徒党の発展型である共同体


今日は、共同体とはどうあるべきかを、まずは太宰治の随想『徒党について』を題材に考えてみたいと思います。

 

『徒党について』

徒党は、政治である。そうして、政治は、力だそうである。それなら、徒党も、力という目標をもって発明せられて機関かも知れない。しかもその力の、頼みの綱とするところは、やはり「多数」というところにあるらしく思われる。

ところが、政治の場合においては、二百票よりも、三百票が絶対の、ほとんど神の審判の前におけるがごとき勝利にもなるだろうが、文学の場合においては少しちがうようにも思われる。

孤高。それは、昔から下手なお世辞の言葉として使い古され、そのお世辞を奉(たてまつ)られている人にお目にかかってみると、ただいやな人間で、誰でもその人につき合うのはご免、そのような質(たち)の人が多いようである。そうして、その所謂(いわゆる)「孤高」の人は、やたらと口をゆがめて「群」をののしる。なぜ、どうしてののしるのかわけがわからぬ。ただ「群」をののしり、己れの所謂「孤高」を誇るのが、外国にも、日本にも昔はみな偉い人たち「孤高」であったという伝説に便乗して、以ってわが身の侘(わび)しさをごまかしている様子のようにも思われる。

「孤高」と自らを号しているものには注意をしなければならぬ。第一、それは、キザである。ほとんど例外なく、「見破られかけたタルチュフ」である。どだい、この世の中に、「孤高」ということは、無いのである。孤独ということは、あり得るかもしれない。いや、むしろ「孤低」の人こそ多いように思われる。

私の現在の立場から言うならば、私は、いい友達が欲しくてならぬけれども、誰も私と遊んでくれないから、勢い、「孤低」にならざるを得ないのだ。と言っても、それも嘘で、私は私なりに「徒党」の苦しさが予感せられ、むしろ「孤低」を選んだほうが、それだって決して結構なものではないが、むしろそのほうに住んでいたほうが、気楽だと思われるから、敢えて親友交歓を行わないだけのことなのである。

それでまた「徒党」について少し言ってみたいが、私にとって(ほかの人は、どうだか知らない)最も苦痛なのは、「徒党」の一味の馬鹿らしいものを馬鹿らしいとも言えず、かえって賞賛を送らなければならぬ義務の負担である。「徒党」というものは、はたから見ると、所謂「友情」によってつながり、十把一からげ、と言っては悪いが、応援団の拍手のごとく、まことに小気味よく歩調だか口調だかそろっているようだが、じつは、最も憎悪しているものは、その「徒党」の中にいる人間なのである。かえって、内心、頼りにしている人間は、自分の「徒党」の敵手の中にいるものである。

自分の「徒党」の中にいる好かない奴ほど始末に困るものはない。それは一生、自分を憂鬱にする種だということを私は知っているのである。
新しい徒党の形式、それは仲間同士、公然と裏切るところからはじまるかもしれない。

友情。信頼。私は、それを「徒党」の中に見たことが無い。

 

太宰治(1909-1948)『徒黨について』(昭和二十三年・1948年)

※著作権期間経過後のため全文掲載(旧字体、旧仮名遣い等を現代文に修正しました)

 

太宰が自死した年に書いた38歳時の短編随想です。

作者の人格云々については立ち入りません。内容は、「孤高」に対する批判が最初にきますが、これは作者自身が「孤高」のように思われなくはないとして、みずからは「孤低」の謙虚を装い、「孤高」を気取る人を批判したかったのでしょう。

タイトルにもあるように、この随想は「徒党」に対する批判がメインです。

作者は文学界ではのけ者のようにされ、文学界の徒党に入ることはなかった。それゆえ外部から見た徒党であって、友情や信頼を見たことがないというのも外部からの作者の主観です。

そうしたところを細かくみていかねばなりませんが、「徒党の一味」となって個人が集団に埋没していく様子は、現代の政界や経済界などをみてもそのとおりと納得することができるのではないかと思います。

個人の権威ではなく、集団としての力の権威を、個人がさも自分が大きな力を持っているように振り回す。もっとも解り易い例は政党とヤクザでしょう。また大企業にもそうした傾向のある会社はあります。「連帯感」や「同志団結」は一見聞こえが良いようにも感じますが、もろ刃の刀で正にも負にも作用する。

では、共同体はどうあるべきなのかがテーマとなってきます。

国家も共同体の一つで、わが国は民主主義を採用しています。

太宰は、この短編の後に『如是我聞』という随想を書いているのですが、そのなかで、民主主義について次のように述べています。

民主主義の本質は、それは人によっていろいろに言えるだろうが、私は、「人間は人間に服従しない」 あるいは、「人間は人間を征服できない、つまり、家来にすることができない」 それが民主主義の発祥の思想だと考えている。

良いこと言っていると思います。これが唯一の真理というのではなく、民主主義のひとつの理念として正しい。

ところが、政界も企業も、先輩議員に服従している議員、社長の家来であるような役職者や社員が大勢いて、ピラミッドを造ってしまっている。「それが組織というものだ」というのが内部構成員の主張です。

さてそれでは、年齢も役職も先輩後輩もなく、要するに縦秩序がなく、フリーな関係の横のつながりだけで民主主義ができるかどうか、会社を経営していけるかどうかを問えばそれは無理です。やはり、年齢、役職、先輩後輩などの一般社会的秩序がなければ責任の所在も明確になりませんし、単に専門的知識や知性があるだけの人、口先だけ達者で行動が伴わない人、後輩や部下を顎で使おうとする人が上の立場にいる組織ではどうしようもない。

「家来にしない」「奴隷扱いしない」という点は克服できたとしても、下の立場の人が「服従しない」というのはなかなかできないのではないか。バランスが難しいところだと思います。

 

さて、「徒党」についてどう考えるかですが、この徒党にすべてを賭けるだとか、終生その徒党の内部構成員をまっとうするだとか、そうしたことが真面目として評価されたり、美しい生きかただと評価されたりした時代もありました。

未来はどうなのでしょう。

やはり未来世界図を描いて、仮にそのとおりにならないとしても(ならないのが普通です)、現代はどうあるべきかへ落とし込んでいくことが大切だと思います。「今」流行っているからといって正しいわけではない。間違っていて揺り戻されることは多々あります。

 

政治、経済、会社、国家、学校、民主主義、少なくとも100年後はこうあるべきではないかという観点における議論があると良いと思います。

 

 

弱者の声を代弁する方々


「がん患者は働かなくていい」という発言が自民党の大西英男議員からありました。がんには完治はなく、とりあえず、悪性のがん細胞が無くなった状態を寛解と呼びます。寛解した人も「がんサバイバー」というふうに呼ばれるのですが、かくいう私も、がんサバイバーです。

大西議員の発言は、この方の人間性を如実に表しているもので、発言が軽いだとか失言だとかというレベルではない。これにかんしては今後も叩かれるのでしょう。

議員さんの資質どうこうの話は珍しくもなくどうでも良いのです。私にとっては。

 

さて本題です。「がん患者は働かなくていい」と言われて、私はまったく痛痒を感じませんし、寛解する前の状態であっても、がん患者として差別されたことに、1ミリも傷つくことはありませんでした。

もっとも、海外で白人から差別された時にも、或いは子供の頃チビだとけなされた時にも、1ミリも傷つくことはありませんでしたし、その他のことでも、自分が侮辱されたり差別されたりすることで心が傷つくことは、正確に言えば傷ついたと感じたことは、生まれてから一度もありません。

明らかにそういう目で、相手が喧嘩を吹っ掛けてきているときは、こちらから先制攻撃したことはありますが(苦笑)、まあ、そんなときでも心が傷ついたと感じることはない。

原因を考えてみたのですが、十代から二十代前半にかけて勝手に心が鍛えられる環境に身を置いていたと思われ、完全な耐性ができてしまっているのかもしれません。

一般的ではありませんよね、変わっている人だと思ってくださって結構です。

何を言われても心にダメージを受けないということではなく、ごくわずかな一部ですが、普通の人とは違うところにポイントがあるようです。どこだか言いませんし傷ついても言いませんけど(苦笑)

 

なので、「がん患者の皆さんに対して酷い発言だ」とか、「がんサバイバーの皆さんの心を傷つけた」(昨年の都知事選で誰かが言ってましたね)とか、そういう「皆さん」のなかに入れられてしまうのは、腹立たしいのです。

というのも、そうして「皆さん」というステレオタイプを使って、私のことも無断で利用して(冗談ですよ、苦笑)、相手を攻撃する材料にしている心性がいやらしいなーと思ってしまう。

がんサバイバーである三原じゅん子さんが個人的に侮辱されたと感じて怒るのは自由であり、侮辱や差別発言で心の傷つく人が多いことも知っていますので、政治家としての立場もあるでしょうし、三原さんが声を挙げるのは理解できます。また、懸命にがんと闘っている奥さんの気持ちを考えて海老蔵さんが怒りのコメントを発すれば、応援したいと思います。

でもなぜか、がん患者でもサバイバーでもなく、身内にいるわけでもなく、何でもない人が一緒になって「そんなことを言ったら、がん患者さんたちが傷つくだろ!」と怒りの声を挙げる様子をみると、人間の自己欺瞞をつくづく感じます。

差別しているのはそういう人たちも同じなのに、気づかないふりをしているのか、気づいていないのかわかりませんが、弱者の味方の正義ぶって集団の傘に入りこみ、がん患者やサバイバーを無意識下であっても自分よりも弱者として扱い、自己満足しているのはいかがなものでしょうか。

「代弁してやってるんだぜ」と言うのかもしれませんが、頼んだ覚えはない。たぶん、誰も頼んでいないと思いますが。

 

明らかに巨大権力の横暴だとわかるときには、「集団の圧力」「群衆の声」によって闘うというのは十分理解できますし、みこしに担いだ聖者が代表となって戦ってくれる、その背中を押してやろうとする行為は賛成です。厚生省相手のHIV訴訟がそうだった。

ですが今回の相手は、ゴルフ焼けしていかにも仕事していなさそうな、首相派閥の細田派でこの世の春を謳歌している議員さんひとりの話ですし、それに便乗して自民党を攻撃するというのも、まあ、「がん患者・サバイバーのために」と言わなければご自由にどうぞとなりますけども。

今日久しぶりに西尾幹二さんの著書『ニーチェとの対話』を開いてみると、現代社会にぴたりと当てはまる言葉を見つけました。

現代の私たちの周辺の社会にも、臆病で尊大、小心で高慢な人間がいかに多いであろう。個人的には臆病でおずおずしているが、集団をなすととたんに気が強くなり、ひとから与えられるのがあたりまえ、贈られるのは正当な権利であって、みじんも羞恥を感じない人たちである。

(講談社現代新書 西尾幹二著『ニーチェとの対話』)

 

昔と比較したら国民民度は上がっているんじゃないかと思うんです。個人個人の社会的な洗練度は高くなっていると思う。(一方で知的頭脳レベルは下がっていると感じています。昔は現代のように遊びの選択肢や誘惑が少なかったという理由が大きい。)

けれど個人では冷静でおとなしいのに、集団に属すると人が変わったように声が大きくなって叫び声を上げ始める人がたくさんいる。デモに参加する人だけでなく、自民党もそうで、インターネットの炎上参加もそうで、結局、個人の社会的洗練レベルは上がっても、集団活動レベルはむしろ下がってしまった様相を呈しているのではないか。日本だけでなく世界的な問題だと思うのですが、どうでしょう?

 

なぜそうなってしまったんだろう、また、どうしていったらいいのだろう、という問題提起と建設的議論がいつかは始まると思うのです。それを思って細々と、インターネットの片隅のこんなページにひと声あげてみたのですけどもー。

 

ま、今日は、「がん患者、がんサバイバー」にかんしての味方をする記事ばかりが世の中に散乱しているようで、私のようなサバイバーもいるんだよってことで、敢えてそっちに重心を乗せて書きました。

集団化した奴隷の蜂起(苦笑)のような現代世相にかんしては、おまけの勢いで書きました。

 

 

「忖度」について


今年の流行語大賞に選ばれそうな勢いの「忖度」ですが、「そんたく」という言葉はそれほど多くは使われてこなかったのではないかと思います。

日常会話では使いませんよね。

この「忖度」ですが、マスメディアや著名人が使用している語感がなんとなくイメージにそぐわないのですが、これは私だけでしょうか?

語感イメージとしては、君主や天皇などの高い地位にいる人に対して、尊敬の念を含みながら「“我が君”のお気持ちを忖度して、」というふうに、結構へりくだった使用表現が思い浮かぶのです。会社員であれば自分の会社の社長や贔屓にしている役員くらいには使うとしても、「課長の意を忖度して」という使われ方は変だと思いますし、某大阪府知事の「国民の心を忖度して」なんて言われると、クエッションマークが頭の中をスキップしている状態になったものでした。例えば、「生徒の気持ちを忖度して」は、感覚的におかしいと思いませんか?

日常的には「察する」だとか「慮(おもんぱか)る」「汲み取る」「考慮する」「推察する」「拝察する」「斟酌する」などを使い分けるのではないかと考えるわけですが。

今や「忖度」の大バーゲンセールになってしまっている感がぬぐえません。

でもまあ、これは私のもつ語感イメージなので、他人さまや世間さまは違うのかもしれませんね。私の感覚のほうがおかしいことは大いに有り得ます。

 

さて、この「忖度」ですが、ま、「推察」でも「斟酌」でも良いのですが、日本人ってわりと「相手の心中を察しなさいよ」という価値を社会の側から押しつけられてきたのではないかと思うのです。

そうしたことを国民的に考える良い機会が生まれたと捉えれば、歓迎すべき出来事だと言えましょう。

「察する」ことについて、個人的関係の1対1においては良い作用が生まれることが多いと認めます。特に喜怒哀楽、苦悩などの情緒面で人間関係作りには欠かせないものでしょう。けれど、意を汲むというのは、或いは「察しろ」とばかりに意を汲み取らせようとする人には、「めんどくせー」と思いますし、「おとなってやーね!」(苦笑)となってしまいます、私の場合は。

 

組織の場合、或いは政治家と秘書の場合もそうかと思いますが、意を汲み取らせようと、上の立場の人間がにおわせるのはとてもいやらしい。無言で「何かあったらお前が責任取るんだぞ」という圧力と本人の責任回避。

私にとってはどちらの立場も絶対に嫌です。断じてしません。否定します。

 

思うんですが・・・。

利害関係が絡んでくる場合は特に、もうね、今の時代、これからの時代、意を汲む「忖度」も「推察」もやめませんか?

「察しろよ」とにおわせてくるような人は卑劣だと位置づけませんか?

なんかその周辺には「臆病さ」が漂っている感じがあるんですよねえ。傷つきたくない、みたいな。従属関係にごちて酔い痴れているような気持ち悪さも。

「阿吽の呼吸」を美化し、それが出来ることを優れているとするのではなく、もっとオープンで明朗快活なコミュニケーションを、これからの日本社会は目指した方が良いのではないかと考えています。海外の人たちとの異文化コミュニケーションは自然とそうなるでしょうし。

そのなかで阿吽の呼吸が生まれれば、驚き、嬉しい気分になるのではないかとも。

以上が私の個人的見解であり主張です。

 

メディアにおいては、折角の良い題材があるのですから、「忖度」そのものの是非や意義、デメリットにおいて国民的議論になるよう問題提起してほしいところです。

 

 

大衆の克服(4)―エリートの定義変更


前の記事からのつづき。

「大衆の隷属根性の克服」をテーマとする考察を今回もとりあげる。

その前に。

A.大衆

B.エリート

大衆批判については、上記の二つの枠組みで、BからAに対し「隷属根性」を批判されることがほとんどだ。本ブログのスタンスとしては、A+B=Cの全体的俯瞰視点から、自らもAであることを念頭に置きつつ書いてきた。

『愚民社会』という書で、宮台真司さんはAを「田吾作」と呼び、大塚英志さんはAを「土人」と呼び、B側からAを侮蔑している。宮台さんは「エリートが大衆をリードする社会が良い」というふうに、自分の社会思想を隠さず主張しているが、それはそれで意見の一つとして良いと私は受け容れている。

エリート主義についての是非は文末に少し触れる。プラトンの「哲人政治」も範疇に入ってくるし、何をもってエリートと定義するのかから始めなくてはならない。膨大なテーマであるし、「エリート」にそれほど興味をそそられないので深くは書けない。

 

以下、大衆批判(隷属根性批判)について、オルテガ、ニーチェ、安岡正篤先生の著書から引用する。

社会はつねに、少数者と大衆という、二つの要素の動的な統一体である。少数者は、特別有能な、個人または個人の集団である。大衆とは、格別、資質に恵まれない人々の集合である。

だから、大衆ということばを、たんに、また主として、≪労働大衆≫という意味に解してはならない。大衆とは≪平均人≫である。それゆえ、たんに量的だったもの―群衆―が、質的な特性をもったものに変わる。すなわち、それは、質に共通すにするものであり、社会の無宿者であり、他人から自分を区別するのではなく、共通の型をみずから繰り返す人間である。

(中略)

現時の特徴は、凡庸な精神が、自己の凡庸であることを承知のうえで、大胆にも凡庸なるものの権利を確認し、これをあらゆる場所に押しつけようとする点にある。

(中公クラシックス版 オルテガ著『大衆の反逆』)

 

もっとも卑しいと見なされるのは、易々として人の意を迎える者、すぐ仰向けに寝転がる犬のような卑屈な人間。

(中略)

我欲が憎悪さえ覚える程に嫌悪するのは、決してわが身を防衛しようとしない者、浴びせられた毒ある唾や悪意の眼差しをも、黙って呑み込んでしまう者、どこまでも我慢強い者、すべてに耐え、すべてに満足する者だ。これこそ奴隷の性(さが)なのだ。

(中略)

へし折られ、ぺこぺこ頭を下げる者、仕方なくまばたきをして見せる目、抑えつけられた心、そして平べったい臆病な唇で口づけをするあの心にもない譲歩の仕方、これら一切を、幸福な我欲は下劣と呼ぶ。

またそれは、奴隷や老いぼれや疲労者が、まことしやかに語る一切を浅知恵と呼ぶ。

(白水社版 ニーチェ著『ツァラトゥストラはこう語った』 三つの悪)

 

むしろ世の中が大衆化すればする程、その大衆のためにエリートが必要である。必要なばかりでなく、益々エリートが出て来る。

なんとなれば大衆というものは政治性・政治能力というものを持たない。大衆はその場その場、その日その日の自分の生活そのものに生きておる。

他人や全体との関係、或いは十年百年先の問題等に対する感覚もなければ思想もない。だから大衆をそのままに放任しておけば、その社会は大衆心理というものによって動物的になるばかりでなく、あらゆる闘争・破壊・頽廃の中に落ち込んでしまう。

その大衆のために秩序を立て、規律を作って、大衆を混乱や破壊から救い、新しい価値・光明のある人間社会を建設してゆく、そういうエリートがなければならない。

(PHP文庫版 安岡正篤著『日本の伝統精神』)

 

三者三様の大衆批判である。

「こういう言いかたされると嫌だなあ」と思うのは当然だと思う。

彼らは俗にいう、「上から目線」だ。

現代社会で「上から目線」は嫌われるが、嫌うだけで、上から目線に真っ向から反発し喧嘩を吹っ掛ける、気骨・反骨精神のある個人を最近目にしなくなっているのも事実だ。他方、上から目線で他人を寛容することは、子どもを育てた親や部下を育てた上司を経験した者ならば誰でも持つ視点であろうし、悪いことばかりではない。たんに上から目線を嫌がるのは、奴隷根性の卑屈な精神が混ざっているからという場合もある。

私はこの三人には、特にニーチェと安岡先生には特別の敬意をはらって学ばせていただいているが、「そうじゃないだろ!」と反発するところは反発する。「信者」になればそれこそ畜群・隷属になってしまう。

感情を排して読めば(エリート目線であることを無視して読めば)、上記の内容に部分的に同意できる点が多々ある。

前の記事にも書いたけれど、隷従しひれ伏す人は、同時に、見下し支配する人でもある。支配的地位にいるような人でも、人を見下すような人(例えばエリート意識の強い人)は、力関係でより強い人に必ず隷従しているはずだ。卑しき隷属根性には、エリートと大衆の差は無く、或いはエリートほどその意識が強いのかもしれない。

三者三様の批判の中から、何かヒントをつかめそうな気もする。

 

ここで、日本の政界と大衆の関係を例にとってみよう。

上述のようなレベルの低い大衆がマジョリティーとなって政治家を選ぶ、民主政治のポピュリズムが悪い作用を及ぼしていると思える現代社会。大衆の顔色をたえずうかがいながらパフォーマンスを演じる政治家俳優たちが席巻しているという事実。

当事者意識の薄い観客である大衆が支持し生み出した政治家であるから、安倍内閣を批判するのは天に唾するようなものである一方、自民党内にも野党にも安倍総理の代わりとなれる政治家は一人もいない。或いは見えない。

これは日本だけの問題ではなく、トランプとヒラリーをのどちらかを選べと問われたアメリカ大統領選、いま行われているフランスの大統領選にしても同様ではなかろうか。

ゲームのトランプのカードで言えば、エースやキング、クイーン、ジャックに値する候補者は一人もなく、3~5あたりのカードを並べられてここから選べというようなものだ。

 

大衆がエリートと思われる人を選んだ結果が、今の現代社会である。

しかし、エリートは心魂が穢れている者ばかりかと言えばそうではないだろう。

何をもってエリートとするかについて、今までほとんどの場合、「知」や「能力」「経験」の表層、表に明らかになっていることのみをみて判断されてきた。

これからの時代は、その人間の本性・性根であるとか、心魂といった一人間の根源的価値を中心に、高貴な人であるかどうかを見極めていく方向へ向かうべきであろう。それはもちろん知性の否定であってはならないが、今までの「知」の地位を、「智恵」を経て「叡知」へと昇格させていくことが一つのテーマになるのではあるまいか。

 

大衆とエリートに振り分けて考えることは従来形式の一つの視点ではあるが、社会全体、社会を構成する国民全体を大衆としてとらえることも別の一つの視点として有効であると思う。つまりエリートも大衆なのだ。

自分を含めた現代人すべての畜群性、隷属性、当事者意識の希薄性等について、克服するにはどうしたら良いかを考えつづけ行動へ移していきたい。

 

 

大衆の克服(3)―克服の決意


前の記事の最後に「内心の承認欲求をすべて廃棄し」と書いた。さらりと。

反省している。
こういう総論総括的な結論を直観的に私は書き過ぎる。軽々に。

深省すれば、ダイアモンド並みの超硬度の壁と地球ほどの重量のある、百回ほど生き死にを繰り返してようやく扉をかすかに開くことができるかもしれないというレベルのテーマであった。

他者からの社会的評価に心ひとつ動かさない、自分としても自身の社会的評価を無視することができるのかどうか。「さすがだね」と心からそう言われて心ひとつ動かさない。できるのだろうか。それに、仮にできたとしてもなんだか湿度3%くらいに乾燥していて、人間味のないゾンビのようである。声をかけてくれた人の感情を害することにもなろう。

承認欲求については継続審議中のランプを点灯させておこう。

 

さて、今日も安易に書くか(苦笑)

 

引き続き、私を含めた現代大衆の「畜群根性」について考察を重ねていきたいが、テーマが大き過ぎることもあって、小テーマに分割し分析してみたらどうかと考えた。

どのようなジャンルに、私たちの大衆的畜群根性が発揮されるのだろうかと。

    1. 前記事で扱った、政治権力
    2. お金
    3. 宗教信仰
    4. イデオロギーや思想
    5. マスメディアや世論、マジョリティー
    6. グローバルスタンダードという価値
    7. 人の社会的地位、肩書、略歴
    8. 法律
    9. 科学

まだ他にもあるだろうけれど、どういうことかを簡単に説明してみよう。

「1億円あげるから土下座して靴をなめろ」まではいかないまでも、札束で頬っぺたを張られてお金に隷従してしまうかどうか。

宗教で、「キリスト神を信じない者は人間ではなくただの下等動物だ」「アラーの神を信じない者には天罰が下る」だとか、「ほかの宗教は一切邪道で悪だ(日蓮宗ほかいろいろ)」などと教えられ、他者をそういう目で見る信仰者かどうか。教義を絶対的真理として鵜呑みにし、盲従している信者。

政治思想で言えば保守かリベラルか、左か右か、自民党か民進党、ナショナリストかグローバリストかというラベリングに異様に強いこだわりを持ち、人を振り分けようとする人、自分が隷属しているところから敵対するグループを攻撃、排撃しようとする人かどうか。

マスメディアの言論に左右され、周囲がどういう反応を示しているのかを観察し多数派にまわり、「マジョリティーはこうだ」といちいち多数派を持ち出し説得材料にする人、説得されてしまう人であるかどうか。

自由や平等など、ポリティカルコレクトネスがグローバルスタンダードとして流行しており、世間もそれを善だとしているようだという理由で、「それは正しい」と妄信している人かどうか。本質的に根を深く掘り下げて、口ばかりペラペラと動かすのではなく、その価値が湧いている源泉を自分の目で確認し熟考を重ねている人かどうか。

目の前にアメリカ大統領トランプやロシア大統領プーチンが立っていたとして、気後れせずに対等の人間として堂々と握手ができるかどうか。「警視総監」「東京大学教授」などの肩書や経験的略歴の表面価値によって、他人を威圧しない人、威圧しないよう気づかいできる人。臆せず、おもねらず、媚びへつらわずの清明心があって、委縮しない人かどうか。

法律は絶対的だとして、「法的に問題ないのならそれでよい」という意見について何の反発も感じない、或いは直ぐに法律を持ち出し法の力によって相手をねじ伏せようとするタイプかどうか。科学についても同様である。自分の思考力を使って考えようとせず、外からの他律的判断に服してしまう人。

 

大衆的畜群根性に満ち溢れているような人は、上記の価値に隷従してひれ伏し、劣等感をおぼえ、または逆に優越感にひたり、他人を見下して支配しようとする人である。

隷従しひれ伏す人は、同時に、見下し支配する人でもある。

見下している人は、どこかで誰かに、必ずひれ伏している。

嫉妬心と虚栄心、隷属欲と支配欲はそれぞれ同根だ。

 

まあ、一つや二つ、幾つかに今の自分が当てはまったとしても仕方ない。現代的価値に対して畜群であることは、大なり小なり皆あるんじゃないかと思う。

要は、「これから」である。

 

これらひとつひとつに関して、丁寧に、根本的価値を考究し、人間のこうした気持ちはなぜ起こるのか無意識心理を探究し、大衆畜群根性の解決策は何かについて今後深く考え、社会的行動を起こしていこうと思う。

それぞれについて、自律と他律、内発と外発、受容と拒否、能動と受動、内罰と外罰、自罰と他罰、主観的内省と客観的事実認識、情動と理性、過去と現在の関係性、未来と現在の関係性にいたるまで、とことん考え抜いてゆこうと思う。

大衆ひとりひとりには、凜然として聳え立つ誇り高き山のごとく、自由で高貴な精神の端緒が、たったひとりの例外もなく誰にでも必ずある。

最も重要で、絶対に無くてはならないのは、決意である。

 

 

大衆の克服(2)―畜群根性


前の記事では「大衆」をフラットに見て書きました。今日の記事では「畜群根性に陥ってしまった大衆」として、「(大衆)の畜群性」を扱います。

「畜群」とは読んで字のごとしで、家畜化された群衆です。私も含めた大衆がもつ畜群根性を棄てていかない限り、民主主義は堕落してゆく一方になる。

 

今日はニーチェの辛辣な文章を引用していく。

善意があるのと同じだけ多くの弱さがあるのを、私は見た。正義と同情心があるのと同じだけ、それだけ多くの弱さがあるのを。

(中略) 結局のところ、彼らがひたすらに望んでいるのはただひとつ、誰からも、痛い目に合わされたくない、ということだ。

そこで彼らは、誰に対しても先手を打って善意を示す。
だが、これは臆病というものだ。たとえ「美徳」と呼ばれようとも。――

(中略)

人を慎ましく、かつ温和しくさせるもの、それが彼らには徳なのだ。それでもって、彼らはオオカミを犬にした。人間自身を、人間の最良の家畜にしたのだ。

(白水社版 ニーチェ著『ツァラトゥストラはこう語った』小さくする徳2)

 

世のマジョリティーの声に従順であること。当たらずさわらずの日和見主義。ことなかれ主義。そうした姿勢は、自分が痛い目に遭いたくないという保身、臆病さから出てくるもので、当事者意識を薄くし、責任逃れをしているわけです。当たっているでしょう?

集団のひとりとして紛れ込んでいれば目立たない。責任は集団に押しつけるか、集団のリーダーに押しつける。何かの抗議デモなどを見ているとよくわかりますね、「一個人(の自立と責任)」不在ということが良くわかる。デモの安全を保障され、雰囲気に酔って気分を高揚させなかなか楽しそうではある。

しかしかく言う私も、日本という国家に国としての責任を押しつけ、首相をはじめとする政治家に責任を押しつけている大衆のひとりです。国のために、日本国民の一個人として、自己責任をしっかり負える形での行動をしなければ畜群のそしりは免れない。

始めてはいますが、まだまだ道遠しであります。

 

結局、畜群根性の大衆が、畜群根性の親玉を政治家として選んでしまう。

ニーチェは次のようにそれをつく。(文意を壊したくないために少し引用が長くなりますが、ニーチェのなかでは比較的解りやすい文章だと思います。)

(人間は) 要するに「なんじ為すべし」と命じるものへの欲求を、生まれながらにしてもっている。

そしてその際、その強さと性急さと緊張に応じて、粗暴な食欲のように、ほとんど選り好みをせずに手を伸ばして、誰か命令する者――両親とか、教師、法律、身分上の先入観、世論など――によって耳に吹き込まれるものがありさえすれば、それを受け入れる。

(中略)

この本能が放埓(ほうらつ)の極にまで達する場合を想像してみると、ついには命令する者や独立した者がまさにいなくなってしまうか、あるいは、これらの者が内心、良心のやましさに悩んでいて、命令しうるためにはまず自分自身をごまかしてかかる必要がある、つまり、自分たちもまたただ服従しているにすぎないかのように見せかける必要がある、という状況にたちいたるのだ。

このような状況が今日のヨーロッパには事実生じており、私はこれを、命令者たちの道徳的偽善と呼んでいる。

彼らは良心のやましさから身を守るために、自分たちがより古くより高い(祖先や、憲法や、正義や、法律や、神すらも)命令の実行者であるかのように振舞うか、あるいは、畜群的考え方から畜群的な格率を借りて、たとえば「自らの民族の第一の僕」とか、「公共の福祉の道具」といったようなふりをする以外の道を知らない。

他方において、今日ヨーロッパでは、畜群的人間が自分こそ唯一の許された種類の人間であるかのような顔をして、自分を温良で協調的で、畜群にとって有用なものにする自らの性質を、本来の人間的な美徳として賛美する。すなわち公共心、好意、顧慮、勤勉、中庸、謙遜、寛容、同情などである。

しかし、指導者や先導者なしではすまされないと思うような場合には、今日では試みに試みを重ね、賢い畜群的人間を寄せ集めて、命令者の代理をさせる。たとえば、すべての代議制度がこのような起源をもっている。

(白水社版 ニーチェ著『善悪の彼岸』199番)

 

人間には「確たる何かからの命令に従いたい」という欲求があるとニーチェは言う。

19世紀のヨーロッパの民主主義と大衆の関係を例に挙げていますが、21世紀の日本やアメリカの政治にも見事に当てはまる。「独立自尊」の政治家など一人もいません。なぜなら高貴な大衆がマジョリティーとなって選んでいるのではなく、堕落した畜群の大衆がマジョリティーとなって選んでいるからです。そうして今の日本の超軽量政府がある。しかも代わりがいないから他が担当するよりマシだと判断するしかない。自省を含めて書いている。

政治家は国家の第一の僕としてふるまい、大衆ファーストのふりをして大衆に責任を押しつける。それが現代の民主主義の惨状だ。まさに政治家自身に畜群根性が染みついている。

公共心や中庸、勤勉、謙遜、寛容、同情などが本質的に悪いのではなく、畜群たる大衆を納得させるために指導者(命令者)がそれらを表面上の美徳として飾り、道具化していることをニーチェは批判している。

欺瞞と自己欺瞞が世にはびこっている。

 

では、私たち大衆はどうしたら良いのか。

ニーチェはこう語る。

まず、意欲することのできる者になれ!
いつの時も、おのれと等しく隣人を愛せよ――だがまず、おのれ自身を愛する者になってくれ!
――大いなる愛をもって、大いなる軽蔑をもって愛するのだ!

(白水社版 ニーチェ著『ツァラトゥストラはこう語った』小さくする徳3)

 

命令に対し盲目的従順にならず、自らの意志で、自ら意欲せよとニーチェは檄を飛ばす。

彼はキリスト教を批判し隣人愛も痛烈に批判したけれども、ここでは隣人愛を肯定しているのです。隣人愛の二義性がうかがえる貴重な文章です。

「大いなる愛をもって」とは、逆を言えば、小さい不十分な自己愛では自分を慰め甘やかすだけだということ。

「大いなる軽蔑をもって」とは、未来に自己克服した自分を想定し、そこに視点を置き、現在の自分を見て軽蔑することと私は解釈しています。自分に対する可能性を信じろということでもある。

ニーチェの『超人』思想というのは、自己克服した超人像を未来へ自己投企するという解釈ができると思います。神に対する単なるアンチテーゼではなく。超人像をどうするかは個人の自由。「綱渡り師」は「道化師」を超人像にしてしまい綱から落下して死んでしまった。『ツァラトゥストラ』での超人をそう考えると点が線となって全部つながってくる。ハイデガーはニーチェの超人をヒントに投企という概念を造語したと、ここも繋がる。

さて、この「軽蔑」にしても二義性があって、悪口や皮肉として批判しているというふうに表層だけを浅く切り取ってしまうと、ニーチェの深みを感じとれない。もったいない。最初は私もそうだったんですけどね。

「軽蔑」や「畜群」といった悪辣なことばの表現がニーチェの書にはたくさん出てきますが、それは単なる批判や非難ではなく、ニーチェの場合は大いなる愛なのです。「このような人間を軽蔑する」という文言は、その種の人間の可能性をみている。

「自分に対して、大いなる軽蔑をもって愛する!」

 

謙虚、自省、自らへの叱咤、そうした善人的意味、向上心的意味を一切加味せずに、未来に投企した超人像の視点から、真っすぐに軽蔑せよということと受けとります。

自分のなかにある畜群根性に対して。

 

そして、内心の承認欲求をすべて廃棄し、独立自尊、純粋な意志で意欲していこう。

 

 

大衆の克服(1)―トップダウン意識は誤り


まず始めに「大衆」のことを考えてみたい。

私たちが「大衆」という言葉を用いるとき、それは国民の集合体なのか、マジョリティーなのか、ふつうの一般市民なのか、愚民の意味を孕んだものとして若干の侮蔑の意を込めるのかなどについて、自分なりに色を付けて解釈していると思います。

書き手の文脈にも、読み手の文脈にも左右されるのですが、今日は、政治家(行政指導者の長)だけを除き、自分自身をも含めた一般市民を大衆と呼ぶことにします。

 

現代日本の政治は愚かな大衆迎合政治。

民主主義とは単なるポピュリズムなのか。

 

興味深い一文を発見したので引用する。

一人の人間が矛盾のかたまりである以上、大衆もまた矛盾の存在であって、〈大愚〉と〈大賢〉の両要素を合わせもつ。

従って「大衆の側に立つ」ということばのアヤに寛容であってはならない。

大衆の内部にある〈大賢〉の要素をつちかう努力だけが大衆の側に立っている。いかに大衆の喝采を浴びようとも、その〈大愚〉の要素に媚びたり、それを助長している行動は大衆を大衆の敵に売り渡している。

(評論社版 むのたけじ著『詞集たいまつ』)

「大衆の側に立つ」とはなにか。

大衆が〈大愚〉の要求をし政治家が大衆ファーストを推進するとき、政治家は大衆から拍手喝さいを浴びることと引き換えに、「大衆を大衆の敵に売り渡している」とむのたけじは言うのである。

ポピュリズムや大衆政治という言葉が使われるときには、たいていその愚かさを批判することが多い。しかし、大衆が「大賢」であることが民主主義の前提であるということを忘れてはならない。

 

民主主義とは本来、ボトムアップ型であり政治家は権力者ではない。大衆側に権力がある。それなのになぜ政治家が権力をもっている“ように思える”かと言えば、大衆の意識が前時代的な「政治家+官僚=お上」だからである。

民主主義がもし機能するとすれば、大衆の自己批判と、自分は大愚ではないかどうかを吟味する姿勢が必要不可欠だ。私たち大衆は大賢にならねばならない。その自覚をもたねばならない。権力者であるという自覚をもたねばならない。

政治家や官僚から大衆へのトップダウンスタイルは、大間違いなのである。民主主義において彼らは、「指導者」ではないのだ。

私たちは、真の民主主義の扉を開く歴史的地点に、今立っている。

 

 

社会からの多様性要請は疑問


多様性(ダイバーシティ)に対応することがうるさく言われる時代になりました。ダイバーシティはポリティカルコレクトネスを主張する運動によく表れています。

以下、Wikipedia から引用します。

ポリティカル・コレクトネス(英:political correctness、略称:PC,ポリコレ)とは、日本語で政治的に正しい言葉遣いとも呼ばれる、政治的・社会的に公正・公平・中立的でなおかつ差別・偏見が含まれていない言葉や用語のことで、職業・性別・文化・人種・民族・宗教・ハンディキャップ・年齢・婚姻状況などに基づく差別・偏見を防ぐ目的の表現を指す。

1980年代に多民族国家アメリカ合衆国で始まった、「用語における差別・偏見を取り除くために、政治的な観点から見て正しい用語を使う」という意味で使われる言い回しである。「偏った用語を追放し、中立的な表現を使用しよう」という運動だけでなく、差別是正に関する活動全体を指すこともある。

この運動は日本語など英語以外の言語にも持ち込まれ、いくつかの用語が置き換え(または言い換え)られたが、しばしば伝統的な文化や概念と対立するなど、逆差別といった問題を引き起こしている。

 

個人人格の多様性、文化の多様性、かかわり方の多様性などを理解し、差別や偏見をなくそうという運動です。この運動は、自由を尊重し他者の価値観に対してはものわかりの良い人になりましょうとの目標を私たちに植え付けています。

一方で、例えば同性の結婚の自由が尊重されるのに、結婚は1対1でなければだめだ、夫婦関係以外で子どもをつくってはだめだ、結婚後は夫婦の相手以外に恋愛関係をもってはだめだなどと社会からの強要度が高くなりました。そもそも個人間の自由であるにもかかわらずです。ポリコレは明らかな矛盾を抱えています。

同性婚を認めるならば複数婚も認めるべきだ、結婚後の自由恋愛も認めるべきだ、他の人との子作りも認めるべきだ、結婚という定義も変えるべきだというのが私の主張です。一組の男性と女性が一緒になって子供をつくり家庭を築くこと、それが争い少なく種の保存を続けようとする、生物としての人間の自然な生態です。そのための契約を結婚という制度だと社会は定義した。定義をそのままにするのならば私も同意です。それを覆すのであればそもそも結婚制度など必要ないではありませんか。

 

また、社会的弱者を尊重するあまり、弱者モンスターやマイノリティモンスターが次々と生まれています。ポリコレは良いことばかりではありません。

トランプ大統領の誕生は、ポリコレ疲れが一番の原因だと述べる有識者は多い。ものわかりの良い人になるという心理負担はけっこう大きいものだと思います。ストレスからの揺り戻しが起きているのかもしれません。

「多様性を理解するように努力しよう」から、「多様性を認めろ」「多様性は権利だ」という社会からの要請に変化してきましたが、であれば、「自由よりも秩序を重視する」「男女の個性の違いを重視する」という価値観であっても多様性として認めなければならない。

 

ここから導かれる結論は、「多様性を認める社会」ということのみをもって、一元的原理主義的に考えて運動を行うことは、逆差別に繋がったり、全体主義に繋がってしまうということです。自由を標榜したはずが不自由になっていく。自分で自分の首を絞める、自縄自縛。

全体主義というとすぐに右翼軍国主義を想像するかもしれませんが、共産主義や社会主義も全体主義へ簡単に変質しますし、ナショナリズム、グローバリズム、リベラリズムでさえも一元的原理的に社会から要請されるようになれば、全体主義へ向かいます。

今、日本を覆っている閉塞感は、「刺激的な言動など何かやらかすとインターネットで徹底的に叩かれる。吊し上げられる。全体から強い圧力がかけられる」という、ポリコレが原理主義として作用することで許容範囲が狭まり、全体主義的雰囲気が漂い出しているということがあると思います。

 

私は多様性について反対ではありません。むしろ大賛成。

個人的には社会や他者から何を要請されようとも、そもそも私は常に自由であるので意に介しません。けれど他人は自分ではないのでできることとできないことがありますよね。

いろいろと考えてみたのですが、多様性の社会を実現するには、それぞれの個人のなかに多様性を造っていくことではないかと思うに至りました。個人個人が一元的原理主義的にならないこと、一つの真理や理想を求めないこと、自分はこういう人間だと自分にレッテルを貼らないこと、柔軟性と剛直性を同時にもつこと、他にもいろいろあろうかと思います。

例えばナショナリズムとグローバリゼーションは自分のなかに共存させることができる。実在論と観念論も自分のなかに共存させることができる。自由と連帯もそうです。男女平等の思想、男女は違うのだという思想も自分のなかに共存できる。

要は自分の内側に多様な価値観と性格性を造ること、そうした人がひとりふたりと増えていくことによって、ポリコレの運動など一切することなく、社会から要請されることもなく、自然に多様性を認める世の中になるのではないかと考えます。

 

 

信頼を考える


先週からコピーライティングの本を4冊ほど読み漁っています。プラス「仕掛学」の本も面白そうだったので読んでいる最中なのですが…。

広告業界のコピーライトの世界は思ったよりも奥が深くて、これは心理学の応用、しかも深層心理学(無意識)にまで食い込んできています。また、「仕掛学」は間接的に無意識を利用するという面で似ている分野です。

単純に言葉のテクニックではないかなどと考えていました。ところが、コピー(言葉)よりも重要なのは「信頼」だということが書かれていて脳天ぐさりです。ふつうは「商品価値」を最もPRしたくなりますが、これは三番目で、四番目が「価格」。で、一番は「信頼」。二番は「好奇心をくすぐって持続させること」、そのように理解できるようになりました。

重ねて言いますが、奥が深い。

信頼。これはマズローの五段階欲求の第二段階にある、「安全」を思い起こさせます。安全な会社であること、信頼できる経営者であること。お金をだまし取られないこと、商品が安全であること。アフターフォローが安心できること。そうしたところを無意識のうちに探している。自分に当てはめても確かにそうでした。

 

前記事の最後のほうで「信頼」について少し書きました。そして功利主義や打算、ソロバン勘定は駄目だと大塩中斎が言っている、安岡先生も言っていると書きました。

そうしてみると、「信頼」を目標に置いて目的的に思考し行動することについても、厳密にいえば功利主義ではないかと考えるに至りました。ましてキャッチコピーに「信頼できる会社です」だとか「信頼してください」などと謳うのはナンセンスで逆効果ですね。

信頼を築こうとして目的的に考え、例えばその一つの手段として「約束を守っていこう」とした場合に、功利的だから駄目なのだろうかと考えてしまうわけです。

ではその反対に、「約束を守ろう」と決めて、それがずっと続けば信頼を得られるかもしれないと考える場合はどうか。これもなんとなく功利的に思えてくる。

功利的ではないということはどういうことか。約束を守ろうとも思わず、信頼を得ようとも思わず、内発的に無意識のうちに口が動き身体が動いている、その結果なぜだかわからないが信頼されている、いや、信頼されているとも考えない状態なのかもしれません。

しかし、常人でこんなことは可能なのだろうかとも考えるわけです。

これはもう悟りきった仙人レベルなのではないかと。

 

たしかに純粋な心から内発的に出てくる言動や行動は美しいです。すばらしいですよね。でも、目的的に功利として考えることがそれほど悪いことなのかとも思います。人類は目的的に考えることで文明を進化させてきた側面が大きいとも思います。

自分の利益だけを考える下衆なソロバン勘定は良いものではありませんが、事業には数字の事業計画が付きまといますし、というかそれがないと駄目ですし。目標とする結果を決めて、そのためにはどうするかを考える功利主義も半分あって良いのではないかと思うようになりました。目標を貫徹しようとするとき、多くの他人が必ず絡みます。ときには打算も必要でしょう。

 

いずれにしても「信頼」です。信頼される人になること、信頼できる社会や法人を作ること、これだと思います。

そのために、誠実さ、勇気と志、義理と人情、愛情、情操、矜恃、使命感、正義感、継続力や忍耐力など、そうした資質や能力、パーソナリティーが求められてくるのでしょう。

まだ整理がついていないので、引き続き考えてまいります。

 

 

※前記事で、「なぜなら欧米では、「自分の内」のことは教会(宗教)の教条主義によって強制的に造られるからです。アラブの世界でも同様ですね。」と書きましたが、宗教のドグマによらず、無信仰者として「立派な人間とはどうあるべきか」を子どもに教える親もいるのかなと考え直しましたので、訂正したいと思います。日本でもドグマチックに教える宗教もありますし、ステレオタイプでレッテルを貼ったのは私の至らなさであります。(後日修整しておきます)

 

 

大阪との縁


2日ほど空けてしまいました。

と言っても毎日書くぞ宣言はしていませんし、毎日チェックしに来てくださる方がどれだけいるのかわかりませんし、でも、言い訳させてください!

 

実はインフルエンザにかかり重症となって病院に運ばれ、集中治療室でべっぴんの看護師さんに看取られつつ、意識が遠のき・・・

三途の川がひたひたと流れるなか、一歩一歩とわたっていると、は!くじらがいるじゃないか!

で、目が覚めたというわけで健康体だけが取り柄です。写真はずいぶん前の日赤の写真です。ここで大変お世話になって、今も二年に一度くらい検査に出向いています。

 

言い訳第2弾!

実は警察に留置されていました。そう、俗称よんぱち、四十八時間拘束の留置で4畳半ひと間の牢屋で暇をつぶし、ぐだぐだと長ったらしい調書をあくびしながら書いている刑事に付き合わされていたいう。

というのも真っ赤なウソで安心してください。

でもね、写真のところへ26日に行ってきたんですよ、これはマジ。

以前は近所だったんですが、今は離れたところに住んでいるので超久しぶりで。でも、なーーんも変わっていませんでした。

なにしに行ったかと言えば、運転免許証の更新手続きで。しかしねー、立派な警察署の裏手にある写真のようなプレハブですよ!ここで数十年前に住所移転(転入)手続きしたんですけど、まーーったく変わってなかった。

天下の田園調布警察署ですよ。

大田区って競馬場があったり競艇場があったり、高級住宅街があったりで地価も高く、23区のうちでもかなり税収に恵まれている区なのですが、いい加減プレハブやめれー!(苦笑)

ここで30分の講習を受けて手にしたものは。

初めてのゴールド免許です。

私にとって天然記念物です。2月が誕生日なんですけど、前回はうるう年記念で2月29日に講習受けに行ったのですが、今回は1月に。生まれて初めての1月更新。だって次回はゴールド無理でしょ、たぶん。だから長く持っていたいなと。5年後の更新は3月ですね。

で、皆さん知ってましたか?

12桁の免許番号に意味があるんですよね。ネット検索すればわかるけど。

最初の二つの数字、私は「62」なんですが、これは大阪府公安委員会が初回発行した免許だってことなんです。東京は「30」です。次の二つの数字は1980年に取得したから「80」ということです。

しかし、平成34年まで有効って書かれていて、もうその時は平成ではなくなっているので、もしかしすると忘れてしまうかも?

 

運転免許証って滅多なことがなければ再試験を受けて取り直すことはないですよね。つまり、この「62」は一生涯私の身から離れないわけです。大阪の門真っていうところの試験場で免許取得したんですけど、今もその時のシーンを覚えてますよー。

仮免は東京府中で取って、仮免有効期間が1年あったんです。でも、休みなしで一日15時間くらい働いていたので教習所へ行けず、一発試験です。3回落ちました。受験にもなかなか行けず3か月に1度くらい。

で、4回目、これで落ちると仮免が失効になるという背水の陣。土壇場も土壇場。そして、あああああ、なんかミスした。でもね、横に乗っていた係官の人も最後だって知っていたんだと思います。

おお!黙って合格にしてくれた大阪の人情係官!

 

東京で仮免取ったのも一発試験で、その時は6回目で合格したんですけどね(苦笑)

だってほぼ練習しないんですよ。未公認の練習教習所みたいなところへ数回行っただけだし。ふつう無理だろ。

でもお金は掛からなかったかな。総額で5~6万くらいかなあ、未公認練習代入れても。

 

一生、大阪との縁が切れない、ずっと大阪が肌身離れずここにいるっていうことがね、なんだかすごく嬉しいんです。

 

かならず大阪へ恩返しに行くで~!

待っといてや~!

 

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