しくするかということに、つまり本当の自己をつくるということに徹底しておる。

人間というものの本質はどこにあるか、人間の人間たる意義・価値・権威というものはどこにあるか、ということに実に徹底した考察をしております。

(中略)

大抵の人は、相当に出来ておるようであっても、まだどこかに功利的なものがある。中斎先生の真剣に学ばれた陽明学、特に「抜本塞源論」を読みますと、言を極めて功利主義の弊害というものを痛論しております。

人間は功利主義・打算・ソロバン勘定・欲得、これを超えなければ本物にならないということを力説しております。(PHP文庫版 安岡正篤『人生と陽明学』)

 

耳が痛いです。

リーマンショックで経済に絶望し、ようやく自利優先から抜けかけているとは言っても、功利主義や打算、そろばん勘定を理性で駄目だ駄目だと思いつつ、ついつい無意識のうちに計算してしまっているときがあります。

これを超えていきたい。

 

今まで私のブログを数年にわたってご覧になってこられたかたはお気づきかもしれませんが、私は生存している人には主に「さん」付けをし、亡くなっている先人に対して敬称を付けることは今までありませんでした。しかしもう10年ほど書物からとは言え訓えられることばかりで、安岡正篤先生は、先生と呼ばせていただくことにしました。私淑させていただきます。

今後は、(「安岡先生だったらどう考えるかな。安岡先生に今の私の言行は叱りつけられるかな。」)といった内的対話の対象とさせてもらうことにします。

 


 

聖賢の学問はただ一筋に基づいて王道を行った。ところが後世の学問は己れを修めると人を治めるとの二つに分かれて、しかも肝腎の己れを修めることをしないで、ひらすら人を治めようとする。

『論語』にも「古の学者は己れをおさむ。今の学者は人をおさむ。」と書いてありますが、これは後世の学問の悪いところで、人を治めようと思ったならば、まず以って己れを修めなければならない。王道に即するとは天徳に基づくということである。つまり自然と人間を一貫する真理に立たなければならぬということであります。(致知出版社版 安岡正篤著『呻吟語を読む』)

 

江戸時代、士農工商の上に立つ武士は率先して儒学(朱子学)を学びました。僧侶でさえも儒学を学んだ。西郷隆盛などの英傑らもそうです。人の上に立つ人ほど、己を修めるための学問をし続けていました。

今はどうでしょうか。

政治家らは自己修養のための学問をし続けているでしょうか。企業経営者はどうでしょう。教育関係者、学校の先生がたは己れを修めるための学問をしてますか。

他方、一般社会において、子どもたちの親はどうでしょう。中高年者の方がたはどうでしょう。頭がしっかりしているうちは老いれば老いるほど、己れを修養するために古聖先哲から新しい知見を学び、言動と行動が立派な人ととして社会のお手本になるべく自己研鑽に務める。これは当たり前のことのように思います。

今までの経験や学問知識に依存し、ただそれを引き出しから出してくるだけで新しく学ぼうとしなければ固陋の人であって、人物としての魅力も光もありません。劣化していく一方のデータストック装置です。そうはなりたくない。

 

幾つになっても己れを修めるための学問をし続けてきた日本人は、東南アジアをはじめ世界から「日本人は信頼できる」として評価されてきた。その信頼が日本を経済大国にしたのです。しかしそうして先人が苦労して作ってきた「信頼という名の貯金」は、残念ながらもう使い果たされる寸前だと言える。東芝の例、安倍総理の「福島は完全にコントロールされている」発言を挙げるまでもない。

でもこれから信頼という名の貯金を再度つくっていけば、まだ「日本人」というブランドの神通力は世界に通用するかと思います。

「経済大国」や「軍事大国」は短期に栄枯盛衰の波がありますが、「信頼大国」は長寿です。これだけは間違いありません。

 

 

天網恢恢


法律はなぜ必要だと思いますか。否、なぜ必要になったのだと思いますか、と聞いた方が良いかもしれません。

法の成り立ちは、共同体にとっての「悪」をその集団の構成員(もしくは長)が決める「掟/秩序」という側面(抑止も含)と、争いを「解決」するための側面(応報感情も含)の二つが端緒です。

「最終判断を法に委ねる」という趣旨が法治国家の理念になります。

ここでは、「個人がしっかりと善悪の判断をし、共同体生活をする」が先にきます。

 

ところが最近では、「法で悪と決まっているのだから、法に触れずに共同体生活をする」というふうに考える社会になってしまいました。

違いは一目瞭然だと思いますが、「法で悪と決まっている」を根源価値とするのならば、その国民は法の奴隷であり、その国家は法圧国家であります。

なぜならば、自分の知性で善悪を考えることなく、法で悪と決まっているからと、頭脳を使わずに反知性的に決めつけてしまっているからです。一方で、国家は法によって従属圧力をかけていることになる。法の威嚇による抑止目的が過剰に表れているのです。

これは、数学の公式がどのようにして成立しているのか、自分で公式を作る努力を一切せずに、単に答えを出すために公式を丸暗記する、テスト結果偏重主義の教育と同じです。テストができない子ども=悪、の圧力。

こうした反知性の法圧国家は国を滅ぼします。

 

古代中国哲学『老子』の第七十三章の最後に有名な言葉があります。

天網恢恢疎にして漏らさず

上記は『魏書』編纂上の誤記とされ、本来の『老子』は以下になります。

天網恢恢疎にして失わず

この訳のほとんどは以下となっています。

「天の網は広大に拡がっていて、その網目は粗いように見えるがそうではなく、悪人・悪事を決して漏らさない」

私はこの章の全文(特に「而」の使い方)と、第五十七章、第五十八章、第五十九章、第六十章、第六十八章、第七十四章、第七十五章の意図するところを総合的に判断して、次のように意訳しています。

「天の網は広大に拡がっていて、その網目が粗いからこそ、人(の心)を失わない」

天の網が一点の悪も見逃さないような細かさになってしまえば、人は自らの心で悪を判断しないようになり、強度に威嚇された人心は閉塞感に苛まれ、暗鬱とした世の中になってしまうと。

『老子』の良さは「水」を象徴として、柔らかくどんなものにも姿を変えられる応用性があるというところだと思います。そこから考えると、悪人・悪事を見逃さないという翻訳には強い違和感を覚えるのです。

 

「法律としてはどうなの?」を考えるうえでは、『弁護士ドットコム』のようなサイトは確かに有用だと思います。

けれども、「法律でそう決まっているから」を単純な正義の剣にしてはならないのではないか。

まずは自分で善悪を考える、それが法律と矛盾していなければよいし、矛盾しているときにはさらに考える。納得できなければ調べたり誰かに聞いたり議論するなりして、知性的な努力をする。

国民みんなが知性的な努力をしていくことで、現代人の脳の劣化を防ぎ、その時代にあった法律に変えていける。

そして、法に最終判断を委ねているのですから、罪と罰については冷厳な司直の手のみによって下されるものだということです。大衆は圧力をかけてはならない。

 

法圧国家になってしまえば、それこそ全体主義政治が機能しだすようになってしまうのです。

その国の国民にとって、「法」をどのようにとらえ、「法」をどのように運用していくのかは、国民知性が上がっていくのか下がっていくのかの、バロメーターの一つだと言えるかもしれません。

 

 

クリエイターに対する評価とは


キングコング西野さんが定価2000円で紙媒体として販売している自作の絵本を、インターネット上で無料公開したことで様々な価値観の意見が飛び交っていました。

こうしたことで熱くなる意見というのは、白か黒かの二極論なんですよね。結局、彼を支持する派と彼を支持しない派、あなたはどっち?みたいな。

今と10年後では意見が変わるかもしれない。それは3か月後かもしれない。私なんか支持派と反発派が自分の中に共存していることを自覚してるので答えようがない。西野さんの親しい友だちだったら全力で擁護しますけど。

でも反発受けようとも堂々と前へ進んでいく勇気は評価されるべきではないかと思います。

彼の作品が芸術としてどう評価されるかというのはあまり関係ない。芸術評価は人が判断するものだから、人によって価値観も違えば審美眼も違うし、嫉妬感情だってあるでしょう。

また、芸術への指向性はある人ない人けっこう差が激しいしかもしれないですね。

 

話は飛びますが、私、近年は図書館をよく利用してるんです。

というのも、お金がたくさんあるときにはしょっちゅう書店へ行っては、10冊くらい大人買いして9冊捨てるみたいなことを平気でやっていて、まあ消費に貢献してたわけですけど。その反省から、何度も読みそうな書は一度図書館で借りて、ざっくり読んでからアマゾンで購入とうい方法を取るようになりました。先日のWebライティングのような本は書評を読んで買ってしまいますけどね。仕事関連だし。

『チクセントミハイのフロー』で紹介した、ハンガリー出身で米国在住の心理学者チクセントミハイの書なんですが、一冊を高評価して、もう一冊は低評価しました。

で、私も自分で自分自身の心がなんでこんなふうになるのか、すっごい疑問だらけなのですが、低評価の方の本を買ってしまいました。なんででしょうね?こちらのほうが価格は高いです。どちらも半分仕事関連です。

ひとつ言えるのは、茂木さんが「ゾーン」にご執心で、私は「ゾーン」ってふつうだろと思って白けてしまった。

でも、「クリエイティブ」というテーマであれば、もっと読みこんでみてもおもしろいかもと、無意識の左下角度32度くらいのところにもやもやがあったような気がします。

冒頭のキングコング西野さん絡みで引用してみます。

 

人々に理解されづらい課題への深い関心や関与は、多くの場合、報われることがなく、嘲笑の的になることさえある。

拡散的思考はしばしば、大多数の人々に規範からの逸脱と受け取られ、その結果として、創造的な人は孤立と誤解を感じることがあるかもしれない。
(世界思想社版 M.チクセントミハイ著『クリエイティヴィティ』)

 

大多数ではありませんが、多くの人から西野さんは、「規範からの逸脱」と捉えられたと思います。作品性どうこうではなく、彼の価値観に対してです。彼は作品を創りましたが、著作権を一部放棄するような価値観を大々的にあらわにしたわけです。勇気ある行動と言える。

一方、同じように思っても、出来なかった人はたくさんいると思います。だって最初から知名度が違いますよね。勝負にならない。だから西野さんが自分の吉本興業で漫才師である知名度に乗っかって、「ええかっこしい」をやってることに反発する人はたくさんいるでしょう。

私が上記に引用したのは、西野さんのことではなく、むしろ目立たなくて独立独歩で自己表現している、クリエイターさんたちが念頭にあります。「きれいごとじゃ食べていけない」というクリエイターさんが99%です。アート関連の業界では。

 

私の主張としての結論はありません。

 

 

高きに昇る水


今日は1月8日。記念日です。
そう、いちかばちかでこの日を選んで法人を設立したのでした。
内省から入りたいので少し個人的な回想をつらつらと書かせてもらいますね。長くなります。

 

1990年ですので不動産バブルの真っ最中でした。バブル景気だからみんな良い思いをしたんだろうと、ご存知のない方はそう思われるかもしれませんが、証券、金融、不動産、建設関連の業種が良かっただけで、2003年頃から今も続くITバブルと同じようなものです。関連しない業種のかたがたにとっては、景況感はあれど実際の収入はそれまでとほとんど変わりなかったと思います。

私はと言えば、はい、不動産開発でバブルのど真ん中にいました。けれど設立時は徒手空拳(いつもそうですが)で、資本金50万円で設立した株式会社です(当時は8人発起人×5万=40万から可能でした)。その後1000万に増資しましたが。

一つの開発を決めるフィーが約5000万という流れで始めましたが、私のほうが遠慮して(後から考えるとこれで良かったんです)2000万とか1500万とか、でも皆さんバブルがはじけてもちゃんとお支払いくださいました。良いお取引先に恵まれたと思います。代表者である私への役員報酬をのぞけば利益率は90%以上で金銭的危険負担もほとんどないのですが、開発なので1年2年と時間がかかるんですね。それと、ゼネコンだとかヤクザだとか、住民対策だとか、役所の許認可対策だとか、銀行への事業計画書提出と融資の折衝だとか、まあ、むちゃくちゃ脂っぽい世界で、下手したら冗談ではなくさらわれて沈められるか埋められるかです。そういう中で「押し出し」を利かせて誰にへつらうことなく一匹狼で綱渡りしていたわけです。(今考えるとずいぶん危険なこともしたなあと思います)

10代~20代前半の人生の中でヤクザには免疫があったので、そちら方面は怖くないというのはありました。不動産開発で大きな金額の土木建設が必ずからみます。ゼネコンでもデベロッパーでもヤクザが絡んでいない会社なんて一つもないんです。でも逆に、企画を泥棒したり、口約束を裏切ったり、そういうことは一切なかった。事業を進めてゆくなかでゼネコンとの交渉や建築現場の工程会議で大喧嘩の口論になっても一時的なもので、遠慮なく仕事することができていました。土木工事、建築工事、設備工事など、血気盛んな野郎どもがたくさんいました。ゼネコンの役員と言えば、死んだ魚のような焦点の定まらない光を失った目をした人が多く、一体何人行方不明にしてきたんだろうかとぞっとするような生気のない人ばかり。そうした全体を取り仕切る立場なわけです。

私は住民同意や役所許認可でヤクザや同和など一切使わなかったので、住民説明会の住民側の席にヤクザが数人座っていて睨みをきかせてくるなどありましたが、そんなことで腰が引けるようではどうしようもない。まさに向こうの狙いどおりになってくる。

ここのブログだけでしか私を知らない人は、私のことをインテリの道の人と思われているかもしれませんが、それは誤解です。今はね、そうなのかもしれませんが。でも少年ジャンプも読んでますし!

 

そんななか、さて、私は何のために仕事をしたのか、何のために当時を生きたのか。何のために会社を興したか。

お金儲けのためでした。

お金儲けが一番で最優先。

お金儲けのために馬鹿みたいに危険な仕事をしていたのです。あれで死んでいたら本当に大馬鹿者で、子どもたちに申し訳なかったと思います。(生きていても申し訳ない勝手な父なのですが)

 

で、「お前はそれで、誇りのもてる仕事の実績を残せたのか」と自問自答すれば、恥入りながらNo!と答えるしかないのです。後付けの正当化理由をくっつけて、別の何かのためだったとするのは自己欺瞞であり、いい経験をしたじゃないかと結果論で正当化するのは自己逃避です。

お金を稼ぐことは良いと思うんですよ、それはそれで。
でもたぶん、二番以下の優先順位にしなくちゃいけないものだと今は思います。もし一番にしなくちゃいけないのなら餓死でのたれ死にしたほうがマシだと、2008年のリーマンショック後にそういう考えかたになりました。経済に絶望したというか、汚れた俗物的なものとして経済をとらえるようになった。

あのときから8年たって、社会的活動の総決算、集大成と位置付けた新規事業を始めました。2017年が本格的なスタートです。動機的には、まだそこだけですが満足できるものになっています。お金になるかどうかはさっぱりわからないけれど、胸を張って、魂込めて、頭脳よりも精神を使って打ち込める活動の場に自分を放り込めたことが大きいです。

志を持てば不思議と、(ごく少数ですが)同じ気概をもって一緒にやろうという仲間ができます。利益を出していかねば続けることができませんけれど、古い日本人は貴重な言葉を残していますよね、「お金はあとからついてくる」と。そのとおりだと信じて。

恩返ししなくちゃならない人もたくさんいますし、もう年齢的に頭と体のことを考えても無理できるのはあと10年くらいだろと思うので、捨て身の覚悟で頑張ります。

 

さんざん脂っぽいこと、暑苦しいことを書いておきながら、今日のテーマは「水」です。長ったらしい前段ですみません。(でも私には書く必要があった)

 

近代~現代では特に、人は目的的に生きるようになりました。

何を目指しているか、子どもに将来の夢をきくとき、大人は職種を答えることが当然だと期待し、子どもも大人の期待を裏切らないように良い子の答えとして職種(仕事)を答える社会です。

それで夢をかなえられる人はごく僅かかもしれません。また、もし夢がかなったとして、その後はどうなるのでしょうか。

 

ハンナ・アーレントから言葉を借りてきましょう。

 

新しい始まりとはつねに、無限に非蓋然的な、とてもありそうにないことなのだ。だからそれは、生き生きとした経験においてわれわれがそれに出会うとき ――この生の経験は、プロセスとして進行するという特徴をあらかじめそなえており、その進行を中断するのが、まさに新しい始まりなのだが――、奇蹟であるかのような印象をつねにわれわれに与える。(みすず書房版 ハンナ・アーレント著『活動的生』)

 

上記の言説の前に、地球上に有機的生命が発生した奇蹟、それが人類の発生にまで及んだ奇蹟を「とてもありそうにないこと」だったとしか思えないと述べています。偶然が偶然に重なって起こっている、宇宙の始まりの時点では把握可能な蓋然性(※がいぜんせい・・・可能性とほぼ同義ととらえてください)とは矛盾すると。

新しい始まりとの出会いは、とんでもないところ、予想不可能なところに起きる。

続けて引用します。

 

新しい始まりという意味での行為の能力が人間に与えられていること、この事実が意味しうるのはそれゆえ、次のことにほかならない。

つまり、新しい始まりは、いかなる予測可能性や算定可能性をも逃れるということ、個々のそういった事例においては、非蓋然性的なことがそれ自体、なお一定の蓋然性をもつということ、そして、「合理的」には、すなわち算定可能なものという意味では、まったく予期されえないことが、それでもやはり期待されてよいのだということ、これである。(同)

 

彼女自身が己の波乱万丈の人生で、これを経験し体現しているのです。だから魂込めて書いている、血で書いている、その言葉が胸を打つ。目的的に生きるのはそれはそれでけっこうなことですが、その目的にのみ心を奪われ固くなってしまうと、予測できなかった新しい始まりのチャンスを見逃してしまうかもしれません。目的に向かって歩んでいる際、未来に予測できない新しい始まり(それは「横道」と呼ばれるものかもしれませんが)に初めから期待してよいということを力強く述べています。

自分自身が、自分が予想しえなかったような人間になれる。

1990年の私には想像もつかない、ありえない私が2017年のここにいるわけです。良い悪いの是非はともかく。

 

固定化しない、無目的的、フレキシブル。
「水」はその象徴だと思います。

障害物を自在に避けながら自由に低地へ向かう水の進路を逆方向に喩えれば、予想し得なかった高いところへ、更に高いところへと自然に昇っていくわけです。

 

設立記念日の今日、1月8日の思いのまとめをば。

横道やわき道に新しい始まりが、つまり当初の目的よりももっと高い山へ昇れる入口があることを肝に銘じ、水のようにそのチャンスを逃さずすっと進路変更できるよう、肩の力を抜き柔らかい精神で歩んでゆくことを、今後の信条のひとつにしようと思う。

 

 

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