西洋流と日本流の無意識への道


イギリスのタイムズ・ハイアー・エデュケーションが毎年発表している世界大学ランキング(2017-2018)によると、第1位はオックスフォード大学で日本トップの東京大学は第46位。その第14位に位置するコロンビア大学ビジネススクールで上級講師を務めるウィリアム・ダガン氏。彼は同スクールの大学院課程とエグゼグティブコース、その他世界中の企業を相手に、「第7感」についての講義を熱心に行っている。

彼の著書『The Seventh Sense』の邦訳版がダイヤモンド社から、『超、思考法/天才の閃きを科学的に起こす』として出版されている。(2017/11/15)

「第7感」とは何ぞや?

いわゆる直感的洞察の「第6感」の次のステージにある、天才的な突然の閃きに対する、著者の造語とのこと。映画で「シックスセンス」が使用済みだったことも有り得そうですが。面白そうじゃないかと思って読んでみることにしました。

『The Seventh Sense』の第一章の一部を引用する。

最新の脳科学のおかげで、この「突然のひらめき」についての解明が進み、人間の脳に秘められたこの神秘的なパワーをフルに活用できるようになったからだ。本書の目的は、読者であるあなたが、そんな脳のパワーを最大限に生かせるようになることだ。この本では、このパワーのことを「第7感」と呼ぶ。

(上記同書)

まずは批判からいこう。

彼は最初から大きく出た。まるで「突然のひらめき」が脳科学的に解明されたかのような論調であるが、同書の最後まで読んでも、脳のどの部位がどう反応して、脳に何が起こっているのかについては何も書かれていない。ゼロです。唖然とします。世界第14位のコロンビア大、大丈夫か? 要するにウィリアム・ダガン氏が「突然のひらめき」についての個人的な仮説を立て、講義をし、出版しているというだけだ。「科学的に」という言葉が随所に使われている(欧米では科学的論拠のない理論をオカルトとする傾向があるからだと思う)。ところがどこにも科学的エビデンスは見当たらない。この手の本は、仮説のストーリーに合う少ない事例をどこからか探してくる、または誰かに証言してもらうことで説得力を高める。かつてベストセラーとなったディール・カーネギー著『人を動かす』やナポレオン・ヒル著『成功哲学』などの系統と同じ手法です。スティーブン・コヴィーの『7つの習慣』は「心の知能指数・EQ」という概念をつくってだいぶマシに進化していましたが流れは同じ。

それでも、幾つかは参考になることが書かれています。

〇第7感の基本的なメカニズムは、「既存の要素を新しく組み合わせること」。

脳内でのマッチングのことですが、これは100年も前にユングが無意識論で論じていますし、最近の私も同様のことを書いていて何も目新しいことではない。ですが、確認にはなりました。

〇「頭がリラックスした状態のときに、既存要素の新しい組み合わせが生じた」

〇「目の前の状況についての既存の考えを、いったん頭からすべて忘れることのできる心の状態」=オープンマインドをつくる

この2点も同様に、無意識内に「問題となるテーマを寝かせ」て醸成するということを何度も書いてきた。確認にはなりました。

忘れるために、「脳のプラグをすべて抜く」といった文学的表現も登場するのですが。大脳生理学や自律神経、脳内ホルモン分泌などの脳科学的・医学的なエビデンスがあるのかなと思いきやまったくないので残念。今後に期待。

ただ、世界の大学や世界の大企業が、「クリエイティヴ」な思考のできる人材を物凄く欲していること、とっかかりでもわずかなヒントでも良いのでダガン氏のように示唆してくれる人を求めていること、そうした時代に入ったことはよく理解できました。

上記同書については批判が中心となってしまいましたが、こうして批判されても仕方のない内容だと思います。昨日までの論考を見てお解りかと思いますが、ここではユング理論を中心に、ダガン氏よりもハイレベルな分析と論理構成によって、新しい価値創造のための考察を行っていると断言できる。

 

さてここで、コロンビア大のずっと下のランクに位置する東京大学(笑)を卒業して、「第7感」のことなど全く研究していないと思われる思想家の内田樹氏が、大ヒントとなることを述べているので紹介したい。あまりに気づく点が多かったので、超長文をA4サイズ16枚にプリントアウトして何度も読み直しています。上記の本一冊よりもこちらの方がはるかに価値もレベルも高い。レトリックを含めた高い文章力も大違いです。ベタ褒めが過ぎるので(下記のひとりごと)落としておきます(苦笑)

(でも私は内田樹氏の政治にかんするご発言とその内容は、直截に酷い表現であえて言わせていただくが、チャラいと思っております。思想家は政治にかかわるとたいてい劣化していくんですよ。左派だからということでなく右派も。尊敬する西尾幹二さんも今世紀に入った頃からそうなってしまったと思う。思想家の才能がもったいない。余談で失礼。)

 

氏はフランスの哲学者レヴィナスを翻訳する仕事に取り組んだが、全く理解できずに断念した。そして数年後に、忘れた頃にもう一回引っ張り出して読んでみるとちょっと分かるようになっていた。

驚きました。別にその年月の間に僕の哲学史的知識が増えたわけではない。でも、少しばかり人生の辛酸を経験した。愛したり、愛されたり、憎んだり、憎まれたり、恨んだり、恨まれたり、裏切ったり、裏切られたり、ということを年数分だけ経験した。その分だけ大人になった。だから少しだけ分かる箇所が増えた。

この体験を更に抽象へと落とし込んで次のように述べる。

それは頭で理解しているわけじゃないんです。まず身体の中にしみ込んできて、その「体感」を言葉にする、そういうプロセスです。(略) 身体はもうかなりわかっているんだけれど、まだうまく言葉にならないでじたばたしている」。(略) まず「感じ」がある。未定型の、星雲のような、輪郭の曖昧な思念や感情の運動がある。それが実現されることを求めている。言葉として「受肉」されることを待望している。だから必死で言葉を探す。でも、簡単には見つからない。そういうものなんです。それが自然なんです。それでいいんです。そういうプロセスを繰り返し、深く、豊かに経験すること、それが大切なんです。(略)

自分が知っているものの中にはもう答えはないわけだから。知らないことの中から答えを探すしかない。(略)

そういう明けても暮れても「言葉を探す」という作業を10年20年とやってきた結果、「思いと言葉がうまくセットにならない状態」、アモルファスな「星雲状態」のものがなかなか記号として像を結ばないという状態が僕には不快ではなくなった。むしろそういう状態の方がデフォルトになった。

 

また、氏は合気道の道場を開き師範をされているのですが、その経験を踏まえて次のように述べる。

武道の修業には目に見える目標というものはないのです。100mをあと一秒速く走るとか、上腕二頭筋をあと1㎝太くするとか、数値的に計量化できる目標は武道には存在しません。今やっているこの稽古が何のためのものなのか、稽古している当人はよくわからない。わからないままにやっている。自分がしてきた稽古の意味は事後的にしかわからない。

 

どうですか。繋がったでしょう?

ウィリアム・ダガン氏は「第7感」の閃きを得ることを目標に、目的的に、仮説を論理化しようと企図し、今も熱心に研究を続けていることでしょう。きわめて西洋的です。

一方の内田樹氏は、レヴィナスの翻訳については一度放棄して忘れてしまった。でもおそらく無意識の中にはテーマとして残っていた。長い期間の経験を含めて、アモルファスな星雲状態に無意識があって、形とならずにじたばたしていた。武道の修業においては、無目的的に、今目の前の修業を一所懸命にやる。ただただやる。そうして、あるとき、はっと気づく。

私たちの一生のことについても西洋流と日本流では全く逆なんです。西洋流では自分が生きる意味とは何かと考え、目的的に目標を定めようとする。人生設計をし計画的に生きて行こうとする。明治維新以降、現代日本でも西洋流が大流行していますね。

一方、伝統的な日本流では自分が生きた意味は死ぬ頃にはわかるのかもしれないし、わからなくても良いと考える。未来の計画よりも、とにかく「今」を大切に生きようとする。それはけっして刹那主義でもニヒリズムでもなく、「今」を大切に生きれば大丈夫だ、お天道様はちゃんと見てくれている、今をしっかりと善く生きていればそのうち良いことがきっとあるさ、といった非合理的な強い信念がある。

西洋流を否定するわけでも日本流のみを肯定するわけでもありません。どちらかに是非や優劣があるということではなく、できれば両方の考えかたを自分のなかに混在できていると良いと思うのです。それこそアモルファスな星雲状態です。

 

無意識の活用を考えた場合も、西洋流と日本流(あえて東洋流とは言いません)を混在させることによって化学反応を起こせると直感しています。ウィリアム・ダガン氏と内田樹氏の、異なった方法論ではあるが同じ方向性をもつ二論が、わずかここ数日のあいだに私の目の前に飛び込んできたことに、なにか偶然ではない、運命の流れのようなものを感じます。但し、単に混在させるだけでは駄目で、何事も深く、豊かに、徹底して掘り下げてゆかねば無意識がじたばたできない。

ユング理論の「構え」について、オリジナル応用論の考察を更に深めたい。

他方、大西克禮の「美学」を中心に、日本文化を深く掘り下げたい。

 

 

無意識を活用した医療


古代の医療行為においては積極的に無意識が活用されていた。科学医療に慣れた現代人はこれをオカルトと呼び蔑視する傾向が顕著だけれども、そのオカルトが治療成果をあげてきたのも歴史的事実である。現代心理学ではプラシーボ効果と呼ばれることもある。

アンリ・エレンベルガー著『無意識の発見/力動精神医学発達史』では、古代の呪術によって医療行為が行われ、しかも呪術者自身も患者を欺いていることを知りながら、無意識を利用することによって治療の成果をあげていた歴史が記されている。

上・下巻合わせて千ページを超えるこの大著(しかも全頁二段組)の第一章、「力動精神療法の遠祖」は次の文章から始まる。

無意識心性と心的力動の体系的研究は無論かなり新しい事柄に属するが、力動精神療法の起源は、その祖先やそのまた祖先がつくる長い一本の線を辿って遠い過去まで遡ることができる。過去の医学、哲学の教説と旧式の治療法には、すでに一部、人間心性の世界における、普通ごく最近の発見と思われている事柄に、驚く程水準の高い洞察があった。

精神科医は長い間、未開民族の呪医やシャーマンの行う治療の報告にはほとんど目もくれていなかった。そういう報告は、いわば奇談のたぐいで歴史学や人類学者だけが興味をもつものとされていた。呪医とは、迷信の虜になっている無知蒙昧きわまる連中で、放置しても治癒すること受け合いの患者だけを治せる輩か、さもなくば同族人のお人好しにつけ込む詐欺漢とみられていた。

われわれが今日下す評価はこれと違って、もっと積極的な面を認めた評価である。近代精神療法の発展とともに、心理的治癒の機転の謎が注目を浴びるようになり、心理的治癒の具体的詳細は今日のわれわれにもまだ首をかしげるばかりのものが多いことが判ってきた。

(弘文堂版 アンリ・エレンベルガー著『無意識の発見/力動精神医学発達史・上巻』)

 

古代の人々にとって病気は不思議な出来事であり、因果関係には様々な想像がなされた。悪霊の侵入、霊魂の行方不明、タブーを破ったなどの理由がまことしやかに語られ、対処として儀式や告解が行われた。その理由の中で大きな位置を占めたのが「病気という物体が体に侵入した」というものだった。

患者を横にさせて長時間におよぶ儀式を行い、呪医やシャーマンは患者の体から病気を取り出すのである。それは虫であったりミミズであったりしたが、医療行為をする呪医の長があらかじめ仕込んであったものだ。

疾病物体の摘出は、呪医が一種のトリックを使ってみせかけるのは間違いなく、この種の治療の実際を目撃したヨーロッパ人の一部が、呪医とはインチキ医者、詐欺師だと公言していたのも成程と思う。しかし、この種の治療がしばしば成功するのも事実でまず疑えない。(同書)

 

現代でも未開民族のあいだではこうした医療行為が行われている。同書では、実際に先進国の科学者や精神医学者が興味を持ち、研究にあたったことが記されている。挙げられた多数の事例の中には日本の迷信とその対処法についても書かれている。動物憑依の「狐憑き」を日蓮宗の祈祷僧侶が女性に憑いた狐を追い払った件。現代であれば二重人格の精神分裂症と診断されるかもしれないが、僧侶の腹話術と喝によって完全に治癒してしまったこと。

ここでのテーマは、医療行為にあたる人や医療方法のうさんくささをどうこう言う話ではない。患者のなかで何が起こっているのか、これである。

「病気とは罪に対する罰である」との考えに基づき、自らの過ちや非を告白(告解)することで病気が治癒してゆく例も枚挙にいとまがないということだ。

科学医療に慣れた現代日本人にとっては、にわかに信じられないことばかりではあるけれど、子どもの頃に風邪をひいて町の医院へ行き、注射をうってもらい薬を処方されなぜかすぐに治ってしまったのはなぜだろう。昔の頓服薬を思い出すと紙に包装された中に入っていた粉のほとんどは片栗粉みたいなもので、苦みがあるため砂糖を混ぜて水で飲んだ。今思えば、もしかして砂糖のほうに効用があったのかもと考えてしまう。やはり、プラシーボ効果の力を認めざるを得ない。

同書では、こうした患者の無意識を活用した未開人の医療行為について、その特徴が並べられている。

(1)未開社会の治療者は属する地域社会で現代の医者よりも枢要な役割を果たしている。(略)

(2)疾患の猛威下にある時、特に重症や危険な病いの際には、患者は、薬など治療者の使う治療法よりも治療者“その人”に希望をつなぎ信頼を寄せる。どうやら治療者の人格が治療の主役らしい。(略)

(3)原始治療者はきわめて熟練した技量と高度の知識を持っており、(略)、”高度の学位を持つ人間”である。大抵の原始治療者はやはり原始治療者による訓練を受けて育成され、秘儀的な知識と伝統を継承してゆく集団の一員となる。(略)

(4)(略)、治療者の最重要な治療法は心理的性質のものである。(略)

(5)原始治療の実際は大体集団で行われるものである。普通、患者は自分ひとりでは治療に行かない。親戚縁者が連れて行き、その連中も治療に立ち会う。(略)

(同書)

 

患者は、治療者の人格を信頼し、安心を得る。
治療者の公けの権威を信用し、未来の希望に期待する。
儀式(セレモニー)が行われ、治療をポジティブに受ける心の構えが変わる。

人間の、「信じる力」はあきらかに身体にも精神にも作用する。
これを悪用して信者を悪意に洗脳したり、悪徳商法を行ったりする悪者が世にはびこっているのも事実。

しかし、善い方向へ暗示をかけ、結果として善い成果が生まれるのであれば、嘘つきだとか詐欺師だとか咎められるだろうか。
無意識の活用は、未開人で終わったのではなく、まさに今、始まったばかりだと私は考えています。

 

今日の記事の最後に。少し逸れるかもしれませんが。

その人が何も話さなくても、自分を見ていてくれなくても、ただ、存在しているだけで自分が安心できる、あるいは勇気を奮い立たせてくれる、そういう人物が世の中にはけっこういるのではなかろうか。もっと言えば、想像力をはたらかせて、既に世に無い人であっても、今の自分を見守ってくれている、励ましてくれている、そうした故人もいるのではなかろうか。更にもっと言えば、これは私の体験ですが、一緒に長年暮らし可愛がっていて死別した猫との対話では、心の痛みと懺悔とともに感謝の心が生まれ、慰撫の潤いを感じられるのです。それは、けっしてネガティブなことではなく、素晴らしい体験だと思うのです。

 

 

無意識を動かす、機会としてのセレモニー


内向と外向について考察してみようかと思った今回ですが、気づいたことがあるので先にこちらを。といっても例によって閃きの段階なのですが。

 

まずユングの分析心理学のロジックを方程式的にまとめる。

〇統合人格(パーソナリティ)=意識+無意識
〇人格の機能→心の構え=意識の構え+無意識の構え
※容量およびエネルギーのイメージ。私としては、意識1:無意識1000、をとりあえずイメージする。おそらくこれ以上に無意識は膨大だ。科学で解ること:科学で解らないことも同様だと思われる。

〇意識の構え→ペルソナ※内省的に自覚しようと思えば自覚できる
〇無意識の構え→アニマ(またはアニムス)※無自覚であり自覚できない

〇統合人格の構えーペルソナを生成する構え=アニマを生成する構え

〇ペルソナ変更→(影響)→アニマ変更→(影響)→統合人格変更
〇アニマ変更→(影響)→統合人格変更→(影響)→ペルソナ変更

〇統合人格の変更→機能の変更→意識の構えの変更→ペルソナの変更
〇統合人格の変更→機能の変更→無意識の構えの変更→アニマの変更

(※参考)最終的にユングはペルソナとアニマの統合を提唱する。しかし自分自身を実験台にしたがこれはうまくいかなかったようだ。成果について述べていない。私はユングのペルソナ+アニマの統合論を支持しない。

意識できるのはペルソナだけである。論理的には、優先機能の変更を行うことが可能であれば、構えを変更することでペルソナを変更できる。統合人格を変更できる。(前の記事)

 

さてここで、逆に、ペルソナを変更すれば意識の構えも無意識の構えも変更できることに気づく。しかしペルソナは構えの変更なしに変更できない。

西洋的手法であれば頭(理性)で考えて変更を試みるのだろう。例えば瞑想をする際に(アメリカではメディテーションが流行りらしい)「雑念を振り払おうとする」のであるが、これはできない。やはり西洋流では意識的に心の機能を変更するロジックでやるほかない。

ところが日本流であれば体の型を整えることで「雑念は勝手になくなる」となる。雑念がなくならないのは体の型が悪いとなって、禅寺の座禅では警策で打たれるのだ。

何を言いたいのかを直截にいえば、日本の礼儀作法はそれ自体に本質的意味はなく、礼儀作法の型に体を整えることを一種のセレモニー(機会的意義としての儀式)として無意識の構えを直接的に動かし、ごく自然に、無意識のほうを変更しているのではないかという推論的仮説である。

なにしろ無意識には世界創生からの歴史が遺伝に組み込まれており、この地に生を受けてから今までの情報と智恵と反応等が、頭脳と肉体に蓄積されているのだ。今この一瞬に二つのことさえ同時に頭に思い浮かべることのできない意識の小ささと比較すれば、無意識のほうが圧倒的に膨大な領域を占め、巨大なエネルギーを蓄えている。この重要性は現代ならば知性として理解できるが、古代日本人の知性では理解できず、非合理の直感として大切に扱ってきたのではないのだろうか。

 

例えば日の丸の国旗が掲揚されるのを見るとき、そこで愛国心(意識)へ振れるのではなく、機会として無意識の構えが発動されるほうの意義である。すると意識の構えも変わり聖たる厳粛な気持ちとなって(おそらく)自分の顔の表情も変わってくる。

スポーツで重要な試合のとき「集中!」はよく言われる。野球であればボールに集中する。これはけっして間違いではない。が、精神の集中を意識すればするほど体は固くなる。体をリラックスさせつつ精神を集中させることは意識的にできない。ゾーン状態に入るのは、集中とは真逆の意識の放散である。無意識にすべて任せる。左脳を遮断する。

イチロー選手が打席に入ると皆が知っての通り、ピッチャーが構えに入る前にルーティンのセレモニーを行う。それも一球一球必ずだ。彼は集中力を高めているのだろうか。そうではなく逆に放散し、体が覚えている反射・反応にすべてを委ねる無意識の構えを意図的に造りだしていると私は考えている。あのルーティンセレモニーを「機」として。

 

本記事に関連すると思われるプラシーボ効果という、社会心理学で確立された現象がある。あくまで「現象としてある」が定説になっているだけで、科学的に原理が解明されたわけではない。手がかりすらつかめていない。

次の記事ではアンリ・エレンベルガー著『無意識の発見』から、現代でプラシーボ効果と呼ばれている現象を、西暦以前から意図的に活用してきた歴史を少し振り返ってみたい。無意識の構えを「セレモニーによって造る」ヒントになるかもしれない。いずれにしてもセレモニーをルーティン化して無意識に染み込ませなければ、たった一回初めてのセレモニーでどうこうなるわけではないだろう。

セレモニーの、意味ではなく機会としての意義を見直してみる。

 

これは今後の大きなテーマですが、意識的な「自然体」をはるかに超えた、無意識的な「超自然体」へ近づくには、西洋の合理的論理的思考だけでは不可能だと思います。日本の非合理的直観の歴史に糸口を見いだせるような気がしてなりません。わくわくしてきます。

 

 

無意識の応用と実用化


私が無意識(深層心理学/分析心理学)を研究しているのは何かの目的があってのことではありません。好奇心だけかと言えばそういうわけでもない。動機としては、「何かがある、閃きに繋がるものがきっとある」や「自分の中にある何かの考えとマッチングして新しい何かを創造できそう」という直感的なものがある程度です。

しかし結果的に仕事の役に立っているのはほぼ間違いない。自分の外側に展開される世界、対人的鑑識眼であるとかビジネスモデルの構築であるとか。

本記事では「自分を変える」ことに役立つ無意識論の応用とその実用化について考察する。

 

ユングは「心の構え」が「ペルソナ」をつくり、その「ペルソナ」がまた、自分の人格へと影響を与え、人格を変えていくと述べている。では、その「心の構え」はどういうメカニズムで出来るかと言えば、個人固有の「心の機能」によるとした。

心の機能とは、思考・感情・感覚・直観の4タイプ。

これに内向性と外向性を組み合わせて8タイプの性格傾向について論じている。ここに合理性・硬直性と非合理性・柔軟性の2傾向を組み合わせた16タイプの性格自己診断がネットにごろごろ出回っている。

私を例にとろう。

ネット上にあるユング系の16タイプではどのテストをやってもENTP型になる。ネット上の手垢のついた解説よりも、『タイプ論』からユング自身の説明を引いてみよう。他にも私と同じ外向的直観型の人がいるかもしれない。(統計的にはENTP2~5%)

 

外向的直観型

直観型の人が向かうのは、皆に認められるような現実価値を見つけられる方角ではけっしてなく、つねに、可能性が存在する方角である。彼はこれから芽を出すものや将来の見込みのあるものに対して優れた嗅覚をもっている。彼は、昔から存在し基盤もしっかりしており皆に認められて安定しているが、しかし限られた価値しかもっていない事柄には目もくれない。彼はつねに新しい可能性を追い求めているため、安定した状況の中では息がつまりそうに思える。彼はたしかに新しい対象や方法を手に入れるときは懸命に、時には異常なほど熱狂するが、いったんその広がりが確定してもはやそれ以上の著しい発展が望まれないとなると、たちまち愛着をなくし、見たこともないようなそぶりで冷たく見捨ててしまう。

(中略)

直観型の人の道徳性は知的でもなく感情的でもない彼自身の道徳、すなわち自らの直覚を信頼しその力に進んで身を委ねることである。周りの幸福に気を配ることなどほとんどない。周囲の身体的幸福感など自分自身のものと同様に論ずるに値しない。同様に周囲の信念や生活習慣を顧みることもほとんどなく、そのためしばしば彼は非道徳で思いやりのない怖いもの知らずの人間とみなされる。

(中略)

しかし彼はどうしても新しい可能性を追うのに急なあまり、今植えたばかりの畑を見捨ててしまい、その収穫は他人の手に渡ってしまう。結局のところ彼の手元には何も残らないのである。

(みすず書房版 C.G.ユング著 『タイプ論』)

 

まだまだたっぷりの量の解説があるけれど、ほとんどと言ってよいほど的確に私の傾向を言いあてている。自分のことを酷い奴、愚かな奴だなあとも思う。また、自他の境界があまりにも明確になり過ぎているきらいがある。でもちゃんと周囲に「私は冷たい人間です」と告知義務を果たしている(苦笑) 情熱的で熱い男ではあるけれど冷たいんだよね。

こうして自分の特質や傾向を内省的に見つめ直し、社会的に、何が自分に向いているのか向いていないのかを客観的に知ることができる。

しかしこのままで終わってしまうと自分は何も変わらない。傾向がどんどんエスカレートしていくかもしれない。

 

要するに、「構え」なのである。

私の場合で言えばENTP型の構えが中心となって主たるペルソナが造られている。であれば、時と場合によって意図的に「構え」を変更し、ペルソナを変えてゆくことも可能ではないのか。新しいペルソナができることで、それが自分の人格に作用し、自分を変えてゆくことに繋がるのではないか。

ある場面では内向的思考型の構えをつくる。今こうして論考を書いている際には、いくぶん外向的思考型の構えが発揮されてペルソナが造られているのではないかと思うし、哲学書や倫理学の書を読んでいるときには本を鏡の役割として内向性の方にエネルギーが向けられているのだとも思う。

対人関係で実験として、普段の外向性を封印し内向性の構えをとれば、それに伴って別のペルソナが登場するはずだ。「芝居」をすることになる。知人では難しいし良心も痛むので、ビジネス上で新しく知り合う人などに対して試みる価値がありそうだ。どちらにしてもビジネス用の「仮面」では、直観の対極となる感覚(リアリズム)を駆使していることが多いので、内向的感覚型や内向的思考型ならば問題なく新しい構えを造れそうではある。

 

となると、内向性とはどんな感じなのか、感覚優先、感情優先、思考優先はどういう構えなのかについて理解を深め、どういう場面でどの構えが有利に働くのかを事前に考えておく必要がある。

ユングの分析心理学の理論は、自分を知って自分の傾向を生かすことよりも、上述の方向性で実用化したほうが可能性に満ちていておもしろい。と考えるのも外向的直観型だからなのでしょうね。畑に苗を植えたので皆さん収穫してください。(苦笑)

 

 

ユングとフロイトの無意識理論の根はニーチェ哲学


今回の記事ではニーチェの言説から無意識を捉える。

フロイトもユングも、ニーチェの『ツァラトゥストラ』からヒントを得て、深層心理学の無意識にかんする理論を組み立てたことは既に明らかになっている。ユングはそれを公言して憚らなかったし、フロイトは最初は認めなかったが晩年にしぶしぶながら認めていた。

では行こう。ニーチェは楽しい。

そうだ。この自我、自我の矛盾と混乱こそが、最も誠実に自らの存在を語っている。事物の尺度であり価値たる自我、創造し意欲し価値づけるこの自我こそが。

Ja, diess Ich und des Ich’s Widerspruch und Wirrsal redet noch am redlichsten von seinem Sein, dieses schaffende, wollende, werthende Ich, welches das Maass und der Werth der Dinge ist.

 

上記の引用にドイツ語原文を引用したのは、[ Ich ] という言葉が「自我」と邦訳されている点に留意したいため。英訳書では [ ego ]と訳されているので自我で良いのだろうと思う。[ Ich ] は一人称の「私」としてもドイツ語で使用される。

以下の言説では、ドイツ語原文の [ Ich ] が「われ」に邦訳され、 [ Selbst ] が「おのれ」に邦訳されている。[ Selbst ] は英訳書では [ Self ] となっており一般的な邦訳では「自己」になる。ニーチェの無意識論的表現では、自我は自己に内包されない二元となっている点にも留意。ユングは、自我は自己に内包されるとした。

「われ」を意識下の自我、「おのれ」を意識の背後に広がる(肉体を含めた)無意識と考えてよい。

 

「われ」と、君は語り、この言葉を誇りとしている。だが、君が信じたくないと思っているもの――君の肉体とその偉大な理性の方が、ずっと偉大なものなのだ。その理性は、口で〈われ〉とは言わないが、無言で〈われ〉を実行する。

(略)

感覚と精神など、実は道具であり、玩具なのだ。これらの背後に、さらに本来の〈おのれ〉がある。この〈おのれ〉が、五感という目を使って探り、精神という耳を使って聞いている。

〈おのれ〉は絶えず聞き、かつ探る。比較し、強制し、征服し、破壊する。〈おのれ〉は支配する。それはまた、〈われ〉の支配者でもあるのだ。

わが兄弟よ、君の思考と感情の背後に、ひとりの強大な命令者、知られざる賢者がいる――その名を称して〈おのれ〉と言う。君の肉体が彼なのだ。

君の肉体には、君の最善の知恵に宿るよりも多くの理性が宿っている。何のために、君の肉体が外ならぬ君の最善の知恵を必要とするかは、誰が知ろう。

(略)

〈おのれ〉は〈われ〉に向かって言う。「ここで苦痛を感じよ!」と。すると〈われ〉は苦に耐えて、どうすれば苦の種がなくなるのかを考える。――まさにそのために、〈われ〉は考えなければならないのだ。

〈おのれ〉は〈われ〉に向かって言う。「ここで喜びを感じよ!」と。すると〈われ〉は喜びを知り、どうすればさらにしばしば喜びが生まれるのかを考える。――まさにそのために、〈われ〉は考えなければならないのだ。

(略)

創造する〈おのれ〉が、尊敬と軽蔑、喜びと嘆きを創り出したのだ。創造する肉体が、自らの意志の手として、精神を創りだしたのだ。

(白水社版 ニーチェ全集 ニーチェ著『ツァラトゥストラはこう語った』)

 

19世紀のヨーロッパでは精神に重い価値を置いた世相があった。ニーチェはそれに抗して「肉体の軽蔑者たち」という章タイトルを付けて上記のように語った。

「苦痛を感じよ!」の苦痛はもちろん肉体だけのことではない。精神的に打撃をうけ、悲しみ沈みこむ精神の苦痛のことも述べている。

肉体の軽蔑者たちに向かって、この章の最後には次のように語る。

君たちの〈おのれ〉は没落を欲している。それゆえ、君たちは肉体の軽蔑者になったのだ! 君たちが、最早自分を乗り超えて、創造し得ないものだから。

またそれゆえに、君たちは今や人生と大地に怒りを向ける。君たちの軽蔑に満ちた流し目には、意識されざる嫉(そね)みがある。

わたしは、君たちの道は行かない。君たち、肉体の軽蔑者らよ! わたしにとって、君たちは超人に到る橋ではない!

(同書)

 

初めてこの章を読む時には、〈われ〉と〈おのれ〉に混乱するかもしれない。しかしそれぞれに意識と無意識を当てはめれば完全にすっきりする。

意識(自我)とは、広大な宇宙に拡がる無意識(自己)の海に浮かぶ一隻のボートに過ぎず、そのボートは海から生まれ、海に支配され、海に命令され海に従うのである。よって超人に到る秘訣は海(無意識)にある、と解すことができる。

ユングの分析心理学の構造とほぼ同じであるが、支配するスタイルは異なる。

フロイトは〈おのれ〉に当たる無意識をエス(別名イド)と名づけ、意識と無意識にまたがる「超自我」という概念を創った。

 

なお、前の記事でも述べたとおり、自我については改めて考える。哲学思想的に「自我」はヨーロッパでも幾つか若干異なる概念として定義づけられているし、インドの「自我(サンスクリット語でアートマン)」はヨーロッパのそれとは全く異なる概念になる。また、仏教には自我はなく無我になる。

自己という言葉の定義にしても複数の説がある。

自分にとっての「自我」とは何かを考えるのは有意義ではあるけれど、言語的に「正しい自我」とは何かを考えるのは「真の保守」を考えるのと同じでまったくナンセンス。著者によって、あるいは文脈によって多様な語義語感があって当然だ。ヨーロッパの自我とインドの自我の違いを研究するのも良いかもしれない。

「この文脈で使用している自我という言葉はこれこれこういう定義で使用してますよ」と、ユングは丁寧に自分の定義を解説している。理系の科学者ならではの正確を期す手法だ。他方、ほぼすべての哲学者は自分の言語の定義を説明せずに書き綴っているので(しかもオリジナルの造語まで濫用して)、読者にとっては難解さの要因となるし、著者の意図から外れた誤読のオンパレードとなる。それはそれで有意義ではあるけれど。

 

 

無意識による人格形成


今日は結論を先に書きますが「人格は無意識内で形成される」というのが本稿での主な主張です。

前の記事までに「構え」と「ペルソナ」の重要性について考えた。ここでは、人の心における、構えとペルソナの根源について分析し、構成し直してみたい。

 

1.主体の資質

(1)価値観の生成

主体(人の心)の資質を大きく大別すると、心理学者のほぼ一致した見解として、生得的なもの(遺伝的なもの)と習得的なもの(生後の体験によって得たもの)に分けられる。

次に習得的なものを分解する。身体的体験、感情的体験、知性的体験、感性的体験の四つの根源に、私は分ける。もちろん複数の体験を同時に体験していることも日常茶飯事だ。一つ一つの詳細については長くなるのでここでは省く。

私たちはこれらの体験に価値を付与する。人は常に、相当な量の価値付けと価値の塗り替えを行っている。無自覚に。

ではこの価値付与と価値変容のメカニズムはどうなっているのだろう。私は、(2)の最終部分で述べる「構え」がメカニズムの主軸になっていると考える。

 

(2)「理」「感」「質」の形成と変容

さて、この四つの体験および付与された価値群のうち、一部の知性的なもの以外は、意識的に現実感覚することは不可能である。そうしてみるとほとんどの体験と価値は無意識の中に沈み、蓄積されていることがわかる。

無意識内に蓄積された体験と価値は無意識内で化学反応を起こし、次の段階では、「理」「感」「質」の三要素へと変容すると私は考える。

「理」とは、見識、智恵、論理展開力、計算力などの知性的能力の形成。「感」とは、情操、審美眼、空間把握力など感性と情感力、身体性の形成、「質」とは、例えば職人気質、親分肌、楽天的(悲観的)など性質的性格の形成である。生得的(遺伝的)資質も混合される。

意識上では、”その情報” に対しての、”その場” でのインプットとアウトプット、および内省的考察しかできない。能力や性質は時間をかけた習慣性をもって習得され形成される。すべて無意識のなかで。

私はこの「理」「感」「質」の傾向、および(3)の自我欲求(特に習慣的なペルソナ)、2.主体の状態、3.客体の状態、この統合によって「構え」が造られると考える。

「構え」によって創造された「ペルソナ」が習慣的になれば、主体の資質に大きな影響を与え「構え」は循環的に変化する。

 

(3)人格と自我

「理」「感」「質」を統合した全体の個性を、われわれは人格と総称する。

よって人格形成とは「理」「感」「質」の形成のことであり、人格形成はすべて無意識の中で行われるとなる。

人格内からの自然欲求、および客体に対する内在的欲求が顕現される人格内の一部(ごく僅かな一部)のことを、自我と呼称する。自我はペルソナを直接的に創造する。ユングは自我をコンプレックスとほぼ同値であるとした。

自我については稿をあらため後日考察する。

 

2.主体の状態

現実の主体の状態は刻一刻と変化する。身体的に不健康であったりおなかがすいていたり、何か気にかかることが重くのしかかっていたり、数日後にうきうきする予定が入っていたり、無意識が多くを支配するとき(例えば睡眠中)でも、主体の状態は変化している。

現実の状態には、睡眠中の夢の中を含め、すべて「構え」がある。

状態の変化によって、今の構えから即座に次の構えに変更しようとするはたらきが無自覚に生じている。

主体の状態は主体の資質から多くが造りだされるけれど、主体の資質は、主体の状態が続くこと、または強い状態の変化によってこちらも影響を受ける。

「構え」によってアウトプットされたものは客体となって自分へ戻って来る。例えば声を荒げ怒った人が自分のアウトプットに自分が反応し、更に興奮して怒るというのはよくある光景だ。悲しみに暮れて涙をボロボロ流して声をあげて泣けば、自分への慰撫となって一時的に悲しみは収まってくる。次の新しい「構え」が自動的に造られている。

 

3.客体の状態

現実および未来に想定される外部環境、すなわち主体の外側にあるすべての客体においても状態は刻一刻と変化する。ここでいう客体とは、自然環境的なもの、社会環境的には対人的なものや大衆に渦巻く世論の空気など。主に五感で感覚的に捉える対象。

客体の状態およびその変化は、常に、主体の状態と主体の資質に影響を与え続けている。

 

今日の論考は、前の記事までで学んだこと考えたことをまとめ、自分なりに仮説として組み立てたものです。人格形成についての論理は大海原のように膨大なものであって、私はそこへ漕ぎだした一隻のボートに過ぎず、自分の能力をはるかに超えた領域にたいする稚拙な仮説だということは自覚しています。

内省はしても未熟さは気にせずに、よく学び、よく考え、稚拙な仮説をブラッシュアップしていこうと思います。

無意識は可能性に満ちています。

 

 

無意識と意識の「構え」


例えば剣道には上段の構えや正眼の構えがあるし、柔道や空手にも構えがある。ボクシングも構えがあり、格闘技に限らず陸上短距離走のクラウチングスタートも構えだ。「レディー・ゴー!(Ready Go!)」の Ready は「ようい、どん!」の「ようい」の構えであり、「構え」とはコトに及ぶ直前の準備を表す。

上記の例は意識的かつ外形的ではあるが、内面の心も準備される。

このとき、意識的に準備の心を作ることと、無自覚に無意識から湧きあがってくる準備の心とが混在している。

わかりやすい無意識の構えとは(意識的にそうすることもあるが)、例えば日常社会生活上では、出勤時に会社の扉を開ける直前の心構え、重要な商談に臨むときの心構え、初対面の人と会うときの心構え、舞台に上がる前や試合前の心構え、帰宅し玄関へ入り扉を締めるときのホッとする心構え、リゾート地へ出かける前や到着直前の心構えなど、数え上げればキリがないほどだ。意識に重心が置かれる場合と無意識の構えが無自覚に現れてくる場合とがある。

「構え」は「ペルソナ」に直結する。

 

ヨーロッパではこの構えという概念を、19世紀後半から20世紀初頭のかけて、ミュラー、シューマン、キュルペ、エビングハウスらの心理学者の手によって確立した。日本における、特に武道の構えは、もしかするとヨーロッパよりもずいぶん早く確立され、心理学方向からのアプローチではなく、実践が先に立つ「形から入る手法」に現われているのではあるまいか。日本の心構えについては改めて研究してみる必要がある。

ユングは上記心理学者らの研究を受けて、独自にこの概念を分析した。

『タイプ論』から Einstellung (構え)についての特徴を幾つか抜き出してみる。一読するだけでは理解が難しいところがあると思うけれども。

〇 われわれは構えを、一定方向に作用ないし反応しようとする心の準備態勢とみなす。

〇 構えがなければ能動的な統覚(※)は不可能である。

〇 関係ないものを排除する、選択や判断がなされる。

〇 意識的と無意識的の二つの構えをもっている場合も非常に多い。

〇 意識は無意識とは異なる内容をあらかじめ用意している。(構えの二重性)

〇 構えとは一種の予期であり、予期はつねに選択したり方向を与える作用をなす。

〇 意識内容は自らに対応した構えを作り出す。

〇 この自動的な現象こそ、意識的な方向づけが一面的になる根本的な原因である。

〇 もし心の中に意識的な構えを修正する自己制御的な補償機能が存在しなかったら、平衡がまったくとれなくなってしまうであろう。

〇 素質・環境の影響・教育・人生経験全般・信念・に基づいて、ある内容的布置が習慣的に存在しており、それがつねにしばしば細部にまでわたって一定の構えを形成している。

〇 感情が思考や感覚を呑み込んでしまうこともあるが、こうしたことはすべて構え次第なのである。

〇 結局のところ構えは個人個人で異なる現象であり、科学的な観察方法にはなじまない。

〇 しかし経験的には、いくつかの心的諸機能を区別できるかぎりは、いくつかの構えのタイプを区別できる。

〇 ある機能が習慣的に優位を占めていると、それによって典型的な構えが生じる。

〇 こうして思考・感情・感覚・直観それぞれに典型的な構えが生じる。

〇 社会的なタイプも、すなわち集合的表象の特徴を表しているタイプもある。これらを特徴づけているのは、さまざまな主義である。いずれにしてもこうした集合的に決定された構えはきわめて重要であり、時には純粋に個人的な構えをはるかに超えた意味さえもつのである。

(みすず書房版 C.G.ユング著 林道義訳『タイプ論』第十一章「定義」)

※統覚(Apperzeption)・・統覚とは、新しい内容が、すでに存在しているそれと似た諸内容の中に組み込まれることによって、理解されたもの・把握されたもの・明白なもの・と呼ばれるようになる心的過程である。統覚は能動的なものと受動的なものとに分けられる。(同書)

 

統覚は認識への架け橋と言って良いのかもしれない。

最後の「集合的表象の特徴」を補足しておくと、社会からの要請によって無自覚に付与される仮面(ペルソナ)、つまり知らず知らずのうちに社会に飼われている家畜のようになってしまう個性喪失状態がひとつ。もう一つは生得的に(先天的に)備えている、人類の普遍的な幾つかの「構え」であり、これは後に、ユングが『元型論』で述べるアーキタイプの端緒となっている。(アーキタイプ・・アニマ、老賢者、永遠の少年、グレートマザー、トリックスターなどの別人格)

上記の「構え」にかんする記述には濃厚なエッセンスが凝縮されており、その一文一文の背景の深度は相当に深い。

構えによってペルソナが生じ統覚する場合もあれば、社会からの要請によって先にペルソナが形成され、構えが後から生じ統覚する場合もある。あるいは受動的な統覚が先に発生し、あわてて構えが変更されペルソナが生じる場合も多々あるだろう。例えば急に道を尋ねられたりしたときに。

われわれの日常生活でも、「構え」によって必要のない情報を排除し、必要のある情報にフォーカスしようと五感が自動調整される。

上掲の写真が美しく自然に感じられるのは、われわれの視覚が焦点を絞ってピントを自動調整する習慣によって、(写真においても)背景を排除しようとしているからにほかならない。聴覚でも同様に、聞きたい人の声や音楽の音に焦点を絞り雑音を排除しようと自動調整される。まれに自動調整に障害があって感覚過敏の人もいる。

「構え」の機能はそうした選択を可能にする。

意識の構えと無意識の構えの二重構造において、どちらかが補償的役割を果たす場合は正常な現象であり、しかし両者が譲り合わず一つの決断をすることに支障をきたす場合、神経症になる恐れがあるとユングは述べている。

また、「生が不快に満ちていることをとくに深く感じとっている人が、つねに不快なものばかりを予期する構えを持つのは当然」(同書)とも述べている。

 

ここまでで解ったことは、「構え」がいかに生命活動とって重要であるかということ、自分が周囲の人たちに与える影響においても、「構え」が大いに関係しているということです。

 

ユングは「構えは個人個人で異なる現象」と断りつつ、精神科医としての十数年にわたる現場経験と研究から、構えのタイプを区別できるとした。思考・感情・感覚・直観という分類の是非はともかく、それ以前の内向性・外向性への個人的傾向は、ユングが決定的に定義づける100年以上も前から心理学者たちによって研究され、定説が形成されてきた歴史がある。

類型についてはまたあらためて考察することとします。

 

次の記事では、構え・ペルソナ・統覚の三要素によって生じる人格の根源と認識の関連性について考えてみようと思います。

 

 

無意識の道しるべ


人類は科学を発展させ宇宙の神秘を物理学によって解明しようと試み、その研究と実験は日進月歩で、月までの一般人往復旅行程度ならば今世紀中に達成されるだろう。

他方、人間の心については解明の糸口さえもつかめていないのが現状だ。物理学や生物学、西洋医学は心の問題を「脳」の問題として扱う。しかし、それらの「科学」は非科学的現象、非合理的現象については手も足も出ない。

物質としての人体はいずれ解明されると思うが、はたして私たちが心と認めているコレは物質的なものなのだろうか。どうも違うような気がする。そもそも物質から意識が発生するシステムも全く解っていないのだ。オーストラリアの哲学者・デイヴィッド・チャーマーズが「意識のハードプロブレム」として提唱したのが1994年。その後なんの進展もない。

意識が解らないのだから無意識はもっと解らない。物質的には。

そのことを解ったうえで、無意識と意識の関係性を考え続けてみたい。このテーマにはおそらく、飽きることなく死ぬまで私の好奇心を捕えて放さないだろうと思う。

 

無意識を探究し新しい理論を構築するためには、偉大な先賢たちが研究したロジックを参考に学ぶのが良いと思っている。

道しるべとして、無意識の探究の歴史を綴った大著、アンリ・エレンベルガー『無意識の発見』は欠かせない。

 

探究を進めるうえでもっとも信頼できるのは、カール・グスタフ・ユングの『タイプ論』だ。ユングと言えば『元型論』その他でオカルトイメージが付いていしまっているかもしれないが、ユングが超越論的方向へぐんぐん走って行ったのは本書を上梓してから20年以上経過してからである。

私はこの『タイプ論』がユングの主著として相応しいと思っている。無意識を研究するための理論がしっかりしているのだ。ある意味、哲学書でもある。

書名の『タイプ論』は『Psychologische Typen』を和訳したものでみすず書房出版。同時期に人文書院から『心理学的類型』のタイトルで出版されている。

 

『タイプ論』のまえがき冒頭部分を引用してみよう。

本書は臨床心理学の分野における、ほぼ二十年にわたる研究の成果である。このアイディアは、一方では精神科および神経科における臨床やあらゆる階層の人々とのつき合いによって得られた無数の印象や経験から、他方では友人や反対者との私の個人的な討論から、そして最後に私自身の心理的特質の批判から、しだいに生まれてきたものである。

 

ユングは机上の理論を語る書斎派心理学者を厳しく批判している。本書は和訳本として600ページを超える大著であるが、第一章から第九章までは研究について書かれており、第十章でユングオリジナルの類型が登場する。

その中で私が最も無意識の道しるべとしたいのは第十一章の「定義」である。この章は凄い。ユングが心理学上で扱う言葉の語義を説明しているのだが、言語概念とはそのまま哲学なのだ。つまり、第十一章にユング理論のエッセンスがすべて詰まっていると言っても過言ではない。前の記事で扱ったペルソナにかんする内容もこの章から引用した。

 

 

無意識とペルソナ


以前のアメーバブログではペルソナ(仮面)について何度か書いたが、昨年年初にこのサイトを立ち上げてからは初めてになる。自分の無意識を探究するうえでペルソナからアプローチをかける手法は私にとって解りやすい。

まずはペルソナについて復習しておこう。

Persona とはラテン語で仮面や人格を表す。personal や personality の語源かどうかは調べていない。心理学にペルソナという概念を導入したのは C.G.ユングだ。

ある人をさまざまな状況において詳しく観察してみれば、彼の人格がある環境から別の環境へ移るさいに著しく変化し、しかもそのたびごとにはっきりと輪郭をもち、前のものとは明らかに異なる性格が現れてくることに気づくであろう。一定の環境は一定の構えを要求するのである。構えは一定の環境に適合するように長い間要求されたりくり返し要求されたりしていると、しだいに習慣化する。

(中略)

彼はその時々の構えと多少なりとも完全に同一化してしまい、そのため自らの真の性格について少なくとも他人を・しばしば自分自身さえも・欺いてしまうのである。つまり”仮面”をかぶるのであるが、彼はこの仮面が一方では自らの意図に沿い他方では環境の要求や意図に沿うものであり、しかも時に応じてこのどちらかの要素が優位に立つことを承知している。

この仮面・すなわち《この目的で》前面に出される構え・を私は”ペルソナ”と名づける。

(みすず書房版 C.G.ユング著 林道義訳 『タイプ論』)

 

ペルソナとは仮面である。真の自分自身ではなく造られた人格だ。環境から要求され、一方では戦術を用いて自らを主張しようとするが、やはり他者に対しては欺瞞の仮面であり自己に対しては無自覚な自己欺瞞の仮面なのだろう。おそらく意識して無意識から発芽するペルソナを認識できる人は稀であると思う。

社会性において造りこんだペルソナが習慣化することで、自分ですらそれが真の自分の人格であるかのような錯覚に陥る。この点については後からまた触れる。

環境からの要求や期待に沿おうとして多くの場合無自覚に、無意識の引き出しの中から「その場」でのペルソナを登場させる。

上記文脈で使用されている「構え」とは、私たち日本人が日常的に使う心構えのようなものだと理解してください。詳細についてはまたあらためて。ただし、ペルソナはその性質上、外側に対する構えです。自分の内面へ向かう構えについては本格的に深淵を探索する無意識心理学になる。が、今回は立ち入らない。

 

朝7時半、会社員の一日が始まる。自宅で朝食を済ませスーツに着替える。男性はネクタイを締め鏡を見て出で姿を整える。家族がいる人ならなおわかりやすい。玄関を一歩出て扉を締めれば家族コミュニティのペルソナから、出勤時のペルソナに切り替わる。哲学者の中島義道氏が指摘していたけれど、出勤途中、駅や電車のなかでも「怪しい人に見られないように、他人に危害を加えそうな人に見られないように」仮面をかぶる。

会社の敷地に入れば会社員としてのペルソナに切り替わる。夕方会社を退社し同僚と軽く一杯やろうと居酒屋に入ればネクタイを緩め外す。一気に緊張感が解けリラックスし、会社の同僚と一緒でも半ばプライベートな感覚のペルソナに切り替わる。別の同僚と行けばまた少し違うペルソナになるのかもしれない。飲んで酔っ払えばまた違うペルソナが顔を出すのだろう。

こうして自分のペルソナの切り替えを無自覚に行い、他者の造る別のペルソナを知ることで相互理解が深まる。善し悪しは別として。

 

ここで最も重要な点は、自分が造るさまざまなペルソナが、自分の内面へ、無意識へと多大な影響を与えるということだ。最初は環境に適応しようと、周囲の要求と期待に応えようと造ったペルソナであるけれど、同一環境、同一集団との関係が継続することでペルソナが習慣化され、どんどん固定化してゆくのである。

固まってゆくペルソナは無意識のなかの真の個性的人格と融合しだすかまたは閉じ込めようとする。

同窓会を思い出してほしい。何十年も会っていない旧友と再会し、変わった互いの姿と人格をうかがい見、多少の警戒心を抱くが、会話し酒を飲んでいるうちに学校時代のペルソナをいつのまにか使いだすのである。親や親せきも同様だ。もちろん当時のペルソナを取り出さないこともできる。例えば今のプライベートのペルソナを使った話題や、当時とは大きく変化した価値観で会話をしたとしよう。おそらく旧友や親せきとは疎遠になる。

 

この面からペルソナについて言えることは二つある。

一つには、同じ環境、同じ集団との関係性が長く続けば、自分の性格や能力をよく理解してくれる人がいることで居心地はよくなるかもしれないが、自分のペルソナを変えることができず価値観は固定化する。ペルソナがいつしかその人になってしまう。先日亡くなられたフリーアナウンサーの有賀さつきさんが生前、結婚し離婚した相手のことを「家庭でも上司と部下の関係のままだった」と語っていたのが印象深い。よくあるケースだと思う。

そうしてペルソナを変えられないジレンマがストレスとなって、インターネット上で別人格を装い2ちゃんねる等に書き込む人があとを絶たないのだろう。同情するつもりもないけれども。

もう一つは、自分を大きく変えたいのなら、環境と、主に付き合う人をがらりとチェンジすることだろう。周囲から新しいペルソナを要求され、期待されることで、人は大きく成長することが可能になる。実は私もそうだった。このときに、以前よりも人格的に高い次元のペルソナを要求される環境や他者でなくてはならないのは言うまでもない。逆のぬるま湯ではどうしようもない。

 

ペルソナは無意識の中の、自分では意識できない人格を成長させる、もしくは堕落させるということです。

 

 

無意識理論の端緒


Twitterに少し書いたのですが、カール・グスタフ・カールス(1789-1869)の無意識についての考察が興味深く、フロストもユングも未だ生まれていない19世紀初頭の無意識について考えてみたいと思っています。どこまで踏み込めるかわかりませんが。

 

カール・グスタフ・カールス(1789-1869)・・・ドイツの内科医系医師であり画家。人間心理の鋭い観察眼をもち、無意識についての最初の体系的・理論的考察を試みた。カールスは心理学とは無意識から意識への魂の発展の学であるとし、また個人的無意識は人類全体の無意識と連なっていると考えた。

このようにカールスの見方はユングの無意識論に非常に近いものであり、ユングはいたるところで自分の先駆者として名前を挙げている。(『元型論』訳注より引用)

代表的著書に『プシュケー』があるが、邦訳は未刊行。

カールスは無意識の諸特徴を次のようなものとしている。

1.無意識はプロメテウス的(前向き的)側面とエピメテウス的(後ろ向き的)側面とを所有しており、未来をも過去をも指向するが、現在のことには無知である。

2.無意識はたえざる運動と変化の中にある。意識的思考あるいは感情は、無意識となって初めてたえず修正され、たえず成熟する。

3.無意識は疲れを知らない。無意識は定期的休養の必要がない。逆にわれわれの意識的生活には休養と心の回復が必要である。それらは意識が無意識に沈潜することによって得られる。

4.無意識は根本的に健康で病むことを知らない。自然治癒力は無意識の働きの一つである。

5.無意識はそれ自身の必然的法則に従って作動し、自由を持たない。

6.無意識は独特の知恵を生まれながらに備えており、試行錯誤も学習行動も存在しない。

7.世界特に自分以外の人間とわれわれの関係はわざわざ意識しない限り、無意識を介する関係である。

 

カールスは対人関係を四型に分類した。

1.意識に発し意識に向かう関係。

2.意識に発し無意識に向かう関係。

3.無意識に発し意識に向かう関係。

4.無意識に発し無意識に向かう関係。

カールスは個人的無意識は、人類全体の無意識と連なっているという原理をはっきり述べている。

(弘文堂版 アンリ・エレンベルガー著『無意識の発見』)

 

非常に示唆に富みとても興味深い。それぞれの項目について今後細かく検証していきたい。

個人的無意識が人類全体の無意識と連なっているという仮説は、ユングの、集合的無意識、元型論、共時性(シンクロニシティ)の元になっている理論だ。ユングがカールスから大きな影響を受けていたことがわかる。なおユングは1875年生まれなので直接的接点はない。

また、カールスが『プシュケー』を刊行する少し以前に、哲学者ショーペンハウアー(1788-1860)が『意志と表象としての世界』を刊行しており、ここで使われる「意志」とは、無意識の世界および世界そのものの原動力という性質を表す。つまりショーペンハウアーも、人類全体の無意識を含む全世界が一体化した意志をもっていると仮説を立てていたのだ。

1869年にハルトマンが『無意識の哲学』を著す。

1885年にニーチェが『ツァラトゥストラ』を著し、そこから本格的に無意識を科学者・精神医学者が研究を始める。フロイト、ユング、アードラーらが20世紀初頭に無意識を扱う心理学者・医学者として勇躍する。

しかし、本当に面白いのは、フロイトやユングらが科学として無意識を扱おうとする前段階の、内科医カールス、哲学者ショーペンハウアーやハルトマン、ライル、ハインロート、イーデラー、ノイマンら精神医学者、フェヒナーやバッハオーフェンが次々と無意識に関する仮説を展開していった19世紀前半~1880年頃だろう。

例えばフェヒナーは、「地球は一個の生物で、人間より高水準である」とし、人間は地球のために造られたという仮説を展開する。バッハオーフェンは母権制から父権制への移行をより高度の文明段階への進歩と考え、アマゾニズム(女性帝国主義)とディオニュソス崇拝を提唱した。しかしスイス・バーゼル大学での理解はほとんど得られなかったが、当時25歳いう若さでバーゼル大学の教授となったニーチェが老バッハオーフェンの、ディオニュソス文明vsアポロン文明という思想を継承したのだ。

この辺りの無意識をめぐる哲学界、医学界の混沌と仮説の展開、そして巨人から巨人への継承が抜群に面白い。ユングも時期は少しずれるが(ニーチェが『ツァラトゥストラ』で有名になり狂人化した以降に入学)、バーゼル大学出身である。

 

しかし、ユング亡きあと、無意識にかんしての研究とその成果にはほとんど進捗が見られない。

だから今、大きな可能性を秘める「無意識」がおもしろい。

 

 

 

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