西郷隆盛は「敬天愛人」を座右の銘としました。
天を敬い人を愛するという、短く単純な教科書的意味でとらえて間違いはないのですが、天を敬うとはどういうことか、天とはなにか、人を愛するとは博愛主義なのかと、いかようにも掘り下げることができます。
『老子』でも『論語』でも、並んでいる漢文字は少ない。その少ない漢文字をどのように訳すかは、書き手の文脈だけでなく、読み手の文脈によって異なってきます。西郷が想う「天」と、私が想う「天」はおそらく違う。西郷の想う「天」はどのようなものだったのだろう。
道は天地自然の物にして、人は之(これ)を行ふものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給(たも)ふゆえ、我を愛する心を以(もっ)て人を愛する也。
上記が西郷の「敬天愛人」です。
天を敬するというのは儒学思想なのですが、孔子が出る前からあった中国の古典的な宗教観で、天に対する信仰ともとれる。孔子はその宗教くささを取り除き敬天を儒学に取り入れました。
江戸後期に儒学の大家として活躍した佐藤一斎の『言志四録』を座右の書とした大西郷は、儒学から敬天を学んだと思われます。
他方、古来より日本にも「天」は、天照大御神などの「アメ」「アマ」に見られるわけですが、天照は太陽神であって天の神ではない。「お天道様が見ている」という言葉におけるお天道様とは太陽のことをいう。一方で「天皇」という言葉は中国の概念に由来すると言われています。
日本人の「天」にかんして、倫理学者の相良亨(1921-2000)が著書『日本人論』において大きくページを割いて解説していますが、時代によって、人物によって、天の観念にはだいぶ差があるようです。
西郷の最も有名な言葉。
人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手に己を尽くし、人を咎めず、わが誠の足らざるを尋ぬべし。
ここにおける「天」はどのようなものだと思いますか?
また、敬天愛人を標榜する西郷が、「人を相手にせず」と言っていますが、どう思いますか?
西郷はどうかわかりませんが、私において「天」とのかかわりは、自己内の二重性だと思うのです。自己内の理想を対象化させ「天」を造っている。もっと言えば偽造、ねつ造している。そうして「天」から見た自己を内省するための「材料」として天を活用している。
どうでしょう。
それとも天は、人間が想像もできないような神のごときでありましょうか。
「人を相手にせず」という部分についてですが、余計なことを言ってくる人だとか“負”の人を相手にせずということではなく、人よりも天をという優先順位の思想ということでもなく、ここでは天上天下唯我独尊のマイペース、超越した「上から目線」(苦笑)
「そういう人格も自分の中にある」ということで、時と場所を選んでの言葉だと私は思います。間違っているかもしれませんが、私の文脈で読んでいるわけです。
このブログでも時々私は「仙人モード」で、自閉的に書くときがありますが、孤独になって人を寄せ付けない、人を相手にしない、天を相手にするという境地は、生活の中で必要な時ではないでしょうか。一つの真理に収れんしたいばかりに、自分に整合性を強引にもたせるのはナンセンスのように思います。
最後になりましたが、「わが誠の足らざるを尋ぬべし」の、この「誠」こそが、日本人のまさに日本人らしさ。「清き明(あか)きこころ」です。断言します。
清き明きこころについては、また機会をあらためまして、深くゆっくりと感じつつ書いてみたいと思います。
「天」概念と「天」価値について、更に深く掘り下げた考察は私の宿題としておきます。