自然な矛盾的自己同一


私は宗教にかんして無信仰ではありますが、「家」的には臨済宗円覚寺派の檀家でありその当代でもあります。お寺さんにはお墓を守っていただき大変感謝しています。故人の何回忌かの法要に代表として出向く以外は、盆暮お彼岸も伺わない不義理者でございます。稀に気が向いた何でもない日に立ち寄ったりはします。

それでも、宗教は人の心を救うものとして価値があると考えています。恥ずかしい話ですが愛猫が亡くなったときには、宗教に頼ろうかと書店をうろついたことが一度だけありました。両親が亡くなったときには何ともなかったのに、愛猫のときにはどうしてああなってしまったのか説明がつきません。と言いますか、あの心の「感じ」は言語化できるものではない。

そんなことを想起しつつ、西田幾多郎の『善の研究』第4編第1章の〈宗教的要求〉のページを開いていると、次の言葉が目に留まりました。

個人的生命は必ず外は世界と衝突し内は自ら矛盾に陥らねばならぬ。ここにおいて我々は更に大なる生命を求めねばならぬようになる、即ち、意識中心の推移に由りて更に大なる統一を求めねばならぬようになるのである。

かくの如き要求は凡て我々の共同的精神の発生の場合においてもこれを見ることができるのであるが、ただ宗教的要求はかかる要求の極点である。

我々は客観的世界に対して主観的自己を立しこれに由りて前者を統一せんとする間は、その主観的自己はいかに大なるにもせよ、その統一は未だ相対的たるを免れない、絶対的統一はただ全然主観的統一を棄てて客観的統一に一致することに由りて得られるのである。

(岩波書店版 西田幾多郎著『善の研究』)

 

「哲学の動機は深い人生の悲哀でなくてはならない」と有名な言葉を残した西田は、かわいいさかりの娘を亡くしました。その後に『善の研究』が書かれたのですが、その前の著書に次の記述があります。

若きも老いたるも死ぬるは人生の常である。(中略)人は死んだ者はいかにいっても還らぬから、諦めよ、忘れよという、しかしこれが親にとっては耐え難き苦痛である。時はすべての傷を癒すというのは自然の恵みであって、一方より見れば大切なことかも知らぬが、一方より見れば人間の不人情である。何とかして忘れたくない、何か記念を残してやりたい、せめてわが一生だけは思い出してやりたいというのが親の誠である。(中略)この悲は苦痛といえば誠に苦痛であろう、しかし親はこの苦痛の去ることを欲せぬのである。

(岩波文庫版 西田幾多郎著『思索と体験』)

 

西田の場合は「子を亡くす」ということでしたが、誰でも本当に愛した者を失ったときというのは同様の体験をするのではないかと思うわけです。深い悲しみのなかで、苦痛の体験は辛過ぎるほど辛いのでありますが、その苦痛よりも忘れてしまうことのほうが辛い、というか恐ろしい、否、けっして忘れてはならないという魂の叫びが心の底から湧きあがるのです。

魂の叫びに順じて生きることが人間の「おのずから」の自然体です。自我の理屈によって悲しみの苦痛を制御しようとするのであれば、それは、大自然の摂理に適っていないのではないか。人間にはそうした「魂の聖域」が確かにあると実感するものであります。

本居宣長は「悲しむべきときは悲しめばいい」と述べましたが、まさに、純粋に悲しむということに何の理屈も必要ない。ただただ悲しむ。西洋思想では悲しみは負の心だとされ、インド仏教では悲しみは苦悩であり煩悩だとされた。しかし、日本の古典的思想では悲しみに是非はなく、「魂の聖域」を全面的に信頼し自我を委ね、純粋に「在って」、純粋に「成って」、それが何よりも貴いことだった。と私は考えます。

 

西田の「絶対的統一」は客観世界の中に自我が溶け込んでゆく方向の一体化で、宗教的要求はその極点だと言います。私は「絶対的統一」が目的化するのなら、それは違う、不純ではないかと感じます。

この宗教的要求という言葉は、ある一つの宗教ということではなく「宗教的」というぼやけた概念で表現していますが、私が「魂の聖域」を実感することも「宗教的」の範疇に入ってくるのだと思います。

冒頭に、「内は自ら矛盾に陥らねばならぬ」と述べていますが、人間は肉体も心も、まったく矛盾だらけで一個のカオスであるとも言えます。正しく善く生きようと思いながら生きてゆく人がほとんどだとは思いますが、なのに、利己的な損得勘定や打算、自己欺瞞を抱え込む。無意識に嘘をついている、或いは利己へ誘導しようとしているということに、みずから気がつかない、魂は知っているのに自我は気がつかないふりをしている、そしてそれを直視しようとしないのが人間の愚かさです。

矛盾と言えば人間だけでなく植物もそうで、なぜ木のすがたは前後左右対称ではなく不規則に枝分かれしてゆくのでしょう。科学やデジタルでは内的に矛盾を孕んでいる生命体をゼロから創れないのではないかと思います。

地球は確かに球体ですが完全な球形ではなく、更に、陸地や海の在りかたは出鱈目と言っていいほど整っていない。人間の論理や合理性では到底量ることのできない大自然の矛盾があります。

 

理屈や理性による心の整理や心のコントロールというのは空想であって、魂の少しの抵抗にあってもろくも崩れ去るものです。

心は矛盾していて、それでこそ、生きていると言えるのではないでしょうか。

 

 

 

きよきあかきこころ―純日本思想


『古事記』や『日本書紀』に見られる「清(きよ)き明(あか)きこころ」について、私はこの心が日本人の原点であると考えています。そして何よりも大切にしています。

清き明きこころを実践できているかどうかと自問すれば、まだまださっぱり駄目なのですが。

この言葉の中には、純粋な日本人の哲学が凝縮されて詰まっているように思います。

端的に言えば、「きよきあかきこころ」さえあればほかに何もいらない。

9文字に込められた純日本思想とはなにか、なにがこの言葉を創らせたのかを考えます。

 

倫理学者の相良亨(1921-2000)は次のように述べています。

キリスト教は、宇宙は神によって創造されたものであるという。そこには「つくる」論理が働いている。しかし、これとは対照的に日本の神話は、この世界を、なりゆく世界として捉える。内在するムスビ(産霊)の霊力によって不断に内発的になりゆく世界である。キリスト教的な「つくる」論理ではない、「なる」論理がここにはある。

日本人は、歴史を「つぎつぎになりゆくいきおい」とうけとる。それは、いいかえれば、「おのずからなりゆくいきおい」である。そこには、ことの本質、あるべき秩序の観念はなく、「おのずからなる」という「自然的生成の観念」が中核となっている。

(ペリカン社版 相良亨著作集 『日本人論』)

 

キリスト教的考えかたは、「外からこの大自然が創られた」であり、この考えかたはそのまま、「人間が自分の外に何かを創りだす」に転化され、「外につくる」という思想がヨーロッパ文明を発展させ世界のけん引役となってきました。20世紀が終わるまでは。

人間の心を創るのでも、外からの「宗教の教え」によって自分のモラルを高めてゆこうとする方向で、これはインドで生まれた仏教も、中国で生まれた儒教も同じです。

ところが古(いにしえ)の日本人(大和民族)には、大自然の中からニュートラルに人間が生まれてきたという、西洋とは全く逆方向の思想が根付いていたことがわかります。相良氏が述べているとおり、「できちゃった」んだから仕方あるまいと、その原因は常に内側にあるという思想です。

人間の心は大自然によって「成って」いるものであり、良いことをするも悪いことをするも、すべて内側から自然にそう「成って」しまうものとして捉えます。

国学者の本居宣長は、仏教や儒教の教えに対し、特に仏教批判が激しかったのですが、儒仏の教えは「大自然に摂理にそむき、外部から人間に強いるもの」であるとしました。

乱暴に言うのならば、こころにおいて結果から原因を考えるという合理性の放棄であり、内側と外側を対象化させた争い自体が無かった。例を挙げれば、「弱い自分に打ち克つ」なんていうのは全く考えられなかったわけです。

清き明きこころの成すがまま、これを最も貴い心のロールモデルとしました。

非合理ですが、清き明きこころを「つくろ」うとはしなかった。誰もがみなそうだという性善説でもありませんでした。ただ、ロールモデルがあっただけです。

その後の上代では天皇に対する臣下の忠孝の心として清明心は利用されましたが、江戸時代には「誠実(まことのこころ)」という違った形で清明心が現れています。

 

唯一の真理として、清き明きこころが素晴らしいと言いたいのではありません。

西洋もインドも中国も日本もいろいろ入り混じったカオス状態のなかから、新しい価値創造が無意識下で行われるのではないかと、そのように考えています。

ただ私的には、清き明きこころを核心に据えておきたい。

 

 

1ヶ月で5億年の生物進化


三木成夫さん(1925-1987)という医学者が書いた本によると、人間の内臓は宇宙のリズムに呼応しているらしいです。そして赤ちゃん受胎後30日からからわずか1ヶ月で魚類から両生類、爬虫類、哺乳類の5億年の変化を三木さん自身が確認したと述べています。

1ヶ月間で生物進化の5億年分というのは凄過ぎる。女性の体の負担も相当でしょう。

今後、この仮説が検証されるかどうかは分かりませんけれども、人間には植物の記憶もある(海洋性植物)という説にも、私は「そうかもしれない!」とロマンを感じるタイプです。

おそらく現実主義的、科学主義的、頑なに見えた世界だけを信じるタイプの人が現代ではマジョリティーだと思います。そうした方々にとっては血液型のミステリアスなども含め、まったく興味が湧かない分野だとも思います。

可能性にロマンを感じない方々にとっては、上記の1ヶ月間5億年という仮説も、トンデモだとかオカルトだと評価するに違いない。三木さんは血液型の世界分布のことも書いてらっしゃいます。

可能性に視野を広げるも閉じるも人それぞれで良いと思います。

 

 

関係あるかないかわかりませんけれども、疲れ目や目の充血で皆さん説明書きなどを読みますか? どの目薬を買うかの判断は、価格もあるでしょうけど、最も優先するのはどんな価値でしょう?

私の場合は、素敵な印象の目薬です(苦笑)

カラーとボトルを見ているだけで、なんだか目が良くなってくるような気がしてなりませんが、同じような人もたぶんいるのでしょう。この目薬がAmazonで売れ行きナンバーワンだそうです。成分や説明をほぼ読まない私には納得。

 

さて、先日、「ひらめき」に関連して、「無意識の願望」があるんじゃないかという、ある方のブログ記事を読みまして、ここ2日間くらいそのことが頭から離れなかったのですが、思いつくままに書いてみます。

まったくそのとおりだと同感しました。無意識の中に、強く「テーマ(題材)」として引っ掛かっていることに対して創造の閃きが起きるのは間違いなさそうです。そしてそのテーマというのは、自分にとって楽しく素敵なことで、閃くとわくわくすることで、その閃きを待ち望んでいる無意識の願望がきっとあるんだと、そんなふうに考えました。

ただちょっと異なっていると思ったのは、私にとっての閃きは「知」(補完する知識)の閃きではなく、「シーン」なんです。新しいアイデアの全体像みたいなこととして閃くのです。不足しているピースが何かというのではなく、無意識の中で、幾つかの知恵や方程式同士が勝手に化学反応を起こして新しい化合物を創造作品として提案してくる、そんな感じの閃きです。

そこにはやはり、頭で考えるというだけではなく、むしろ、脳以外の「からだ」とか「こころ」とか、具体的に言いますと、肝臓だとか血管・血流、心臓、内分泌系ホルモン、大腸小腸あたりが活発になにかうごめいている感じがあって、それが脳の記憶と合わさって耳の奥からイメージされてくるみたいな、特に、朝起きたとき、深夜にぼーーっとしているときが多いんですけど、日中もあります。ひとりでリラックスしているときですね。

先ほどの「無意識の願望」が強いときというのは、知らず知らずのうちに、目や耳で、情報を無意識が拾い出している感覚があります。

そしてアウトプットしているとき。先日来より、ニーチェの『ツァラトゥストラ』の読み解きをアウトプットしているのですが、驚くことに、あそこに書いた内容は、アウトプットし始めてから関連性に閃き、書き直したものが大半です。集中力が恐ろしいくらいに研ぎ澄まされる。無意識が活性化している感覚。アウトプットし始めるとどんどん想像力が増強されて、それまで気づけなかった微かなことに、ざわっとくるんです。まるで皮膚で触れたかのように。

 

そうしたことを考えていますと、冒頭に書きました三木成夫さんの直観をもっと知りたくなってきました。人間の無意識の可能性を開くための素晴らしい知見に出会うことができたと感動しています。

 

 

 

弱者の声を代弁する方々


「がん患者は働かなくていい」という発言が自民党の大西英男議員からありました。がんには完治はなく、とりあえず、悪性のがん細胞が無くなった状態を寛解と呼びます。寛解した人も「がんサバイバー」というふうに呼ばれるのですが、かくいう私も、がんサバイバーです。

大西議員の発言は、この方の人間性を如実に表しているもので、発言が軽いだとか失言だとかというレベルではない。これにかんしては今後も叩かれるのでしょう。

議員さんの資質どうこうの話は珍しくもなくどうでも良いのです。私にとっては。

 

さて本題です。「がん患者は働かなくていい」と言われて、私はまったく痛痒を感じませんし、寛解する前の状態であっても、がん患者として差別されたことに、1ミリも傷つくことはありませんでした。

もっとも、海外で白人から差別された時にも、或いは子供の頃チビだとけなされた時にも、1ミリも傷つくことはありませんでしたし、その他のことでも、自分が侮辱されたり差別されたりすることで心が傷つくことは、正確に言えば傷ついたと感じたことは、生まれてから一度もありません。

明らかにそういう目で、相手が喧嘩を吹っ掛けてきているときは、こちらから先制攻撃したことはありますが(苦笑)、まあ、そんなときでも心が傷ついたと感じることはない。

原因を考えてみたのですが、十代から二十代前半にかけて勝手に心が鍛えられる環境に身を置いていたと思われ、完全な耐性ができてしまっているのかもしれません。

一般的ではありませんよね、変わっている人だと思ってくださって結構です。

何を言われても心にダメージを受けないということではなく、ごくわずかな一部ですが、普通の人とは違うところにポイントがあるようです。どこだか言いませんし傷ついても言いませんけど(苦笑)

 

なので、「がん患者の皆さんに対して酷い発言だ」とか、「がんサバイバーの皆さんの心を傷つけた」(昨年の都知事選で誰かが言ってましたね)とか、そういう「皆さん」のなかに入れられてしまうのは、腹立たしいのです。

というのも、そうして「皆さん」というステレオタイプを使って、私のことも無断で利用して(冗談ですよ、苦笑)、相手を攻撃する材料にしている心性がいやらしいなーと思ってしまう。

がんサバイバーである三原じゅん子さんが個人的に侮辱されたと感じて怒るのは自由であり、侮辱や差別発言で心の傷つく人が多いことも知っていますので、政治家としての立場もあるでしょうし、三原さんが声を挙げるのは理解できます。また、懸命にがんと闘っている奥さんの気持ちを考えて海老蔵さんが怒りのコメントを発すれば、応援したいと思います。

でもなぜか、がん患者でもサバイバーでもなく、身内にいるわけでもなく、何でもない人が一緒になって「そんなことを言ったら、がん患者さんたちが傷つくだろ!」と怒りの声を挙げる様子をみると、人間の自己欺瞞をつくづく感じます。

差別しているのはそういう人たちも同じなのに、気づかないふりをしているのか、気づいていないのかわかりませんが、弱者の味方の正義ぶって集団の傘に入りこみ、がん患者やサバイバーを無意識下であっても自分よりも弱者として扱い、自己満足しているのはいかがなものでしょうか。

「代弁してやってるんだぜ」と言うのかもしれませんが、頼んだ覚えはない。たぶん、誰も頼んでいないと思いますが。

 

明らかに巨大権力の横暴だとわかるときには、「集団の圧力」「群衆の声」によって闘うというのは十分理解できますし、みこしに担いだ聖者が代表となって戦ってくれる、その背中を押してやろうとする行為は賛成です。厚生省相手のHIV訴訟がそうだった。

ですが今回の相手は、ゴルフ焼けしていかにも仕事していなさそうな、首相派閥の細田派でこの世の春を謳歌している議員さんひとりの話ですし、それに便乗して自民党を攻撃するというのも、まあ、「がん患者・サバイバーのために」と言わなければご自由にどうぞとなりますけども。

今日久しぶりに西尾幹二さんの著書『ニーチェとの対話』を開いてみると、現代社会にぴたりと当てはまる言葉を見つけました。

現代の私たちの周辺の社会にも、臆病で尊大、小心で高慢な人間がいかに多いであろう。個人的には臆病でおずおずしているが、集団をなすととたんに気が強くなり、ひとから与えられるのがあたりまえ、贈られるのは正当な権利であって、みじんも羞恥を感じない人たちである。

(講談社現代新書 西尾幹二著『ニーチェとの対話』)

 

昔と比較したら国民民度は上がっているんじゃないかと思うんです。個人個人の社会的な洗練度は高くなっていると思う。(一方で知的頭脳レベルは下がっていると感じています。昔は現代のように遊びの選択肢や誘惑が少なかったという理由が大きい。)

けれど個人では冷静でおとなしいのに、集団に属すると人が変わったように声が大きくなって叫び声を上げ始める人がたくさんいる。デモに参加する人だけでなく、自民党もそうで、インターネットの炎上参加もそうで、結局、個人の社会的洗練レベルは上がっても、集団活動レベルはむしろ下がってしまった様相を呈しているのではないか。日本だけでなく世界的な問題だと思うのですが、どうでしょう?

 

なぜそうなってしまったんだろう、また、どうしていったらいいのだろう、という問題提起と建設的議論がいつかは始まると思うのです。それを思って細々と、インターネットの片隅のこんなページにひと声あげてみたのですけどもー。

 

ま、今日は、「がん患者、がんサバイバー」にかんしての味方をする記事ばかりが世の中に散乱しているようで、私のようなサバイバーもいるんだよってことで、敢えてそっちに重心を乗せて書きました。

集団化した奴隷の蜂起(苦笑)のような現代世相にかんしては、おまけの勢いで書きました。

 

 

「忖度」について


今年の流行語大賞に選ばれそうな勢いの「忖度」ですが、「そんたく」という言葉はそれほど多くは使われてこなかったのではないかと思います。

日常会話では使いませんよね。

この「忖度」ですが、マスメディアや著名人が使用している語感がなんとなくイメージにそぐわないのですが、これは私だけでしょうか?

語感イメージとしては、君主や天皇などの高い地位にいる人に対して、尊敬の念を含みながら「“我が君”のお気持ちを忖度して、」というふうに、結構へりくだった使用表現が思い浮かぶのです。会社員であれば自分の会社の社長や贔屓にしている役員くらいには使うとしても、「課長の意を忖度して」という使われ方は変だと思いますし、某大阪府知事の「国民の心を忖度して」なんて言われると、クエッションマークが頭の中をスキップしている状態になったものでした。例えば、「生徒の気持ちを忖度して」は、感覚的におかしいと思いませんか?

日常的には「察する」だとか「慮(おもんぱか)る」「汲み取る」「考慮する」「推察する」「拝察する」「斟酌する」などを使い分けるのではないかと考えるわけですが。

今や「忖度」の大バーゲンセールになってしまっている感がぬぐえません。

でもまあ、これは私のもつ語感イメージなので、他人さまや世間さまは違うのかもしれませんね。私の感覚のほうがおかしいことは大いに有り得ます。

 

さて、この「忖度」ですが、ま、「推察」でも「斟酌」でも良いのですが、日本人ってわりと「相手の心中を察しなさいよ」という価値を社会の側から押しつけられてきたのではないかと思うのです。

そうしたことを国民的に考える良い機会が生まれたと捉えれば、歓迎すべき出来事だと言えましょう。

「察する」ことについて、個人的関係の1対1においては良い作用が生まれることが多いと認めます。特に喜怒哀楽、苦悩などの情緒面で人間関係作りには欠かせないものでしょう。けれど、意を汲むというのは、或いは「察しろ」とばかりに意を汲み取らせようとする人には、「めんどくせー」と思いますし、「おとなってやーね!」(苦笑)となってしまいます、私の場合は。

 

組織の場合、或いは政治家と秘書の場合もそうかと思いますが、意を汲み取らせようと、上の立場の人間がにおわせるのはとてもいやらしい。無言で「何かあったらお前が責任取るんだぞ」という圧力と本人の責任回避。

私にとってはどちらの立場も絶対に嫌です。断じてしません。否定します。

 

思うんですが・・・。

利害関係が絡んでくる場合は特に、もうね、今の時代、これからの時代、意を汲む「忖度」も「推察」もやめませんか?

「察しろよ」とにおわせてくるような人は卑劣だと位置づけませんか?

なんかその周辺には「臆病さ」が漂っている感じがあるんですよねえ。傷つきたくない、みたいな。従属関係にごちて酔い痴れているような気持ち悪さも。

「阿吽の呼吸」を美化し、それが出来ることを優れているとするのではなく、もっとオープンで明朗快活なコミュニケーションを、これからの日本社会は目指した方が良いのではないかと考えています。海外の人たちとの異文化コミュニケーションは自然とそうなるでしょうし。

そのなかで阿吽の呼吸が生まれれば、驚き、嬉しい気分になるのではないかとも。

以上が私の個人的見解であり主張です。

 

メディアにおいては、折角の良い題材があるのですから、「忖度」そのものの是非や意義、デメリットにおいて国民的議論になるよう問題提起してほしいところです。

 

 

時間を主とし空間を従とする世界


私たちは空間(物質)を主体とする世界観のなかで生きています。これはおそらく、視覚的感覚に過度依存していることと、幼児のころからの教育と慣習によってだと考えています。空間を主とし、時間は従の立場。この構図では空間における運動を時間で計測することしかできません。それがガチガチの固定観念になってしまっている。

 

いま私は、時間を主とし、空間を従とする世界観を創ってみています。

もしかすると植物はそういう世界観で生きているのかもしれない。

 

空間が主である限り、太陽の周囲を回る地球の公転活動が一年、自転活動が一日で、その一年と一日は「同じ時間」とされてしまうわけです。ところが、時間を主とした場合には、人間(人知の物理学)が計測する空間運動を、「毎年も毎日も異なる時間だ」と言うことが出来る。「時間が仮に停止しても人間にはわからない」と言うことが出来る。

宇宙の外側には、異なる時間世界が多数存在しており(地球人類が宇宙と呼ぶほかの宇宙という意味)、「ブラックホールには時間がないだけ」と仮説を立てることもできる。

宇宙の開闢は時間の開闢であり、時間が広がりをもつために空間が引き伸ばされるという論。

ここでいう時間は、個人の主観における「観念的時間」ではありません。地球人類科学の「時間」でもありません。形而上学的(哲学的)な「ザ・時間」です。

宇宙が出来て137億年と地球人類科学では言うけれど、ちゃんと計算して見なければ確かなことは言えませんが、それよりも相当短いと思います。逆に、太陽があと約50億年で活動を終えると言うのは、もっとずっと長い時間(地球人類科学上の時間)がかかると思います。

地球人類は、寿命が延びているように感じているようですが、寿命が延びているのではなく実質時間の伸縮が原因かもしれません。

加齢によって一年があっという間に過ぎるという感覚は、心理学上ではジャネの仮説が現在のところ最も説得力があるものとなっていますが、生物学的に言えば、加齢とともに細胞分裂のスピードが遅くなってくるわけで、細胞が破壊され生まれ変わる、そのひとつの細胞が「自律感覚」するスピードは若い時よりも逆に速くなるわけです。頭や脳の感覚ではなくて、全身感覚で速く感じたものが脳に伝達されているという可能性もあるわけです。

まだ全然まとまっていないのですが、前記事に書いたとおり、「ザ・時間」に私が乗り移って(つまり物理的な自分はここに取り残され)、そうして「ザ・時間」から「地球物理学的自分」を観察すると、確認できないほどミクロの世界の塵なのですがそれは別として、自分の一生どころか古代の海洋植物の時代から魚類時代を経て、両生類や爬虫類の頃の記憶も一団となって、私の中の遺伝的要因すべてが二次元の「絵」のようになって、他のすべての「絵」と複合的に関係しあい、死後、そのどこからでも(ザ・時間の手によって魚からでも)運動を再開させることができる。ただし過去は一切変更できない。

ぶっ飛びトンデモ論なのかもしれませんが、いやもうかなりのトンデモ論でしょう。地球人類の皆さまからすれば。それは私には無関係なので、誰に迷惑をかけることでもないしもっと感性体験してみたい。

ザ・時間が主として、空間(物質)を従とする世界は、はたして人類科学で記述できるのかどうか、もしかしたら論理化できるのか。上記の自分のイメージもおそらく修整が必要だろうし。言語化はできないだろうな、たぶん。

おりをみて考えてゆきます。

 

なお、こんなことばっかり考えていると本当に気が狂ってしまいそうになりますし、現在生きているすべてのことがとんでもなく小さいものに矮小化され、社会とか平和とか5000年後の人類とか、まるでくだらないことにように思えてしまうので、いい加減にやめておかねばならないと思いました(苦笑)

 

 

 

「時間(私)」から観た世界


今、「時間」 に成りきる感性実験をしています。これは4月半ばころに気づいて暇を見つければやっているのですが、新しい哲学の地平が開けるような予感があります。

私が「時間」になるのではなく、「時間」に私がなるのです。この違いは大きいのです。「時間」に乗り移ってしまう感覚で、そこでの体験が目的です。

現代科学の物理学では、時間は、空間という「物質」の運動に付随したモノサシでしかないのですが、それゆえビッグバン以前はどうなのかだとか、宇宙の外側はどうだとかという人知では想像を絶する空間が生まれてしまうのですが、「時間(私)」から観る世界では宇宙だとかすごくちっぽけな事象に過ぎないことになってきて、すべてが自明になってしまいそうなんです。

ただまだ体験度が足りていない。

ヒントはニーチェ哲学の「永遠回帰」(永劫回帰という感覚ではない)だったのです。哲学者の解釈や知識人のあいだで言われているような物理学的な円環的世界観を「永遠回帰」とするような、そんなベタなことを、あのニーチェが発見した時に感激するほど喜んだというのは有り得ない。物理学的な円環的世界観のなかで何回も同じ人生を繰り返すことを全肯定する?、喜びも悲しみも?、あまりにベタ過ぎる。そんなことは誰でも考えつく。ニーチェは100%違うことを言っている、というのは私のニーチェに対する信頼です。

「永遠」に対して求婚する「超人」は、限りなく「時間属性」に近いものじゃないかと仮説を打って見当をつけたのが始まりだったのですが、この思考実験中に中島義道さん近著の『時間と死』を併読(というか並行乱読)しており、そこから重大な閃きが生まれたのです。

「時間(私)」の世界ではあらゆる偶然性が消滅する。

「時間(私)」が時間属性をすべて独占しているので、空間(物質)は非時間属性的な対象になるわけですね。

視覚的世界観と言語的世界観は全削除しないとイメージできません。

これね、すごい世界です。

 

ただ、あまりやり過ぎると息苦しくなって発狂しそうになります。(なりかけた)

離人症、精神分裂症気味の人は絶対に真似しないようにしてください。

自己催眠の世界に入ってしまう感じなので。

 

その「時間(私)」から、視覚的を含めた総合的に、「現在する私」を観察すると、どう感じると思いますか?

 

 

理性的を凌駕する感情的


感情的は理性的よりも劣るというのが現代社会一般の評価のようです。理性によって感情をコントロールせよと。

アメリカから輸入されてきたアンガーマネジメントという、怒りの感情を理論武装によってコントロールするコンサルティングが流行になっていた時期もありました。あれはどうなったんだろう?

欧米の感情に対する考えかたは、理性によって制御して表面に出さないこと、自我によってコントロールすべきというものが主流だと思います。現代日本人も欧米流に親しんできました。かくいう私も20代の頃はそうした考えの啓発書を読み、ふむふむと納得していた。

けれども、年齢を重ねるにつれて何だか違うんじゃないか、おかしいぞと気づき始めてきた。それが40代の頃ですね。

 

論理や理屈、合理性に基づいて現実対処していく西洋。

一方、日本や中国では、心根、心魂といった根本的なところを宗教を使わずに修養していくことで、良い感情が出るようにするという文化が根付いていました。「できた人間になる」。

安岡先生は次のように述べています。

 

非常にできた人が怒ったというのはいいものです。
また泣いたというのもいいものです。
つまらぬ人間が怒るといかにも見苦しい。
信用のないものが泣くとこれはまた情けない。
同じ喜怒哀楽でもやっぱり人物によってみな違います。

(中略)

人物ができてくると、「咳唾(かいだ)みな珠(たま)なり」といって何でもいいものです。

(致知出版社版 安岡正篤著『呻吟語を読む』)

 

「咳唾(かいだ)みな珠(たま)なり」というのは、咳(せき)や唾(つば)に至るまで口からでるものはすべて珠玉の価値があるという意味です。「謦咳(けいがい)に接する」なんていう言葉もありますね。立派な人の咳払いを直に聞けるだけで素晴らしい体験となる。

この前後の文章で文脈的に使われている「怒り」は、冷静で理性的な「叱り」ではありません。感情的になって「怒る」なかには、珠玉の価値があるものもある。しかしそうなるためには、よほど人間ができてこないとならないということを述べています。

この書では、「涵養」という言葉が多用されています。

いくつかの辞書で調べてみると、「水がしみこむように、ごく自然に、徐々に養い育てること」という意味でした。自己研鑽や自己修養をごく自然に、時間をかけて行ってゆくことだと思います。心魂を涵養してゆく。西洋方式と違い非効率で長い時間がかかる。しかしそれだけに、老いたときには個人差が大きくなる。

 

日本人には特に、「かなしみ」という情によって、心魂を涵養してきた文化があります。
「怒り」においては義憤によって使命感をもち、志して立ちあがった偉人が何人もいます。

理性的を凌駕する素晴らしい感情的が在る、ということを主張しておきたかったのでした。
涵養は自分自身にとって大きなテーマです。

 

 

若者よ、孤高となれ


最近の風潮に、「ものわかりのよい人になりなさい」というのがある。他者の個性を認め、自由を尊重し、その個性や自由に対し批判してはならないと。批判された者の傷つく心情を考えろと要求する。

かような負荷のかからない、ひょろひょろとした軟弱な精神を育てるような母性社会からは一目散に退散した方がよいだろう。

若者よ、やわな母性社会から逃げよ。孤独へ逃げよ。

 

名著と言われる精神科医アンソニー・ストー(英・1920-2001)の著書『孤独』より引用する。

何年か前に、友人のある哲学者が、古代ギリシアの時代から西洋の偉大な哲学者の大多数は個人的に親密な人間関係や家族関係をもとうとしなかった、と指摘した。このことは私に、孤独と、抽象的な思考において何かを創造することの間に、ある種の関連性があるのではないかと疑問を抱かせたのである。

ニュートン、デカルト、ロック、ヒューム、パスカル、スピノザ、カント、ライプニッツ、ショーペンハウエル、ニーチェ、キルケゴール、ヴィトゲンシュタインとった哲学者たちは、もし妻や家族があれこれと要求することに悩まされていたならば、おそらく彼らの偉大な哲学を創造することはできなかったであろう。創造的な思考はおそらく、誰からも干渉されない孤独な長い期間と情緒的な要求が何もない状態を必要とするのである。

(中略)

そして、とりわけアメリカ人たちは、子どもはいつも友達と一緒に遊ばねばならないし、もし子どもが独りでいたいと望むならば、それは奇妙か異常であると信じて疑わなかった。そして、そういう確信のもとで子どもを育てる傾向があり、それは今も認められるのである。

(中略)

本書は、とりわけアメリカ合衆国の人々に好評を博している。多くの読者が、本書によって自らを正当化することができたといって、著者の私に感謝の言葉を寄せている。これらの人々は、かなりの時間を独りで過ごして楽しんでいたが、家族や友達からは、そうすることが反社会的あるいは異常だと言い聞かされていたのである。

(中略)

先に挙げた偉大な思想家たちは自己中心的で、他者の相いれない、要するに「自己愛的」な人であり、他者の福利よりも自分自身のなかで進行することに心を奪われていた人といってもよい。

同じことが多くの作家、作曲家、画家にも当てはまる。創造的な人は、自分が創造するものを通して自己発見、主体性の変革、そして宇宙に意味を見出すことに絶え間なく努力している。

創造的な人はこのことが貴重な統合過程であることに気付いており、その統合過程は瞑想や祈祷と同様に、他人にはほとんど関係がないが、それ独自の有効性をもっていることを知っている。

創造的な人にとって最も重要な瞬間は、何か新しい洞察を得るか、あるいは新しい発見をする瞬間である。

そしてこのような瞬間は、必ずとは言わないまでも、主として独りでいる時なのである。

(創元社版 アンソニー・ストー著『孤独』)

 

ここで勘違いしてはならないのは、やむを得ず孤独に暮らしているのではなく、無気力なニートのようにこもっているのではなく、人と接触するのが煩わしいからというのでもなく、孤独を自分自身にとって有用化するために、自分の精神の健全さを保つために、積極的に孤独の状態を自らつくっている、ということである。

いや、彼らの本能が群れることを否定し直観的に孤独を選択する、ごく自然な行為なのかもしれない。

 

現代日本の母性社会は創造者タイプを生成できない。

なぜならば、創造とは常に、抵抗や負荷を自力で克服しようとする精神に宿る生成物だからだ。壁無くしてどうして壁を乗り越えようとする精神が生まれると言うのだ。筋力は破壊され再生されることでより強くなる。傷つかない精神はいつまでたっても軟弱なままだ。

現代の風潮に染まってならない。そうしたコミュニティーがあればすぐに離れよう。

孤独は自己中心的だという。そのとおりで良い。他者中心で他律によって自分の背骨が融解し、いつのまにか軟骨になっているよりはよっぽど良い。

孤独は自己愛的だという。そのとおりで良い。自分を愛するからこそ自分への負荷を求めるのだ。まったく耐えられないほどの強い負荷をかける必要はない。ぎりぎり耐えられない負荷をかけ自ら傷を負おうとするのが正しい自己愛だ。ぎりぎり乗り越えられない壁を乗り越えようと意欲することが正しい自己愛だ。

 

善人たちに、高潔の士は邪魔者だ。

そして彼らが、高潔の士をひとりの善人と名付けるときでも、それは、そうすることで、彼の性根を抜いてしまおうとする魂胆なのだ。

(白水社版 ニーチェ全集 ニーチェ著 『ツァラトゥストラはこう語った』)

 

みずからを “謙虚に” 善人になろうとする者としてこの軟弱な母性社会に馴染もうとするよりも、若者よ、孤独にあってみずからを《高潔の士》と位置づけ孤高となれ。

牙を抜かれるな。

社会に迎合しようとせず要求をはねつけろ。

主体的に自分を正しく愛そうじゃないか。

善い人だと褒められてはならない。

ものわかりのよい人になれば反骨精神は死ぬ。

それは社会の奴隷としての一歩目だ。

 

君の高潔な精神の手によって、人の目に光が宿らない現代社会を破壊してくれ。

健全で骨太な未来社会を創造してくれることを願う。

そのために、若者よ、孤高となれ。

 

 

なぜ「哲学・思想」なのか


現代の世情をながめれば、政治の軽薄化、格差社会、経済偏重主義、心無き時代、人々の無表情化、核戦争の危機、宗教活動テロ、地球温暖化など、「人類の危機」が訪れている感さえあります。

現実に対処していくことは大切です。しかしそれだけでは根本的治療にはならず、表面的かつ場当たり的でつぎはぎだらけの、原型をとどめない醜い人類文化がどんどん歪んでゆくばかりです。

 

人類の延命治療をするのではなく根治を目指し、我々の子孫たちにより良い世界を残すためにはどうしたら良いのでしょうか。

 

宗教はどうでしょうか。

異教徒との争いが世界各地で起こり、信仰依存によって信徒の心は隷属化し、宗教教団の多くが権力化するのはなぜでしょう。現に今もそうなっているのではありませんか。どんな宗教も必ず「派」が生じます。原理主義に至っては排他性が強く、紛争や戦争、テロの源です。

 

教育はどうでしょうか。

教えるおとなの先生の人格資質が現代社会のままであれば、子どももそのままです。まずおとなの人格教育から始めなければならない。ではそのおとなの教育を誰がすると言うのでしょう。国家(文部科学省)も人で出来ている限りレベルは変わりません。人間性を養うには、トップダウン型では無理だということに早く気づくべきです。学校は知識を教えることに特化し道徳には手を出さないほうがむしろ良い。

おとなも子どもも一緒になって、哲学・思想・倫理を学ぶ機関をつくってみてはどうでしょうか。教えられるのではなく、みずから学び、常に「次世代の哲学・思想・倫理を創造していこう」とする永久機関として、全国各地の公民館を利用した塾のようなものを。

 

科学はどうでしょうか。

物理科学がどれほど発展しようと、それによって更に心無き時代となることはあっても、心の幸せにはつながることはありません。テクノロジーの進化は後戻りができない。この後戻りができないことを軽視し過ぎていると思います。

更に科学的水準を上げていく欲求に人類は勝てません。核のレベルは天井知らずに上がってゆきます。人類が核を作れなくなることはもう無いのです。地球という星自体を消滅させることのできる核兵器は、間違いなく今世紀中に開発されると思います。

 

私には、どう考えても「哲学・思想」の手によるほかはないと思えます。じわじわと数十年、数百年かけて地道に、地球人類の意識がおのずから変わっていくほかに道は無いのではないでしょうか。

 

私ひとりが沈潜しても、微々たるもので無関係レベルなのかもしれません。

しかしながら、「一燈照隅、万燈照国」という言葉があります。

この言葉の意味は、一隅を照らし続けていれば、それを陰から見て、どこかの誰かが自分もと思って一隅を照らしてくれるかもしれない。やがてそれが万燈となって国を照らすことにつながるということです。

地道に一つの隅を照らしてまいります。

 

 

 

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