寛容にたいする批判


寛容という概念は、社会の多様性を支える美徳として広く称賛される。しかし、現代社会ではその過剰な適用が、逆説的に害を招く場面が増えている。寛容が強制的に押し付けられ、被害者の権利が軽視されるケースは少なくない。以下では、こうした過剰な寛容の具体例を挙げ、その問題点を明らかにしていこうと思う。

 

近年、ハーバード大学やイェール大学、オックスフォード大学といった名門校から、一般企業に至るまで、DEI(多様性、公平性、包摂性)を掲げるポリシーが制度化されている例が増えている。ポリシー自体は脆弱な立場を守る目的をもつが、運用過程で「非寛容」と断定される基準があいまいである場合、懲戒や降格、採用差し止めといった人事的制裁につながる事例が報告されている。たとえば大学の学内委員会や人事部が、ある教員や学生の発言を「差別的」や「害悪を助長する」と判断して、調査と同時に職務排除的な措置をとるケースがある。〔※事例1〕

ここで問題となるのは、手続きの透明性や反証の機会が十分に担保されないまま即時的に処分が進む点である。

 

次に、学校教育での、いじめ問題の具体例を挙げる。
近年、加害者に対する過剰な寛容が、被害者を二次的に追い詰める事案を目にすることが増えた。いじめ加害者の行動を「個性の違い」や「成長過程の過ち」として扱い、被害者に耐え忍ぶことを強いる教育方針が横行している。これにより、被害者は孤立し、精神的・身体的なダメージが深刻化する。

例えば、2021年に北海道旭川市で発生した旭川女子中学生いじめ凍死事件では、被害者女性(当時14歳)が自慰行為の強要やわいせつ画像の拡散などの性的いじめを受け、凍死した。学校側は加害生徒の行動を軽視し、調査を怠り、説明会で教頭が「10人の加害者の未来が大切」と発言したことが明らかになった。〔※事例2〕

この過剰な寛容は、加害者の更生を名目に被害者の救済を後回しにし、学校という空間の安心を崩壊させる。文部科学省の報告でも、いじめ認知件数は増加傾向にありながら、加害者への厳格な対応が不足している事例が散見される。結果として、子どもたちの信頼関係が損なわれ、教育現場全体の規範が揺らぐことを招いた。もちろん、学校側の保身の一面は少なからずあるだろうが、ここで問題としているのは「寛容」の免罪符的側面である。

寛容は容易に権力の道具へと転用される性質を持つ。寛容という高潔な言葉が政治的レトリックに取り込まれると、基準を定める主体が恣意的な力を行使できるようになる。特定の価値観を「寛容の主流」として確立することで、対立する文化や意見を持つ人々を「不寛容」と烙印し、社会から排除することが可能になる。

こうした言論権力の行使が、手続き的正義や法の下の平等を蝕み、結果として社会的分断を深める。寛容が倫理的免罪符として使われるとき、その道具化は被害を見えにくくし、公共の議論を貧しくする。この道具化は、規範の名の下に寛容を強いる構造を生み、結果として安心の基盤を揺るがす。

 

また、寛容を掲げる側が道徳的優越感に陥ることも問題を大きくする。自らを「寛容な側」と位置づけることで、相手を容易に道徳的に裁断し、吊るし上げる論理が働きやすくなる。
これが「高潔さの独善」であり、寛容の語が逆に不寛容を正当化するパラドックスを生む。被害を訴える当事者であれ、反対意見を唱える学者であれ、寛容なる社会規範の中で瞬時に抹消されうるという不均衡が生じると、公共性の場は安全な討論の器ではなく、感情的な裁判所へと変質する。

最後に制度設計の難しさについて述べる。寛容を守るために用意した仕組みが、同時に寛容を侵食することがある。表現の自由を守る法制度が、被害を受ける集団の安心を奪うこともあり得る。こうした価値間の衝突は容易に一義的な解を持たず、制度は永続的な調整と再検討を前提に設計される必要がある。寛容を成熟させるということは、単に美徳を称揚するのではなく、その運用と帰結を慎重に見通し、手続き、救済、説明責任を組み入れていく営為を意味する。

擁護者は「寛容は社会の多様性と創造性の基盤であり、否定すべきでない」と主張するだろうが、その主張を受け止めたうえで強調したいのは、問題は「寛容を否定するか」ではなく「寛容をどう設計し運用するか」に尽きるという点である。

こうした批判を踏まえ、自由・寛容・規範・安心の相互力学の全体構造を明らかにし、自由と同様、寛容も条件つきの実践として再設計する必要がある。
しかし私は、どのような寛容が良いのかという「善」や「正しさ」の社会的価値観には踏み込まない。ゆえに実践としての再設計を行わなず、他者の手に委ねたい。もっぱら、自由・寛容・規範・安心の相互力学の全体構造を明らかにすることにつとめる。

 


〔事例1〕

大学・企業におけるDEI政策と寛容批判

参考資料1 要約

    • Yale大学 — 教員Bandy LeeがTwitter上でトランプ前大統領らの精神状態について発言後、大学は「専門職倫理違反」と判断して契約解除。発言の自由と大学倫理基準の衝突をめぐる訴訟へ発展。
    • Oxford大学 — 大学のハラスメント/SNSガイドラインが「敬意を払う」といった曖昧な基準を義務化。学者たちは「合法的な発言が処罰対象となる」と懸念を表明。
    • Harvard大学 — DEIタスクフォース設置後、学生から「差別や嫌がらせに対する保護が不十分」との声が上がる一方、自由な発言の抑制を指摘する意見もあり、学内で対立が深まる。
    • 企業分野(ソフトウェア工学) — DEIへの反動を示す研究。制度化が摩擦を生む事例。

参考資料2 リンクURL

参考資料3 反論

一部の記事および報告では、DEIプログラムは批判されつつも「完全に言論を抑圧する装置ではない」と論じている。むしろ制度内外で調整や対話が進み、持続的に運用されている点に注目すべきだとされる。たとえば「Harvard’s DEI Complex Is Stronger than Ever」は、制度が批判や反動に直面しても依然として強固であり、崩壊や全面的な縮小には至っていないという見方を提示している。
https://manhattan.institute/article/the-harvard-dei-complex-is-stronger-than-ever?utm_source=chatgpt.com

 

〔事例2〕

旭川女子中学生いじめ凍死事件

参考資料1 要約

  • 事件概要: 2021年2月13日未明、旭川市立北星中学2年の女子生徒(当時14歳)が自宅を出たまま行方不明となり、同年3月21日に同市内の公園で凍死体で発見された。検死で死因は低体温症(凍死)と判定された。
  • いじめの報道と調査開始: 文春オンラインは、被害生徒が2019年に別の中学校で上級生から性的ないじめ(わいせつ行為の強要)を受け、その後学校対応が不十分だったと報じた。これを受け、市長は「大きな疑念が広がっている」として教育委員会に第三者調査を指示し、事実確認に乗り出した。
  • 加害内容: ビジネスジャーナル(2021年4月)などは、上級生グループが被害生徒にわいせつ動画の撮影を強要し、画像をSNSで拡散するなど凄惨ないじめを報じた。当初、学校側は「男子生徒らのいたずらに過ぎない」と説明し、対応が杜撰(ずさん)だったと伝えられている。
  • 学校・教育委員会の対応: 2021年8月30日、市教育委員会が記者会見で調査状況を説明し、教育長は遺族対応について「一つ一つの取り組みをより丁寧にしたい」と述べた。その後、第三者委員会は2022年9月にいじめの存在を認定し、「いじめがなければ自殺は起こらなかった」と結論付けた(注:再調査で認定)。
  • 謝罪と公式見解: 2022年4月8日、第三者委報告を受けた旭川市議会で黒蕨教育長が謝罪し、「いじめを認知できなかったことを深く反省し、お詫び申し上げます」と遺族に謝罪した。これにより市教委は公式にいじめの存在を認め、再発防止策を検討している。

参考資料2 リンクURL

参考資料3 反論

  • 共同通信配信(2025年8月24日付)では、当時の中学校校長であった金子圭一氏が記者集会で「再調査委報告には事実誤認がある」と主張し、加害生徒とされた子どもたちも「過剰な報道」や中傷の被害に遭ったと述べているnews.jp
  • 月刊『北方ジャーナル』(2024年11月号)は、本事件に関する大手メディア報道に「事実と異なる記載」があったと指摘し、市教委の最初の第三者報告書で多数の記載が黒塗りにされた点など、真相が隠蔽されていた可能性を報じているhoppo-j.comhoppo-j.com

 

阪神タイガース日本シリーズ制覇


2023年11月5日。阪神タイガースが日本シリーズを制覇した。小学校低学年の時からタイガースファンを貫いている俺からすると、セリーグで優勝しようが日本シリーズを制しようが、ちょっと嬉しい程度なんだよな。別に勝たなくても愛着度は何も変わらない。でも、ちょっと嬉しい。1985年に日本一になった時も、テレビで観戦していてバカ騒ぎには全然加わらなかった。でも何度も何度も甲子園のライトスタンドには通った。近所だったし。

去年、岡田が再び監督に就任したとき、短くても5年間は連覇するだろうってTwitterに書いた。それだけの若くて優れた戦力が揃っているのもあって。でも岡田が2年間しかやらないことを聞いたあとは、難しいかもしれないと思うようになった。さて来年はタイガース初の連覇がかかる。リーグ優勝は問題なくいけるんじゃないかと思ってる。日本シリーズは運とか流れがあるからわからない。今年のシリーズも、選手個々の能力はオリックスのほうが高いと感じた。短期決戦では、野球の実力以外の要素が絡むこともあって強いチームが勝つとは限らない。

タイガースは甲子園球場の阪神ファンの応援がまずは反則級だし、岡田が監督であることで、選手は試合中に何があってもバタバタと浮足立つことなく、どっしりと安心してプレーできるっていう強みがある。けっしてオリックスの中島監督が監督として手腕が劣っているということではなく、パリーグで三連覇した中島監督は辣腕の人だろう。しかし、岡田の存在感は岡田ならではなんだよね。それに加えて阪神ファンの数と熱量。オリックスは阪神相手ではなかったら、昨年に続き日本シリーズ連覇していたんじゃないかなあ。強かったもん。

問題は岡田の次の監督だね。誰がなっても岡田と比較すると数段落ちると思うなあ。彼は野球IQが球界で最も高い人物のひとり。知性だけでなく勝負の流れを読めるし、監督という存在価値を客観視できているからねえ。将の器。リーダー的でも親分的でもなく、職人気質の親方って感じの将。そんな岡田監督の後はまた阪神タイガース暗黒時代となり、日本一は30年間お預けとなるかもしれない。それでも全然いいんだけどね。

なんやかんや言っても、阪神タイガースの日本シリーズ制覇によって俺は、じわじわと数日間は嬉しい気分を味わえる。

 

 

「らしさ」の是非を問う


「らしさ」について。

「らしさ」は、名詞や形容動詞の接尾語である「らしい」から派生した形容詞を、その「い」を「さ」に変えて名詞化し、「ふさわしい様子」や「特徴の現れ」を表現するものである。たとえば、「男らしさ」は、男性らしい特徴がよく現れていることを指し、「君には男らしさがある」と言えば、その人には男性らしい特徴がよく現れており、男性としてふさわしいということを意味する。

では、「その特徴」は誰によって決定されるのだろうか。客観性がなければ、多くの人々による価値共有は可能にならず共感は生まれない。科学的な方法によって客観性が確立される場合もあるが、人間の営みに関連する主観的な特徴については、個人の主観が集合して相互主観性が関与し、多数派の意見によって客観性が形成されることがある。要するに、「その時代を生きる人々によって」や、「その地域で生活する人々によって」、「らしさ」が設定され、変容していくのだ。「らしさ」に普遍的な不変の意味はなく、状況や文脈によって変わる。

次に「らしさ」についての是非と必要性について少し考えてみよう。

「男らしさ」や「女らしさ」を現代のリベラルな時代において声高に主張することは、批判を浴びる可能性がある。なぜなら、このような「モデル」が設定されることによって、人々は不自由さや差別を感じることがあるからだ。逆に、トランスジェンダーを含む多様な性自認を尊重する気運も存在し、これもまた性自認そのものが「らしさ」を意識するスタート地点であると言える。この点で、トランスジェンダーを認める社会とジェンダーフリー社会の対立が見られる。

話が逸れた。このような「モデル」は文化を形成する。その時代や地域の男性や女性の「モデル」は芸術作品や文学作品に表現され、人々の憧れや理想が形成される。男女や父母に限ったものではない。「かわいらしい子どもらしさ」や「成熟した老人らしさ」にも当てはまり、「日本人らしさ」や「現代人らしさ」、そして「人間らしさ」、更に言えば「自分らしさ」という観点にも言える。こうした「モデル」が個々人の志向性を生み出し、社会には価値観の秩序が構築される。秩序が整い、初めて「自由の拡張領域」が生まれるのだ。人間においては、秩序のない混沌状態では極小領域の自由しか得られない。

今回の記事での私の主旨は、「らしさ」についてネガティブな側面のみが強調される現代社会において、「らしさ」のポジティブな側面についても一度考えてみたほうが良いのではないか、という提案である。

人々や子どもたちは、モデルや理想なしに成長することはできるのだろうか?多くの人々は、自分自身の理想モデルや目標を持ち、自己実現を追求することを考えたり、「自分らしく生きたい」と考えたりするのではないか。「自分らしさ」は曖昧な表現だけれども、最も基本的で個性的な自分のアイデンティティだと言えはしないか。

 

 

「和熟」―― 折り合うということ


他人に共感を覚える。このことが始まりとなって友人となったり恋が芽生えたりすることもある。なぜ私たちは共感するのか。或いは共感できないのか。そして共感することは良いことなのか。また、共感できずに友人を遠ざけてしまったことはないだろうか。

自分の認識は真実であり正しい。自分の価値付与は善であり正しい。

なるほど、正しいことには皆が共感すべきであるということか。ではその認識に誤謬はないのか、価値付与を行った価値観は相対的であって時代や場面によっては価値がひっくり返ることは歴史を振り返れば山ほどある。そう考えてみると、正しいと判断する根拠の土台はそう盤石ではない。なのにひとつの正しさを押しつけようとするのは何故だろうか。

更に厄介なことに、正しいことには社会秩序と個人の自由がからむ。

同じ国民でさえ、いや、同じ同居家族でさえ、価値観や欲求が異なり喧嘩になることがいくらでもあるのに、文化習俗や価値観、社会秩序、主義、個人の自由度が異なる国家の人たちと100%共感し合えるわけはない。

互いに激しく対立し争う前に、折り合おうとする知恵が現代人の私たちにはあるのだと思う。そう信じたい。

折り合いをつけるとは、『大言海』の言葉を借りれば「相互に和熟す」ることである。「和熟」という言葉を知らなくても漢字の語感で、どういうことかを感じることができる。特に「熟」。

互いに譲り合って歩みよること、そうして折り合いを意識する精神が常在している成熟した社会であれば、決定的対立や争いになる前に「和らぎ」がもたらされるはずで、第三者はすすんで仲裁に入るものだと思うがどうだろうか。

行き過ぎた個人主義や行き過ぎたナショナリズムは、「和熟への努力」を忘れ、自らの利益国益を譲らない損得勘定主義や、すぐに法廷に持ち込み裁判をしようとする法依存主義に陥る。要するに複雑さから逃れようとしている。頭脳もこころも劣化してしまうのに。

「人間の」知恵とこころの努力によって良質な社会が育まれることを心から望む。

 

 

店名公表について


今夜二本目でございます。みなさんいかがお過ごしでしょうか。緊急事態宣言前夜ですぜ。祝杯でもあげますか。え?そんな気分じゃないぞって?おこらんといてください(笑)

さて、飲食店に発令される、おまえらこの時間以降に店あけてたら店名公表すんぞ!という罰則についてですがな。法改正が必要かどうかはあたしにゃわからんので明日からすぐの実効性があるかどうかは知りませんけど。

これってどうなん?脅しだよね、明らかな。

法的に強い罰則を現状与えられないので、違反したら店名公表するぞ、民間自粛警察にフルボッコにされるぞおまえらって、感じ悪いのぉ~~。

だってこれは民間リンチを利用しての脅迫にほかならないじゃん。

これを現代の公的立場の政治家が堂々とやるってほんま信じられんのだが。

要請を守んない店舗は店名晒されてあたりまえって、悪者あつかいする民間人もたくさんいるわけだけど、そりゃまあ気持ちはわからんでもないよ。でもさ、政治家がやったらあかんでしょ。

裁判で社会的制裁を受けたから減刑するというのは結果にたいしてであって、ハナから社会的制裁を民間リンチによって与える、あるいはそれを脅しに使うというのは、政治家がじぶんらの統治力や指導力のなさについてみずからパンツ脱いじゃってる感じで、ばっかじゃねーのって感じなんすけど(笑)

法整備して罰則をつくるにせよ、法に頼るってのは政治家の政治能力の無能さを示しているんだよ。いっちょまえに政治家を名乗るんなら、国民に説諭して国民がそれに納得してとなって初めて政治家としての価値があるんすよ。

法というのは最終手段で、法に頼らなくても国民の自主自律によって共同体秩序を形成していく、ここを志向していくのが政治でしょ。自粛警察は他律の強要やからね、民間リンチは自主自律じゃないし。

ってわけで、店名公表すんぞ!のタチの悪さを指摘しておきましたが、それはともかく、特に首都圏の医療関係の現場がたいへんなことになっているのでね、ここはなんとか皆で力を合わせて乗り切っていきましょう!

最後はあたしゃめっちゃ善人やん。あかんなあ。はずいから消す、消す、ぜったい後から消す、最後の一文だけでも消す(笑)

 

 

タトゥーについて


はい、こんばんはー!昨日掲げた「明日はこのどれかについてコラムを書く」宣言を堂々打ち破りまして(笑)、まあ余裕があれば二本目書きますが、今夜はタトゥーについてです。気に留まったので。

年末にボクシング世界戦で防衛を果たした井岡選手のタトゥーについて、なんか盛り上がっている感じですが、まず、入れ墨と聞くのとタトゥーと聞くのではイメージちゃうがな(笑)みんなそうじゃない?意味は同じだからイメージも同じっつー人もいるでしょうけど、私はイメージ違うんよね。タトゥーって聞くとなんか芸術的作品じゃない?ほかにも彫り物とかモンモンとかその辺も微妙にイメージが違うんですが。

ま、そこんとこは長くなるからアレなので置くとして、私のイメージは子どもの頃にでき上がったのかなあって思い起こしてた。たぶんね、水戸黄門とか遠山の金さんとか。この二つ全然違うんだけどね。

水戸黄門の爺ちゃんは今考えると儒教っぽかったと思う。他のテレビ番組やアニメでも儒教っぽい「教え」がけっこうあったんだ。そのひとつに「親からもらった大事な体を傷つけちゃいけない」ってのがあった。私の親はそんなこと教えてくれなかった。あたりまえだよね。自分があげた体だから、なんてぶさいくなことを言うわけない。

その教えとテレビのイメージがあって、いや遠山の金さんは若いころやんちゃで博徒ヤクザの道にあったという説があって、それで桜吹雪を彫ってるって感じなわけだけど。つまりヤクザになるってことは実の親を捨ててヤクザの親分の子になるってことだからさ。

だから私の子どもの頃にはヤクザしかモンモンしょってる人はいなかったわけよ。

そのイメージをね、捨てられないんだなあ。これが。

そういう世代の幅はどれくらいだろうね。清原さんはご両親ご健在でヤクザにもならずに彫っちゃったわけだから、親からもらった大事な体、っていうのは知らなかったのかな。どうなんだろ。

で、現代。

明らかに芸術としてというか気軽な装飾としてのタトゥーの価値が台頭してきて、ヤクザのモンモンとは違ってるよね。親からもらったうんぬんっていう儒教的価値観もすたれた感じだし。善し悪しは別として。

これからの世代の価値観が台頭していいんじゃないかとあたしゃ思う。

でもさ。われわれ世代のたぶん多くは、ヤクザのイメージ捨てられないと思うんだな。だからそれはそれとして、それぞれの価値観が違うことを寛容してもらえると多様な社会になると思う。

今の40代の人たちに根づいているさまざまな正しい価値観も、20年も経って今10才くらいの子たちが30才になる頃には間違った価値観になってることがたくさんあるんじゃないかな。

そうして人類は歩んできたんだなと、タトゥーに盛り上がる世論をみて思った次第でありんす。

 

なんや、今夜のコラムぜんぜんおもろないやん(笑)

 

 

平成最期の日に


今日で平成が終わる。

平成に置き去りにしてゆくことと取り戻すことをまとめておきたい。自戒の念を含め少々辛口になる。

 

1.「平成」は、「昭和」を卒業し「令和」へステップアップするためのモラトリアム期間という一面があった。

敗戦国としての日本

日本政府が「戦後レジームからの脱却」を標榜しても、米国からの圧力をはねのけ米国への依存度を減らし、敗戦国体制を克服した完全な独立国であることを世界が認めないかぎり、日本の独りよがりにしかならず時間がかかることを学んだ。米国との対等な国家関係を長期に目指し、急ぐことは終わりにしよう。

高度経済成長した日本

戦後、日本経済は急成長した。1980年代後半に不動産バブルが起き89年を頂点とした高度経済成長。経済大国日本。そしてバブル崩壊から平成が始まった。失われた10年と呼ばれ、失われた20年と呼ばれ、つまるところ失われた30年となった。30年間そして今もなお勤労者の給与所得平均は下がり続けている。この30年間、政府は経済復興を提唱し続け国民はそれに期待し続け、挫折し続けてきた。過去の栄華を振り返っての「夢よもう一度」はいいかげん終わりにしよう。

日本人の優越コンプレックス幻想

戦後の経済成長は俺たちがやったんだ。高齢者はこう言って胸を張る。確かに日本の自動車産業や精密機器産業、家電産業は世界に名をとどろかせた。土木建築業界も国内経済全体を引っ張った。しかし成長の主たる要因は3つ。米軍空爆による国土破壊の反動、戦後の占領軍による腐敗した政財界体制の解体、そして何よりも人口急増ボーナスだ。各産業は消費者がいなければ潤わない、潤わなければ投資ができない。消費者が急増したことで設備投資が爆発的に進み、研究開発に十分な資金投下があればこその技術の進歩であった。もちろん日本人の勤勉性と職人気質がシナジー効果を生んだことは否定できない事実。

だが経済成長の主たる要因を「俺たちだからできたんだ」とするのは勘違いも甚だしい。もう「昭和自慢」にはご退場願おう。バブル崩壊後に社会人となった50才以下の人たちの能力が原因で、日本経済が下降したような言い方をするな。逆に「俺たちが今の低迷日本をつくってしまった」と自らの責を痛感し内省をする高齢者の方々のなかで、いまだ社会で活躍することに意欲のある人には令和新時代のために、ともに汗を流して頂きたく思う。

自らに何の責も感じずに政治家や社会、景気のせいにするのは、奴隷根性から自立できていないか、無責任きわまる人格か、自分を慰めるなさけない弱虫か、欺瞞か、あるいは無自覚な自己欺瞞だ。

 

2.IT文明への過信と偏重によって失われた、ナマの人間らしさの復権を。

IT進化に対する無自覚な信仰と病い

濁流の如く襲い掛かる大量情報の波に抗うすべもなく、流されるしかなかった。「(IT文明に)ついていく」「(IT文明に)ついていけない」という言葉の流行は、本質を見つめる目を失った「(IT文明に)流されている状態の目からの景色」でしかなかった。IT文明は進化し続け人間社会にとって善だという無自覚な信仰。情報化社会が産みだした功績は計り知れないが、一方でナマの人間の触れあいが激減した。平成後半に厳しくなったハラスメントリスクもあって仕事上の人間関係は形式的で無味簡素に。プライベートにおいてもテキスト上のやりとり主体で、どうして人間の心と心の友好関係が育めようか。日本だけでなく世界的に鬱や統合失調、心を病む人が急増している。

理系重視と人文系軽視の分断

勝ち組か負け組か、損か得か、役に立つか立たないか、このデジタル思考的二元論が表面化したのも平成の特徴のひとつだった。たった一度の表層をすくっただけの結果主義、浅薄で奥行きのない功利主義の汚染。ついには国立大学に人文系学部は不必要ではないかという短絡的な議論をも生んだ。もちろん今後も専門分野を深く掘り下げる科学分野での研究や開発が必要なのは言うまでもない。しかしAIが人間知性を超えるシンギュラリティを目前に控えていることを鑑みれば、「創造」こそが人間のすべきこととなるのは自明。今後の創造のためには分断された理系人文系の「学問分野を横断する」取組みが必須となるだろう。特に哲学(価値論・倫理)を中心とした人文系の学問、および人類にとって未だに謎である「無意識」が耳目を集めるはずだ。

自由を勘違いした未成熟な個人主義

IT文明的デジタル思考が世を席巻するにつれ、人文学的な哲学的考察を深めることなく短絡的にアメリカ発のポリコレ運動が起きた。「自由とはなにか」「個人主義とはなにか」について考えることなく単純に、秩序は悪、習俗伝統は悪、古いものは悪とし、そうしたものに「時代遅れ」の烙印を押す平成後期の風潮。「私を束縛するものは何もないはずだ」「多様性社会こそ正義」などはもはや全体主義的な信仰状態となっている。勘違いした自由主義と未成熟な個人主義への暴走が流行したのも平成の特徴だった。秩序があって初めて自由がある。無法地帯に弱者の自由はほぼない。個人主義と、社会的に自分勝手が許されることや協調をしないことは全く異なる。自由と個人主義の実践がいかに厳しいものであるかについて理解を深めていくことは、国民的課題として令和に託された。

 

3.マスメディア情報を盲目的に信じ振り回されることからの卒業

新聞やテレビという情報媒体からの歪んだ情報操作やフェイクニュースが、インターネットSNSのお陰で暴露されるようになった。平成前半にマスメディアは「権力」にまでのし上がったが、平成後半では逆に衰退の一途をたどりつづけ国民からの信頼度も激減した。平成をもって、権力としてのマスメディアはもう終わったのだ。あとは誰がとどめを刺すかだ。

まだ終わったことに気づいていない人が大多数を占めているだけで、つづく令和の時代には業態転換しない新聞社は廃業し、多チャンネル化が予想されるテレビ業界では革命的大改革が求められるだろう。特に5Gの時代に入れば、質よりもスピードの要求される報道はますますインターネット中心になる。遊撃的に軽いフットワークで活動できる個人ジャーナリストの急増は、YouTube等の動画コンテンツの活況をみれば必然だと予測できる。

以上。

 

 

罰と躾と刑法


体罰の是非が問われるのは良い機会だと思う。世界的にも教育に体罰が必要か否かについて賛否が分かれ、問題として取り上げられている。ヨーロッパで特に躾の厳しいドイツやイギリスにおいてさえも、体罰を禁止する動きが加速しているが、一方で、イギリスの学校では一旦は体罰を禁止したものの、あまりの秩序の乱れにクリスチャンらが業を煮やし、「体罰を復活」の訴えが最高裁に出され、以降2006年からは条件付きでありながらも体罰を復活させた。

現代の日本では、「何があっても体罰はだめ」という基本的にすべての暴力反対する立場の人、「子どもの体が危険」「子どもの心も傷つく」と子どものことを心配する人、「体罰を行う親や指導者は身勝手な支配的欲求でそれを行使する」とし体罰を行う人に悪者のレッテルを問答無用で貼っていく人、などがいる。

一方で、体罰は必要だとする、主に中高年男性が主体だと思うが、体罰容認派と呼ばれる人たちがいる。

ここで何の議論もなく、ただ単に体罰は良いことか悪いことかの白黒をはっきりさせようとするのは、反知性的な思考停止であると言わざるを得ない。なぜならば、「罪」に対する「罰」というテーマは、人類文明はじまって以来の、未だ検討課題の域をでない深いテーマであるからだ。そう簡単に決着のつくことではない。立法化して体罰を禁止すれば一気に思考停止が加速する。法に依存すれば人間の理性はどんどん衰える。

 

「罰」とは何か。

私たちはここから始めなくてはならない。

 

現代までにつちかってきた人類の叡智のひとつに刑罰論がある。刑論での罰に対する理念とロジックは、学校教育の現場や家庭における躾の現場にいろいろと応用できるし、大いに参考になると思う。

理屈でいくら言っても改善しない、悪いことをやめないという人や子どもは一定数存在する。人類史上、刑罰が無くなったことが無いことを思えば、「人間を法秩序に組みこまなければ自然に悪いことをする」という、荀子や韓非子が主張した性悪説を無視することはできない。理屈で諭して悪事がなくなるのであれば、警察という暴力も必要ない。死刑や懲役という法の強制権力も必要ない。

 

まず、刑罰論を分ける。

 

1. 応報刑論

A 絶対的応報刑論・・・悪い行為を行ったのだからその報いを受けなければならないという、正悪絶対論からの制裁。一神教の国々では神が念頭にある。

B 相対的応報刑論・・・刑罰があることで社会目的が達せられるという立場。以下の目的刑論が現代では主流となっている。法律的応報刑論については省く。

 

2. 目的刑論

A 共同体秩序を保守するための一般予防論・・・法秩序が十分に機能していることによって安心できる社会を形成する。個々みずから法を破らない意識をもつ。

B 威嚇による抑止効果を目的とする一般予防論・・・法を破ったらこのような罰を受けるという威嚇によって、抑止効果を期待する。

C 罪人を隔離する特別予防論・・・社会秩序維持や社会不安を増幅させないために、罪を犯した者の自由を束縛し一般社会から隔離することによって、社会の安全と安心を保守する。

D 罪人を更生させるための教育的特別予防論・・・今後の再犯防止を目的とし、罰をもって教育を行い、その人の将来の罪を予防する。

 

私たちは日本の法律を守る。なぜ法を守るのか。2-Aの目的を皆で保守していこうというポジティブな発想で法を守ることもあれば、2-Bの法の威嚇によって、過ちを犯すと辛いというネガティブな抑止効果によって法を守っていることもある。聖人君子などいないのだから、誰しも2-Bを否定することなどできないはずだ。

私たちは国家だけでなく、複数の共同体に重複して所属している。その共同体それぞれに法(おきて)がある。会社には社則があり雇用契約上の罰則が定められている。学校の校則には停学、退学の要件が定められているし、学校によっては条件付きで体罰を許可している。正座やグラウンド一周などの罰も体罰の範疇だ。家庭の家族共同体の場合も、小さいながらその家の法(おきて)が無意識のうちに存在しているはずだ。趣味やスポーツのクラブにも法がある。法には罰がある。

 

罰には、正の罰と負の罰がある。

1.正の罰は制裁を加えること。

2.負の罰は権利を取り上げること(例えば子どものスマホを取り上げること)。

制裁には体罰だけでなく、経済罰(罰金や財産没収)、社会罰(悪事を公表し信用を失墜させる。社会からの批判にあう)などがある。

日本の文化の特徴として、本人の内罰を求める(自主的に自分が悪いことを反省する)傾向がある。内罰的に自省しないと反省の色が見えないと言われることがある。内罰はとても大切なことではあるけれど、内罰と外罰のバランスも教えていくべきだ。

子どもからの外罰には親や指導者の至らないことへの指摘がある。大人は自分の立場と心を守りたいがために、指摘にかんする子どもの言論の自由を封じ込めてしまうきらいがある。もし指摘が的外れであれば、的外れな内心の反抗心を氷解させる効果もあるので、恐れずにすべての言い分を聞いてあげた方が良いと思う。

 

学校や家庭における子どもの教育やしつけは、法と罰によって悪いことをしないようにさせるという基盤の上に、立派な大人になることを目指すという目的が立っていることを忘れてはならない。

法と罰の運用は公正でなくてはらなない。恣意的に気分で罰を変えるようでは法への信頼が薄れる。

 

このように刑論からのアプローチで罰を考えることは有益だと思う。

罰の論理を原理からロジカルに考えることで見えてくるものがあるはずだ。罰の方法論には多様性があることを知ることもできる。

 

自身の体験に基づいたイメージも結構だけれども、それは、視野狭窄になりやすく抜け落ちたものが必ずある。頑迷固陋な持論と先入見によって認識を改めることができなくなる。しつけや人間教育は個々の場面によっても、親や指導者の個性によっても、子どもの個性によっても、その相関関係によっても、価値観と手段は大きく異なって当然である。「しつけと教育はこれだ」というふうな、すべての子どもをターゲットとしたステレオタイプの正解などあるはずもない。

おとなしく聞き分けのよい子どももいれば、やんちゃくれの悪ガキもいるのだ。

例えば、反抗期に暴力的行為を繰り返す子ども、いじめを繰り返す子ども、親や教師をなめきって反抗的態度をとりつづける子どもを殴りつける体罰は否定されるべきだろうか。口で言っても一向に悪行を繰り返し、他の子どもに迷惑をかけ続ける子どもは放置するしかないのか、それとも少年院送りとして排除するほうが面倒がなくて良いのか。それは教育の死ではないだろうか。

私は、愛の鞭という綺麗ごとの言葉は大嫌いだが、個々の場面と個々の相関関係、そして手法の条件付きでの体罰については、先入観を排除した議論の俎上にあげるべきではないかと考えている。

 

さて最後に、嫌われる感情論であるけれど、つまり感情的に怒ることは厳に慎まなければならないということについてだが、他者の怒りを知ること、他者の怒りが自分へ向けられた怖さを知ることはマイナスの体験だけではないように思う。絶対に理性的に振舞わなければならないという縛りは相当な心理的抑圧になる。理性的に振舞うことは正しいとしながらも、たまには、感情的に怒ってしまうこと(やっちゃったという反省付)も有って良いのではないか。どうだろう。完璧な親や指導者を目指すよりも、自分が至らない人間であることを自覚し(自己正当化に甘えるのではなく)、この程度の余裕はもっていたほうがよいのではないでしょうか。

 

 

人間個人の反同質化


3月15日の記事『社会からの多様性要請は疑問』について、更に考えを深めてみたいと思っています。

この多様性要請によって、「人間」と価値観の水平化、平均化、画一化、コモディティ化が世界中で進んでいると感じています。その揺り戻しと反動として、ヨーロッパもアメリカも、そしてわが国も、ナショナリズムへの意識が高まってきました。ナショナリズムの是非は別としまして、正常な反応だと思います。

「人間」の水平化、平均化、凡庸化については、130年も前にニーチェが「民主主義化によってそうなるだろう」と予言していました。(『善悪の彼岸』) これについては稿を改めようと思います。

民主主義は少数意見の尊重だといくらお題目を唱えても、多数により決します。現代は目的的思考が強く合理的な結果主義が蔓延しています。プロセスの意義が希薄になっている。合理的および功利的に、時間の無駄を避ける効率化が進んでいるのは議論も同じ傾向です。

 

アメリカの心理学者、アブラハム・マズロー(1908-1970)は次のように述べています。

いまの世の中では、論理的に構造化された思考や文章、分析的で明確に言語化された現実的な思考や文章こそが、優れたものだと見なされている。

だが、より詩的で神話的に、より隠喩的に、ユングの言う意味において、より原始的になる必要があることは明らかである。

(日本経済新聞出版社版 A.H.マズロー著『完全なる経営』)

 

上記について、同書の監訳者である金井壽宏は次のように解説しています。

常識的な考え方を逸脱しないことで、自分をよりいっそうプロらしく見せ、自制心のある現代社会の一員であることを示そうとするのだ。だが、このような態度を取っているうちに個性を失い、個人の内面にある創造性や喜び、ユーモア、学習、革新の源泉を枯らしてしまう人間が少なからずいる。

(中略)

組織に規律や枠組み、専門性は不要で放浪をよしとすると言っているのではない。ただ、前述のような態度を取ることで何を失うか(あるいは、すでに何を失いつつあるか)を、とくと考えてみるべきだと言いたいのだ。

 

偉大な心理学者であるマズローでさえ、学会から画一主義的圧力をかけられたとしています。

専門的であること、プロフェッショナルであることを、近代的価値観は高く評価してきました。高年齢の経営者ならば、ほとんどが「プロフェッショナルたれ」と言うでしょう。しかしこの考えかたは、私は、もう古くなっていると考えています。

プロフェッショナルとは、与えられる対価に対し妥当以上の製品やサービスを提供することに、プロであることを言います。「お金を頂いているのだから」という意識が根底にある。もちろんそれは間違いではないのですが、そうした功利主義的価値観によって、人間の「モノ化」が進んできたのです。

近未来の問題として、プロ化した技術的専門的分野はロボット化が進むことでしょう。

近未来の世界において、「より人間的な」が求められるのは自明であります。

目先のことに振り回されるのではなく、5年後10年後を見据えたときには、今の流れで誰もが考えつくようなテクノロジーの進化に乗っかるのではなく、合理性、論理性、画一性、効率性などによって失われている、「感性」や「感情」「情緒」に対してミートしていくこと(仕事においても)が、先取的な未来の生きかた戦略ではないかと、ほぼ確信しております。

そのように考えれば、人格的な高齢者の活躍の場が広がる可能性を見い出せますし、日本人の中には良質な文化・思想が眠っているとも思うのです。高齢者がロールモデルとなれば、若年齢層の人たちにも、一筋の希望の光が射し込むのではないでしょうか。

 

 

 

共同体としての家族


「家族ってなんですか?」

と問われたらあなたは何と答えるのでしょうか。

この質問は国会議員さんにぶつけてみたいところです。どのように答えるかでその議員の、共同体にかんする基本的な価値観がわかるような気がします。

家族は共同体の最小単位です。

 

天下国家を語るのは案外簡単なのかもしれない。家族を語るほうが意外に難度が高いように思うのは私だけでしょうか。

「家族とは〇〇だ」というふうに、一語で文学的表現で断じるのは、それがとても格好の良い表現であっても、あまりに乱暴ではないかと思う。

多くの人は、家族の「価値」に照準を合わせて語るのではないだろうか。

もっと言えば、家族であることの合理的な良さ、功利的な良さ(心情含む)、平たく言えば「家族があるとこんないいことがあるよ」という側面についてです。デメリットも同時に語られるかもしれない。

生物学的な価値について語る人も少ないだろうけどいるに違いない。

 

「価値」以外についてはどうだろう。

例えば、私を「家族」という概念へ置き換えてみる。

私の中には、「その一味」の人間やらペットらが動き回っている。喜んだり怒ったり、憎しみ合ったり楽しみ合ったり、なんだかいろいろに動くので私(家族)のすがたも多様に変化する。

私の中の誰かが、私を指さして「家族とはこういうものだ」と言ったとしよう。それで私はどうなるか、どうにもならない。人間の言葉によって私のすがたがもし仮に決まるとすれば、中にいる人たちは「決定された私のすがた」のなかで窮屈に動きが取れなくなるだろう。私としても、つまらない(苦笑)

私は何を言いたいのだろう。

「家族とはこうだ」とか、「家族の良さと悪さはこういう面だ」だとか、「こういう家族を目指そう」だとか、もちろんそれは有っても差し支えないけれど、より優先されるべきは「すがた」のダイナミズムではないだろうか。

 

家族という共同体について考えることはそのまま、会社、国家、地域共同体、グループ、地球人類、あらゆる共同体について考えることの基本になるのではないでしょうか。

「井の中の蛙、大海を知らず」という、誰もが知っている言葉がありますけれども、大海は横に措きます。中に住む蛙たちが井戸をガチガチに固めてしまいました。それが井戸のあるべき姿だとして。しかし、もうこの井戸は形状を変えることはないという固定観念を棄て、蛙たちの動きによって井戸の形状が様々な形や大きさに融通無碍に変化するとしたらどうでしょうか。

井戸そのもののダイナミズムが生まれます。

無秩序では井戸の役目を果たせなくなります。秩序は、井戸の最も外側を覆う、柔軟性に富んでなおかつ決して破れない薄い膜として必要不可欠です。この薄い膜こそが、家族の規範であり、国家の規範であります。

他方では、井戸の中の酸素はどうだろうとか、水分は、気圧は、栄養はというふうに、内部構成員に与える井戸環境をどのようにしていくのかについても、大きなテーマになります。

家族とは、自分の心の中にあって、かつ、自分がその中にもいる井戸である。「日本」という国家観念も井戸である。会社も井戸だ。いろんな井戸に複合的に、しかも同時的に自分は存在しています。もうこうなると「井戸」という表現の画像・映像では喩えられなくなりますが。

 

もちろん上記の考察は家族の一面を語ったに過ぎません。

 

合理性や功利性ばかりに目が行く現代的価値観では、ものごとを目的的に考えすぎるきらいがあって、「なにが得か、なにが損をしないことなのか」という低レベルの計算高さでしか家族を捉えられないとすれば、それは、とても不幸なことだと私は思う。

重ね重ねになりますが今日の論考は「家族とはなんだろう」のごく一部であって、家族を構成する人たち(&ペットたち)の主観からの「家族」についても触れていません。けれど、こちらは案外考えやすいと思います。構成する個にとっての「家族(井戸)」との関係、中にいる構成員との相互関係、調和、絆、いろいろあると思います。

最も大切なのは、「家族になるとこんなに良いことがたくさんあるよ」といった推奨や啓蒙ではなく、「家族をつくるには経済的にこれくらいかかる」「子育てや夫婦関係の精神的負担が大変だよね」といったリスクマネジメントでもなく、学校教育でも社会でも教わることのない「家族ってなんだろう」を、おとなも子どもも一緒になって深く考え、建設的議論を行っていくことではないかというのが本記事での私の主張です。

 

家族に希望がありますように。

 

 

 

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