リベラリズム考(8)―正義


リベラリズムの淵源である「啓蒙思想」は、理性の光によって公正な社会を啓(ひらく)くことであった。では、公正とはいったい何か。さっそく理性の光で照らし、リベラリズムの本質と「正義」との関係を掘り下げよう。

 

現在の日本でリベラルの権威は誰かと問えば、井上達夫東大教授の名が挙がるだろう。井上氏によれば、リベラリズムとは正義主義だという。

井上氏が東京大学卒業後にハーバード大学哲学科に留学した際、直接、ジョン・ロールズ(1921-2002)の講義を受けている。『正義論』を著したロールズから多大な影響を受け、2012年に『世界正義論』を刊行している。

今年、『自由の秩序』というタイトルで、2008年に刊行した『哲学塾・自由論』に大幅に加筆した文庫本を刊行している。そのあとがきには次のように書かれている。

(1)リベラリズムの根本理念は自由ではなく、自由を律する正義である。

(2)リベラリズムの制度構想としての権力分立は、立法、行政、司法という国家の異なった権力作用を抑制均衡させる「三権分立」に止まらず、国家・市場・共同体という対立競合する秩序形成メカニズムの間の抑制均衡を図る「秩序のトリアーデ」へ発展させるべきである。

(岩波文庫版 井上達夫著 『自由の秩序』)

 

自由には秩序が不可欠だというのが井上氏の見解。その自由を律する秩序は正義だと言うのである。Liberty の語感には「動き」が含まれると リベラリズム考(4) で述べたとおり。その Liberty の動きに勝手な振舞いをさせず、正義によって律しようとする理論である。

ところで、先に触れておかねばならないが、日本人が主に使用表現する「正義」の語義と、ヨーロッパの「Justice」のそれはずいぶん異なる。

日本人は「正義」という語を辞書の語義を調べて使用表現するだけだが、ヨーロッパでは古代ギリシアの時代から正義概念について哲学し続け、さまざまな論争を経ていまだに「正義とは何か」の決着をみていない。

 

『岩波哲学思想事典』からざっくりと正義の歴史を紐解くことで、「西洋の正義」を考えてみることにする。

 

古代ギリシアのピュタゴラス学派は正義を「応報」とした。しかしソクラテスは正義を「国法に従うこと」とした。よってソクラテスは国法が間違っているかもしれないのにもかかわらず、毒杯を飲んで死んだのである。

彼はとことん正義を貫いた。相手が不正を行っても仕返しにこちらが不正をすることを禁止した。

つづくプラトンは、正義は国家の「調和」のためにあり、各々が本来すべき役割を実行するとし、個人の内面においてもこの原則を崩さず、己の理性が命令し、気概がこれを補佐し、欲望がこれに服従するときに、調和的で力強い正義の人となるとした。

アリストテレスは正義を「共同体的な徳」であるとし、「公正」的な概念を創出した。狭い意味では、ひとつは従来からある応報の意味で「匡正的正義」、もうひとつは各個人における価値や能力に応じた平等で「配分的正義」とした。

キリスト教の「義」とは神との正しい関係を表わす。神の側からは救済的恩寵、人の側からは神の義と律法に適う生き方をそれぞれ意味する。

 

さてここで一息ついて、「正義」と「義」のヨーロッパ的相違を確認するために単語を調べてみよう。

正義・・・[ギリシア語]dikaiosyne [ラテン語]justitia [英語]justice [フランス語]justice [ドイツ語]Gerechtigkeit

義・・・[ギリシア語]dikaiosyne [ラテン語]justitia [英語]righteousness [フランス語]justice [ドイツ語]Gerechtigkeit

以上のとおり、英語以外は同じ単語である。(『岩波哲学思想事典』

 

 justice・・・1.正しさ、正義、公正、公平 2.正当(性)、至当、妥当 3.当然の報酬(処罰) 4.司法、司直、裁判 5.裁判官、判事 6、正義の女神 (以上、『グローバル英和辞典』)

righteousness ・・・1.道徳的な正しさ、高潔、廉直 2.当然 (以上、『グローバル英和辞典』)

英語の「義」はキリスト教道徳の語感が強い。ジャスティスは社会的な「公」の正しさが前面に出てくる。

公正では他に fairness がある。これは主に、言動を行うその人の性質、およびその言動のすがた。他方では、人がかかわるなかでの公正さ、例えば取引じたい、商品価格じたい、などの文脈で公正を表現する。

 

正義概念の歴史に戻る。あと半分だ。少し駆け足でがんばろう。

中世では主だった変化はなく、トマス・アクィナスによる、アリストテレス、、ストア派、キリスト教それぞれの正義概念の統合を試みた正義論がある。

こうしたキリスト教正義との統合は、近代に入ると「契約」の色合いが強くなる。人間相互の契約によって正義が成り立つとする。

ホッブズは、自然状態には正義という価値は存在しないとし、人間が共倒れにならないように相互契約を交わし遵守することを正義だとした。人間の「自己保存」という文脈で正義が語られる。

ロックは、自由、生命、財産からなる所有権にかんする、特に労働によって得られた財産の「保証」として、政治と法は公正を担保する、それを正義とした。

ルソーは、人々の私利私欲を排した「公的意志の合意」から正義が生まれるとした。

カントは、人々のアプリオリの意志から生まれる公民体制で実現する「根本規範」を正義とした。

以上からは、社会の利益、人々の利益、それを生み出すためまたは確保するため、不公正にならないようにする社会契約的意味が大きいように感じ取れる。

 

一方、ヒュームは社会ではなく人の側から感情の共有にフォーカスし、慣習的な暗黙の了解によって互いの感情を害さない公的意識の高さを「人為的徳」と見なし、正義は人の属性とした。

A.スミスは、ヒュームの正義観念を社会経済論に援用し、経済体制を支える支柱が正義であるとした。その系譜は、個人の感情論から全体の「快」=幸福を最大化することを正義とした功利主義のベンサム、弱者救済のための分配的正義を提唱したJ.S.ミルへと繋がてゆく。

他方、マルクスおよび社会主義者たちは、社会的不平等の打破または是正を正義だとし、資本主義が生み出す富の不平等や偏在を変革や革新によって乗り越え、平等な社会を実現することに正義の本質をみていた。

 

現代では、1971年に出版されたジョン・ロールズの大著『正義論』を皮切りに正義論争が勃発する。ロールズが着目したのは大衆の多くを占める無知な人々や不遇の人々である。

ロールズの正義の原理は2つある。

第一原理として、各個人が最大限に平等な政治的・思想的自由をもつことの保証。第二原理として、社会的・経済的不平等の打開と機会均等の原則による弱者や不遇な人々の救済。平等主義的、社会主義的ともいえるリベラリズムの正義論である。

ノージックはロールズの批判をしつつも、個人の権利や利益のために社会の側から正義を論じる姿勢に変わりはなかった。

一方、コミュニタリアニズム(共同体主義)の論者、マイケル・サンデルやチャールズ・テイラーがロールズのリベラリズムに対抗する。個人の権利実現を中心とした正義論ではなく、共同体の善や人間の責任、義務を中心とした正義論を彼らは提唱する。

その他にも、「正義」という社会構想は多々あり、日本の井上達夫氏は、法哲学からの正義論を試みている。

 

さて、ここまで見てきて思うのは、日本の「正義」と、西洋(現在では米や豪などの先進国を含む)の「ジャスティス」との、語感のギャップである。

日本の正義の「義」は中国儒教の「義」を基にしているとはいえ、中国の義とはこれも異なる。義理人情、義挙、義憤などに使われるように、人の道の筋を通すこと、公共のための献身、直接自分には関係のないことに対する自己犠牲の情、透徹した非情の正しき理などが複雑に絡みあい、日本の正義にしても多義的である。

 

リベラリズムのジャスティスとは、バランスのとれた「公正」的意味、社会的意義として、justice as fairness が伝統的な考えかただと言える。(ロールズもそう指摘しているが、一方で、アリストテレス~ヒュームの流れにある人徳としての正義価値もある。)

問題は、justice as fairness をどう規定していくのか、れが西洋2500年の正義観論争の主たる歴史的テーマである。

冒頭に紹介した『世界正義論』の著者井上達夫氏は、独自の正義概念の議論を展開しているが、ロールズ、ノージック、バーリン、サンデルほかの議論を理解できていなければならず、正直、今の私では手に負えない。触れるのは別の機会とし今回のシリーズでは立ち入らない。

ロールズの大著『正義論』は現在読書中。議論できる準備ができればまたそのときに。

 

次の記事ではリベラリズムにかんしてのリベラル的批判について、ニーチェを引用しつつ書く。

 

 

リベラリズム考(7)―自律


前記事の後半で言及した「自律」については、個人主義において重要な位置を占めると思うのでもう少し掘り下げてみたい。

まず、西尾幹二氏の言葉を引いてみよう。

ことさらに社会的意識を標榜せずとも、ただ「個人」であることによって、じゅうぶん社会化された個性を発揮できるというのが真の個性の意味なのである。(中略)

「個人」が自律的であるということは、「社会」からの解放や自由や独立を意味してはいない。そう考えて、ヨーロッパにおける「個人」のあり方を権威からの解放や、反封建、因習打破の目じるしにしたところに日本近代が大きな「空虚」にさらされることになる原因があったといえよう。

自律とは、解放によってははたされない。むしろ帰属によってはたされるべき性格のものである。ただ、帰属とは、同化であってはならない。自分と他人との区別を曖昧にし、肌暖め合う家族主義的集団のなかに没入し、同化することは、けっして帰属にはならない。

(PHP新書版 西尾幹二著 『個人主義とは何か』)

 

ヨーロッパの個人における自律とは、社会と個人との緊張関係があって初めて生まれるものだ。宗教関連の社会集団(例えば教会)とのかかわり、仕事をする上での経済にかんする組織(例えば会社)とのかかわり、プライベートの趣味スポーツ等にかんする集団(例えばチーム、ボランティア)とのかかわりなど、常に複数の社会集団と自分との関係がある。

それらの秩序は私にとって外部から課される他律的なものだ。

複数の他律と自分自身が協調するために自律が必要なのであって、個人であるために自律が必要なのではない。フリーの立場になることやジプシー、ボヘミアンになることと自律とは無関係だ。自立や自由ではない。

そして社会集団に帰属する際、なれ合いの同化であってはならないと西尾氏は言うのである。先に書いたように、ヨーロッパ人は自分が良くなるために、社会が良くなることを必要としない。共同体と信頼関係をもって依存することを求めない。

複数の社会集団とかかわりを持つなかで、自己を主張し精神バランスを保つうえで自律が必要不可欠となったのがヨーロッパ社会である。厳しいドライな感覚を個人個人が所有していることを、彼らは個人間で暗に了解しているのである。

 

 

視点を変えて、外に対する主張としての自律ではなく、自分自身にとっての自律における内面的価値はなにかを考えてみる。

今回のリベラリズム考シリーズの (2)啓蒙 では、フランス、ドイツ、スコットランドの、それぞれカラーが異なる啓蒙思想を学んだ。そのうちのドイツ啓蒙思想、主にカントの知見が自律についての考察を深化させてくれると思う。

 

〇 自己自身に責めのある未成年状態から脱却すること

〇 常に自ら思考するという原則

〇 先入観からの解放

 

私たちは他律に囲まれている。

国家の法律や地方自治体の法令。現代倫理観やマナー。宗教信仰している人はその宗教の教義。傾倒している思想や主義、イデオロギー。会社に所属していれば会社の内規。家族間や友人間で暗黙のうちに取り決められている約束事項。さまざまな場面での作法のようなもの。一般常識と言われる何か。他にもまだまだあろう。

他律に自分を委ね、何もかもをその他律の判断に照らし合わせ、是非を確認しようとする現代人が激増しているように感じる。法的な判断に従えと。道徳的に判断してどうのこうのと。既存の法や道徳を当てはめ、判断を他律に委ねれば良いと。それは確かに気楽で合理的なのかもしれない。しかし、人格みずから責任を負わずに逃げ、他律に責任を負わせるという態度はその人の存在価値を自ら放棄しようとすることにほかならない。なによりも思考停止だろう。

自律とは、カントの述べているように「常に自ら思考するという原則」に沿って、既存の法や道徳の「先入観」から自分自身を解放し、「未成年状態から脱却すること」がそれである。

より重要なことは、カントが人間の尊厳の根拠を、門地・身分といった伝統的・封建的な価値にではなく、自律もしくは自律によって導かれうる道徳性におくことで、あらゆる人格の尊厳と平等を基礎づけた点にある。

(岩波書店版 『岩波哲学思想事典』)

 

キリスト教がヨーロッパを席巻していた時代、貴族、王族、小市民といった身分制度が人物の価値を決定していた時代、カントは実に革命的な論をぶち上げていたのである。

しかしカントの主張を理解すればするほど、自律とは厳しいものだ。

「信仰している宗教の教義、既存の道徳観、尊敬する誰かの人生論、そうしたもの一切は他律(Heteronomie)的原理にすぎない」とカントは批判する。借り物の他律を自分の信条にしたところで、牧場に飼われている乳牛と変わりはない。

結局のところ、啓蒙活動によって社会から与えられるリベラリズムも他律なのである。自律とは、みずからの理性によって内発的に創造するものであり、ある程度の長い年月をかけて、或いは何かの機会に一皮むけることがあって(それも一度だけではなく)、実践し反省し醸成されてゆくものだろう。

安全で慣れ親しんだ場に留まることは、牧場での安楽さと同じだが、そこから一歩踏み出すことが真の自律への第一歩である。

 

カントは自身がキリスト教徒であることを否定しなかったし、キリスト教を直接批判することもなかった。しかし良く言われていることだが、カントは神を半殺しにした。そして神にとどめを刺したのがニーチェである。

自律については以下のページにある、駱駝から獅子への変化が示唆的です。

ニーチェ著 『ツァラトゥストラはこう語った』「三段の変化」

 

ところで、リベラリズムの淵源とされる啓蒙思想は、「いっさいに理性の光をあて、旧弊を打破し、公正な社会をつくる」ことが目的となっていた。

公正な社会。

ここでの公正は、Right や Fairness よりも Justice が適切だと思う。

次は、Justice(正義)について。

 

 

リベラリズム考(6)―個人主義(ⅱ)


同一日の2記事掲載ですので、個人主義(ⅰ)を先にお読みください。以下、まずは事典の引用から入ります。

 

(3)規範的主張

規範的主張としての個人主義は、何をもって良き生とするかの決定を個人に委ねよ、という個人の自律・自己決定を主張する。

この規範的な個人主義は、理論的には、社会の存在性格についての存在論的な個人主義とは独立であって、社会を超個人的な主体=実態の自己実現とみる全体論の立場からも主張可能である。

(岩波書店版 『岩波哲学思想事典』)

 

いよいよ、個人主義のリベラリズム的側面のコアな部分に入る。

まず、一人の人間の個人的側面からの主観的な一生の目的や価値について、自己決定する権利が人間にはある。

一方、社会を超個人として扱い、社会が(個人の複合体として)自律的に理想を求めるという、全体主義の視点から主張することもできる。

規範的に個人主義を権利として、主体には必ず自由があるとするのならば衝突が起きるのは言うまでもない。ではどのように折りあいをつけていけば良いのか、ここが個人主義の今なお答えの出ていないテーマである。

 

しかし、ひとたび社会が近代化し、個人の自律的な価値選択の多元性の承認が、社会システムの再生産の条件となると、普遍的な価値の主張は「非寛容」と紙一重になる。(同書)

それぞれが勝手に個人主義を規範として掲げ、多様な価値観を承認し合うことを暗黙的にでもルール化すれば、社会から多様性であることの圧力がかかり、それは非寛容になりかねない。例えば、「保守的な秩序と伝統を守ることが私の自律した個人主義であり、秩序と伝統を破壊する人を自分は許さない」という人に対し、「あなたは間違っている。多様な価値観を認めなさい」という矛盾した非寛容を生み出しかねない。社会からのその非寛容的圧力が強まれば、リベラルが嫌悪した、言葉狩りなどによって表現の自由が大幅に限定され、不自由で閉塞的な社会へ突き進んでゆく。

現在の世界的風潮は、ポリティカル・コレクトネス運動による多様性の尊重による寛容が、実は上記の非寛容であったという欺瞞が暴かれ、欧州やアメリカでのナショナリズム運動に結びついている。下手なことを書いたりしゃべったりすれば吊し上げられ身の破滅を招くほど、表現に厳しい時代になった。黙って何も表現しない方が安全な世相である。

私自身は破天荒に生きているのでリベラリストであることを自他ともに認めるところであるが、リベラリズム運動には反対で、社会はある程度の秩序を堅持し保守的傾向が強いほうが良いと考えている。ニーチェも超の付くほどのリベラル哲学者であったが、19世紀の、まさにリベラリズム運動が始まっていた時点において、これを徹底的に批判した。この件については本シリーズの別記事で触れる。

さてどう考えてゆくべきか。つづけよう。

 

したがって、規範的な個人主義は、普遍主義的な価値論を棚あげしたうえで、「個人が何を選ぼうと、その適否を論じ合う共通の基準はない」という一方の極と、「それぞれの価値選択の適否を語りあい合意しうる共同性において、個人は自己決定の主体たりうる」という他方の極に分裂する。

一方の極は、政治思想においては、社会関係を自己実現の手段・素材と見切る自由主義と親和的であり、ひいては公共財のみならず教育・治療・行政・司法・治安の全てにわたって、必要なサーヴィスは金を払って購入する社会システムこそが個人の価値選択を尊重する、と主張する個人至上主義(リバタリアニズム)を強化しうる。

もう一方の極は、語り合い合意をしうるための高階の価値の共有の不可欠性を騙る共同体主義(コミュニタリアニズム)と親和的であり、ひいては実定的な共同体の伝統を強調する保守主義を強化しうる。

(同書)

共通な基準は無いのだから、「個人主義にあたかも普遍性があるように、外へ向けて語ってはならない」という最低限のルールは守らなくてはならない。

そのうえで、「自分は個人主義の自由と権利を行使する」と主体的に主張し行動すれば、リバタリアニズム=新自由主義(個人を軸とした主観的自由を徹底して主張する主義)へ向かうことも有り得る。

一方では、個人が主体的に共同体にかかわり、それぞれの個人が「自分の自由を自律的に制限する個人主義」という理性をはたらかせ、共同体に重心を置くコミュニタリアンとして保守主義へ向かうことも有り得る。

「個人」という日本語の表層的意味に囚われてしまえば西洋のインディヴィデュアリズムへの理解は深まらない。個人主義は全体主義的視点があり、新自由主義とも保守主義とも親和的になり得るのである。

リベラリズムの根幹とも言える個人主義が上述したとおりであるので、リベラルと保守、リベラルと全体主義を対義概念として二元論に閉じ込めることが、いかに反知性的(思考停止)で頑迷固陋(私は昭和の亡霊と呼んでいます)の思考回路であるかお解りいただけるだろう。

 

個人主義の締めくくりとして、なぜ西洋は個人主義に成熟し自律への意識が高いのかについて。

自律とは、ギリシア語で autonomos と記述され、auto(自己)の nomos(立法)である。

ヨーロッパは、自己による立法をせざるを得なかったのだ。

宗教的対立は共同体の破壊を生み、国家的対立による戦争も共同体の破壊を生み、経済的対立もまたしかりで、基本的にヨーロッパの人たちは国家共同体も会社組織も信用していない。教会さえも。

ヨーロッパには社会の安定が長く続かなかった歴史がある。そうした環境下におかれれば、自己という個人の主義を規範として打ち立て、自己を主張して他者に負けないようにしなくてはならない。共同体が自己を守ってはくれないのだから(ある程度は守るとしても)、社会へ依存できないのである。自分と愛する人、家族の運命と安全、安心、経済的安定および精神的安定を、国家や会社などの社会共同体への依存に委ねることができないのだ。

アメリカの銃規制が進まない根本原因はここにある。

 

日本は幸せな国だ。

東アジアでは中国を含め唯一、世界的にも珍しいことに他国から侵略されることがなく、会社は終身雇用で社員を守り会社自体を長く存続できていた。世界的に長寿企業が日本に多いのは、会社が社員を守ってくれるという信頼感があり、社員の生活基盤が安定し精神的にも良好な状態で暮らせてきたからである。

なによりも、国民みなが社会に信用を築き上げてきた。

社会が個人をしっかり守ってきた。ゆえに、個人主義の台頭は必要なかった。

自分たちが築いてきた信用のおける社会に、自分たちが依存できるように組み立ててきたのだ。日本人の道徳観は、神仏宗教や人徳的善、生き方の美意識からも説明でき得るけれど、社会をいかに信用できるものにするかを暗に目的に置いてきたのかもしれない。

人を人間と呼び、人間の集合体である社会を世間と呼び、「世間様」という観念が尊重されてきた。世間という語は仏教語として場所の意味でサンスクリット語から漢語に翻訳され、中国を経由し日本に輸入されたが、後に、世(移ろいゆくもの)の間(空間)として、時空間上に動きのある実体観念として日本社会に根付き、日本人はこれを大切に扱ってきた。毀誉褒貶と同調圧力の負の部分を自覚しつつも。

 

いま、日本はグローバリゼーションの濁流のなかに混沌の時代を迎え、尊重してきた世間様というよりどころを無くしかけ、社会が信頼を失いつつある。欧米文化の光ばかりを見て影を見ようとせず、まるで信仰のように「ヨーロッパの進歩」に憧憬を抱き善としてきた日本人が、欧米流のリベラリズムと個人主義、能力主義の影の部分に気づき始め、自由を求めた代償として心理的反撃に出会い、これをどのように消化し乗り越えてゆけば良いのかというテーマと格闘している時期だと思う。

 

さて、次の記事ではもう少し「自律」について掘り下げておく。

 

 

リベラリズム考(5)―個人主義(ⅰ)


今回は前回の流れからリベラリズムの批判と吟味についての論考を書く予定をしていたけれども、まだ批判には早いと考え直した。リベラリズムの別の側面についてを更に考究するために路線変更をし、今回は、個人主義についての考察をしてみようと思う。

リベラリズムの性格の中核には個人の尊重がある。

日本人は海外からの評価的にも自己評価的にも、「個人」として成熟していないと思われ思いがちであるところは皆が知るところだろう。いったい「個人主義」とは何か、日本人がよく使う「個人的にはなんとかかんとか」という表現。正しくは私的にはなんとかかんとかを使うべきで、個人と私人の使い分けをしっかりしよう。この表現の「個人」(私人)とは異なる西洋思想に根付く個人主義への理解を深めよう。

あらかじめ書いておかねばならないのは、個人主義が確立されている欧米が優れているだとか、進んでいるだとか、あまり確立されていない日本文化が劣っているだとか、相対的に優劣是非を判断するものではない。前記事の後半に山口真由さんの論考を引用したが、日本社会の連帯性や曖昧調和性、全体のためならば個を抑えるという態度は、もしかすると彼女が述べているように、アメリカの限界を超えうる価値があるかもしれないのだ。

「個人主義」という日本語的な先入観をもたずに、西洋のインディヴィデュアリズム(個人主義)について考えてみたい。

 

■ 個人主義 [英] individualism

個人主義は、(1)個人と社会の関係や存在性格についての〈存在論的主張〉、(2)社会現象・構造の分析・記述は、成員諸個人の選択行動のそれに還元されるという〈方法的主張〉、そして、(3)個人の生き方や価値の選択の仕方についての〈規範的主張〉という、密接に関連するが相対的には独立の、複数の主張の複合体である。

(岩波書店版 『岩波哲学思想事典』)

 

上記のとおり、個人主義は大きく3つの要因から成立していることが定説となっている。おそらく日本人が描く個人主義のイメージは、私人主義、孤高主義、利己あるいは自己主義という感じではないだろうか。

西洋思想での個人主義をざっくり私なりに表現するならば、「人間の一人として」を重要視する「個体主義」である。個人主義はコミュニタリアニズム(共同体主義)に対立しない。むしろ融合する。対立させるとすればトータリアニズム(全体主義)だが、基本的な性格が異なる(上がっているステージが違う)ので対立概念とするのは不適切である。相対的見地の先入観および対立二元論は足かせとなるので捨てる。

まず、どのようにして西洋のインディヴィデュアリズムが成り立ってきたかである。少し長い引用になるけれど丁寧にやります。上記の引用をつづけよう。

【個人概念の生成と特質】

したがって個人主義を考えるにあたっては、〈個人〉という概念が、〈社会〉と〈規範〉の双方にかかわる基礎概念として登場してきた歴史を確認する必要がある。

古代の神話・悲劇に明らかなように、集団と個人との軋轢は、太古からの倫理学の根本問題であり、その意味では、個人という概念は、言語・意識と同世代である。

しかし、近代以前では、個人(individual)という概念は、集団を分割(divide)していくと、それいじょう分割できない(in-)部分=基本要素、でしかなかった。しかし近代化とは、そうした集団ー部分(要素)という図式によっては、イマ・ココなる自己であるということが把えきれなくなる、という出来事であった。

西欧にそくして言えば、一方では、囲い込み、ペスト、農民蜂起という大規模な死・流血と相互不信をも伴って共同体が解体し、他方ではむしろ「共同体が果てる」ところ=市場における匿名の個同士としての交換が、生活物資の調達の基本回路となることによって社会関係が再編されるとともに、個人であること、共同体に属していることとの乖離の意識もまた強まっていく。

こうして「集団の部分=要素」としては同定できない存在として、個人という概念が形成されてくる。

個人の決断を最優先させる宗教改革や、自己意識の明証性を唯一の基盤とするデカルト哲学は、こうした個人概念の生成の重要な里程標である。

このように個人という概念は、共同体が解体して、社会全体が人のいかんを問わない諸機能システムの複合体として自律化することと相関的な概念である。

(同書)

 

一読しただけではイメージを掴みきれないが整理していこう。

 

(1)存在論的主張

これは古代ギリシャ哲学から連なる「全体」と「個」の相関的テーマである。いわば人間を物質(物体)として捉える、アトミズム(原子論)的主張。

個人は個体(原子)として自律的運動を行うが、個の集合体である社会もまた有機体のように自律的運動を行うという考えかたである。したがって存在論的主張としては個人主義と全体主義は同根に扱われる。

個人が全体を利用するのか、全体が個人を利用するのかは、どちらか一方を優位に立てることはできない。なぜならば、個人の利益のために社会があるとするときに、その社会は個人の集団を全体として扱わなくてはならなくなるから。社会を運動させるのが特定の個人になるのならば、政治的には独裁政治へ向かうし、全ての個人が納得できるような社会の運動は不可能である。

よって個人主義の存在論的主張においては、哲学的考察は続けるとしても、個人の自律と社会の自律が存在すると述べるにとどめるべきだろう。

この「自律」については次の記事でとりあげる。

 

(2)方法論的主張

個人を運動体として捉えるところで、社会を記述する方法論として個人主義を使うという、社会学の範疇にある、客観視点をもとにした主張。

社会契約論が絡む。

「個人」に焦点を当てるのではなく、「個人主義」そのことに焦点を当て、個人主義ありきで、社会を個人主義と個人主義の契約から説明しようとする理論。

リベラリズムとの関連性が無いわけではないが、今回はこの部分を掘り下げることは省く。

 

最も重要であると思われる(3)規範的主張については、稿をあらため次の記事で連続して書いてゆく。

 

 

リベラリズム考(4)―Liberty


多義的であるリベラリズムの淵源が啓蒙と寛容にあることを再確認した。次は、啓蒙と寛容がいかにして「Liberty」に結びついていったのかについて、自由と邦訳されるリバティの本質とは何かを考えてみたい。

まず英和辞典から「liberty」と「freedom」を引いてみよう。

■ liberty

【自由】
1.(圧制、外国支配などからの)自由;(監禁などからの)解放、釈放
2.(権利としての)自由。信教の自由、言論出版の自由。
3.自由、許可。(出入り、使用などの)自由
4.〈特に許された自由〉。(王などから与えられた)特権、特典。

【過度の自由】
5. 勝手、気まま、無遠慮。

■ freedom

【束縛のなさ】
1.解放。免除。(例)飢えからの解放。痛みからの解放。偏見のないこと。

【自由】
2.自由。(例)自由な身分、自主独立。学問の自由。行動の自由。
3.自由。権利。自由に利用できる・・・。

【拘束のなさ】
4.のびのびしていること。自由奔放。自由自在。

(三省堂版 『グローバル英和辞典』)

 

ヨーロッパの自由は遠く古代ギリシアから始まり、様々な変遷を経て現代に至っている。よって上記のように多義的である。そのなかから近代的自由についての定説の一部を以下に引用する。

[英] freedom,liberty [独] Freiheit [仏] liberté

近代的な意味での自由の観念は、自由が、人間が人間であることに基づく権利として観念されることによって成立した。(中略)

古代以来、自由であることは、外的な干渉の排除と従属民への支配を現実に行いうる能力=権力を有するということを意味してきた。それに対して、近代的な自由の観念は、そうした個別具体的な能力=権力にではなく、人間の普遍的属性に結びつけられた。

(岩波書店版 『岩波哲学思想事典』)

 

日本の「自由」についての記述はこうなっている。

明治期には、当初、liberty や freedom の訳語として、〈自主〉〈自在〉などが用いられ、〈自由〉は否定的なニュアンスをともなうことが多いので避けられていたが、中村正直『自由之理』が現われるに及んで、訳語として定着し、自由民権運動において積極的に主張されるようになった。

(同書)

 

おそらく多くの日本人が「自由」のイメージとして描くのは、自由自在な存在のフリーダムのほうではあるまいか。福沢諭吉もリバティの邦訳は難しく適当な語が無いと述べていた。

フリーダムは既に自由になっている状態を表わす。

表現の自由、言論の自由は、既に権利として確立されている自由なので、Freedom of speech である。

一方、アメリカ建国の精神の象徴である自由の女神像は、Statue of liberty だ。

語感は次のようになるのではないだろうか。

フリーダムは、既に存在している自由、有している自由。自由な状態にあること。客観的。

リバティは、自由になろうとする、自由を獲得しようとする。動きが伴う自由。主体性がある。

 

リバティには政治的、権力的束縛からの解放を欲するといった語義が含まれており、それが「啓蒙」と「寛容」を引き込み、社会運動としてのリベラリズムへと繋がったのだろう。但し、運動としてのリベラリズムは、風潮や社会をつくることで個人にフリーダムを与えようとしているわけで、いわば「社会という権力」を使い全体の個人へ圧をかけようとするため、本来のリバティとは異なる性質のものとなる。(後述で捕捉する)

また、完全なフリーダムは無く、例えば表現の自由にしても、個人の名誉を傷つけないこと(基本的人権の優先)、公共の福祉に反しないこと、個人の自由を抑圧しないことなどの「制限付き」のフリーダムである。日本国憲法にも自由権の濫用は認めないとある。

既に確立された制限付きのフリーダムの権利を守ろうとするのはもはやリベラリズムとは呼べず、保守の領域になってくる。そのための運動やデモは保守的運動だと言える。憲法改正に反対する勢力、護憲派と呼ばれる人たちは、このテーマでは保守ということになる。

 

山口真由氏の著書 『ハーバードで喝采された日本の「強み」』 に、アメリカ生活で体験したリベラリズムをすっきりと言い当てている一文があるので紹介する。

宗教などの伝統的価値観を尊重するコンサバと、そういう伝統を打ち破り、個人の選択で自分の人生を切り拓くことを是とするリベラル

コンサバとは、[英] conservarism [仏] concervatisme 邦訳で保守主義

保守主義とは常に自己の時代をなんらかの解体の時代と捉え、それ以前のものの固有の価値を自己の時代と次の時代のために救い出そうとする思想である。

(岩波書店版 『岩波哲学思想事典』)

保守主義の歴史も古く、また現在でも多義多様であり、「旧保守主義」「青年保守主義」「制度論的保守主義」「新保守主義」「解釈学的保守主義」などがある。政治的保守、経済的保守、思想的保守、文化的保守などのジャンルに分けてもさまざまとなって、完全な保守主義だとか真の保守主義は有り得ない。それを強引にコンサバ派とリベラル派の二極対立構造に持ち込んでいるところに、アメリカの深い病い(思考停止と国民の分断)がある。

 

さて、リベラルについて山口さんは、「個人の選択で自分の人生を切り拓くことを是とする」 としている。まさしくそのとおりで、人生は自由で自主的な選択と決断の連続だ。

同書には最高裁判事の文言が引用されている。

人権の基本は「政府からの自由」であって、「政府による自由」ではない

アメリカ政府があなたに自由を与えるわけではない。政府があなたの自由を、違法行為などを除き限定的にしか束縛しないということ。自由権を行使したければ自主的にどうぞ、だ。アメリカ人の自主自立の精神、我らがリバティによって建国してきたという自負と誇りがうかがえる。

このように、現状行われているリベラリズムの一部、ポリティカルコレクトネス運動は社会が自由を個人に対し準備しようとするもので、リバティとは異なる。否、むしろ「個人の自主性による、自力で自由を勝ち取る権利」を奪いとる負の運動という矛盾をはらみ、「リベラル」という言葉には欺瞞がひそむ。

 

リベラルは未来へ向かって善い方向へ変えていこうとすることであり、人間の理性を信じ、人間が進歩していくものだという思想に支えられる。

一方のコンサバは、人間は不完全であり放っておけば悪いことをする人が多くなる。だから法や宗教、伝統的秩序での束縛が必要だ、変化は進歩ではなく退廃や混乱、不安定を招くことが多々ある、という思想に支えられる。

17世紀までは世界的にコンサバが主流だったが、産業革命や科学革命、進化論などの影響もあってリベラルの台頭がある。中国では孟子の性善説よりも荀子の性悪説、韓非子などの法家思想が主流となった。一方の日本では性善説が日本流に加工され、庶民に浸透し、社会信頼につながった。根本的に日本社会の底流には「善きものをどんどん受容して変化に対応していく」というリベラリズムがある。細かな法律を必要としない社会が19世紀まではあった。

本居宣長はこう述べている。

道あるが故に道てふ言(こと)なく、道てふことなけれど、道ありしなりけり

私の意訳になるが、社会に「道」(世の善き秩序・規範・道理)があれば、わざわざ「道」を言葉として書いて広めることもなく、古来より日本には、なんの「道」も無いように思えたが、実は、全国民、庶民の空気・風土によって造られた「道」があったのだ、ということだと思う。

 

最後に、本テーマからは少し外れるけれども、山口さんの上記同書から、どういう日本の「強み」がハーバードで喝采されたのかについて、要点を簡略的に引用する。

〇 二極対立に陥っている限り、対立する両者は永遠に平行線のままだ。だからこそ、今アメリカをはじめとする世界はさらなる次元への進化を欲している。そして、そのヒントは日本の文化の中にあったというのが私の主張である。(p163)

(中絶問題に関して、アメリカの国論は悪と正に二分されているというテーマで)
〇 中絶という選択を100%悲しいというのも、100%満足しているというのも、嘘くさい。人間の複雑な両面性が見えて、私たち日本人は初めて中絶した女性の感情をリアルに感じる。ところが、二極対立構造では、この人間の複雑さを捉える術はない。どちらのウェブサイトの体験談も女性たちが嘘を語ったとは思えない。(中略)中絶を経験した女性たちの心の機微は捨象され、二極フレームに合うシンプルなストーリーに当てはめられていったのではないかと思うのだ。(p175-176)

〇 私たちの文化は白黒つけずに『グレー』をそのまま受け入れます。(p183)

〇 個人の権利を重視するアメリカに対して、日本は社会のなかの連帯と調和を重視します。家族の一員として個人がいて、家族は地域を構成し、その地域の広がりが社会を形づくっていく。家族、地域、社会と連続してより大きなものへとつながっていく。この周囲との関わりのなかに個人がいるという発想は、今でも日本に残っています。(p185)

〇 そう、アメリカの「二極対立」文化とは真逆の、「曖昧調和」文化とでもいうべき風土を日本は持っている。そしてそれは、アメリカの限界を超えうる、大きな可能性を秘めたものだった。(p186)

〇 曖昧さのなかで調和を重んじる。個人が家族を構成し、家族が地域のなかに溶け込み、そしてその地域の延長線上に社会がある。こういう発想のもと、日本社会には、対立軸を明確にするよりも、対立が表面化しないように、違いを曖昧なまま呑み込む風土があった。異なる文化を取り込みながら、固有の文化のなかに溶け込ませてきた国の知恵である。

家族や地域コミュニティという、集団のなかで生活する日本においては、他者への配慮が必要不可欠だ。相手はどういう背景を持って、どういう思考体系を持ち、表情の裏で実際には何を考えているかを想像する。他者に配慮し、同化する風土が日本にはあった。

その吸収して、同化する力を、私はハーバードで評価されたのだろう。(p206-207)

 

日本の「強み」は二つあって、白か黒かでの二極分断を避ける知恵としての、複雑な曖昧さを受け容れ育てる『グレー』の文化が一つ。(アメリカはパッチワーク、日本は中で溶け合うごちゃまぜのスープという表現を使っている)

もう一つは、妥協したくなる自分と戦って、勤勉に努力し、技を極めようとする日本の職人文化からくる気風だと述べている。(※関連コラム:日本人の己の心にかんする純粋性への追求。 『「日本」という個性(7)』 の特に後半部分。)

本書を読む限りにおいて、彼女個人にはリベラリストの傾向を感じるけれども、日本を愛し、伝統的なよき文化を見直し生かしていこうとするコンサバの心が根っこにあることがよくわかります。最後のほうに次の一文がある。

私たちは極端な自己否定に走ることも、過ぎた自己肯定をすることもなく、等身大の日本を、そのまま誇りに思うべきではないか。(p220)

 

次の記事では、本記事の中盤で少し扱ったリベラリズムの欺瞞と矛盾に対する批判を含め、リベラルの吟味をしてみたい。

次の記事では個人主義について考えます。

 

 

リベラリズム考(3)―寛容


前の記事では啓蒙思想を扱った。

[仏] Lumières [独] Aufklärung [英] Enlightenment を日本語に翻訳した「啓蒙」の二文字には、ヨーロッパの各時代の歴史、そこに生きた知識人たちの葛藤と格闘による膨大な叡智が凝縮されていることを学んだ。こんにち、単に「リベラル」という語を軽く扱う現代の知識人、特にマスメディアや政治家、評論家は、啓蒙の叡知とそこに至るまでの血の流れた争いを心底理解しているのだろうか。私には、「リベラル」という人類叡知の言葉の重みを熟知し、使用表現している人がとても少ないように思えてならない。

今回の記事では「寛容」について調べ、それがどのように現代的価値におけるリベラリズムの一側面へと発展してきたのか、道筋を明らかにしていきたい。

 

■ 寛容

[ギ] epiekikeia, eleutheria [英] tolerance

寛容の理念は、宗教的信仰や政治的権威に対し自由な理性と良心を掲げたギリシア哲学に発し、アリストテレスにおける寛大さ generositas の徳は、人々の共同体的で和合的な倫理として、ルネサンス思想や近代哲学に継承された。

またストア派におけるコスモポリタン的な自然法論やエピクロス派における精神の静寂は、古代ローマの個人主義的寛容や帝国の寛容政策を育んだ。(中略)

十字軍、宗教内乱、異端審問など甚大な血の犠牲が払われた後、宗教改革による教会の多元化と管轄制がアウグスブルクの宗教和議によって認められ、寛容は宗教的自由を意味する美徳へと転化した。(中略)

宗教的寛容を主張した自由思想としては、エラスムス、モンテーニュ、ベールのように理性と信仰を峻別する懐疑主義的ヒューマニズム(※1)、宗派より平和と公的秩序を優先させたボダンらフランスのポリティーク(※2)、宗教と教会に対する政治と国家の第一義性を主張したホッブスなどのエラストゥス主義(※3)、思想と言論の自由そのものを主張したミルトンやスピノザなどの系譜がある。

その集大成は、政教分離と真の道徳・宗教をみいだすための寛容、および自然権・市民権としての良心の自由を主張したロックにみられ、理性の、信仰に対する優位を説いたボルテール、ディドロ、レッシング、カントなどの啓蒙思想の寛容論に大きな影響を与えた。

ロックにおいても政治的に危険な勢力(カトリックと無神論)に寛容が認められなかったように「寛容は不寛容の反対ではなくその偽装である」側面をもっていたため、19世紀以降は、政治的党派の活動や少数意見の自由と共存を保証する政治的寛容や、アンチ・セミティズム(※4)の勃興にともなう人種的寛容が、民主主義の問題の焦点になった。(中略)

概して近代自由主義的思考のなかで培われてきた寛容の理念は、普遍的絶対的な真理や価値に理性によって到達するための手段なのか、あるいは根源的な多元主義・相対主義の当然の帰結なのかという、根本的なアポリア(※5)を含意し続けてきた。

エスニシティ(※6)・ジェンダー・慣習・法・教育など日常生活全般にわたって文化的多元主義が問題となった現代では、国家のみならず地域・学校・家庭等々における社会的寛容が問い直され、近代自由主義のアポリアをのり越える寛容概念の再構築が求められている。

(岩波書店版 『岩波哲学思想事典』)

※1 懐疑主義的ヒューマニズム・・・人間の理性を疑い信仰主義を提唱しつつ、人間そのものへの関心をもって本性や尊厳を考察する立場。
※2 ポリティーク・・・宗教よりも国家を優先させる、政教分離の土台となった考え方。
※3 エラストゥス主義・・・(主にキリスト教)教会は国家に帰属するという立場。
※4 アンチ・セミティズム・・・一般的に反ユダヤ主義
※5 アポリア・・・哲学的難問。および難問がひきおこす困惑。
※6 エスニシティ・・・人種、民族とならぶ人間の帰属意識の一つ。主観的には文化や言語や信仰などの属性によって分類された人びとの共属感覚であり、客観的にはある集団の一員であることを示す基準でもある。(『岩波哲学思想事典』)

 

啓蒙思想と同じく、西洋が寛容へ向かったのは宗教的ドグマに対する抵抗が主要因だった。私たち日本人にはちょっと想像できないレベルの、西洋における強い宗教支配があったのだと思う。

「和合的な倫理」という文言を読んで、わが日本古典の「和を以って貴しと為す」の精神を思い浮かべた人もいるだろう。多民族が入り混じり、一神教に偏重し、自我と自己主張が強い西洋人の「和合」は、多神教の日本とは比較にならないけれど。

すでに古代ギリシア時代に「個人主義」の端緒があった。日本人がイメージする個人主義とは利己主義だとか孤立主義、個人優先主義のようなものではないだろうか。ヨーロッパの個人主義には二千年を超える歴史と多様な側面があって一概に言い切ることはできない。個人主義はリベラリズムの一側面でもあるので、別の記事で学んでいきたい。

 

懐疑主義は人間の理性を信用しないがゆえ保守主義であり、神への信仰が必要だとする。しかし人間は神の下僕や奴隷ではなく、ひとりびとりが価値あるもので尊重されなくてはならないという人文主義のヒューマニズムが盛んに言われた時代があった。

寛容は、思想と言論の自由をここに生みだした。

宗教と政治を分けた政教分離も寛容から出たものだった。

そうして宗教信仰よりも理性を優先する気運が、啓蒙思想と寛容を結び付けた。啓蒙主義の理性偏重では自分勝手な正義へ暴走する可能性がある。啓蒙の暴走を抑制する役目を寛容が担った。

 

しかし、寛容はそのままでは不寛容な思想や態度を内包できない。なぜならば不寛容が自分勝手に振舞い、(現在の北朝鮮やISのように、或いはかつてのオウム真理教のように)放置すればやったもの勝ちになって寛容な社会が破壊されてしまう。ゆえに、寛容は不寛容に対して不寛容にならざるをえない。寛容のパラドックスである。アメリカの民主党はリベラルであるが、オバマがアフガニスタンやイラクに対し戦争行為で制圧しようとしたり、リビアの独裁を許さずに攻撃したりしたことは、アメリカリベラル的な寛容が不寛容を許さないことの証左である。

寛容のパラドックスの克服については、このシリーズの最終章で述べる。

 

寛容のアポリアは現代の人類が直面している、最も大きな現実的課題だろう。

文化多元主義は、ダイバーシティ(多様性を認める社会)という語で近年は語られるが、思想史的には、マルチ・カルチュラリズム(多文化主義 multiculturalism )が先行しており、そこからポリティカル・コレクトネス運動が派生している。

マルチ・カルチュラリズム・・・一つの国家ないし社会の内部に、複数の異なる文化が共存できるよう集団間の政治的・経済的・社会的な不平等を是正しようとする運動および主張。一つの文化(言語や宗教など)のもとに国民国家を統合しようとしてきた「同化政策」に対立する。各文化に固有な価値を尊重しようとする点では「文化相対主義」に通じるものがあるが、たんに異文化の内在的理解を説くだけでなく、同一社会のなかの複数の文化を等しく尊重しようとする強い実践的志向を有する。(上記同書)

 

啓蒙と寛容の歴史を少し辿っただけで、リベラリズムが単なる自由主義ではなく、人類の流血と革命、先人たちの理性と知恵が染み込んだ叡智であることを、我々はもっと重く受け止め心に刻まなくてはならない。安易に「リベラル」とは口に出せなくなるはずだ。

 

次の記事では、日本語の自由、英語のリバティ、フリーダムの違いを考察することによって、リベラルの進歩的意義について学んでみたい。

 

 

リベラリズム考(2)―啓蒙


リベラリズムの思想的淵源は「啓蒙」と「寛容」にあるというのが学者の共通了解ということであった。まずは啓蒙思想について調べ、そのアウトラインをリベラリズムの「イメージ」として映し出していこう。

 

■ 啓蒙思想

[仏] Lumières [独] Aufklärung [英] Enlightenment

いっさいを理性の光に照らして見ることで、旧弊を打破し、公正な社会を作ろうとした、主として18世紀に展開した知的運動。主な舞台はイギリス(スコットランド)、フランス、ドイツであるが、歴史的条件や随伴する政治的事件が相違するため、その相貌は著しく異なる面がある。

 

1.フランス啓蒙思想

啓蒙というと、誰しも、モンステスキュー、ルソー、『百科全書』などの作品が相次いで刊行され、「精神の普遍的沸騰」を迎えていた18世紀中頃のフランスの思想を思い浮かべるだろう。(中略)

フランスの啓蒙思想は多彩な展開を見せるが、その共通の特質は理性を中心とする人間の能力に信頼をおく人間主義である。

「人間の知性の光」によって人間を支配してきた迷信と偏見の闇を打ち破ることができるし、打ち破らねばならないというのが彼らの共通の主張であった。彼らが特に関心を寄せたのは宗教的不寛容と恣意的な政治の理性による改革である。(中略)

啓蒙の知識人は人間学に深い関心を寄せたが、その探究にあたって彼らがとった方法は事実の観察と分析である。(中略)

他方で、人間理性への信頼から進歩の思想が出て来る。ルソーのように学問・芸術の進歩を否定的にとらえる思想家もいたが、多くの知識人は歴史の進歩を肯定した。(中略)

啓蒙の知識人たちは革命を望んだわけではなく、彼らの革命の予言はレトリックであった。しかし彼らは旧体制批判の武器を整えるとともに、政治によって人間と社会を合理的な存在に変えることができるという政治と国家に関する新しい表象を作り上げた。この表象こそフランス革命の革命家が共有したものである。

 

2.ドイツ啓蒙思想

(前略) ドイツ啓蒙の基本的特徴としては、宗教的・政治的権威に代表されるあらゆる先入観や独断、因習や伝統から解放されて、真偽・善悪の判断基準を普遍的人間理性に置くことがあげられる。(中略)

カントの啓蒙の定義はもっとも明確かつ総括的である。すなわち、啓蒙とは 「自己自身に責めのある未成年状態から脱却すること」、「常に自ら思考するという原則」、「先入観からの解放」、「迷信からの解放」 である。

これらの定義は先入観や迷信に代わって、自由と理性を思考や判断の準拠点とする点において、ドイツ啓蒙思想の一般的傾向を集約している。(中略)

ただしカントは、理性批判を経ることにより、理性の限界を確定しており、当時の啓蒙思想推進者とはちがって、理性を単に謳歌してはいない。そのため、彼はドイツ啓蒙思想の克服者でもある。

 

3.スコットランド啓蒙

イギリスの啓蒙思想は、広い意味ではベーコンからベンサムにいたるまでの反封建的思想を総称する。ロックは、生得観念を否定することによって理神論の哲学的基礎を提供するとともに、社会契約の考え方にもとづく市民社会論を展開して啓蒙思想に確固たる基礎を与えた。

スコットランド啓蒙思想は、イギリス啓蒙思想の主要な流れの一つを示すもので、18世紀初頭からほぼ一世紀にわたってエディンバラ、グラスゴーとその周辺の知識人たちによって展開された思想活動のことで、スコットランドだけでなくイギリスの産業と文化の振興に寄与した。(中略)

ハチスンは、シャフツベリから継承した道徳感覚説(モラル・センス)を理論的に精密化して道徳哲学(モラル・フィロソフィ)を体系的に展開し「富と徳性」の問題を解決しようとした。

ヒュームは、人間本性の諸原理を究明するとともに奢侈(※しゃし・・度を過ぎてぜいたくなこと、身分不相応に金を費やすこと)と農工商の分化をとおして展開される近代的生産力を分析し、新しい市民社会の倫理と論理を解明しようとした。

スミスは、利己心と共感の原理の関係を明らかにし、各人の利己心にもとづく自由な経済活動が社会全体の富裕を実現する過程を解明して、「富と徳性」の問題を解決しようとした。

(岩波書店版 『岩波哲学思想事典』)

 

ひとつ注意しておきたいことは、「啓蒙」の日本語的意味は、「知」を教え広めるという表層的意味に使われることが多い。西洋思想での啓蒙思想とは、根本原理を考察する哲学が基底にある。基本的語義が異なっていることは見てのとおりだ。また、「理性」や「自由」という言葉も和製漢語であるので、「漢字的意味」はできるだけ除外し西洋で使われた語義を想像しつつ、文脈のなかでこうした語を解釈していくことが求められる。

特に「理性 [独] Vernunft」は重要キーワードであり、上記同事典でも詳細な思想的解説がある。

 

リベラリズムの淵源として第一に挙げられる啓蒙思想には、「自由」のエッセンスが濃厚に詰まっている。西洋近代が、キリスト教のドグマ(教条主義)から解放されようともがいた様子がうかがえる。

リベラリズムは理想を追い求めているように思われることがあるけれど間違いで、徹底した実存主義、事実の観察と分析のリアリズム(現実主義)を根本とする。

先入観からの解放、神の教説やあらゆる宗教の教説および国の教育を鵜呑みにせず自力で思考すること、人間の理性の「可能性」を信じ切ること、ひいては個人が自分の可能性を信じ切ること、生得性の否定とは人間ひとりびとりが生まれた瞬間には平等であるということ。

現代的価値の多くが「啓蒙思想」にある。

すなわち啓蒙思想は、それ以前の世界観から大きくドラスティックに、そしてまさにリベラル的なダイナミズムによって、世界の価値観や文化、産業、政治を変貌させる原動力となった。

現代でも未だ解決できていない「富と徳性」の問題についての哲学的考察(理性による解決)を、西洋は18世紀から始めていた。その頃の日本は江戸時代中期。

 

次の記事では「寛容」を取り上げる。

 

 

リベラリズム考(1)―多義性


昨今、政治におけるリベラルとは何か、保守とは何かの定義がぐらついており、日本の政治家の自称リベラル派とマスメディアによる、リベラルという語の語義、語感についての誤った表現には看過できないところが大いにある。この機会にあらためてリベラリズムを掘り下げてみようと思う。

 

リベラリズムとは何か。

直訳すれば自由主義であるが非常に多義的である。リバティとフリーダムの違い、保守と対比されるリベラル、個人主義的リベラリズムと社会主義的リベラリズムの違い、資本主義における経済と労働のリベラリズム、政治的リベラリズム、宗教と思想におけるリベラリズム、法の正義とリベラリズム、個人の内的エリアにおける価値観を塗り替え変更してゆくリベラリズム、啓蒙主義、個人主義、改革主義、寛容主義、ダイバーシティ(多様性)、寛容と不寛容、多様なイデオロギーや価値観とリベラリズムとの関係、リベラリズムの陥穽、かかるテーマは広範囲に及ぶ。

自由主義と訳されるが、リベラリズムは社会主義や全体主義、ひいては独裁主義にも関係してくる。意外に思われるかもしれないが、独裁者はリベラリストでもあると考えることができる。

本来であれば、例えばインターネット上の掲示板等で議論できる環境があれば良いのだけれど、そういう場はもはや無くなってしまった。ロジカルな長文自体が歓迎されない。また、アカデミカルな職にあれば議論する相手に困らないのかもしれないが、私の周囲にはじっくり腰を据えて議論を続けてゆけるリアルフレンドもいない。

独りの議論になるけれど、スタートしよう。

 

■ 定説におけるリベラリズム

まず『岩波哲学思想事典』からリベラリズムについて書かれた始めのほうの一部を引用する。(相当な分量になるのでとても全文は引用できない)

【自由主義 [英] liberalism [独] Liberalismus [仏] libéralisme】

 (多義性) 語史的には、19世紀初頭の英国政界において、トーリー党員がホイッグ党員を侮蔑的意味合いを込めた “liberales” というスペイン語の名称で呼んだのが起源とされる。選挙法改正や穀物法廃止を経てホイッグが他の改革勢力を吸収し、19世紀中頃、自由党 (the Liberal party) として再編されると、この党派の改革主義的立場を範型にして liberalism の政治的意味が確立されるに至った。

しかし、その思想的・哲学的意味は多義的であり、それに応じて遡られる思想史的起源も、ソフィストやソクラテスなどの古代啓蒙から、ストア派のコスモポリタニズム、エピクロスの個人主義、マグナ・カルタやモナルコマキ(暴君放伐論者)などに見られる中世・近世の制限権力論・抵抗思想、宗教改革、啓蒙主義、近代自然権論・抵抗思想、進化論、ロマン主義等に至るまで、実に多様である。

「自由主義」という我が国で流通している定訳は、「自由(liberty)」を根本理念とする思想という一般理解を表現しているが、この理解はリベラリズムの複雑性を的確にとらえていない。第一に、自由そのものが多義的であり、しかも自由のどの定義にもリベラリズムを還元することはできない。

 

リベラリズムの定説を研究し理解するためには、遠くギリシャ時代まで遡らなくてはならない。私を含め一般人はそこまでの時間的余裕と労力的余裕はないだろうから、概略を理解するにとどめたい。

次に、自由主義を議論するためには、「自由」の多義性についてひとつひとつの語義を丹念に拾い出すべきなのだが、今回は自由主義を議論するなかで、自由について言及する場面があればそうしたい。

『岩波思想哲学事典』は800名以上の執筆者と41名の編集協力者、8名の編集委員によって著されているが、上記の自由主義を執筆担当したのは法哲学者の井上達夫氏である。

氏は、著書『リベラルのことは嫌いでもリベラリズムは嫌いにならないでください』において次のように述べている。

項目名は定訳にするという編集部の方針に従いました。しかし、自分としてはリベラリズムを「自由主義」とするのは誤訳だと思っているから、音読みのカタカナのまま使っています。(p10)

リベラリズムとは何か。リベラリズムには二つの歴史的起源があります。「啓蒙」と「寛容」です。

啓蒙主義というのは、理性の重視ですね。理性によって蒙(もう)を啓(ひら)く。因習や迷信を理性によって打破し、その抑圧から人間を解放する思想運動です。十八世紀にフランスを中心にヨーロッパに広がり、フランス革命の推進力になったとされる。

寛容というのも、西欧の歴史の文脈から出てくる。宗教改革のあと、ヨーロッパは宗教戦争の時代を迎えました。大陸のほうでは三十年戦争、イギリスではピューリタン革命前後の宗教的内乱。血で血を洗うすさまじい戦争でした。

それがウエストファリア条約でいちおう落ち着いた、というか棲み分けができた。その経験から出てきたのが寛容の伝統です。宗教が違い、価値観が違っても、共存しましょう、という。

この「啓蒙」の伝統と「寛容」の伝統が、リベラリズムの歴史的淵源だということは、ほぼすべての研究者の共通了解です。(p11-12)

 

井上氏は、リベラリズムは「正義主義」だと言う。「正義主義」については彼の持論である「正義の概念」への派生が長大になるので(同氏著『世界正義論』に詳しいが難解)、正義の概念については別の議論をもってあたりたい。

リベラリズムの思想的淵源は「啓蒙」と「寛容」にあるというのが学者の共通了解であると言う。

であれば、「啓蒙」と「寛容」について、おさらいをしておく必要がある。

 

 

漫画からの現代価値観への問題提起


今日は軽い話題から。

週刊少年ジャンプに今年から連載されている、『ぼくたちは勉強ができない』という漫画について、おもしろいので書きます。

唯我成幸を主人公に、緒方理珠、古橋文乃、武元うるかの3人がヒロイン。

全員が同じ高校の3年生で大学受験を控えている。理珠は理系の天才で理系科目は常に100点満点。ところが国語がめっぽう出来なくて0点に近い。文乃は理珠とは逆で文系の天才、しかし数学にめっぽう弱く0点に近い。秀才の成幸は理系文系両方の科目でこの二人の壁に阻まれ一番にはなれない。

こうした状況で、理珠は文系の大学学部を希望する。心理学に興味があるようだ。文乃は理系の大学学部を希望する。天文学に興味があるようだ。つまりこの二人は、現状で合格する見込みがゼロに近い。

家が貧乏で特待生を希望する成幸は、校長から、この二人のアドバイザー役を頼まれる。高校としては有名な大学へ入学できた秀才を育てたという実績が欲しいからだ。理珠には文系を断念することを、文乃には理系を断念することを、学校側としては画策しているという裏の事情がある。

既に、何人かがこの提案を受けて、理珠と文乃の指導に当たったが、苦手分野の克服はもちろんできず、得意分野の学部を受験する方向へ彼女たちの意志を向かわせることにも失敗している。

武元うるかは成幸の幼馴染で体育系が抜群の水泳部所属。ただし理系も文系もほとんどだめ。しかし校長は、成幸にうるかの教育係をまたもや命じるのだった。

成幸は理珠と文乃、うるかの希望を叶える方向で、勉強のサポートをしていく。

そうしているうちに、3人の女子が成幸の誠実性を核とした人柄に好意をもっていくという筋書き。近作ではベタなラブコメもようが中心となってゆく感じで、ちょっと惜しい。同様の、一人の男性を複数の女性が好きになる展開は、『ゆらぎ荘の幽奈さん』や新連載の『腹ペコのマリー』にも見られるし、長期連載終了した『ニセコイ』もそうだった。ありきたりの展開になれば連載終了は早いかもしれない。

 

さて、長々とあらすじを説明して、もう私自身おなかいっぱい状態なのですが、この漫画は現代価値に対する問題提起として好例になるのではないかと思っています。

一般的に、両親や担任教師は、その子どもの得意とする分野、才能を感じる分野、他者から高い評価を受けている分野に進ませようとしますよね?

「あなたはこの長所を生かす道に進んだ方がいいね」だとか、この才能が伸びればノーベル賞も夢じゃない、大リーグも夢じゃないだとか、有名大学に入学し、いろんな人から子どもが褒められれば(内心で「私が育てたからよ」)的に、親が嬉しいということもあるわけです。

高い評価を受ける能力を生かせれば、その子が社会人として食っていくのも楽だろうという親心もありそうです。

 

しかし、当の子どもたちは、大人のそうした「功利主義」「損得勘定」「打算」に染まらずに(高校生ともなれば大人の価値観に染まってしまう子どもも多いですが)、自分の興味、好奇心がわく分野、不得意でも好きな分野に向かいたいという子も少なからずいると思います。

翻って、私たちはどうでしょうか?

あなたはどうですか?

自分の長所を生かしたい、得意な道へ進みたい、お金になる道へ進みたい、他者から高い評価を受けている分野で活躍したい、という意識を優先している人がほとんどではないでしょうか?

よく考えてみればわかるのですが、これらはすべて、他者(自分の外部)が軸になっています。

自分自身が軸になっていない。

 

例えば、芸術の道へ進みたい、デザインの道へ進みたいと言っても、その道のみでは90%以上の人が食べていけないのですが、貧しい家庭で育った子どもがその道を希望するとき、さて、もしあなたがサポーター役だったらどうしますか?

とても難しい問題ではあります。

どの価値観を優先すべきか。

単純に、自分軸が他人軸よりも良いと断定はできない。

ありきたりの言いかたで言えば、本人たちが幸せになる道ならばそれが一番と。

では、そう答えた後に、本人の幸せってなんですか? と問われたらどう答えましょうか?

 

少なくとも、ある程度の人生経験を積んだ大人ならば、5年10年のまわり道となったとしても、まわり道を経験した方がその子の人生全体にとっては良いのではないかと考えると思います。まあ、私なんかは人生全部がまわり道で、直截に目的に向かえる道を死ぬまで知らずに人生を終えそうですが(苦笑)

好きな道を進む自由には、険しい断崖や厳しい寒さ、恐ろしい外敵が立ちはだかります。

我が子が断崖から落ちて死んでも後悔せず、かえってその子を誇りに思える親でいられるかどうか。どうでしょう?

自分が自由に生きて勝手に死んで、もし家族がいて、残された家族の気持ちは関係ないと言えてしまえるのかどうか?

 

たかが漫画かもしれませんし、漫画であるからああいう設定が可能だとも言えます。けれど、視点をいろいろ変えてみたり価値観をさぐっていくと、現実へ連想がおよぶ哲学になるケースもけっこうあるのです。

過去のジャンプで言えば『暗殺教室』や『トリコ』には(他にもあります)、現代価値に対する問題提起や哲学が垣間見えました。

『ぼくたちは勉強ができない』も、現代価値に対する問題提起的な作品に成長させることが出来るかどうか、作者の力量に期待したいところです。

 

 

私は生きる。どのように?


人生の目的とは何かについて少し考えました。

「人間にとって」ではなく、「私にとって」です。

しかも今の私にとってであって、過去の私にとってとは違いますし(価値観の変遷があります)、また未来においてこれがどう変わっているのかは、まったくイメージできません。

 

人生の目的とは、人生そのものである。

何かに成りたいだとか、何らかの明確な目標をもって結果を求めるだとか、そうしたものではなく、いや、かつては私もそうしたものを人生の目的に見出していたのですが、今は、人生全体が目的であるように思っています。「過程」に近いかもしれない。

生きることは生物にとって宿命です。人間にとっても。

そこに何らかの意味を見い出しても、結果的には、目標が達成されようともされなくても死んでしまうのです。死んだ後に他人さまが私の人生に価値を付けてくれたとしても、所詮、人類自体が消滅してしまう日が来ます。太陽に寿命がある限り。

人生における「何か」を目的とするのではなく、「どのように」が目的となりました。

 

私は生きる。どのように? です。

どのように? が、生きる意義であり、動機であり、同時に目的でもある。

 


 

例えば仕事においても、収入を得るために労働する。その労働の内容においては、嫌なことでも辛抱しながら忍耐強く続けることに、今までの社会は「美徳」という価値を与えてきました。会社から定められた、月の日数、時刻から時刻への時間、労働した時間が労働者にとって、自分の自由と引き換えに得られる対価です。

或いは、個人の業務受託や会社経営をしている人にとっては、時間の代わりが成果になるのですが、ここでも、苦悩しながら精神と肉体をすり減らして、収入のために仕事をしている人が大多数のように思います。

 

しかし、一方で、収入の得やすい自分の得意とする分野や評価される分野の仕事には目もくれずに、自分の好きなことを楽しみながら仕事にしている人が少ないながらも存在します。

ここでの「楽しさ」とは何か。

嫌なことでも辛抱しながら収入のために働く人と、楽しく仕事をする人と何が違うのか。

心理学者チクセントミハイが、著書『クリエイティヴィティ』において、創造する人の「楽しさ」について9つの項目を挙げておりますので引用します。

1.過程のすべての段階に明確な目標がある

2.行動に対する即座のフィードバックがある

3.挑戦と能力が釣り合っている

4.行為と意識が融合する

5.気を散らすものが意識から締め出される

6.失敗の不安がない

7.自意識が消失する

8.時間間隔が歪む

9.活動が自己目的的になる

(世界思想社版 チクセントミハイ著『クリエイティヴィティ』)

 

それぞれの項目について詳細に述べていますが、引用し自分の意見を書くにはボリュームが大きすぎますので(それぞれの項目ひとつにつき3日分くらいのブログ量になりそうなので)やめておきます。

西洋人らしい考えかたで、反論異論と付け加えたい事項も4つか5つあるのですが、そこには立ち入らないことにします。

著名な心理学者だけあって、相当に研究されている専門家としての上記の著述は、私にとって、非常に参考になりました。

チクセントミハイは、我を忘れるほど、時間の経過を忘れるほど、その活動に没頭してしまうことを「フロー」と呼んでいます。

フロー状態には、その個人に秘められた「楽しさ」が必ずあることを、彼は、例を交えながら論証していきます。説得力のある分厚い仮説です。

 

我を忘れるほどの楽しさは、動機であると同時に、目的でもあると思います。

一度味をしめた、「あの没頭する楽しさ(の過程)」を目的として活動する。

そこには明らかに、「欲求」があります。

 

消費者としてではなく、創造者として、フロー状態に喜びながら仕事をしたとすればどういうことが言えるのか。

 

生きる。どのようにして? の、「どのように?」が、フロー状態への欲求がおのずから生まれるように、自然にその欲求に「成っていく」のであれば素晴らしいと思うのです。

意識的に、その欲求を「みずからが造る」のではなく、無意識的に、「そう成ってしまった」ができるレベルが最高だと思うのですが、それはたぶん、成り行きに任せるほかはない。自分自身を信頼して、「私は生きる。どのように?」をテーマとして持ち続けることではないか。

 

倫理学者の竹内整一は、「みずから」と「おのずから」の「あわい」にこそ価値があると述べています。

私にはまだ、「あわい」が実感となって立ち現れてこないので、「おのずから」のほうを優先価値にしているのですが(昔は完全に「みずから派」でした)、竹内さんが力説する「あわい」を感じられるようになれば、また、人生観が変わるのかなと自分に期待を寄せております。

言葉を頭で理解しても、それが実感となって感性的に立ち現れてこなければ納得できないのです。それでも、頭で理解することはヒントになると思っているので書物を読むわけですけれども。

 

水のように、融通無碍に、創造的にどんどん変わってゆきたい。

 

 

 

 

TOP
Copyright © 2017-2025 永遠の未完成を奏でる 天籟の風 All Rights Reserved.