「和熟」―― 折り合うということ


他人に共感を覚える。このことが始まりとなって友人となったり恋が芽生えたりすることもある。なぜ私たちは共感するのか。或いは共感できないのか。そして共感することは良いことなのか。また、共感できずに友人を遠ざけてしまったことはないだろうか。

自分の認識は真実であり正しい。自分の価値付与は善であり正しい。

なるほど、正しいことには皆が共感すべきであるということか。ではその認識に誤謬はないのか、価値付与を行った価値観は相対的であって時代や場面によっては価値がひっくり返ることは歴史を振り返れば山ほどある。そう考えてみると、正しいと判断する根拠の土台はそう盤石ではない。なのにひとつの正しさを押しつけようとするのは何故だろうか。

更に厄介なことに、正しいことには社会秩序と個人の自由がからむ。

同じ国民でさえ、いや、同じ同居家族でさえ、価値観や欲求が異なり喧嘩になることがいくらでもあるのに、文化習俗や価値観、社会秩序、主義、個人の自由度が異なる国家の人たちと100%共感し合えるわけはない。

互いに激しく対立し争う前に、折り合おうとする知恵が現代人の私たちにはあるのだと思う。そう信じたい。

折り合いをつけるとは、『大言海』の言葉を借りれば「相互に和熟す」ることである。「和熟」という言葉を知らなくても漢字の語感で、どういうことかを感じることができる。特に「熟」。

互いに譲り合って歩みよること、そうして折り合いを意識する精神が常在している成熟した社会であれば、決定的対立や争いになる前に「和らぎ」がもたらされるはずで、第三者はすすんで仲裁に入るものだと思うがどうだろうか。

行き過ぎた個人主義や行き過ぎたナショナリズムは、「和熟への努力」を忘れ、自らの利益国益を譲らない損得勘定主義や、すぐに法廷に持ち込み裁判をしようとする法依存主義に陥る。要するに複雑さから逃れようとしている。頭脳もこころも劣化してしまうのに。

「人間の」知恵とこころの努力によって良質な社会が育まれることを心から望む。

 

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