自己責任と偶然性


2002年にアメリカ主導によって始まったイラク戦争。2004年に日本人が人質となって解放されたり殺害されたりしたことがあった。

あのとき、日本政府は退避勧告を発令しイラク周辺国への入国を禁止した。にもかかわらず留まったり入国したということで、人質となった日本人に対し、日本社会の世論は自己責任論でバッシングした。私も当時は、無謀な活動をする人たちは自己責任なのだから、救出しなくていいと考えていた。

 

雪山登山での遭難の際にも、自己責任論が巻き起こる。

或いはごく身近で、例えば肝臓を悪くして医師から飲酒を止められているにもかかわらず、飲酒し肝臓がんや肝硬変となって死んでしまう人に、それは自業自得だと突き放す。

この自己責任論、自業自得論は、原因と結果が必然性によって結び付けられてる。

因果応報、善因善果、悪因悪果は仏教の教説にあり、インド哲学も西洋哲学も必然性によって論理を展開する。また宗教も必然性によって物語を創る。

運命の赤い糸も仏教の縁も必然である。

 

当事者個人として、人質になったり雪山で遭難した時に、飲酒で肝硬変になった時に、「ああ自業自得だから仕方がない」と思うのは当然だと思う。「政府や社会、家族は私を助けるべき。救うべき。」というふうに思う人は甘えているし思いあがっていると今でもそう考える。

けれど、当事者がどう思うかは別として、自己責任でも自業自得であっても、手を差し伸べてあげるべきではないかと、最近はそう考えるようになった。ただ、あまりに依存を当然のこととして反省も感謝もなく、何度も繰り返すような人は別として。

確かに因果関係によって不幸が必然的に起こったのかもしれない。

けれど、100%の必然だろうか。

過去に起こったことについて、必然だと考える癖がついてしまっているのではないだろうか。

もし原因と結果を完全に分断し細切れにしたらどうだろう。一つ一つの経過はすべて偶然のつながりによって成り立っていると言うこともできる。過去の因果関係がわからずに、目の前で途方に暮れている人、死にかけている人がいれば助けようと思うでしょう。

 

明確な答は出ておらず、考えています。

ただ少なくとも家族・親族にかんして、「だから言ったこっちゃない」「何度も注意したのに強情を張ってやったのだから自己責任」「自業自得」というふうに突き放すのは一切やめようと、去年あたりからそう考えるようになりました。

一切、匙(さじ)を投げない。

 


 

仏教のお寺で手を合わせて拝むのは因果です。感謝もそうですし。

けれど神社で手を合わせて拝むときには、良いことがありますようにだとか、家族が健康でありますように(病気や事故に遭いませんように)だとか、よく考えてみると偶然の願掛けをすることが多くないですか。

お正月などでは神社でおみくじを引きますよね。大吉が出たとか凶が出たとかで偶然を楽しんでいるわけです。

日本人って、未来に対し偶然性を自然に、無意識的に介入させている不思議な民族ではないのだろうか。

運命は決定している(自分が知らないだけで)、なにごとも必然、因果応報というふうに考えて生きるよりも、自分が生まれたのも偶然、明日起こることも偶然がほとんど、出会いも偶然というふうに考えたほうが、驚くことも笑えることも多くなるし(もっとも悲しむことも多くなりそうですが)、彩り豊かな人生を楽しめるのではないかと私は思います。

 

未来をみるときには、偶然性を希望の光としてもいいじゃないですか。

 

 

社会からの多様性要請は疑問


多様性(ダイバーシティ)に対応することがうるさく言われる時代になりました。ダイバーシティはポリティカルコレクトネスを主張する運動によく表れています。

以下、Wikipedia から引用します。

ポリティカル・コレクトネス(英:political correctness、略称:PC,ポリコレ)とは、日本語で政治的に正しい言葉遣いとも呼ばれる、政治的・社会的に公正・公平・中立的でなおかつ差別・偏見が含まれていない言葉や用語のことで、職業・性別・文化・人種・民族・宗教・ハンディキャップ・年齢・婚姻状況などに基づく差別・偏見を防ぐ目的の表現を指す。

1980年代に多民族国家アメリカ合衆国で始まった、「用語における差別・偏見を取り除くために、政治的な観点から見て正しい用語を使う」という意味で使われる言い回しである。「偏った用語を追放し、中立的な表現を使用しよう」という運動だけでなく、差別是正に関する活動全体を指すこともある。

この運動は日本語など英語以外の言語にも持ち込まれ、いくつかの用語が置き換え(または言い換え)られたが、しばしば伝統的な文化や概念と対立するなど、逆差別といった問題を引き起こしている。

 

個人人格の多様性、文化の多様性、かかわり方の多様性などを理解し、差別や偏見をなくそうという運動です。この運動は、自由を尊重し他者の価値観に対してはものわかりの良い人になりましょうとの目標を私たちに植え付けています。

一方で、例えば同性の結婚の自由が尊重されるのに、結婚は1対1でなければだめだ、夫婦関係以外で子どもをつくってはだめだ、結婚後は夫婦の相手以外に恋愛関係をもってはだめだなどと社会からの強要度が高くなりました。そもそも個人間の自由であるにもかかわらずです。ポリコレは明らかな矛盾を抱えています。

同性婚を認めるならば複数婚も認めるべきだ、結婚後の自由恋愛も認めるべきだ、他の人との子作りも認めるべきだ、結婚という定義も変えるべきだというのが私の主張です。一組の男性と女性が一緒になって子供をつくり家庭を築くこと、それが争い少なく種の保存を続けようとする、生物としての人間の自然な生態です。そのための契約を結婚という制度だと社会は定義した。定義をそのままにするのならば私も同意です。それを覆すのであればそもそも結婚制度など必要ないではありませんか。

 

また、社会的弱者を尊重するあまり、弱者モンスターやマイノリティモンスターが次々と生まれています。ポリコレは良いことばかりではありません。

トランプ大統領の誕生は、ポリコレ疲れが一番の原因だと述べる有識者は多い。ものわかりの良い人になるという心理負担はけっこう大きいものだと思います。ストレスからの揺り戻しが起きているのかもしれません。

「多様性を理解するように努力しよう」から、「多様性を認めろ」「多様性は権利だ」という社会からの要請に変化してきましたが、であれば、「自由よりも秩序を重視する」「男女の個性の違いを重視する」という価値観であっても多様性として認めなければならない。

 

ここから導かれる結論は、「多様性を認める社会」ということのみをもって、一元的原理主義的に考えて運動を行うことは、逆差別に繋がったり、全体主義に繋がってしまうということです。自由を標榜したはずが不自由になっていく。自分で自分の首を絞める、自縄自縛。

全体主義というとすぐに右翼軍国主義を想像するかもしれませんが、共産主義や社会主義も全体主義へ簡単に変質しますし、ナショナリズム、グローバリズム、リベラリズムでさえも一元的原理的に社会から要請されるようになれば、全体主義へ向かいます。

今、日本を覆っている閉塞感は、「刺激的な言動など何かやらかすとインターネットで徹底的に叩かれる。吊し上げられる。全体から強い圧力がかけられる」という、ポリコレが原理主義として作用することで許容範囲が狭まり、全体主義的雰囲気が漂い出しているということがあると思います。

 

私は多様性について反対ではありません。むしろ大賛成。

個人的には社会や他者から何を要請されようとも、そもそも私は常に自由であるので意に介しません。けれど他人は自分ではないのでできることとできないことがありますよね。

いろいろと考えてみたのですが、多様性の社会を実現するには、それぞれの個人のなかに多様性を造っていくことではないかと思うに至りました。個人個人が一元的原理主義的にならないこと、一つの真理や理想を求めないこと、自分はこういう人間だと自分にレッテルを貼らないこと、柔軟性と剛直性を同時にもつこと、他にもいろいろあろうかと思います。

例えばナショナリズムとグローバリゼーションは自分のなかに共存させることができる。実在論と観念論も自分のなかに共存させることができる。自由と連帯もそうです。男女平等の思想、男女は違うのだという思想も自分のなかに共存できる。

要は自分の内側に多様な価値観と性格性を造ること、そうした人がひとりふたりと増えていくことによって、ポリコレの運動など一切することなく、社会から要請されることもなく、自然に多様性を認める世の中になるのではないかと考えます。

 

 

「教育勅語」に縛られるな


日本の最高峰の議会である国会では、連日のように非建設的なワイドショー的話題に多くの時間が割かれていますが、いい加減にしてほしいと思います。

 

そのなかで出てきた「教育勅語」のお話。

稲田防衛大臣はどうやら、「教育勅語を復活させて道義国家を目指すべき」というふうに考えているようです。私的には、国難の際には天皇の臣下として皇道を守れという文言は憲法違反ではないのかなと思っておりますが、それ以外はごく普通のことで、教育勅語に頼らなくても学校や家庭で教えていることではないのでしょうか。

道義国家を目指すべきという個人的思想は自由だと思います。

道義国家は特に悪いことでもないですが、内容はほぼ朱子学と言ってよいと思います。朱子学は儒教の中でも保守的、封建的傾向があります。その是非は横に措くとして。

でもね、なさけないです。

戦前の教育勅語の精神を取り戻すとか、なんの進化も工夫もない。

 

佐藤一斎は『言志四録』で次のように述べています。(始まりの部分は後に吉田松陰がそのまま使っています)

道は固(もと)より活(い)き、学も亦(また)活く。儒者の経解において、釘牢縄縛(ていろうじょうばく)して、道と学をあわせて幾(ほとん)ど死せしむ。須(すべか)らく其の釘を抜き、其の縛を解き、蘇回するを得せしめて可なるべし。(講談社版 佐藤一斎著『言志四録』)

※経解 経書の解釈

 

簡単に意訳してみます。

過去に先賢が記した書物や言葉を解釈する際、せっかくの活きた智恵であるのに、それを釘づけにして鵜吞みにし、縛りつけるようでは偉大な道も学問も死んでしまう。先賢の智恵の固定化を解放し、自ら堅くなった頭を解放し、応用しようと自らの智恵を使って努力する。そうすることで初めて先賢の智恵が現代によみがえる。

 

稲田さんが道義国家を目指すと言うのならば、道義の大家たる佐藤一斎に習わないでどうするんですかと言いたい。

「教育勅語の精神を取り戻す」などということは道義の教えに反します。佐藤一斎に習うのならば、先賢の智恵(教育勅語)を縛りから解放し、現代の価値観を考慮したうえで未来の社会を想像しつつ、変革していかなくてはならない。そうして初めて教育勅語が活かされるということではないでしょうか。

 

 

「天」について


西郷隆盛は「敬天愛人」を座右の銘としました。

天を敬い人を愛するという、短く単純な教科書的意味でとらえて間違いはないのですが、天を敬うとはどういうことか、天とはなにか、人を愛するとは博愛主義なのかと、いかようにも掘り下げることができます。

『老子』でも『論語』でも、並んでいる漢文字は少ない。その少ない漢文字をどのように訳すかは、書き手の文脈だけでなく、読み手の文脈によって異なってきます。西郷が想う「天」と、私が想う「天」はおそらく違う。西郷の想う「天」はどのようなものだったのだろう。

 


 

道は天地自然の物にして、人は之(これ)を行ふものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給(たも)ふゆえ、我を愛する心を以(もっ)て人を愛する也。

 

上記が西郷の「敬天愛人」です。

天を敬するというのは儒学思想なのですが、孔子が出る前からあった中国の古典的な宗教観で、天に対する信仰ともとれる。孔子はその宗教くささを取り除き敬天を儒学に取り入れました。

江戸後期に儒学の大家として活躍した佐藤一斎の『言志四録』を座右の書とした大西郷は、儒学から敬天を学んだと思われます。

他方、古来より日本にも「天」は、天照大御神などの「アメ」「アマ」に見られるわけですが、天照は太陽神であって天の神ではない。「お天道様が見ている」という言葉におけるお天道様とは太陽のことをいう。一方で「天皇」という言葉は中国の概念に由来すると言われています。

 


 

日本人の「天」にかんして、倫理学者の相良亨(1921-2000)が著書『日本人論』において大きくページを割いて解説していますが、時代によって、人物によって、天の観念にはだいぶ差があるようです。

 

西郷の最も有名な言葉。

人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手に己を尽くし、人を咎めず、わが誠の足らざるを尋ぬべし。

 

ここにおける「天」はどのようなものだと思いますか?

また、敬天愛人を標榜する西郷が、「人を相手にせず」と言っていますが、どう思いますか?

 


 

西郷はどうかわかりませんが、私において「天」とのかかわりは、自己内の二重性だと思うのです。自己内の理想を対象化させ「天」を造っている。もっと言えば偽造、ねつ造している。そうして「天」から見た自己を内省するための「材料」として天を活用している。

どうでしょう。

それとも天は、人間が想像もできないような神のごときでありましょうか。

 

「人を相手にせず」という部分についてですが、余計なことを言ってくる人だとか“負”の人を相手にせずということではなく、人よりも天をという優先順位の思想ということでもなく、ここでは天上天下唯我独尊のマイペース、超越した「上から目線」(苦笑)

「そういう人格も自分の中にある」ということで、時と場所を選んでの言葉だと私は思います。間違っているかもしれませんが、私の文脈で読んでいるわけです。

このブログでも時々私は「仙人モード」で、自閉的に書くときがありますが、孤独になって人を寄せ付けない、人を相手にしない、天を相手にするという境地は、生活の中で必要な時ではないでしょうか。一つの真理に収れんしたいばかりに、自分に整合性を強引にもたせるのはナンセンスのように思います。

 


 

最後になりましたが、「わが誠の足らざるを尋ぬべし」の、この「誠」こそが、日本人のまさに日本人らしさ。「清き明(あか)きこころ」です。断言します。

清き明きこころについては、また機会をあらためまして、深くゆっくりと感じつつ書いてみたいと思います。

「天」概念と「天」価値について、更に深く掘り下げた考察は私の宿題としておきます。

 

今夜はライトに


2017年スタートとともに始めたこのブログですが、当初は、4年間アメーバブログで書いてきたような堅調なスタイルではなく、もっとライトで軽はずみな冗談をふんだんに書き散らかしていこうと思っていたのですよ。

ところがどっこい、なんでだろうな、なんでかなー、ほとんどの記事が、ディープで堅い話題になってしまっているではありませんか。

 

すみませんね、ほんとに。

読んでいただく人に忍耐を強いる、ヘビーで長文の記事が多くてすみません。

 

反省してます。

反省してますので、今日もヘビーな内容で長文の固定ページをアップしております(苦笑)

『副題の「5000年」について』

 

 

変革の実践、『陽明学』


東郷平八郎、西郷隆盛、吉田松陰、三島由紀夫、高杉晋作、佐藤一斎、大塩中斎(大塩平八郎)、彼らの共通点は何だと思いますか。

今日は『陽明学』について少し書いてみたいと思います。

世間では陽明学と言うと、すぐ革命的な思想・学問、世紀末的な暴動、叛乱の論拠になる学問、又陽明はその典型的な人物である、という風に考える。従ってこれは、信奉する側からいえば革命の書・思想であり、反対する側から言えば危険な人物・学問である、ということになるわけで、そういう考え方・議論がほとんど常識のようになっております。

これは取るに足らぬ浮薄なことでありますけれども、しかしそれはそれで大いに理由はある。と言うのは時代や人心が頽廃(たいはい)してまいりますと、人間には心理、従って良心というものがありますから、必ず警醒(けいせい)自覚の思想・学問・言論が興ってくる。

(PHP文庫版 安岡正篤著『人生と陽明学』)

 

冒頭に挙げた先人の顔ぶれを見ると、いささか過激な思想のように思えますけれど、陽明学の元々は『論語』の孔子を始祖とする儒学思想です。その源泉の中国での詳細は省きますが、王陽明(1472-1529)という軍人系思想家が儒学を実践むきに仕立てた学問です。

彼とその弟子たちの問答集『伝習録』が日本に渡ってきたのですが、この『伝習録』を読むとまったく過激ではない。要するに、王陽明の陽明学(王学・陸王学と呼ばれた)と、日本人の陽明学の内容には乖離があります。

 

偶然にも、中国の陽明学と親和性が高い日本の思想・文化が数多くありました。

日本に渡ってきた陽明学は、武士道(新渡戸稲造の武士道ではなく『葉隠』に近いほうの武士道)、禅、神道、老荘思想などと混ざり合って、日本独特の「日本的陽明学思想」へと発達していった。一方、中国の陽明学は王陽明の死後しばらくすると没落し姿を消してしまいました。

日本の「陽明学」とは、いま風に言えば、実践によってイノベーションを起こす思想・学問です。この「実践」が非常に大事で、それも熱情的実践なのであります。

そういうわけですから、大西郷には大西郷の、三島には三島の、松陰には松陰の、それぞれ自分の信条を混ざり合わせた、少し違った陽明学を各々が胸に抱いていたのです。

 

安岡正篤先生は、大学を卒業する際に陽明学について書いたものが『王陽明研究』として出版されることとなり、それ以降、陽明学者というレッテルを貼られてしまいます。レッテルを貼られることが本意ではない安岡先生は、以降、『論語』や『大学』などの儒学、老荘思想、禅について、多く取り上げるようになります。西洋の学問にも言及は多いのですが、特にオルテガの『大衆の反逆』を高く評価しています。

2017年のいま、軽佻浮薄な世相に人心の頽廃はあきらかにもかかわらず(日本だけでなく世界的にだと思います)、日本精神が落ちぶれた時代には必ず「喝」を入れ続けてきた陽明学はどこへ行ってしまったのか。まだどこかで生きて息をしているのだろうか。安岡先生を最後として陽明学の血脈は途絶えてしまうのだろうか。

少なくとも私の中には小さく生き続けています。

だらしのないことに、この炎は消えそうになったり弱火になったりするのですが、なんとか消さずに生が尽きるまで燃やし続け、社会活動をとおして力強く実践し続けていきたいと思っております。

そこにしか取り柄がないし、あほやし、やらなしゃあないやん。

がんばるぞ、っと。

 

 

「見えない」ことは欠落ではない


「見る」ことそのものを問い直す、新しい身体論

このコピーライトいいと思いませんか。下記の本の帯に書いてあることばです。さて、3記事連続で書いてきましたが今回をとりあえずのラストにします。

前の記事からのつづきです。

 

伊藤亜紗著 『目の見えない人は世界をどう見ているのか』

 

視覚障碍者に限らず、障碍をもっている人に対して私たちの社会は、「同情して接するべきだ」という空気を作りだしていると思います。これは決して間違いだとは思いません。けれど、実際に障碍がある人のなかには、同情されたくない、普通の人と同じように接してほしいと思っているが決して少なくないと、取材を通して伊藤さんはそう述べています。

むしろ、同情の空気が作りだした障碍者優先社会は、モンスター障碍者をも作りだしてきました。有名人の中には 「障碍者なのだから優先されて当たり前だろう」という傲慢な精神に陥った人もいました。

障碍ではありませんが、行き過ぎた人権主義は被害者モンスターを生みだしました。何かと言うと差別だ、人権だ、権利だ、自由だ、平等だと「叫ぶ」人が目立つようになり、ふつうはそんなモンスターに絡まれたくないわけで、不自由で形式主義的、事なかれ主義的、そうした閉塞した空気が現代社会を覆っているような気がしてなりません。皆さんはどう感じられていますか。日本に限ったことではなさそうですが。

伊藤さんは、「障害とは何か」というテーマで次のように述べます。

「障害者」というと「障害を持っている人」だと一般には思われています。つまり「目が見えない」とか「足が不自由である」とか「注意が持続しない」とかいった、その人の身体的、知的、精神的特徴が「障害」だと思われている。

しかし、実際に障害を抱えた人と接していると、いまだ根強いこの障害のイメージに対しては、強烈に違和感を覚えます。端的にいって、こうした意味での障害は、その人個人の「できなさ」「能力の欠如」を指し示すものです。「できなさ」や「能力の欠如」だから、触れてはいけないものと感じられる。

(中略)

従来の考え方では、障害は個人に属していました。ところが、新しい考えでは、障害の原因は社会の側にあるとされた。見えないことが障害なのではなく、見えないから何かができなくなる、そのことが障害だと言うわけです。

(中略)

「足が不自由である」ことが障害なのではなく、「足が不自由だからひとりで旅行にいけない」ことや、「足が不自由なために望んだ職を得られず、経済的に余裕がない」ことが障害なのです。

 

そのとおりですよね。すっきりと説明してもらっています。

でもひと昔前、と言っても私が子どもの頃そうだった記憶があるので半世紀も経っていないと思いますけれど、(あえて差別表現のことばで書きますが)「かたわ」の人として障碍者はレイシズム的に蔑視されていたのです。身内に障碍者がいれば世間に隠そうとした。そういう社会だった。

今もそういう目で見る人も中にはいるかもしれませんが、非常に少数でしょうし、障碍者にやさしく同情的になったことは社会の進化だと思います。そこからさらにステップアップして、「社会的生活に不都合があることを障害と呼ぶ」という意識への進化は、人格の平等性に基づく自然なふれあいだと考えます。ですので、もっとフランクに付き合っていければいいなと思います。

私が今回3記事にかけてこの本を取り上げたのは、正直に言ってしまいますが、福祉的心情はまったくありませんでした。ずいぶん前、もう何十年も前から、全盲の人の世界ってどんなんだろうという好奇心がずーっとあって、盲学校への訪問に機会を見つけて行きたいなと思っていたのです。なので伊藤さんには大感謝です。

 


 

同書からの派生で、情報を求めるのか意味を求めるのか、カクテルパーティー効果(大勢でざわついてる中から目的の人の声だけを聴くことのできる人間の能力)による「注意」というテーマができた。単なる情報ではなく意味を求める。それはフランスの哲学者アンリ・ベルクソンの「注意的再認」に当たるのではないか(運動によって情報を自然に取り込むのは「自動的再認」)とも考え、ベルクソン著『物質と記憶』を読み始めました。

知覚、記憶、想起、という人間の内部で起こっていることについて、ベルクソンの論からヒントを得、記憶とは何かについて閃いたものがあり、心の哲学の構想がなおいっそう楽しくなりました。

偶然かどうかわかりませんが、驚くことに、ベルクソンは視覚を失った場合について同書の数か所で言及しているのです。120年前の時代ですから視覚障碍者についての研究は進んでおらず(西洋でも差別されていたのかもしれませんが)、ベルクソン個人の想像です。以下に引用します。

私は、空間のなかに多数の対象を知覚する。各々の対象は、視覚的形式である限り、私の活動を促す。

私は突如として視覚を失う。おそらく私は、空間内で同じ量、同じ質の運動をなおも所有している。けれども、これらの運動は、視覚的印象に連繋させられることはもはやありえない。今後それらは、たとえば触覚的印象に従わねばならなくなるだろうし、おそらくある新たな配列が脳のなかで描かれるだろう。(ちくま学芸文庫版 アンリ・ベルクソン著『物質と記憶』)

 

認識論について考究してきた数多くの哲学者、カント、ハイデガー、ウィトゲンシュタインらも、「自己からの視覚的世界観」が前提にあったのではないか。ベルクソンの推測は外れました。視覚障碍者は視覚を失った後も、先天的全盲であっても、視覚的印象で世界を表象しているのです。しかも、特定の視点に固まらない全方向的な俯瞰的空間感です。

視覚は私たちに最も多くの情報をもたらす代わりに、先入観を固めてしまうデメリットがあるのかもしれません。

最後に伊藤亜紗さんのことばを引用します。

 

見えない人の頭の中のイメージは、見える人の頭の中のイメージよりも「やわらかい」のではないか。そう感じることがあります。

見えるとどうしても見えたイメージに固執しがちですが、見えない人は、入ってきた情報に応じて、イメージを変幻自在にアップデートできる。つまりイメージに柔軟性がある。そんなふうに思えるのです。

 

「見ること」に依存すればするほど、知性や感性が柔軟にはたらかなくなる可能性、あるかもしれませんね。今後の良いテーマになりそうです。

そして、「見えない」ことは欠落ではなく、別の世界の「事実」を体験していることと言える。

 

 

五感という分類常識を忘れてみる


前の記事では、伊藤亜紗著『目の見えない人は世界をどう見ているのか』第一章「空間」から、目の見えない人の空間感はハイレベルな三次元世界観だということが分かってきたことを書きました。

この本が注目されたのかされなかったのかは分かりませんけれども(現在2刷)、センセーショナルな発見だと私は思います。なにより伊藤さんの観察力が素晴らしい。子どもの頃から彼女は小さな生物の観察を続けてきたようで、東大では生物学を最初に専攻しています。三年生から美学へ文転したとあります。彼女の繊細な観察力は、細かな観察を大の苦手とする私と正反対で、ちょっと羨ましいです。

一冊読み終えてからまた何度も途中を読み返しているのですが、視覚障碍者の視覚的世界観の構築は、「他」と「他」の関係性によって組み立てられているんですね。ふつう私たちは「自」から「他」を認識して解釈する、「自」「他」の相対的空間観が中心です。日の出には太陽が昇ってくる感覚ですよね。

じゃあ、視覚障碍者の方々は自分が今いる視点からの感覚はないのかと考えてしまうのですが、それは「注意」という感覚らしいです。つまり内的世界は三次元で自由に俯瞰している世界観があって、その中に自分を歩かせていて、その歩かせている自分の進行方向に注意を向ける感じだと思います。

※「注意」で思い出したのがフランスの哲学者アンリ・ベルクソン(1859-1941)の「注意的再認」という言葉です。次の記事では、認識論(彼独特のイマージュ論)を扱った著書『物質と記憶』を少し覗いてみたいと思います。

 


 

伊藤さんは、DID(ダイアログ・イン・ザ・ダーク)という真っ暗闇を体験できる施設に何度か行かれています。その感想が書かれている箇所があるので引用してみましょう。(現在、同施設は体験一般5000円/完全予約制)

第一章で、見えない人は相対的に道から自由である、という話をしましたが、慣れていないと、本当にどっちに進んでいいのか分からない。どっちが壁でどっちが段差だか分からないということは、自分の進むべき方向を示してくれるものがない、ということです。

進むべき方向が分からないということは、そこにあるはずの物理的な空間と、自分の結びつきが不確かになるということです。ちょっと極端な言い方をすれば、自分が体を持った存在としてこの空間の中にいるという実感が持てなくなってしまう。

もちろん、声を出すと仲間が応えてくれるので、自分が存在しているということは確認できます。けれどもそれも、実体のない魂同士の会話のように聞こえてしまう。存在はしているけれど、体がなくなったような気分です。透明人間になるってこんな感じなのか?

 

自分の体がなくなる感覚のようです。

私も体験してみたくなったので、機会をみつけて行ってくることにします。視界がない、視点がない世界に慣れている視覚障碍者の方が、上記のDIDで道案内してくれるそうです。

 


 

さて、視覚障碍者といえば「点字」を触って意味を解釈することで知られていますが、点字識字率は12%程度ということです。思っていたよりも全然少ないです。そして点字を触って意味を解釈する時に、彼らは「見ながら読んで」いるそうです。以下に引用します。

生理学研究所の定藤規弘教授らによれば、見えない人が点字を読むときには、脳の視覚をつかさどる部分、すなわち視覚皮質野が発火しているのだそうです。

つまり脳は「見るための場所」で点字の情報処理を行っているわけです。脳の可塑的な性格は近年注目を集めていますが、見えない人では視覚的な情報を処理する必要がなくなるため、視覚野が視覚以外の情報処理のために転用されるようになるのだそうです。(晴眼者ではこうしたことは起こりません)

 

点字を触って読んでいるのですが、触る=見る、という脳の回路変更が行われているようで、凄いことだなあと思いました。

 


 

私たちは常識として「五感」という知覚の分け方を信用しています。

視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚ですね。

でもこれって本当でしょうか?本当に分離しているのでしょうか?

他の人はどうか知りませんが、私は文章を目で読む時に、耳で聞いています。どういうことかというと、例えば今回取り上げた本を読む時には、伊藤亜紗さんの声で聞いているのです。伊藤さんがご活躍されている動画がYouTubeにあるのでそこから声の質や口調、ちょっと早口な感じ、顔の表情を推測して、本のなかで話を聞いています。

ニーチェを読む時には、ニーチェの声は知りませんので顔から男性的なちょっと太めの声を連想して、本を読むという感覚ではなく文章を聞いています。ハンナ・アーレントの翻訳は常体の「だ・である」調で書かれていますが、落ち着いたアルトの感じの女性の声で聞いています。ブロガーさんのブログを読む時も、LINEで子どもたちとやりとりする時も、文章は自動的に声に変換され、音として聞いているのです。

みなさんはどうなのでしょうか。

音楽を聞いて色が見えることをシナスタジアと言いますが、それは私にはありません。ですが音楽を聴くときには、言葉で表現できない聴覚以外の感覚が何かをインプットしているという不思議な感覚があります。耳が聴いているのではなく全身の細胞が聴いている感じです。振動の波動などではなく。

 


 

人間のご先祖さんを辿れば海中生物で、目がありませんでした。最初にできたのは口ではないかというのが通説だと思います。すべては触覚(皮膚感覚)から始まったと言えるのです。私は味覚も触覚の一部だと考えています。

視覚で凍てつく冬の映画を見ていると寒くなってきますし、聴覚でガラスの音を想像したときに鳥肌が立ちます。梅干しやレモンを想像すると唾液が出てきます。

「五感」という常識的分類をせずに、自分から離れているものは視覚と聴覚によって触れているというふうに考えることができる。

最後に、「触れる」ことについて伊藤さんが述べている部分を引用します。

 

たとえば子どもや恋人と手をつないでいるとき、感じるのは相手の手ではなくて、その存在全体です。相手の気持ちがどこに向いているのか、どんな気分なのか、具体的に感じることができるかもしれません。

いや、「感じる」というと対象化して距離を取るようですので、ちょっと違うかもしれません。気は流れるものと言われます。

相手と自分が気の流れを通して一つになる。気持ちが通い始める。

電池の極に電線をつけた瞬間に電気が流れるように、手と手、あるいは唇と唇が触れ合った瞬間に、流れ始めるものがあります。

 

 

目の見えない人の空間感


今日の記事は自分で言うのもなんですが、注目記事です。人によっては後頭部をハンマーで殴られたようなショックを受けるかもしれません。(中にはその本読んだよ~という人もいらっしゃるでしょうけれども。)

2月6日に書いた記事(これも人気記事でした) 『絶対的空間感と相対的空間感』 のなかで私は、方向音痴の人は絶対的空間感をイメージできないのではないかと書いたのですが、私の周囲の人に聞き込み調査をした結果、とりあえずはそのとおりでした。(カーナビが無い時代に)自動車を運転して目的地に到着できない、地図と目視の動的混合ができない。地図を読もうとするときに、地図を動かして自分目線の方向を上にするという特徴も共通していました。自分が動く場合に、空間の方を固定したイメージを作れないようです。

ですが逆に私は、「動的メタ認知をイメージできない」という世界をイメージできないのです。お互いさまなのです。

そして同記事の中で、次のように私は書きました。

盲目の人の立場になれば、彼らは脳内で自分が今いる周囲を「相対的」空間イメージとして感覚していると同時に、「絶対的」空間イメージとしても感覚しているとしか思えない。機会があれば聞いてみたいと思う。

 


 

自分で聞くことはまだできていませんが、同じように「全盲の人の世界観てどんなんだろう」という好奇心を持たれるかたがやはりいて、そのかたが取材・考察して著した本を数日前に見つけ手にしました。

予想どおりと言いますか、予想以上です。

結論から言いますが、全盲の方の世界観は、自分自身を起点としていません。世界は自分がいる位置から開闢していないということです。しかも驚くべきは、なおかつ、視覚的世界観をイメージしているのです。

 

光文社新書版『目の見えない人は世界をどう見ているのか』

序章 見えない世界を見る方法
第1章 空間
第2章 感覚
第3章 運動
第4章 言葉
第5章 ユーモア

著者 伊藤亜紗(1979-)

東京大学文学部卒、同大文学博士、専門は美学、現在は東京工大リベラルアーツセンター准教授の職にあるかたです。

美学とは何ぞやと思うかたのために序章より伊藤さんの言葉を引用します。

美学とは、芸術や感性的な認識について哲学的に探究する学問です。もっと平たくいえば、言葉にしにくいものを言葉で解明していこう、という学問です。

右脳で展開されている世界を左脳で語る、ようなイメージだと私は受け取りました。難しいジャンルだと思います。

視覚障碍者のかた数名とその関係者のかたがたに密着取材しています。視覚障碍者のためのワークショップやフォーラムにも積極的に参加されています。

序章にある次の言葉は特に強調しておきましょう。

視覚を遮れば見えない人の体を体験できる、というのは大きな誤解です。それは単なる引き算ではありません。見えないことと目をつぶることとは全く違うのです。

視覚障碍者のかたがたへの礼(尊重)ですね。理解に近づくことはできても完全に理解することはできないという心得だと思います。

 


 

つづけて同書 第1章「空間」より引用します。

私と木下さん(※視覚障碍者のかた)はまず大岡山駅の改札で待ち合わせて、交差点をわたってすぐの大学正門を抜け、私の研究室がある西9号館に向かって歩きはじめました。その途中、十五メートルほどの緩やかな坂道を下っていたときです。木下さんが言いました。

「大岡山はやっぱり山で、いまその斜面をおりているんですね」。

私はそれを聞いて、かなりびっくりしてしまいました。なぜなら木下さんが、そこを「山の斜面」だと言ったからです。毎日のようにそこを行き来していましたが、私にとってはそれはただの「坂道」でしかありませんでした。

(中略)

人は、物理的な空間を歩きながら、実は脳内に作り上げたイメージの中を歩いている。私と木下さんは、同じ坂を並んで下りながら、実は全く違う世界を歩いていたわけです。

 

私は、全盲の人というのは相対的空間観(自己視点)と絶対的空間感(俯瞰視点)が半分半分くらいなのかなと想像していましたが、なんと、ほぼ絶対的空間感だけをイメージしており、それも晴眼者(視覚に障碍が無い人)が想像しえないハイレベルの三次元空間感が彼らの世界なのでした。

視覚に入ってくる光景を私たちは立体的に脳で変換していますが、実際には表面上の一面しか見えておらず、見えているモノの裏側や隠されている残りの大部分を想像によって補い立体化しています。立体的リアルがそこにあるように思い込んでいるだけです。

視覚障碍者の場合は、「自分はイメージを作っている。」という自覚があるのです。ここの柔軟性が決定的に違うのだと思います。

 


 

続けて引用します。

たとえば「富士山」。これは難波さん(視覚障碍者のかた)が指摘した例です。見えない人にとっての富士山は、「上がちょっと欠けた円すい形」をしています。いや、実際に富士山は上がちょっと欠けた円すい形をしているわけですが、見える人はたいていそのようにとらえていないはずです。

見える人にとって、富士山とはまずもって「八の字の末広がり」です。つまり「上が欠けた円すい形」ではなく、「上が欠けた三角形」としてイメージしている。平面的なのです。

(中略)

三次元を二次元化することは、視覚の大きな特徴のひとつです。「奥行きのあるもの」を「平面イメージ」に変換してしまう。(中略)もちろん、富士山や月が実際に薄っぺらいわけではないことを私たちは知っています。けれども視覚がとらえる二次元的なイメージが勝ってしまう。

(中略)

見える人は三次元のものを二次元化してとらえ、見えない人は三次元のままとらえている。つまり前者は平面的なイメージとして、後者は空間の中でとらえている。

だとすると、そもそも空間を空間として理解しているのは、見えない人だけなのではないか、という気さえしてきます。

(中略)

なぜそう思えるかというと、視覚を使う限り、「視点」というものが存在するからです。視点、つまり「どこから空間や物を見るか」です。

 

上記の記述に続いて、視覚障碍者のかたがたには特定の視点がなく、自由自在にイメージしていること、イメージしたものに表と裏はなく、驚くべきことに建造物(書では太陽の塔を例に挙げています)の内部と外部も等価としてイメージしていることが述べられています。

表と裏が無いというのは何となくイメージできます。内部と外部が等価というのはなかなかイメージしづらかったのですが、スケルトン構造のイメージではないかと思います。

もちろん、視覚障碍者としてひとくくりにはできません。著者の伊藤さんも慎重に書いています。先天的に全盲のかたと、病気や事故によって全盲になってしまったかたの違いは大きいでしょうし、イメージ自体も個別に違っていて当然だと思います。なにしろ晴眼者であっても、私とあなたではイメージしている世界の数や世界観の質感、時間感、情感、世界観の混合の仕方なども違ってあたりまえだからです。

つまるところ、「人は~」として人間をひとくくりにして普遍的に、認識論や存在論を語ることはできない、或いは限界が浅いところにあるということではないでしょうか。どれほど有能な哲学者や科学者でも、自分のイメージ上でしか観念世界を語りえない。認識メカニズムの理解は個人的経験に基づく仮説の域を出ることはない。

晴眼者にとって天動説(自己視点)のイメージは簡単ですが、地動説(三次元空間の俯瞰視点)の今まさに動いているイメージの世界観(自分もその中で動いていて、世界も動いている感)は、個人差が大きいのではないかとも思います。メタ認知の自他の差があるということについては、互いに認めあうべきだと思います。

もう一度引用しておきます。

私と木下さんは、同じ坂を並んで下りながら、実は全く違う世界を歩いていたわけです。

 

なお同書の今回の引用は、第1章の「空間」です。(続きで気になるところがあればまた記事に書くかもしれません)

第1章の小テーマでは他にも魅力的な内容がたくさんあります。
「私が情報を使っているのか、情報が私を使っているのか」「踊らされない安らかさ」「視野をもたないがゆえに視野が広がる」「視覚がないから死角がない」 など。

 


 

晴眼者が情報をインプットする場合、その五感感覚は視覚によるものが80~90%だそうです。全盲のかたがたは私たちよりもはるかに少ない情報量で世界を把握していることになる。想像力が抜群だということです。創造力の根源は想像力ですので、全盲のかたがたはクリエイティブの才能が豊かなのかもしれません。なかなか発掘されていないだけで。

私たち晴眼者の世界では、文明の発達によってテレビや映画、最近では3DどころかVRの世界までをも科学が作りだしました。機械はどんどんクリエイティブに進化していくのと反比例して、人間の想像力はどんどん劣化していくのです。VRを見るよりも、映画やテレビを鑑賞するよりも、小説を読んだ方がイメージを自由に飛翔させることができ、はるかに想像力が身につくのにもかかわらず、それをしない現代人が増えているように思います。

逆に言えば、目を閉じてクラシック音楽でも聴きながら、架空でも現実でもよいので世界観をイメージし、物語を映像的に脳内だけで創作してみる。視覚主体の思い込みからの自己解放、そこから何かが生まれてくる可能性がある。この本を読んでいてつくづくそう考えるようになりました。

 

信頼を考える


先週からコピーライティングの本を4冊ほど読み漁っています。プラス「仕掛学」の本も面白そうだったので読んでいる最中なのですが…。

広告業界のコピーライトの世界は思ったよりも奥が深くて、これは心理学の応用、しかも深層心理学(無意識)にまで食い込んできています。また、「仕掛学」は間接的に無意識を利用するという面で似ている分野です。

単純に言葉のテクニックではないかなどと考えていました。ところが、コピー(言葉)よりも重要なのは「信頼」だということが書かれていて脳天ぐさりです。ふつうは「商品価値」を最もPRしたくなりますが、これは三番目で、四番目が「価格」。で、一番は「信頼」。二番は「好奇心をくすぐって持続させること」、そのように理解できるようになりました。

重ねて言いますが、奥が深い。

信頼。これはマズローの五段階欲求の第二段階にある、「安全」を思い起こさせます。安全な会社であること、信頼できる経営者であること。お金をだまし取られないこと、商品が安全であること。アフターフォローが安心できること。そうしたところを無意識のうちに探している。自分に当てはめても確かにそうでした。

 

前記事の最後のほうで「信頼」について少し書きました。そして功利主義や打算、ソロバン勘定は駄目だと大塩中斎が言っている、安岡先生も言っていると書きました。

そうしてみると、「信頼」を目標に置いて目的的に思考し行動することについても、厳密にいえば功利主義ではないかと考えるに至りました。ましてキャッチコピーに「信頼できる会社です」だとか「信頼してください」などと謳うのはナンセンスで逆効果ですね。

信頼を築こうとして目的的に考え、例えばその一つの手段として「約束を守っていこう」とした場合に、功利的だから駄目なのだろうかと考えてしまうわけです。

ではその反対に、「約束を守ろう」と決めて、それがずっと続けば信頼を得られるかもしれないと考える場合はどうか。これもなんとなく功利的に思えてくる。

功利的ではないということはどういうことか。約束を守ろうとも思わず、信頼を得ようとも思わず、内発的に無意識のうちに口が動き身体が動いている、その結果なぜだかわからないが信頼されている、いや、信頼されているとも考えない状態なのかもしれません。

しかし、常人でこんなことは可能なのだろうかとも考えるわけです。

これはもう悟りきった仙人レベルなのではないかと。

 

たしかに純粋な心から内発的に出てくる言動や行動は美しいです。すばらしいですよね。でも、目的的に功利として考えることがそれほど悪いことなのかとも思います。人類は目的的に考えることで文明を進化させてきた側面が大きいとも思います。

自分の利益だけを考える下衆なソロバン勘定は良いものではありませんが、事業には数字の事業計画が付きまといますし、というかそれがないと駄目ですし。目標とする結果を決めて、そのためにはどうするかを考える功利主義も半分あって良いのではないかと思うようになりました。目標を貫徹しようとするとき、多くの他人が必ず絡みます。ときには打算も必要でしょう。

 

いずれにしても「信頼」です。信頼される人になること、信頼できる社会や法人を作ること、これだと思います。

そのために、誠実さ、勇気と志、義理と人情、愛情、情操、矜恃、使命感、正義感、継続力や忍耐力など、そうした資質や能力、パーソナリティーが求められてくるのでしょう。

まだ整理がついていないので、引き続き考えてまいります。

 

 

※前記事で、「なぜなら欧米では、「自分の内」のことは教会(宗教)の教条主義によって強制的に造られるからです。アラブの世界でも同様ですね。」と書きましたが、宗教のドグマによらず、無信仰者として「立派な人間とはどうあるべきか」を子どもに教える親もいるのかなと考え直しましたので、訂正したいと思います。日本でもドグマチックに教える宗教もありますし、ステレオタイプでレッテルを貼ったのは私の至らなさであります。(後日修整しておきます)

 

 

TOP
Copyright © 2017-2025 永遠の未完成を奏でる 天籟の風 All Rights Reserved.