星の王子さま(4)―Solitude


(2)では Only One に触れたが、今回は角度を変えて「孤独」というテーマをとりあげる。『星の王子さま』の作品全体に感傷的な情緒を感じる人が多いかと思う。翻訳者が作品に寂しさを感じ感傷を意訳に織り交ぜている面もある。ユング派心理学者のM.L.フォン・フランツもその一人で、彼女は作者のサンテグジュペリについて次のように述べている。

一般にある種の残忍さというものがあって、たとえばゲーリングが格好の例である。この男は三百人もの人間に死の宣告を下して平然としているくせに、飼っていた鳥が死ぬと巨体をゆすって泣き出すのだ。彼こそ古典的な例といえよう! 冷酷な残忍さはしばしば感傷性によって補われているのだ。そしてサンテグジュペリの描く『夜間飛行』のリヴィエールや『城砦』のベルベル族の老王にもこの種の冷酷な男性像がみられる。

『星の王子さま』を解釈していくと、このことがきわめて鮮明に浮かんでくるケースにぶつかる。それは永遠の少年における影の問題である。彼の背後のどこかに非常に冷淡で残酷な人間がいて、現実から離れすぎた意識態度を補償しているのだ。

(紀伊国屋書店版 フォン・フランツ著 『永遠の少年:星の王子さまの深層』)

 

なんともサンテグジュペリは酷い言われようだ。いわゆる「サイコパス性」については、最新の心理学研究によって誰もが大なり小なり無意識の中に抱えこんでいることが明らかになっている。悪いことばかりでなく有能さに繋がるケースも多々ある。オックスフォード大科学者の調査結果によれば、弁護士や外科医など社会的地位の高い職種もサイコパス度が高い人が多いとされている。

イギリスの名宰相であるチャーチルも戦争で多くの犠牲者を出しても表情を変えず、飼っていた小鳥が死んだときには号泣した。

一般に女性はサイコパス性が低いとされ、男性に高くなる傾向が見受けられるという。その点でフランツ女史は男性のサイコパス性の自覚と現れかたについて、当時のこの分野の知見が未発達ということもあって、誤解しているように思うし切り口が違うとも思う。

 

ここには、(少年の)「孤独」が明確に在る。

それも loneliness ではなく、solitude のほうだ。私は作中の星の王子さま像になんらの寂しさを感じない。ゆえに solitude というタイトルを本記事に付けた。

たとえば次のシーン。地球に星の王子さまが降り立った時、そこは砂漠だった。そこで王子さまは一匹の蛇と出会う。その蛇との会話の一部にこうある。

≪Où sont les hommes ? reprit enfin le petit prince. On est un peu seul dans le désert…― On est seul aussi chez les hommes 》, det le serpent.

「人間たちは、どこにいるの」と王子さまがとうとうまた言った。「砂漠では、人はちょっと独りぼっちだね・・・」

「人間たちと交わっていても、独りぼっちだよ」と蛇が言った。

(第三書房 小島俊明約 対訳フランス語で読もう 『星の王子さま』 )

 

上記部分のフランツ女史の著書の翻訳は以下のとおり。

「人間はどこにいるの」と、王子さまは、しばらくしてまた口を開きました。「砂漠は、ちょっとさびしいね・・・」

「人間のあいだにいたってさびしいさ」と、ヘビがいいました。

(紀伊国屋書店版  フォン・フランツ著『永遠の少年・星の王子さまの深層』)

 

フランス語の [ seul ] をこの文脈でどう捉えるかだけれども、仏英辞書その他では、[ alone ] [ only ] [ only one ] [ single ] [ sole ] [ lonely ] などが候補に挙がっている。[ alone ] は独りを表すが寂しさという感情は通常含まない。

そもそも星の王子さまは独りで一つの星に暮らしており、誰もいないからと言って寂しいという感情は芽生えないはずだ。独りがふつうなのだから。故にここでは「さびしさ」を解釈に取り入れるよりも「独り」を強調し感情をまじえず、純粋感性的に情景をとらえるべきだと考える。

他方、蛇は人間社会のことを知っている。その蛇は「人間のなかにいたって独りなんだよ」と言う。ここではフランス人特有の「個人主義」の強さを感じとるところだろう。ヨーロッパの他の国の人々や日本人の文脈ではどうしても寂しさを感じとってしまうのかもしれない。(フランツ女史はドイツ出身でスイスに暮らした)

 

この物語の前半に王子さまは、地球に訪れる前、6つの小惑星を勉強のために回る。それぞれの星には、王様、見栄張り男、飲み助、事業家、点灯夫、地理学者がたった独りで暮らしていた。その他の登場者をみても、地球上の《ぼく》、一輪の薔薇の花、一匹の蛇、一匹の狐、すべてが孤独の状態にある。

この孤独が点在している情景に寂しさを感じる人もいるのだろう。

王様には家来がおらず見栄張り男を評価する人も住んでいない。事業家にせよ点灯夫にせよ孤独のなかで社会的行為を行っているのである。いったい何のために?

そして地球には大勢の王様や事業家たちがいるのだった。

 

ここで私は我に返り、自分は何のために社会的行為を行っているのかという問いを突き付けられる。人間はたった一人の例外もなく独りで人生を閉じる。自分の内的世界観は自分独りにしか存在しない。社会的価値観は自分の外部にあるようで実は内面にある。

純粋性は孤独のなかにしか存在し得ない。

自分の外部に表出する表現は、「ありがとう」にしても「ごめんなさい」にしても純粋性は伝わらない。言語には必ず、欺瞞と自己欺瞞がたとえわずかだとしても宿っているし、言葉が向けられた相手にも、表現を受け止める際に同じそれが宿っているのだ。

社会的行為を行う動機も目的も生きることの表層部分に現れる事象に過ぎず、肝腎かなめは内面に隆起する欲求・欲望である。そこでは純粋性が問題となってくる。それゆえに、欺瞞と自己欺瞞にたいして、孤独の状態にみずからを置き、真摯に真正面から取り組まねばなるまい。『自己欺瞞との対決』

 

Loneliness ではなく Solitude の孤独については、以前にアンソニー・ストーの著書『孤独』の一部を引用し論考を書いた。『 孤独のカタルシス』

もしかすると、「一般的に『星の王子さま』のような物語には孤独の寂しさがある」という予見・予定調和が読者の中にあって、「それが無いこと」に対して寂しさを感じる読者が少ないながらもいるのかな。そこがサンテグジュペリの世界観の入り口なのかもしれない。

 

王子さまの孤独を寂しさとして「非」と捉え、あるいは情緒性や社会性が未成熟として「非」と捉え、社会性をもつことや情緒豊かになること、集団で群れることなどを「是」や「善」、「優れている」として価値を決めつけてしまえば(フランツ女史のように)、『星の王子さま』の深淵を覗き、その孤独の情景の芸術性に心動かされることはないのではないかと思うのです。

 

 

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