無意識を動かす、機会としてのセレモニー


内向と外向について考察してみようかと思った今回ですが、気づいたことがあるので先にこちらを。といっても例によって閃きの段階なのですが。

 

まずユングの分析心理学のロジックを方程式的にまとめる。

〇統合人格(パーソナリティ)=意識+無意識
〇人格の機能→心の構え=意識の構え+無意識の構え
※容量およびエネルギーのイメージ。私としては、意識1:無意識1000、をとりあえずイメージする。おそらくこれ以上に無意識は膨大だ。科学で解ること:科学で解らないことも同様だと思われる。

〇意識の構え→ペルソナ※内省的に自覚しようと思えば自覚できる
〇無意識の構え→アニマ(またはアニムス)※無自覚であり自覚できない

〇統合人格の構えーペルソナを生成する構え=アニマを生成する構え

〇ペルソナ変更→(影響)→アニマ変更→(影響)→統合人格変更
〇アニマ変更→(影響)→統合人格変更→(影響)→ペルソナ変更

〇統合人格の変更→機能の変更→意識の構えの変更→ペルソナの変更
〇統合人格の変更→機能の変更→無意識の構えの変更→アニマの変更

(※参考)最終的にユングはペルソナとアニマの統合を提唱する。しかし自分自身を実験台にしたがこれはうまくいかなかったようだ。成果について述べていない。私はユングのペルソナ+アニマの統合論を支持しない。

意識できるのはペルソナだけである。論理的には、優先機能の変更を行うことが可能であれば、構えを変更することでペルソナを変更できる。統合人格を変更できる。(前の記事)

 

さてここで、逆に、ペルソナを変更すれば意識の構えも無意識の構えも変更できることに気づく。しかしペルソナは構えの変更なしに変更できない。

西洋的手法であれば頭(理性)で考えて変更を試みるのだろう。例えば瞑想をする際に(アメリカではメディテーションが流行りらしい)「雑念を振り払おうとする」のであるが、これはできない。やはり西洋流では意識的に心の機能を変更するロジックでやるほかない。

ところが日本流であれば体の型を整えることで「雑念は勝手になくなる」となる。雑念がなくならないのは体の型が悪いとなって、禅寺の座禅では警策で打たれるのだ。

何を言いたいのかを直截にいえば、日本の礼儀作法はそれ自体に本質的意味はなく、礼儀作法の型に体を整えることを一種のセレモニー(機会的意義としての儀式)として無意識の構えを直接的に動かし、ごく自然に、無意識のほうを変更しているのではないかという推論的仮説である。

なにしろ無意識には世界創生からの歴史が遺伝に組み込まれており、この地に生を受けてから今までの情報と智恵と反応等が、頭脳と肉体に蓄積されているのだ。今この一瞬に二つのことさえ同時に頭に思い浮かべることのできない意識の小ささと比較すれば、無意識のほうが圧倒的に膨大な領域を占め、巨大なエネルギーを蓄えている。この重要性は現代ならば知性として理解できるが、古代日本人の知性では理解できず、非合理の直感として大切に扱ってきたのではないのだろうか。

 

例えば日の丸の国旗が掲揚されるのを見るとき、そこで愛国心(意識)へ振れるのではなく、機会として無意識の構えが発動されるほうの意義である。すると意識の構えも変わり聖たる厳粛な気持ちとなって(おそらく)自分の顔の表情も変わってくる。

スポーツで重要な試合のとき「集中!」はよく言われる。野球であればボールに集中する。これはけっして間違いではない。が、精神の集中を意識すればするほど体は固くなる。体をリラックスさせつつ精神を集中させることは意識的にできない。ゾーン状態に入るのは、集中とは真逆の意識の放散である。無意識にすべて任せる。左脳を遮断する。

イチロー選手が打席に入ると皆が知っての通り、ピッチャーが構えに入る前にルーティンのセレモニーを行う。それも一球一球必ずだ。彼は集中力を高めているのだろうか。そうではなく逆に放散し、体が覚えている反射・反応にすべてを委ねる無意識の構えを意図的に造りだしていると私は考えている。あのルーティンセレモニーを「機」として。

 

本記事に関連すると思われるプラシーボ効果という、社会心理学で確立された現象がある。あくまで「現象としてある」が定説になっているだけで、科学的に原理が解明されたわけではない。手がかりすらつかめていない。

次の記事ではアンリ・エレンベルガー著『無意識の発見』から、現代でプラシーボ効果と呼ばれている現象を、西暦以前から意図的に活用してきた歴史を少し振り返ってみたい。無意識の構えを「セレモニーによって造る」ヒントになるかもしれない。いずれにしてもセレモニーをルーティン化して無意識に染み込ませなければ、たった一回初めてのセレモニーでどうこうなるわけではないだろう。

セレモニーの、意味ではなく機会としての意義を見直してみる。

 

これは今後の大きなテーマですが、意識的な「自然体」をはるかに超えた、無意識的な「超自然体」へ近づくには、西洋の合理的論理的思考だけでは不可能だと思います。日本の非合理的直観の歴史に糸口を見いだせるような気がしてなりません。わくわくしてきます。

 

 

無意識の応用と実用化


私が無意識(深層心理学/分析心理学)を研究しているのは何かの目的があってのことではありません。好奇心だけかと言えばそういうわけでもない。動機としては、「何かがある、閃きに繋がるものがきっとある」や「自分の中にある何かの考えとマッチングして新しい何かを創造できそう」という直感的なものがある程度です。

しかし結果的に仕事の役に立っているのはほぼ間違いない。自分の外側に展開される世界、対人的鑑識眼であるとかビジネスモデルの構築であるとか。

本記事では「自分を変える」ことに役立つ無意識論の応用とその実用化について考察する。

 

ユングは「心の構え」が「ペルソナ」をつくり、その「ペルソナ」がまた、自分の人格へと影響を与え、人格を変えていくと述べている。では、その「心の構え」はどういうメカニズムで出来るかと言えば、個人固有の「心の機能」によるとした。

心の機能とは、思考・感情・感覚・直観の4タイプ。

これに内向性と外向性を組み合わせて8タイプの性格傾向について論じている。ここに合理性・硬直性と非合理性・柔軟性の2傾向を組み合わせた16タイプの性格自己診断がネットにごろごろ出回っている。

私を例にとろう。

ネット上にあるユング系の16タイプではどのテストをやってもENTP型になる。ネット上の手垢のついた解説よりも、『タイプ論』からユング自身の説明を引いてみよう。他にも私と同じ外向的直観型の人がいるかもしれない。(統計的にはENTP2~5%)

 

外向的直観型

直観型の人が向かうのは、皆に認められるような現実価値を見つけられる方角ではけっしてなく、つねに、可能性が存在する方角である。彼はこれから芽を出すものや将来の見込みのあるものに対して優れた嗅覚をもっている。彼は、昔から存在し基盤もしっかりしており皆に認められて安定しているが、しかし限られた価値しかもっていない事柄には目もくれない。彼はつねに新しい可能性を追い求めているため、安定した状況の中では息がつまりそうに思える。彼はたしかに新しい対象や方法を手に入れるときは懸命に、時には異常なほど熱狂するが、いったんその広がりが確定してもはやそれ以上の著しい発展が望まれないとなると、たちまち愛着をなくし、見たこともないようなそぶりで冷たく見捨ててしまう。

(中略)

直観型の人の道徳性は知的でもなく感情的でもない彼自身の道徳、すなわち自らの直覚を信頼しその力に進んで身を委ねることである。周りの幸福に気を配ることなどほとんどない。周囲の身体的幸福感など自分自身のものと同様に論ずるに値しない。同様に周囲の信念や生活習慣を顧みることもほとんどなく、そのためしばしば彼は非道徳で思いやりのない怖いもの知らずの人間とみなされる。

(中略)

しかし彼はどうしても新しい可能性を追うのに急なあまり、今植えたばかりの畑を見捨ててしまい、その収穫は他人の手に渡ってしまう。結局のところ彼の手元には何も残らないのである。

(みすず書房版 C.G.ユング著 『タイプ論』)

 

まだまだたっぷりの量の解説があるけれど、ほとんどと言ってよいほど的確に私の傾向を言いあてている。自分のことを酷い奴、愚かな奴だなあとも思う。また、自他の境界があまりにも明確になり過ぎているきらいがある。でもちゃんと周囲に「私は冷たい人間です」と告知義務を果たしている(苦笑) 情熱的で熱い男ではあるけれど冷たいんだよね。

こうして自分の特質や傾向を内省的に見つめ直し、社会的に、何が自分に向いているのか向いていないのかを客観的に知ることができる。

しかしこのままで終わってしまうと自分は何も変わらない。傾向がどんどんエスカレートしていくかもしれない。

 

要するに、「構え」なのである。

私の場合で言えばENTP型の構えが中心となって主たるペルソナが造られている。であれば、時と場合によって意図的に「構え」を変更し、ペルソナを変えてゆくことも可能ではないのか。新しいペルソナができることで、それが自分の人格に作用し、自分を変えてゆくことに繋がるのではないか。

ある場面では内向的思考型の構えをつくる。今こうして論考を書いている際には、いくぶん外向的思考型の構えが発揮されてペルソナが造られているのではないかと思うし、哲学書や倫理学の書を読んでいるときには本を鏡の役割として内向性の方にエネルギーが向けられているのだとも思う。

対人関係で実験として、普段の外向性を封印し内向性の構えをとれば、それに伴って別のペルソナが登場するはずだ。「芝居」をすることになる。知人では難しいし良心も痛むので、ビジネス上で新しく知り合う人などに対して試みる価値がありそうだ。どちらにしてもビジネス用の「仮面」では、直観の対極となる感覚(リアリズム)を駆使していることが多いので、内向的感覚型や内向的思考型ならば問題なく新しい構えを造れそうではある。

 

となると、内向性とはどんな感じなのか、感覚優先、感情優先、思考優先はどういう構えなのかについて理解を深め、どういう場面でどの構えが有利に働くのかを事前に考えておく必要がある。

ユングの分析心理学の理論は、自分を知って自分の傾向を生かすことよりも、上述の方向性で実用化したほうが可能性に満ちていておもしろい。と考えるのも外向的直観型だからなのでしょうね。畑に苗を植えたので皆さん収穫してください。(苦笑)

 

 

ユングとフロイトの無意識理論の根はニーチェ哲学


今回の記事ではニーチェの言説から無意識を捉える。

フロイトもユングも、ニーチェの『ツァラトゥストラ』からヒントを得て、深層心理学の無意識にかんする理論を組み立てたことは既に明らかになっている。ユングはそれを公言して憚らなかったし、フロイトは最初は認めなかったが晩年にしぶしぶながら認めていた。

では行こう。ニーチェは楽しい。

そうだ。この自我、自我の矛盾と混乱こそが、最も誠実に自らの存在を語っている。事物の尺度であり価値たる自我、創造し意欲し価値づけるこの自我こそが。

Ja, diess Ich und des Ich’s Widerspruch und Wirrsal redet noch am redlichsten von seinem Sein, dieses schaffende, wollende, werthende Ich, welches das Maass und der Werth der Dinge ist.

 

上記の引用にドイツ語原文を引用したのは、[ Ich ] という言葉が「自我」と邦訳されている点に留意したいため。英訳書では [ ego ]と訳されているので自我で良いのだろうと思う。[ Ich ] は一人称の「私」としてもドイツ語で使用される。

以下の言説では、ドイツ語原文の [ Ich ] が「われ」に邦訳され、 [ Selbst ] が「おのれ」に邦訳されている。[ Selbst ] は英訳書では [ Self ] となっており一般的な邦訳では「自己」になる。ニーチェの無意識論的表現では、自我は自己に内包されない二元となっている点にも留意。ユングは、自我は自己に内包されるとした。

「われ」を意識下の自我、「おのれ」を意識の背後に広がる(肉体を含めた)無意識と考えてよい。

 

「われ」と、君は語り、この言葉を誇りとしている。だが、君が信じたくないと思っているもの――君の肉体とその偉大な理性の方が、ずっと偉大なものなのだ。その理性は、口で〈われ〉とは言わないが、無言で〈われ〉を実行する。

(略)

感覚と精神など、実は道具であり、玩具なのだ。これらの背後に、さらに本来の〈おのれ〉がある。この〈おのれ〉が、五感という目を使って探り、精神という耳を使って聞いている。

〈おのれ〉は絶えず聞き、かつ探る。比較し、強制し、征服し、破壊する。〈おのれ〉は支配する。それはまた、〈われ〉の支配者でもあるのだ。

わが兄弟よ、君の思考と感情の背後に、ひとりの強大な命令者、知られざる賢者がいる――その名を称して〈おのれ〉と言う。君の肉体が彼なのだ。

君の肉体には、君の最善の知恵に宿るよりも多くの理性が宿っている。何のために、君の肉体が外ならぬ君の最善の知恵を必要とするかは、誰が知ろう。

(略)

〈おのれ〉は〈われ〉に向かって言う。「ここで苦痛を感じよ!」と。すると〈われ〉は苦に耐えて、どうすれば苦の種がなくなるのかを考える。――まさにそのために、〈われ〉は考えなければならないのだ。

〈おのれ〉は〈われ〉に向かって言う。「ここで喜びを感じよ!」と。すると〈われ〉は喜びを知り、どうすればさらにしばしば喜びが生まれるのかを考える。――まさにそのために、〈われ〉は考えなければならないのだ。

(略)

創造する〈おのれ〉が、尊敬と軽蔑、喜びと嘆きを創り出したのだ。創造する肉体が、自らの意志の手として、精神を創りだしたのだ。

(白水社版 ニーチェ全集 ニーチェ著『ツァラトゥストラはこう語った』)

 

19世紀のヨーロッパでは精神に重い価値を置いた世相があった。ニーチェはそれに抗して「肉体の軽蔑者たち」という章タイトルを付けて上記のように語った。

「苦痛を感じよ!」の苦痛はもちろん肉体だけのことではない。精神的に打撃をうけ、悲しみ沈みこむ精神の苦痛のことも述べている。

肉体の軽蔑者たちに向かって、この章の最後には次のように語る。

君たちの〈おのれ〉は没落を欲している。それゆえ、君たちは肉体の軽蔑者になったのだ! 君たちが、最早自分を乗り超えて、創造し得ないものだから。

またそれゆえに、君たちは今や人生と大地に怒りを向ける。君たちの軽蔑に満ちた流し目には、意識されざる嫉(そね)みがある。

わたしは、君たちの道は行かない。君たち、肉体の軽蔑者らよ! わたしにとって、君たちは超人に到る橋ではない!

(同書)

 

初めてこの章を読む時には、〈われ〉と〈おのれ〉に混乱するかもしれない。しかしそれぞれに意識と無意識を当てはめれば完全にすっきりする。

意識(自我)とは、広大な宇宙に拡がる無意識(自己)の海に浮かぶ一隻のボートに過ぎず、そのボートは海から生まれ、海に支配され、海に命令され海に従うのである。よって超人に到る秘訣は海(無意識)にある、と解すことができる。

ユングの分析心理学の構造とほぼ同じであるが、支配するスタイルは異なる。

フロイトは〈おのれ〉に当たる無意識をエス(別名イド)と名づけ、意識と無意識にまたがる「超自我」という概念を創った。

 

なお、前の記事でも述べたとおり、自我については改めて考える。哲学思想的に「自我」はヨーロッパでも幾つか若干異なる概念として定義づけられているし、インドの「自我(サンスクリット語でアートマン)」はヨーロッパのそれとは全く異なる概念になる。また、仏教には自我はなく無我になる。

自己という言葉の定義にしても複数の説がある。

自分にとっての「自我」とは何かを考えるのは有意義ではあるけれど、言語的に「正しい自我」とは何かを考えるのは「真の保守」を考えるのと同じでまったくナンセンス。著者によって、あるいは文脈によって多様な語義語感があって当然だ。ヨーロッパの自我とインドの自我の違いを研究するのも良いかもしれない。

「この文脈で使用している自我という言葉はこれこれこういう定義で使用してますよ」と、ユングは丁寧に自分の定義を解説している。理系の科学者ならではの正確を期す手法だ。他方、ほぼすべての哲学者は自分の言語の定義を説明せずに書き綴っているので(しかもオリジナルの造語まで濫用して)、読者にとっては難解さの要因となるし、著者の意図から外れた誤読のオンパレードとなる。それはそれで有意義ではあるけれど。

 

 

無意識による人格形成


今日は結論を先に書きますが「人格は無意識内で形成される」というのが本稿での主な主張です。

前の記事までに「構え」と「ペルソナ」の重要性について考えた。ここでは、人の心における、構えとペルソナの根源について分析し、構成し直してみたい。

 

1.主体の資質

(1)価値観の生成

主体(人の心)の資質を大きく大別すると、心理学者のほぼ一致した見解として、生得的なもの(遺伝的なもの)と習得的なもの(生後の体験によって得たもの)に分けられる。

次に習得的なものを分解する。身体的体験、感情的体験、知性的体験、感性的体験の四つの根源に、私は分ける。もちろん複数の体験を同時に体験していることも日常茶飯事だ。一つ一つの詳細については長くなるのでここでは省く。

私たちはこれらの体験に価値を付与する。人は常に、相当な量の価値付けと価値の塗り替えを行っている。無自覚に。

ではこの価値付与と価値変容のメカニズムはどうなっているのだろう。私は、(2)の最終部分で述べる「構え」がメカニズムの主軸になっていると考える。

 

(2)「理」「感」「質」の形成と変容

さて、この四つの体験および付与された価値群のうち、一部の知性的なもの以外は、意識的に現実感覚することは不可能である。そうしてみるとほとんどの体験と価値は無意識の中に沈み、蓄積されていることがわかる。

無意識内に蓄積された体験と価値は無意識内で化学反応を起こし、次の段階では、「理」「感」「質」の三要素へと変容すると私は考える。

「理」とは、見識、智恵、論理展開力、計算力などの知性的能力の形成。「感」とは、情操、審美眼、空間把握力など感性と情感力、身体性の形成、「質」とは、例えば職人気質、親分肌、楽天的(悲観的)など性質的性格の形成である。生得的(遺伝的)資質も混合される。

意識上では、”その情報” に対しての、”その場” でのインプットとアウトプット、および内省的考察しかできない。能力や性質は時間をかけた習慣性をもって習得され形成される。すべて無意識のなかで。

私はこの「理」「感」「質」の傾向、および(3)の自我欲求(特に習慣的なペルソナ)、2.主体の状態、3.客体の状態、この統合によって「構え」が造られると考える。

「構え」によって創造された「ペルソナ」が習慣的になれば、主体の資質に大きな影響を与え「構え」は循環的に変化する。

 

(3)人格と自我

「理」「感」「質」を統合した全体の個性を、われわれは人格と総称する。

よって人格形成とは「理」「感」「質」の形成のことであり、人格形成はすべて無意識の中で行われるとなる。

人格内からの自然欲求、および客体に対する内在的欲求が顕現される人格内の一部(ごく僅かな一部)のことを、自我と呼称する。自我はペルソナを直接的に創造する。ユングは自我をコンプレックスとほぼ同値であるとした。

自我については稿をあらため後日考察する。

 

2.主体の状態

現実の主体の状態は刻一刻と変化する。身体的に不健康であったりおなかがすいていたり、何か気にかかることが重くのしかかっていたり、数日後にうきうきする予定が入っていたり、無意識が多くを支配するとき(例えば睡眠中)でも、主体の状態は変化している。

現実の状態には、睡眠中の夢の中を含め、すべて「構え」がある。

状態の変化によって、今の構えから即座に次の構えに変更しようとするはたらきが無自覚に生じている。

主体の状態は主体の資質から多くが造りだされるけれど、主体の資質は、主体の状態が続くこと、または強い状態の変化によってこちらも影響を受ける。

「構え」によってアウトプットされたものは客体となって自分へ戻って来る。例えば声を荒げ怒った人が自分のアウトプットに自分が反応し、更に興奮して怒るというのはよくある光景だ。悲しみに暮れて涙をボロボロ流して声をあげて泣けば、自分への慰撫となって一時的に悲しみは収まってくる。次の新しい「構え」が自動的に造られている。

 

3.客体の状態

現実および未来に想定される外部環境、すなわち主体の外側にあるすべての客体においても状態は刻一刻と変化する。ここでいう客体とは、自然環境的なもの、社会環境的には対人的なものや大衆に渦巻く世論の空気など。主に五感で感覚的に捉える対象。

客体の状態およびその変化は、常に、主体の状態と主体の資質に影響を与え続けている。

 

今日の論考は、前の記事までで学んだこと考えたことをまとめ、自分なりに仮説として組み立てたものです。人格形成についての論理は大海原のように膨大なものであって、私はそこへ漕ぎだした一隻のボートに過ぎず、自分の能力をはるかに超えた領域にたいする稚拙な仮説だということは自覚しています。

内省はしても未熟さは気にせずに、よく学び、よく考え、稚拙な仮説をブラッシュアップしていこうと思います。

無意識は可能性に満ちています。

 

 

無意識と意識の「構え」


例えば剣道には上段の構えや正眼の構えがあるし、柔道や空手にも構えがある。ボクシングも構えがあり、格闘技に限らず陸上短距離走のクラウチングスタートも構えだ。「レディー・ゴー!(Ready Go!)」の Ready は「ようい、どん!」の「ようい」の構えであり、「構え」とはコトに及ぶ直前の準備を表す。

上記の例は意識的かつ外形的ではあるが、内面の心も準備される。

このとき、意識的に準備の心を作ることと、無自覚に無意識から湧きあがってくる準備の心とが混在している。

わかりやすい無意識の構えとは(意識的にそうすることもあるが)、例えば日常社会生活上では、出勤時に会社の扉を開ける直前の心構え、重要な商談に臨むときの心構え、初対面の人と会うときの心構え、舞台に上がる前や試合前の心構え、帰宅し玄関へ入り扉を締めるときのホッとする心構え、リゾート地へ出かける前や到着直前の心構えなど、数え上げればキリがないほどだ。意識に重心が置かれる場合と無意識の構えが無自覚に現れてくる場合とがある。

「構え」は「ペルソナ」に直結する。

 

ヨーロッパではこの構えという概念を、19世紀後半から20世紀初頭のかけて、ミュラー、シューマン、キュルペ、エビングハウスらの心理学者の手によって確立した。日本における、特に武道の構えは、もしかするとヨーロッパよりもずいぶん早く確立され、心理学方向からのアプローチではなく、実践が先に立つ「形から入る手法」に現われているのではあるまいか。日本の心構えについては改めて研究してみる必要がある。

ユングは上記心理学者らの研究を受けて、独自にこの概念を分析した。

『タイプ論』から Einstellung (構え)についての特徴を幾つか抜き出してみる。一読するだけでは理解が難しいところがあると思うけれども。

〇 われわれは構えを、一定方向に作用ないし反応しようとする心の準備態勢とみなす。

〇 構えがなければ能動的な統覚(※)は不可能である。

〇 関係ないものを排除する、選択や判断がなされる。

〇 意識的と無意識的の二つの構えをもっている場合も非常に多い。

〇 意識は無意識とは異なる内容をあらかじめ用意している。(構えの二重性)

〇 構えとは一種の予期であり、予期はつねに選択したり方向を与える作用をなす。

〇 意識内容は自らに対応した構えを作り出す。

〇 この自動的な現象こそ、意識的な方向づけが一面的になる根本的な原因である。

〇 もし心の中に意識的な構えを修正する自己制御的な補償機能が存在しなかったら、平衡がまったくとれなくなってしまうであろう。

〇 素質・環境の影響・教育・人生経験全般・信念・に基づいて、ある内容的布置が習慣的に存在しており、それがつねにしばしば細部にまでわたって一定の構えを形成している。

〇 感情が思考や感覚を呑み込んでしまうこともあるが、こうしたことはすべて構え次第なのである。

〇 結局のところ構えは個人個人で異なる現象であり、科学的な観察方法にはなじまない。

〇 しかし経験的には、いくつかの心的諸機能を区別できるかぎりは、いくつかの構えのタイプを区別できる。

〇 ある機能が習慣的に優位を占めていると、それによって典型的な構えが生じる。

〇 こうして思考・感情・感覚・直観それぞれに典型的な構えが生じる。

〇 社会的なタイプも、すなわち集合的表象の特徴を表しているタイプもある。これらを特徴づけているのは、さまざまな主義である。いずれにしてもこうした集合的に決定された構えはきわめて重要であり、時には純粋に個人的な構えをはるかに超えた意味さえもつのである。

(みすず書房版 C.G.ユング著 林道義訳『タイプ論』第十一章「定義」)

※統覚(Apperzeption)・・統覚とは、新しい内容が、すでに存在しているそれと似た諸内容の中に組み込まれることによって、理解されたもの・把握されたもの・明白なもの・と呼ばれるようになる心的過程である。統覚は能動的なものと受動的なものとに分けられる。(同書)

 

統覚は認識への架け橋と言って良いのかもしれない。

最後の「集合的表象の特徴」を補足しておくと、社会からの要請によって無自覚に付与される仮面(ペルソナ)、つまり知らず知らずのうちに社会に飼われている家畜のようになってしまう個性喪失状態がひとつ。もう一つは生得的に(先天的に)備えている、人類の普遍的な幾つかの「構え」であり、これは後に、ユングが『元型論』で述べるアーキタイプの端緒となっている。(アーキタイプ・・アニマ、老賢者、永遠の少年、グレートマザー、トリックスターなどの別人格)

上記の「構え」にかんする記述には濃厚なエッセンスが凝縮されており、その一文一文の背景の深度は相当に深い。

構えによってペルソナが生じ統覚する場合もあれば、社会からの要請によって先にペルソナが形成され、構えが後から生じ統覚する場合もある。あるいは受動的な統覚が先に発生し、あわてて構えが変更されペルソナが生じる場合も多々あるだろう。例えば急に道を尋ねられたりしたときに。

われわれの日常生活でも、「構え」によって必要のない情報を排除し、必要のある情報にフォーカスしようと五感が自動調整される。

上掲の写真が美しく自然に感じられるのは、われわれの視覚が焦点を絞ってピントを自動調整する習慣によって、(写真においても)背景を排除しようとしているからにほかならない。聴覚でも同様に、聞きたい人の声や音楽の音に焦点を絞り雑音を排除しようと自動調整される。まれに自動調整に障害があって感覚過敏の人もいる。

「構え」の機能はそうした選択を可能にする。

意識の構えと無意識の構えの二重構造において、どちらかが補償的役割を果たす場合は正常な現象であり、しかし両者が譲り合わず一つの決断をすることに支障をきたす場合、神経症になる恐れがあるとユングは述べている。

また、「生が不快に満ちていることをとくに深く感じとっている人が、つねに不快なものばかりを予期する構えを持つのは当然」(同書)とも述べている。

 

ここまでで解ったことは、「構え」がいかに生命活動とって重要であるかということ、自分が周囲の人たちに与える影響においても、「構え」が大いに関係しているということです。

 

ユングは「構えは個人個人で異なる現象」と断りつつ、精神科医としての十数年にわたる現場経験と研究から、構えのタイプを区別できるとした。思考・感情・感覚・直観という分類の是非はともかく、それ以前の内向性・外向性への個人的傾向は、ユングが決定的に定義づける100年以上も前から心理学者たちによって研究され、定説が形成されてきた歴史がある。

類型についてはまたあらためて考察することとします。

 

次の記事では、構え・ペルソナ・統覚の三要素によって生じる人格の根源と認識の関連性について考えてみようと思います。

 

 

無意識の道しるべ


人類は科学を発展させ宇宙の神秘を物理学によって解明しようと試み、その研究と実験は日進月歩で、月までの一般人往復旅行程度ならば今世紀中に達成されるだろう。

他方、人間の心については解明の糸口さえもつかめていないのが現状だ。物理学や生物学、西洋医学は心の問題を「脳」の問題として扱う。しかし、それらの「科学」は非科学的現象、非合理的現象については手も足も出ない。

物質としての人体はいずれ解明されると思うが、はたして私たちが心と認めているコレは物質的なものなのだろうか。どうも違うような気がする。そもそも物質から意識が発生するシステムも全く解っていないのだ。オーストラリアの哲学者・デイヴィッド・チャーマーズが「意識のハードプロブレム」として提唱したのが1994年。その後なんの進展もない。

意識が解らないのだから無意識はもっと解らない。物質的には。

そのことを解ったうえで、無意識と意識の関係性を考え続けてみたい。このテーマにはおそらく、飽きることなく死ぬまで私の好奇心を捕えて放さないだろうと思う。

 

無意識を探究し新しい理論を構築するためには、偉大な先賢たちが研究したロジックを参考に学ぶのが良いと思っている。

道しるべとして、無意識の探究の歴史を綴った大著、アンリ・エレンベルガー『無意識の発見』は欠かせない。

 

探究を進めるうえでもっとも信頼できるのは、カール・グスタフ・ユングの『タイプ論』だ。ユングと言えば『元型論』その他でオカルトイメージが付いていしまっているかもしれないが、ユングが超越論的方向へぐんぐん走って行ったのは本書を上梓してから20年以上経過してからである。

私はこの『タイプ論』がユングの主著として相応しいと思っている。無意識を研究するための理論がしっかりしているのだ。ある意味、哲学書でもある。

書名の『タイプ論』は『Psychologische Typen』を和訳したものでみすず書房出版。同時期に人文書院から『心理学的類型』のタイトルで出版されている。

 

『タイプ論』のまえがき冒頭部分を引用してみよう。

本書は臨床心理学の分野における、ほぼ二十年にわたる研究の成果である。このアイディアは、一方では精神科および神経科における臨床やあらゆる階層の人々とのつき合いによって得られた無数の印象や経験から、他方では友人や反対者との私の個人的な討論から、そして最後に私自身の心理的特質の批判から、しだいに生まれてきたものである。

 

ユングは机上の理論を語る書斎派心理学者を厳しく批判している。本書は和訳本として600ページを超える大著であるが、第一章から第九章までは研究について書かれており、第十章でユングオリジナルの類型が登場する。

その中で私が最も無意識の道しるべとしたいのは第十一章の「定義」である。この章は凄い。ユングが心理学上で扱う言葉の語義を説明しているのだが、言語概念とはそのまま哲学なのだ。つまり、第十一章にユング理論のエッセンスがすべて詰まっていると言っても過言ではない。前の記事で扱ったペルソナにかんする内容もこの章から引用した。

 

 

無意識とペルソナ


以前のアメーバブログではペルソナ(仮面)について何度か書いたが、昨年年初にこのサイトを立ち上げてからは初めてになる。自分の無意識を探究するうえでペルソナからアプローチをかける手法は私にとって解りやすい。

まずはペルソナについて復習しておこう。

Persona とはラテン語で仮面や人格を表す。personal や personality の語源かどうかは調べていない。心理学にペルソナという概念を導入したのは C.G.ユングだ。

ある人をさまざまな状況において詳しく観察してみれば、彼の人格がある環境から別の環境へ移るさいに著しく変化し、しかもそのたびごとにはっきりと輪郭をもち、前のものとは明らかに異なる性格が現れてくることに気づくであろう。一定の環境は一定の構えを要求するのである。構えは一定の環境に適合するように長い間要求されたりくり返し要求されたりしていると、しだいに習慣化する。

(中略)

彼はその時々の構えと多少なりとも完全に同一化してしまい、そのため自らの真の性格について少なくとも他人を・しばしば自分自身さえも・欺いてしまうのである。つまり”仮面”をかぶるのであるが、彼はこの仮面が一方では自らの意図に沿い他方では環境の要求や意図に沿うものであり、しかも時に応じてこのどちらかの要素が優位に立つことを承知している。

この仮面・すなわち《この目的で》前面に出される構え・を私は”ペルソナ”と名づける。

(みすず書房版 C.G.ユング著 林道義訳 『タイプ論』)

 

ペルソナとは仮面である。真の自分自身ではなく造られた人格だ。環境から要求され、一方では戦術を用いて自らを主張しようとするが、やはり他者に対しては欺瞞の仮面であり自己に対しては無自覚な自己欺瞞の仮面なのだろう。おそらく意識して無意識から発芽するペルソナを認識できる人は稀であると思う。

社会性において造りこんだペルソナが習慣化することで、自分ですらそれが真の自分の人格であるかのような錯覚に陥る。この点については後からまた触れる。

環境からの要求や期待に沿おうとして多くの場合無自覚に、無意識の引き出しの中から「その場」でのペルソナを登場させる。

上記文脈で使用されている「構え」とは、私たち日本人が日常的に使う心構えのようなものだと理解してください。詳細についてはまたあらためて。ただし、ペルソナはその性質上、外側に対する構えです。自分の内面へ向かう構えについては本格的に深淵を探索する無意識心理学になる。が、今回は立ち入らない。

 

朝7時半、会社員の一日が始まる。自宅で朝食を済ませスーツに着替える。男性はネクタイを締め鏡を見て出で姿を整える。家族がいる人ならなおわかりやすい。玄関を一歩出て扉を締めれば家族コミュニティのペルソナから、出勤時のペルソナに切り替わる。哲学者の中島義道氏が指摘していたけれど、出勤途中、駅や電車のなかでも「怪しい人に見られないように、他人に危害を加えそうな人に見られないように」仮面をかぶる。

会社の敷地に入れば会社員としてのペルソナに切り替わる。夕方会社を退社し同僚と軽く一杯やろうと居酒屋に入ればネクタイを緩め外す。一気に緊張感が解けリラックスし、会社の同僚と一緒でも半ばプライベートな感覚のペルソナに切り替わる。別の同僚と行けばまた少し違うペルソナになるのかもしれない。飲んで酔っ払えばまた違うペルソナが顔を出すのだろう。

こうして自分のペルソナの切り替えを無自覚に行い、他者の造る別のペルソナを知ることで相互理解が深まる。善し悪しは別として。

 

ここで最も重要な点は、自分が造るさまざまなペルソナが、自分の内面へ、無意識へと多大な影響を与えるということだ。最初は環境に適応しようと、周囲の要求と期待に応えようと造ったペルソナであるけれど、同一環境、同一集団との関係が継続することでペルソナが習慣化され、どんどん固定化してゆくのである。

固まってゆくペルソナは無意識のなかの真の個性的人格と融合しだすかまたは閉じ込めようとする。

同窓会を思い出してほしい。何十年も会っていない旧友と再会し、変わった互いの姿と人格をうかがい見、多少の警戒心を抱くが、会話し酒を飲んでいるうちに学校時代のペルソナをいつのまにか使いだすのである。親や親せきも同様だ。もちろん当時のペルソナを取り出さないこともできる。例えば今のプライベートのペルソナを使った話題や、当時とは大きく変化した価値観で会話をしたとしよう。おそらく旧友や親せきとは疎遠になる。

 

この面からペルソナについて言えることは二つある。

一つには、同じ環境、同じ集団との関係性が長く続けば、自分の性格や能力をよく理解してくれる人がいることで居心地はよくなるかもしれないが、自分のペルソナを変えることができず価値観は固定化する。ペルソナがいつしかその人になってしまう。先日亡くなられたフリーアナウンサーの有賀さつきさんが生前、結婚し離婚した相手のことを「家庭でも上司と部下の関係のままだった」と語っていたのが印象深い。よくあるケースだと思う。

そうしてペルソナを変えられないジレンマがストレスとなって、インターネット上で別人格を装い2ちゃんねる等に書き込む人があとを絶たないのだろう。同情するつもりもないけれども。

もう一つは、自分を大きく変えたいのなら、環境と、主に付き合う人をがらりとチェンジすることだろう。周囲から新しいペルソナを要求され、期待されることで、人は大きく成長することが可能になる。実は私もそうだった。このときに、以前よりも人格的に高い次元のペルソナを要求される環境や他者でなくてはならないのは言うまでもない。逆のぬるま湯ではどうしようもない。

 

ペルソナは無意識の中の、自分では意識できない人格を成長させる、もしくは堕落させるということです。

 

 

無意識理論の端緒


Twitterに少し書いたのですが、カール・グスタフ・カールス(1789-1869)の無意識についての考察が興味深く、フロストもユングも未だ生まれていない19世紀初頭の無意識について考えてみたいと思っています。どこまで踏み込めるかわかりませんが。

 

カール・グスタフ・カールス(1789-1869)・・・ドイツの内科医系医師であり画家。人間心理の鋭い観察眼をもち、無意識についての最初の体系的・理論的考察を試みた。カールスは心理学とは無意識から意識への魂の発展の学であるとし、また個人的無意識は人類全体の無意識と連なっていると考えた。

このようにカールスの見方はユングの無意識論に非常に近いものであり、ユングはいたるところで自分の先駆者として名前を挙げている。(『元型論』訳注より引用)

代表的著書に『プシュケー』があるが、邦訳は未刊行。

カールスは無意識の諸特徴を次のようなものとしている。

1.無意識はプロメテウス的(前向き的)側面とエピメテウス的(後ろ向き的)側面とを所有しており、未来をも過去をも指向するが、現在のことには無知である。

2.無意識はたえざる運動と変化の中にある。意識的思考あるいは感情は、無意識となって初めてたえず修正され、たえず成熟する。

3.無意識は疲れを知らない。無意識は定期的休養の必要がない。逆にわれわれの意識的生活には休養と心の回復が必要である。それらは意識が無意識に沈潜することによって得られる。

4.無意識は根本的に健康で病むことを知らない。自然治癒力は無意識の働きの一つである。

5.無意識はそれ自身の必然的法則に従って作動し、自由を持たない。

6.無意識は独特の知恵を生まれながらに備えており、試行錯誤も学習行動も存在しない。

7.世界特に自分以外の人間とわれわれの関係はわざわざ意識しない限り、無意識を介する関係である。

 

カールスは対人関係を四型に分類した。

1.意識に発し意識に向かう関係。

2.意識に発し無意識に向かう関係。

3.無意識に発し意識に向かう関係。

4.無意識に発し無意識に向かう関係。

カールスは個人的無意識は、人類全体の無意識と連なっているという原理をはっきり述べている。

(弘文堂版 アンリ・エレンベルガー著『無意識の発見』)

 

非常に示唆に富みとても興味深い。それぞれの項目について今後細かく検証していきたい。

個人的無意識が人類全体の無意識と連なっているという仮説は、ユングの、集合的無意識、元型論、共時性(シンクロニシティ)の元になっている理論だ。ユングがカールスから大きな影響を受けていたことがわかる。なおユングは1875年生まれなので直接的接点はない。

また、カールスが『プシュケー』を刊行する少し以前に、哲学者ショーペンハウアー(1788-1860)が『意志と表象としての世界』を刊行しており、ここで使われる「意志」とは、無意識の世界および世界そのものの原動力という性質を表す。つまりショーペンハウアーも、人類全体の無意識を含む全世界が一体化した意志をもっていると仮説を立てていたのだ。

1869年にハルトマンが『無意識の哲学』を著す。

1885年にニーチェが『ツァラトゥストラ』を著し、そこから本格的に無意識を科学者・精神医学者が研究を始める。フロイト、ユング、アードラーらが20世紀初頭に無意識を扱う心理学者・医学者として勇躍する。

しかし、本当に面白いのは、フロイトやユングらが科学として無意識を扱おうとする前段階の、内科医カールス、哲学者ショーペンハウアーやハルトマン、ライル、ハインロート、イーデラー、ノイマンら精神医学者、フェヒナーやバッハオーフェンが次々と無意識に関する仮説を展開していった19世紀前半~1880年頃だろう。

例えばフェヒナーは、「地球は一個の生物で、人間より高水準である」とし、人間は地球のために造られたという仮説を展開する。バッハオーフェンは母権制から父権制への移行をより高度の文明段階への進歩と考え、アマゾニズム(女性帝国主義)とディオニュソス崇拝を提唱した。しかしスイス・バーゼル大学での理解はほとんど得られなかったが、当時25歳いう若さでバーゼル大学の教授となったニーチェが老バッハオーフェンの、ディオニュソス文明vsアポロン文明という思想を継承したのだ。

この辺りの無意識をめぐる哲学界、医学界の混沌と仮説の展開、そして巨人から巨人への継承が抜群に面白い。ユングも時期は少しずれるが(ニーチェが『ツァラトゥストラ』で有名になり狂人化した以降に入学)、バーゼル大学出身である。

 

しかし、ユング亡きあと、無意識にかんしての研究とその成果にはほとんど進捗が見られない。

だから今、大きな可能性を秘める「無意識」がおもしろい。

 

 

 

星の王子さま(5)―Secret World


今回の星の王子さまシリーズは、この記事をもってラストとします。最後にとても大切なことに気づきました。

星の王子さまが自分の星に帰っていったあと、こう書かれています。少し長文になりますが引用します。

 

こうして、いまではもちろん、もう六年が経った・・・・・・ぼくはこれまでこの話を、一度も語ったことがない。

(中略)

いまでは、いくらか悲しみが和らいだ。つまり・・・・・・完全には、和らいでいない。けれども、王子さまが自分の惑星に帰ったということは、良く知っている。

(中略)

ところが、ここでたいへんなことが発生した。ぼくが王子さまのために描いたあの口輪に、革バンドをつけるのを忘れてしまったのだ! 王子さまは、羊に口輪をつけることが絶対できなかったであろう。そこでぼくは思う。《王子さまの惑星では、何が起こったんだろうか。ひょっとして、あの羊が花を食べてしまったのではなかろうか・・・・・・》

またあるときは、こうも思う。《違うにきまってる! 王子さまは、毎晩、自分の花をガラスの覆いのなかに入れて、羊をよく見張っている・・・・・・》。すると、ぼくは嬉しくなる。そして、星という星が静かに笑う。

(中略)

そこに、実に大きな神秘がある。王子さまを愛しているきみたちにとって、ぼくにとってと同じように、この宇宙では何一つ同じ状態ではなくなってしまう。もしかしてどこかわからないある場所で、ぼくたちの見知らぬ一匹の羊が、一輪の薔薇の花を食べてしまったかどうかによって・・・・・・

空をよく見て欲しい。自問してみて欲しい。《あの羊は、花を食べてしまったのだろうか、それとも食べなかったのだろうか》と。そうすれば、どんなに一切が変化することか、わかるはず・・・・・・

それなのに、おとなは誰一人として、それがこんなにも大事なことだということが、絶対わからないだろう!

(第三書房版 小島俊明約 対訳フランス語で読もう 『星の王子さま』)

 

世界は解釈次第でまったく異なるものに変容を遂げる。何一つ変わらぬものはないし同じものもない。哲学的な結論に「ふむふむ。そうだよなあ」と納得して終わるのではなく…。

 

六年間誰にも話さずにいた、というのは作者の立場です。

それをこうして『星の王子さま』という作品にして発表した。王子さまが自分の惑星に帰って行った時の『絵』が挿入されているのですが、何もない世界に星だけがある。

サンテグジュペリは、自分の手で創造した世界を永遠の星に放逐したのです。

ここで極めて重要なことは、自分が創造したストーリーと世界を、誰にも話さずに内緒にして、六年間のあいだ秘密を守ったこと。自分だけの秘密のストーリー、秘密の世界であれば、口輪も描けるしストーリーを創りなおすことだってできる。けれど『星の王子さま』という作品にしてしまった後はそうはいかない。

ストーリーと世界観は王子さまが惑星に帰ったところまで固定化されてしまったのだ。その後のストーリーは、もはや自分の手の中にあらず、多くの読者によって変容してしまう。

秘密の自分だけのストーリー、秘密の自分だけの世界、これがどれほど大事なことか大人には絶対にわからない!と言っているように私には思える。

というのも、子どもの頃、外の砂場や家のなかでブロックや積み木で遊んでいるとき、自分だけのストーリーがあって世界があった。だけど、それを大人が「これはなあに?」と説明を求めてきたことが何度かあって、私は説明した。しかしその瞬間にストーリーも世界も消え失せてしまったのだ。

 

おとなになって仕事上で、いろいろと新しい斬新なアイデアを思いつく。そのアイデアに対する他人の評価が聞きたかったり、何かアドバイスがあるかもしれないと思って話す。一所懸命に自分のストーリーと世界観を話す。

話しているときは夢中で、とてもいい気分です。たぶん目をきらきらさせていると思う。

でも、話をし終わったら、ストーリーも世界観も色あせてしまい、その実現に対するモチベーションががくんと下がる。そうなんだ。これを私は何度も体験したのに、こんな重要なことに気づけなかった。まさに今日、気づいたのです。

秘密性が極めて重要なのだ。

 

心理学者、C.G.ユングの『元型論』に、童児をモチーフにした一つの「型」が提唱されている。「永遠の少年」と呼ばれることも多い。

童児モチーフの本質的な性質の一つは、その未来的性格である。童児は未来の可能性である。それゆえ、個人の心理に童児モチーフが現れるということは、たとえそれがはじめはうしろ向きの姿に見えようとも、一般的には未来の発展の先取りを意味している。人生とはまさに流れていくことであり、未来への流れであって、せきとめて逆流させることはできない。それゆえ、神話の救い手がそれほどしばしば童児神であることは、驚くに当たらない。それは、個々人の心の中で「童児」が未来の人格変容の準備ができていることを示す経験と、正確に一致している。童児は個性化過程において、意識的な人格要素と無意識的なそれとの総合から生まれる形姿の先ぶれである。それゆえそれは対立を結合するシンボルであり、調停者、救い手、すなわち全体性を作る者である。

(紀伊国屋書店 林道義訳 C.G.ユング著『元型論』)

ユングが結論付けているように「全体性を作る者」とは世界観を作る者であり、ストーリーを創造する者と言えよう。

童児には一般社会的通念などない。

善悪価値も正悪価値もないし、相対化した優劣価値もない。損得勘定や打算、論理性、合理性、効率性などの、現代的価値観のすべてがない。その創造する世界には主人公さえいないのだ。中心がない。世界は万能であり無敵だ。

 

この秘密の自分だけの世界、秘匿された世界とそのストーリー性は、男児の「永遠の少年」モチーフだけでなく、女児の「永遠の乙女」モチーフにもあるのではなかろうか。乙女ごころに閉ざされけっしてオープンにされない彼女だけのストーリーの世界というものが、あるような気がする。

 

以上で『星の王子さま』シリーズを終了します。

自分にとってとても有意義な考察でした。

 

 

星の王子さま(4)―Solitude


(2)では Only One に触れたが、今回は角度を変えて「孤独」というテーマをとりあげる。『星の王子さま』の作品全体に感傷的な情緒を感じる人が多いかと思う。翻訳者が作品に寂しさを感じ感傷を意訳に織り交ぜている面もある。ユング派心理学者のM.L.フォン・フランツもその一人で、彼女は作者のサンテグジュペリについて次のように述べている。

一般にある種の残忍さというものがあって、たとえばゲーリングが格好の例である。この男は三百人もの人間に死の宣告を下して平然としているくせに、飼っていた鳥が死ぬと巨体をゆすって泣き出すのだ。彼こそ古典的な例といえよう! 冷酷な残忍さはしばしば感傷性によって補われているのだ。そしてサンテグジュペリの描く『夜間飛行』のリヴィエールや『城砦』のベルベル族の老王にもこの種の冷酷な男性像がみられる。

『星の王子さま』を解釈していくと、このことがきわめて鮮明に浮かんでくるケースにぶつかる。それは永遠の少年における影の問題である。彼の背後のどこかに非常に冷淡で残酷な人間がいて、現実から離れすぎた意識態度を補償しているのだ。

(紀伊国屋書店版 フォン・フランツ著 『永遠の少年:星の王子さまの深層』)

 

なんともサンテグジュペリは酷い言われようだ。いわゆる「サイコパス性」については、最新の心理学研究によって誰もが大なり小なり無意識の中に抱えこんでいることが明らかになっている。悪いことばかりでなく有能さに繋がるケースも多々ある。オックスフォード大科学者の調査結果によれば、弁護士や外科医など社会的地位の高い職種もサイコパス度が高い人が多いとされている。

イギリスの名宰相であるチャーチルも戦争で多くの犠牲者を出しても表情を変えず、飼っていた小鳥が死んだときには号泣した。

一般に女性はサイコパス性が低いとされ、男性に高くなる傾向が見受けられるという。その点でフランツ女史は男性のサイコパス性の自覚と現れかたについて、当時のこの分野の知見が未発達ということもあって、誤解しているように思うし切り口が違うとも思う。

 

ここには、(少年の)「孤独」が明確に在る。

それも loneliness ではなく、solitude のほうだ。私は作中の星の王子さま像になんらの寂しさを感じない。ゆえに solitude というタイトルを本記事に付けた。

たとえば次のシーン。地球に星の王子さまが降り立った時、そこは砂漠だった。そこで王子さまは一匹の蛇と出会う。その蛇との会話の一部にこうある。

≪Où sont les hommes ? reprit enfin le petit prince. On est un peu seul dans le désert…― On est seul aussi chez les hommes 》, det le serpent.

「人間たちは、どこにいるの」と王子さまがとうとうまた言った。「砂漠では、人はちょっと独りぼっちだね・・・」

「人間たちと交わっていても、独りぼっちだよ」と蛇が言った。

(第三書房 小島俊明約 対訳フランス語で読もう 『星の王子さま』 )

 

上記部分のフランツ女史の著書の翻訳は以下のとおり。

「人間はどこにいるの」と、王子さまは、しばらくしてまた口を開きました。「砂漠は、ちょっとさびしいね・・・」

「人間のあいだにいたってさびしいさ」と、ヘビがいいました。

(紀伊国屋書店版  フォン・フランツ著『永遠の少年・星の王子さまの深層』)

 

フランス語の [ seul ] をこの文脈でどう捉えるかだけれども、仏英辞書その他では、[ alone ] [ only ] [ only one ] [ single ] [ sole ] [ lonely ] などが候補に挙がっている。[ alone ] は独りを表すが寂しさという感情は通常含まない。

そもそも星の王子さまは独りで一つの星に暮らしており、誰もいないからと言って寂しいという感情は芽生えないはずだ。独りがふつうなのだから。故にここでは「さびしさ」を解釈に取り入れるよりも「独り」を強調し感情をまじえず、純粋感性的に情景をとらえるべきだと考える。

他方、蛇は人間社会のことを知っている。その蛇は「人間のなかにいたって独りなんだよ」と言う。ここではフランス人特有の「個人主義」の強さを感じとるところだろう。ヨーロッパの他の国の人々や日本人の文脈ではどうしても寂しさを感じとってしまうのかもしれない。(フランツ女史はドイツ出身でスイスに暮らした)

 

この物語の前半に王子さまは、地球に訪れる前、6つの小惑星を勉強のために回る。それぞれの星には、王様、見栄張り男、飲み助、事業家、点灯夫、地理学者がたった独りで暮らしていた。その他の登場者をみても、地球上の《ぼく》、一輪の薔薇の花、一匹の蛇、一匹の狐、すべてが孤独の状態にある。

この孤独が点在している情景に寂しさを感じる人もいるのだろう。

王様には家来がおらず見栄張り男を評価する人も住んでいない。事業家にせよ点灯夫にせよ孤独のなかで社会的行為を行っているのである。いったい何のために?

そして地球には大勢の王様や事業家たちがいるのだった。

 

ここで私は我に返り、自分は何のために社会的行為を行っているのかという問いを突き付けられる。人間はたった一人の例外もなく独りで人生を閉じる。自分の内的世界観は自分独りにしか存在しない。社会的価値観は自分の外部にあるようで実は内面にある。

純粋性は孤独のなかにしか存在し得ない。

自分の外部に表出する表現は、「ありがとう」にしても「ごめんなさい」にしても純粋性は伝わらない。言語には必ず、欺瞞と自己欺瞞がたとえわずかだとしても宿っているし、言葉が向けられた相手にも、表現を受け止める際に同じそれが宿っているのだ。

社会的行為を行う動機も目的も生きることの表層部分に現れる事象に過ぎず、肝腎かなめは内面に隆起する欲求・欲望である。そこでは純粋性が問題となってくる。それゆえに、欺瞞と自己欺瞞にたいして、孤独の状態にみずからを置き、真摯に真正面から取り組まねばなるまい。『自己欺瞞との対決』

 

Loneliness ではなく Solitude の孤独については、以前にアンソニー・ストーの著書『孤独』の一部を引用し論考を書いた。『 孤独のカタルシス』

もしかすると、「一般的に『星の王子さま』のような物語には孤独の寂しさがある」という予見・予定調和が読者の中にあって、「それが無いこと」に対して寂しさを感じる読者が少ないながらもいるのかな。そこがサンテグジュペリの世界観の入り口なのかもしれない。

 

王子さまの孤独を寂しさとして「非」と捉え、あるいは情緒性や社会性が未成熟として「非」と捉え、社会性をもつことや情緒豊かになること、集団で群れることなどを「是」や「善」、「優れている」として価値を決めつけてしまえば(フランツ女史のように)、『星の王子さま』の深淵を覗き、その孤独の情景の芸術性に心動かされることはないのではないかと思うのです。

 

 

TOP
Copyright © 2017-2025 永遠の未完成を奏でる 天籟の風 All Rights Reserved.