母の日


小学6年生の5月、児童全員にカーネーションが学校から配られた。赤いカーネーションを子供から母親に贈る年一回の恒例行事だ。クラスひとりひとりに配られる。40人のうち39人に赤いカーネーションが、1人に白いカーネーションが担任教師から渡された。白の1人は私である。

前年の7月30日に母は35年5か月の短い人生に幕を下ろした。美容室を経営していた彼女の夢は日本一の美容師になることだった。毎週火曜日の休業日は片道2時間以上をかけて東京へ出向いていた。最新の流行と技術を学ぶために。そして既に新しい店舗の内装が始まっていて、当時としては画期的な5つの個室で接客をする企画だった。美容師の腕が良かったらしく、借家の自宅には常に住み込みの美容師見習いさんが2~3人いた。

順風満帆な33才の頃から母は、原因不明の腹痛に悩まされた。自宅で休むこともあったが仕事は続けた。亡きあとに叔母が教えてくれたが、出産時よりも強い痛みだと言っていたそうだ。誤診が続き入退院を繰り返したが、ある病院で医師から、すい臓がんの告知を代理人として父が受けた。父は長いあいだそれを母に告げることができなかったが、遂には告げたそうだ。

病のために夢をあきらめ、10才の息子と6才の娘を遺して世を去る無念さはいかばかりだっただろうか。亡き母を思い浮かべるたびに私は、母の無念の心に寄り添う。子供たちが育っていく環境に母親がいないことを、彼女は思い浮かべたはずだ。子供たちに申し訳ないと謝る気持ちがあったかもしれない。いや、あったのだと思う。

亡き母の無念を、本当の無念にしてはならない、子供たちに謝る気持ちのままにしておいてはならないと、そう思って私は生きてきた。母がいない子だからといってそれがどうしたと。母の独立自尊の精神、そのDNAをしっかりと受け継ぎ早々に私は自立した。成功や失敗の結果はどうであれ志を抱き、その内容が変化しても常に志をもち続け、己の可能性を信じて生きることが、無念の亡き母から無言のまま引き受けた、私の使命である。

私は、己の死の瞬間を迎えるまで、この使命感を失わずに我が道を行く。

一生のあいだ失わない使命感を私に贈与してくれた世界一の母。彼女にとって誇りに思える人間にはまだ遠い。7月30日は、私だけの贅沢な、母の日。

 

 

星の王子さま(5)―Secret World


今回の星の王子さまシリーズは、この記事をもってラストとします。最後にとても大切なことに気づきました。

星の王子さまが自分の星に帰っていったあと、こう書かれています。少し長文になりますが引用します。

 

こうして、いまではもちろん、もう六年が経った・・・・・・ぼくはこれまでこの話を、一度も語ったことがない。

(中略)

いまでは、いくらか悲しみが和らいだ。つまり・・・・・・完全には、和らいでいない。けれども、王子さまが自分の惑星に帰ったということは、良く知っている。

(中略)

ところが、ここでたいへんなことが発生した。ぼくが王子さまのために描いたあの口輪に、革バンドをつけるのを忘れてしまったのだ! 王子さまは、羊に口輪をつけることが絶対できなかったであろう。そこでぼくは思う。《王子さまの惑星では、何が起こったんだろうか。ひょっとして、あの羊が花を食べてしまったのではなかろうか・・・・・・》

またあるときは、こうも思う。《違うにきまってる! 王子さまは、毎晩、自分の花をガラスの覆いのなかに入れて、羊をよく見張っている・・・・・・》。すると、ぼくは嬉しくなる。そして、星という星が静かに笑う。

(中略)

そこに、実に大きな神秘がある。王子さまを愛しているきみたちにとって、ぼくにとってと同じように、この宇宙では何一つ同じ状態ではなくなってしまう。もしかしてどこかわからないある場所で、ぼくたちの見知らぬ一匹の羊が、一輪の薔薇の花を食べてしまったかどうかによって・・・・・・

空をよく見て欲しい。自問してみて欲しい。《あの羊は、花を食べてしまったのだろうか、それとも食べなかったのだろうか》と。そうすれば、どんなに一切が変化することか、わかるはず・・・・・・

それなのに、おとなは誰一人として、それがこんなにも大事なことだということが、絶対わからないだろう!

(第三書房版 小島俊明約 対訳フランス語で読もう 『星の王子さま』)

 

世界は解釈次第でまったく異なるものに変容を遂げる。何一つ変わらぬものはないし同じものもない。哲学的な結論に「ふむふむ。そうだよなあ」と納得して終わるのではなく…。

 

六年間誰にも話さずにいた、というのは作者の立場です。

それをこうして『星の王子さま』という作品にして発表した。王子さまが自分の惑星に帰って行った時の『絵』が挿入されているのですが、何もない世界に星だけがある。

サンテグジュペリは、自分の手で創造した世界を永遠の星に放逐したのです。

ここで極めて重要なことは、自分が創造したストーリーと世界を、誰にも話さずに内緒にして、六年間のあいだ秘密を守ったこと。自分だけの秘密のストーリー、秘密の世界であれば、口輪も描けるしストーリーを創りなおすことだってできる。けれど『星の王子さま』という作品にしてしまった後はそうはいかない。

ストーリーと世界観は王子さまが惑星に帰ったところまで固定化されてしまったのだ。その後のストーリーは、もはや自分の手の中にあらず、多くの読者によって変容してしまう。

秘密の自分だけのストーリー、秘密の自分だけの世界、これがどれほど大事なことか大人には絶対にわからない!と言っているように私には思える。

というのも、子どもの頃、外の砂場や家のなかでブロックや積み木で遊んでいるとき、自分だけのストーリーがあって世界があった。だけど、それを大人が「これはなあに?」と説明を求めてきたことが何度かあって、私は説明した。しかしその瞬間にストーリーも世界も消え失せてしまったのだ。

 

おとなになって仕事上で、いろいろと新しい斬新なアイデアを思いつく。そのアイデアに対する他人の評価が聞きたかったり、何かアドバイスがあるかもしれないと思って話す。一所懸命に自分のストーリーと世界観を話す。

話しているときは夢中で、とてもいい気分です。たぶん目をきらきらさせていると思う。

でも、話をし終わったら、ストーリーも世界観も色あせてしまい、その実現に対するモチベーションががくんと下がる。そうなんだ。これを私は何度も体験したのに、こんな重要なことに気づけなかった。まさに今日、気づいたのです。

秘密性が極めて重要なのだ。

 

心理学者、C.G.ユングの『元型論』に、童児をモチーフにした一つの「型」が提唱されている。「永遠の少年」と呼ばれることも多い。

童児モチーフの本質的な性質の一つは、その未来的性格である。童児は未来の可能性である。それゆえ、個人の心理に童児モチーフが現れるということは、たとえそれがはじめはうしろ向きの姿に見えようとも、一般的には未来の発展の先取りを意味している。人生とはまさに流れていくことであり、未来への流れであって、せきとめて逆流させることはできない。それゆえ、神話の救い手がそれほどしばしば童児神であることは、驚くに当たらない。それは、個々人の心の中で「童児」が未来の人格変容の準備ができていることを示す経験と、正確に一致している。童児は個性化過程において、意識的な人格要素と無意識的なそれとの総合から生まれる形姿の先ぶれである。それゆえそれは対立を結合するシンボルであり、調停者、救い手、すなわち全体性を作る者である。

(紀伊国屋書店 林道義訳 C.G.ユング著『元型論』)

ユングが結論付けているように「全体性を作る者」とは世界観を作る者であり、ストーリーを創造する者と言えよう。

童児には一般社会的通念などない。

善悪価値も正悪価値もないし、相対化した優劣価値もない。損得勘定や打算、論理性、合理性、効率性などの、現代的価値観のすべてがない。その創造する世界には主人公さえいないのだ。中心がない。世界は万能であり無敵だ。

 

この秘密の自分だけの世界、秘匿された世界とそのストーリー性は、男児の「永遠の少年」モチーフだけでなく、女児の「永遠の乙女」モチーフにもあるのではなかろうか。乙女ごころに閉ざされけっしてオープンにされない彼女だけのストーリーの世界というものが、あるような気がする。

 

以上で『星の王子さま』シリーズを終了します。

自分にとってとても有意義な考察でした。

 

 

星の王子さま(4)―Solitude


(2)では Only One に触れたが、今回は角度を変えて「孤独」というテーマをとりあげる。『星の王子さま』の作品全体に感傷的な情緒を感じる人が多いかと思う。翻訳者が作品に寂しさを感じ感傷を意訳に織り交ぜている面もある。ユング派心理学者のM.L.フォン・フランツもその一人で、彼女は作者のサンテグジュペリについて次のように述べている。

一般にある種の残忍さというものがあって、たとえばゲーリングが格好の例である。この男は三百人もの人間に死の宣告を下して平然としているくせに、飼っていた鳥が死ぬと巨体をゆすって泣き出すのだ。彼こそ古典的な例といえよう! 冷酷な残忍さはしばしば感傷性によって補われているのだ。そしてサンテグジュペリの描く『夜間飛行』のリヴィエールや『城砦』のベルベル族の老王にもこの種の冷酷な男性像がみられる。

『星の王子さま』を解釈していくと、このことがきわめて鮮明に浮かんでくるケースにぶつかる。それは永遠の少年における影の問題である。彼の背後のどこかに非常に冷淡で残酷な人間がいて、現実から離れすぎた意識態度を補償しているのだ。

(紀伊国屋書店版 フォン・フランツ著 『永遠の少年:星の王子さまの深層』)

 

なんともサンテグジュペリは酷い言われようだ。いわゆる「サイコパス性」については、最新の心理学研究によって誰もが大なり小なり無意識の中に抱えこんでいることが明らかになっている。悪いことばかりでなく有能さに繋がるケースも多々ある。オックスフォード大科学者の調査結果によれば、弁護士や外科医など社会的地位の高い職種もサイコパス度が高い人が多いとされている。

イギリスの名宰相であるチャーチルも戦争で多くの犠牲者を出しても表情を変えず、飼っていた小鳥が死んだときには号泣した。

一般に女性はサイコパス性が低いとされ、男性に高くなる傾向が見受けられるという。その点でフランツ女史は男性のサイコパス性の自覚と現れかたについて、当時のこの分野の知見が未発達ということもあって、誤解しているように思うし切り口が違うとも思う。

 

ここには、(少年の)「孤独」が明確に在る。

それも loneliness ではなく、solitude のほうだ。私は作中の星の王子さま像になんらの寂しさを感じない。ゆえに solitude というタイトルを本記事に付けた。

たとえば次のシーン。地球に星の王子さまが降り立った時、そこは砂漠だった。そこで王子さまは一匹の蛇と出会う。その蛇との会話の一部にこうある。

≪Où sont les hommes ? reprit enfin le petit prince. On est un peu seul dans le désert…― On est seul aussi chez les hommes 》, det le serpent.

「人間たちは、どこにいるの」と王子さまがとうとうまた言った。「砂漠では、人はちょっと独りぼっちだね・・・」

「人間たちと交わっていても、独りぼっちだよ」と蛇が言った。

(第三書房 小島俊明約 対訳フランス語で読もう 『星の王子さま』 )

 

上記部分のフランツ女史の著書の翻訳は以下のとおり。

「人間はどこにいるの」と、王子さまは、しばらくしてまた口を開きました。「砂漠は、ちょっとさびしいね・・・」

「人間のあいだにいたってさびしいさ」と、ヘビがいいました。

(紀伊国屋書店版  フォン・フランツ著『永遠の少年・星の王子さまの深層』)

 

フランス語の [ seul ] をこの文脈でどう捉えるかだけれども、仏英辞書その他では、[ alone ] [ only ] [ only one ] [ single ] [ sole ] [ lonely ] などが候補に挙がっている。[ alone ] は独りを表すが寂しさという感情は通常含まない。

そもそも星の王子さまは独りで一つの星に暮らしており、誰もいないからと言って寂しいという感情は芽生えないはずだ。独りがふつうなのだから。故にここでは「さびしさ」を解釈に取り入れるよりも「独り」を強調し感情をまじえず、純粋感性的に情景をとらえるべきだと考える。

他方、蛇は人間社会のことを知っている。その蛇は「人間のなかにいたって独りなんだよ」と言う。ここではフランス人特有の「個人主義」の強さを感じとるところだろう。ヨーロッパの他の国の人々や日本人の文脈ではどうしても寂しさを感じとってしまうのかもしれない。(フランツ女史はドイツ出身でスイスに暮らした)

 

この物語の前半に王子さまは、地球に訪れる前、6つの小惑星を勉強のために回る。それぞれの星には、王様、見栄張り男、飲み助、事業家、点灯夫、地理学者がたった独りで暮らしていた。その他の登場者をみても、地球上の《ぼく》、一輪の薔薇の花、一匹の蛇、一匹の狐、すべてが孤独の状態にある。

この孤独が点在している情景に寂しさを感じる人もいるのだろう。

王様には家来がおらず見栄張り男を評価する人も住んでいない。事業家にせよ点灯夫にせよ孤独のなかで社会的行為を行っているのである。いったい何のために?

そして地球には大勢の王様や事業家たちがいるのだった。

 

ここで私は我に返り、自分は何のために社会的行為を行っているのかという問いを突き付けられる。人間はたった一人の例外もなく独りで人生を閉じる。自分の内的世界観は自分独りにしか存在しない。社会的価値観は自分の外部にあるようで実は内面にある。

純粋性は孤独のなかにしか存在し得ない。

自分の外部に表出する表現は、「ありがとう」にしても「ごめんなさい」にしても純粋性は伝わらない。言語には必ず、欺瞞と自己欺瞞がたとえわずかだとしても宿っているし、言葉が向けられた相手にも、表現を受け止める際に同じそれが宿っているのだ。

社会的行為を行う動機も目的も生きることの表層部分に現れる事象に過ぎず、肝腎かなめは内面に隆起する欲求・欲望である。そこでは純粋性が問題となってくる。それゆえに、欺瞞と自己欺瞞にたいして、孤独の状態にみずからを置き、真摯に真正面から取り組まねばなるまい。『自己欺瞞との対決』

 

Loneliness ではなく Solitude の孤独については、以前にアンソニー・ストーの著書『孤独』の一部を引用し論考を書いた。『 孤独のカタルシス』

もしかすると、「一般的に『星の王子さま』のような物語には孤独の寂しさがある」という予見・予定調和が読者の中にあって、「それが無いこと」に対して寂しさを感じる読者が少ないながらもいるのかな。そこがサンテグジュペリの世界観の入り口なのかもしれない。

 

王子さまの孤独を寂しさとして「非」と捉え、あるいは情緒性や社会性が未成熟として「非」と捉え、社会性をもつことや情緒豊かになること、集団で群れることなどを「是」や「善」、「優れている」として価値を決めつけてしまえば(フランツ女史のように)、『星の王子さま』の深淵を覗き、その孤独の情景の芸術性に心動かされることはないのではないかと思うのです。

 

 

星の王子さま(3)―Creativity


地球上の〈ぼく〉と星の王子さまは、飲み水を切らし砂漠の中の井戸を求めて歩き続ける。日が暮れて夜になってしまう。

「星たちは美しいね、見えない一輪の花のおかげで・・・」

「もちろん」とぼくは答えた。そして話すのを止めて、月光の下の砂の皺(しわ)を眺めた。

「砂漠は美しいね・・・」と王子さまはつけ加えた。

まさしくそれは本当だった。ぼくはずっと砂漠が好きだった。砂山の上に腰をおろす。何も見えない。何も聞こえない。それなのに、何かが、黙って光っている・・・

「砂漠を美しているもの、それは砂漠がどこかに井戸を隠しているということだよ・・・」と王子さまが言った。

ぼくは、砂の放つあの神秘的な光の意味がふいにわかったので、びっくりした。小さいころ、ぼくは古い家に住んでいた。そして、言い伝えによると、ある宝物がその家に埋まっているということだった。もちろん、誰もそれを見つけることができなかったし、たぶんそれを探そうともしなかった。しかし、その宝物が家全体に魔法をかけていた。ぼくの家は、その核心部の奥に一つの秘密を隠していた・・・

「そうなんだ。家でも星でも砂漠でも、その美しさを成り立たせているものは、見えないのさ!」とぼくは王子さまに言った。

「きみがぼくの狐と考え方が一致しているので、ぼくは嬉しいよ」と彼は言った。

(第三書房  対訳フランス語で読もう『星の王子さま』 )

 

王子さまの星の一輪の薔薇の花は、地球上の薔薇農園にあった五千本の薔薇と見た目は同じなのに王子さまにとっては価値が全く異なっていた。狐が「大切なものは目に見えない。本質は目に見えない。」と王子さまに教えてくれた。

夜空の星々のなかに王子さまの星があるけれどどれかはわからない。その星に咲く一輪の薔薇への思い入れが、夜空に輝く星々を、宝石を散りばめたような美しい価値に高める。

砂漠も同じで、どこかに井戸を隠しているという想像力をはたらかせなければ単なる不毛の地だ。彼ら二人はこの砂漠のどこかにきっと井戸があると信じたのだった。

 

誰かにとって全く価値のないものが、他の誰かにとってはものすごく価値の高いものになるという体験を私たちは日常的に感覚できてはいるのものの、それは言葉や論理によって説明できるものでも解明できるものでもない。

ここで何をどう捉えたら良いのだろう。

 

第一段階として、愛着や思い入れのあるモノや他者との関係作りがある。

第二段階として、そこから離れた時や見えない時の想像や洞察がある。

第三段階として、想像によっておのずと生まれる心情の創造がある。

 

第一段階の関係性の構築がなければ何も始まらない。

第二段階の想像力、或いは空想力、洞察力が弱ければ第三段階の価値は高まらない。

最も個人差が大きく難解なのは第三段階の心情の創造だ。

 

この己れの心情の創造は意識して行っているものではないし、経験によるものとも言い切れない。現に星の王子さまのピュアな心情は経験によって得られたものではなさそうで、大人になるにしたがって消えてゆくようにも思える。いったいこの創造の正体とはなんだろう。

 

わからない。

今後の課題としたい。

 

『星の王子さま』での大きなテーマとして今回は Creativity を考えてみました。関係性の創造、想像の創造、心情の創造、いずれも私たちは無意識のうちに行っていることだと思います。

 

 

星の王子さま(2)―Only One


今日の記事では星の王子さまの核心にいきなり踏み込む。

表題の『Only One』でなんとなく解る人はいるに違いない。しかしそのなんとなく解った人の期待を私はたぶん裏切る。

 

本題に入る前に、書を味読する際には一つの視点から理解しようとする方法と、多数の観点(視点ではなく)を混在させながら感じる方法とがあることを確認しておく。

『星の王子さま』での観点としては、地球に暮らす〈ぼく〉の観点、星の王子さまの観点、著者であるサンテグジュペリの主張にかんする観点、サンテグジュペリがなぜこう書いているかの心理学的観点、ほかの登場キャラクターの観点、作品全体の立体的観点、作品を覆う〈感じ〉の感性的観点、読者一般の成熟した成人の観点、読者である私の個人的観点、その個人的観点を観察するメタの観点。

この辺りが代表的な観点だろう。どれもこれも大切で、この観点群をひとつひとつ分断し分析しながらというのも良いと思います。まずは、全ての観点をカオスとしてごちゃ混ぜにして読むのが私のスタイルです。「なぜ」や「意味」を考えるよりも直感で感じるものを大切にしたい。

 

さて本題。

本作では Only One のテーマがある。突然空から降りてきた王子さまは僕に羊の絵を描いてくれとせがむ。僕はいくつか絵を描くが王子さまは気に入らない。もう王子さまの相手なんかしていられないやと思って箱を描いてやった。「このなかに羊がいるんだよ」と。王子さまはそれで納得したのだ。羊を描いてほしいと言った王子さまは、その箱の中に、自分自身で羊のすがたを描いたのだ。

王子さまのこころにイメージ化されている羊しか羊ではない。ここにOnly One の羊がある。

王子さまは一輪の花と一緒に小さな星で暮らしていた。この一輪の花の機嫌をとることに王子さまは面倒になって、お別れをしてしまう。そして地球に来てみると自分の星に一輪しかなかった薔薇の花が五千本も植えられていた。それを見て王子さまは、一つしかないと思って大切にしていた一輪の花が普通の薔薇に過ぎなかったことに気づき、泣いてしまう。

そうこうしているうちに狐と出会い、花との悩みについて相談する。

王子さまは狐にこう語る。

「一輪の花があってね、・・・その花がぼくを飼いならした・・・」

狐は王子さまにこう語る。

「頼むから・・・ぼくを飼いならしてよ!」
「ものごとは、飼いならして初めて知ることができるんだよ」

ここで「飼いならす」という言葉に違和感をおぼえるが、この会話の前に、狐は次のように説明している。

王子さまからの問いかけ

「『飼いならす』って、どういう意味なの」
Qu’est-ce que signifie “apprivoiser” ?

に対して、狐はこう答える。

「それはみんなが忘れすぎていることだよ。それは『絆を創る・・・』って意味だよ」
C’est une chose trop oubliée, dit le renard. Ca signifie “créer des liens…”

解説にはこうある。

「飼いならす」という通俗的な言葉に「絆を創る」という意味づけをしたのがサンテグジュペリ。apprivoiser というフランス語がここに「絆を創る」という意味を初めて獲得した。

 

狐とのお別れが近づいたころ、王子さまは自分が飼いならした狐との絆に気づき、自分の星にある一輪の薔薇と五千本の薔薇との違いにも気づいた。

狐はこう語った。

「心で見ないかぎり、ものごとはよく見えない。ものごとの本質は、眼では見えない。」

「きみの薔薇の花がそんなにも大事なものになったのは、きみがその薔薇の花のために時間を費やしてしまったからなんだよ」

「きみは、きみが飼いならしたものに対して、永久に責任があるんだ。きみは、きみの薔薇の花に責任があるんだよ・・・」

 

やがて王子さまは毒蛇に噛まれることによって一輪の薔薇の花がある自分の星へ帰ってゆく。

 

SMAPの『世界で一つだけの花』の作詞者が『星の王子さま』の物語を意識したかどうかはわかりませんが、一輪の薔薇の花は王子さまにとって Only One だと理解したのでした。

SMAPの歌に感動し、自分はオンリーワンなんだと勇気と希望をもたれたかたも多いのではないかと思います。「ナンバーワンよりオンリーワン」のコピーライトはブームにもなった。

 

思い入れのある生物や愛用品に愛着を感じる。人間でも赤の他人よりも身近かな人、親族に愛着を感じてはいるはずなのだが、空気のように当然そこにあるのでふだんはそれに気がつかない。しかも、面倒で鬱陶しくなってしまうことさえある。失ってはじめて気づく。

そうしたことは誰もが経験し、本来はもっと大切にしなければいけない絆だったのにと内省したり後悔したり。

私たちの周囲は Only One だらけで、自分自身もまた、誰かにとっての Only One なのです。

 

ここまでは、ベタ論。

 

星の王子さまの魅力とは、Only One に気づく前の彼にある。

本質的には、Only One も相対価値なのだ。その意味ではナンバーワンと何も変わらない。五千本の薔薇と比較して一本の薔薇が Only One ということであって、相対価値の基準を自らの主観に置くか普遍性に置くかの違いがあるだけだ。

王子さまは狐に理屈を教えてもらうまでは、一本の薔薇への相対評価など微塵も抱かずに絶対価値を置いた。相対価値としての Only One に彼は本心から納得したのだろうか。私にはそうは思えない。

相対評価は人間社会の理屈でしかない。

もちろん意味や価値の世界を知ることが人間社会で生きてゆくために重要であるという点は、大人の大部分が理解していることだろう。

『永遠の少年・『星の王子さま』の深層』の著者であるフランツ女史は、最初の王子さまの登場場面では、サンテグジュペリの幼児性が現われたと分析している。幼児性は社会人にとって解決しなければならない「問題」であるとし、克服すべき欠点としてレッテルを貼った。王子さまが徐々に成熟してゆく過程を良いことと評価した。

 

私は逆に、理屈を与えられたことで失ってしまった純粋性こそが「永遠の少年」というテーマの本質だと思っている。欠点ではなく生き生きとした個性。ゆえに物語の後半は、徐々にものわかりのよい星の王子さまに変わってゆくことにがっかりする。

星の王子さまが失った純粋性の一面を私は失いたくないのだ。Only One という価値は今の私の中にはないし、今後も有り得ない。自分のことを特別だとも思わないし、逆に普通だとか一般的だとも思わない。他方、愛着のある何かに唯一の意味や理屈などを付けない。なぜなら愛着の対象は絶対的なものだから。SMAPのあの歌詞は大人の理屈では「ああなんて素晴らしい詞なのだろう」となるのかもしれないが、「永遠の少年」の心にはまったく響かない。私だけかもしれませんが。

 

サンテグジュペリが企図した主旨と私の論考は異なると思います。けれど、「飼いならす」という一方的な、しかも権力的な行動を「絆」という双方向のラインへ狐が誘導し、「本質」という大人の言語をもちいていることに、フランス人特有のアイロニー(皮肉)の可能性を私は捨てきれなかった。

本記事後半では、地球上の「ぼく」の観点とも、一般的な星の王子さま評論とも、情緒的に成熟した観点とも異なる価値観で書きました。

 

 

星の王子さま(1)―Prologue


『Le Petit Prince (星の王子さま)』

Antoine de Saint Exupéry サンテグジュペリ(1900-1944)作

 

1943年に出版されたこの書は現在、200か国以上の言語に翻訳され、世界的なロングセラーとして多くの人たちに愛読されている。日本語版も20社を超える出版社から刊行されており、それぞれの邦訳を楽しむことができる。

「少年だったときのレオン・ヴェルトに」と宛てられた同書冒頭の一節にはこうある。

「昔その人が子供だったその子供に、この本を捧げることにしよう。おとなはみんな、はじめは子供だった(しかし、彼らのほとんどはそのことを覚えていない)。

サンテグジュペリは読者へメッセージを送る。「いまの君のこころに、君が子どもだった頃のあの無垢な気持ちがどこかに残っていないかい?」と。

この問いかけによって想起される何かがあって、読者の胸を打ち続けていることが、今なお世界中の人たちに愛読されている理由ではないか。

 

数年前になりますが、以前に続けていたブログサイトで『星の王子さま』について幾つかの記事を書いたことがあります。

パソコン内に記事のログはあると思うのですが、量が多過ぎて見つけるのに骨が折れることがひとつ。以前に書いた自分の記事を読まずに今あらためて読み直したらどうなのかなという興味もある。そうした理由もあって、いまの新鮮な気持ちで、この著書にかんする私の内面価値をアップデートするのもいいかなと考えました。つらつらと論考を書いてみたいと思います。

『星の王子さま』をリクエストくださり良い機会を私に与えてくださったYさんに感謝します。

 

論考を書くにあたっては以下の仏日対訳本から引用します。

第三書房版 『フランス語で読もう 星の王子さま』訳 小島俊明

 

上記に述べたとおり、この書では人間の無意識に眠る「童児のこころ」を垣間見ることができる。著者においても読者自身においても。分析心理学者のカール・グスタフ・ユングはこのモチーフに「永遠の少年」と命名した。

この書を再度味読すると同時に、大人の男性の無意識にある「永遠の少年」傾向の考察をしようと思う。女性のかたで勘の良いかたは全ての男性の一面に無邪気な子供の影をみることができるかと思いますが、男性自身ではなかなか気づかない人もいるようだ。この傾向が強い男性もいれば、大人として成熟し、この傾向がほとんど見られない現実的な男性もいるのかもしれない。

 

無意識の分析心理学については下記の書を考察の対象とし引用します。

カール・グスタフ・ユング(1875-1961)著 『元型論』
マリー=ルイズ・フォン・フランツ(1915-1988)著『永遠の少年/「星の王子さま」の深層』

 

フランツ女史は1934年よりユングに師事し、ユング派の分析心理学者として終生にわたって無意識心理学の研究に携わり、チューリッヒ・C.G.ユング研究所で講師を務めた。一番の弟子とされ最もユングから信頼された彼女は、数々のユングの著書の編集に携わり、師弟関係というよりも後期においては共同研究者であった。ユングの死後はその仕事を引き継ぐとともに、彼女独自の研究による数々の書を著した。

 

なお、「永遠の少年」というモチーフは、現代の心療内科が、トラウマを克服できない患者に名づけた「アダルトチルドレン」とはまったく異なる。こちらは男女の性差はなく、「永遠の少年」は男性だけという違いもある。

男性諸氏にとって「永遠の少年」傾向を自分のテーマとしてとらえた時、耳が痛い弱点として克服しようとするのか、魅力的な個性として活かしていこうとするのかはその人次第と言ってよいでしょう。

私は活かしてゆくほうをメインとします。

「永遠の少年」についての考察は私にとってとても楽しく、かつ、必ず有意義なものになることを確信している。

 

 

先賢とのおもしろ対話


昨日記事では「笑いながら哲学する」をテーマにニーチェをいじりましたが、今日は、わたし流の先賢との対話をおもしろく綴ってまいります。

上の写真は「考える人/ロダン」でありますが、やはりどうしても、トイレの最中に考えるふりをしているだけなんじゃないかという不安がよぎります。不安って?(苦笑)

なんか哲学だとか何とか学だとかという学問っぽい書を読むときって、みなさん、ロダンとなって真面目に読むだけですか? リラックスして著者と掛け合い漫才しながら不真面目に読むことはありませんか? たぶん誰も見てないし知らないし、いま話題のテロ等準備罪で捜査されることもないと思うので、私は楽しんでおりますよ。

 

ちなみに、前記事でもそうで、すべての記事でそうですが、(苦笑)と書いて、けらけらと大笑いしているときもあるので、あしからずご了承くださいませ。実はかなりの笑い上戸の一面があるのですみません(苦笑)

 

前置きはこれくらいにしまして。

まず私は読書するときには、著者の声で文章を「聴き」ます。声を知らない著者は(がほとんどですが)声をイメージして。

そのときに、著者キャラクターが出来てるんです。

で、何度も同じ著者の本を読んでいると、赤の他人の関係ではなくなってくる。気楽に対話をしだすわけです。(実際に声を出すわけでなく、心の声です)

 

ニーチェの場合、もうすっかり家族でありまして、私の弟という設定になっています(苦笑) 実際は妹しかいないので、弟や姉兄がどんなもんかわからないのですが。

ニーチェの言葉を目で追い耳で聴きながら、対話をします。

「なあ~、ここの部分は読者をおちょくっとるやろ~」

という気楽な感じで、

「おまえちょっと、しつこいんちゃうかぁ~」「そのめんどい性格どうにかならんの?」 と苦情を言い、

「なんでこんな文章書けんねん。あたま良すぎやろ~!」と褒め、「まあ、そんなにいじけたらあかんで~」と励まし、「そっかぁ、おまえにはずいぶん苦労かけたなあ。よしよし。」と彼の嫌いな同情をかけてやるわけです。

はい、おまえ呼ばわりで、かつ、関西弁ってところがキモです、ニーチェの場合。理由はなんとなくですが(苦笑)

 

舞台はパーンしまして、老子の場合、中国の奥深い山の頂上で、あごひげの長い爺仙人が釣りざおに糸を垂らしている光景になります。

私「何を釣ってるんですか?」

老子「足るを知るじゃ」

私「よくわかりませんが、山に水がどこにもありませんよ?」

老子「上善は水の如し」

私「はあ。。釣り針もエサもついてないのに掛かるんですか?」

老子「天網恢恢、疎にして失わずじゃ」

私「頭のうしろ、つんつんして良いですか?」

老子「大道すたれて仁義ありというではないか」

というふうに、会話が成立しないのでありますが、ふむふむと聞くわけです。

 

陽明学や東洋思想の碩学である安岡正篤先生(1898-1983)は、先賢で唯一、先生と呼び姿勢を正しながらお話を聞くかたです。

この場合、舞台は教室のようなところで、私は17歳の高校生、安岡先生は教壇に立っていて長身痩躯の60歳くらいで、広い教室に生徒は四人、机四台です。居眠りもぼんやりもできません。安岡先生の講話はYouTubeなどに少しだけ残っているので、気品があってよく通る声は知っています。

常に、「喝」を入れてくれる、私にとって唯一の存在であります。

対話と言っても、「はい!」がほとんどなんですけどね!

 

あと例えば西郷隆盛(1828-1877)と対話するときには、「西郷どん」と呼んでおります。でっかいギョロ目から目を離さないように、鹿児島弁に変換して話をしたり。

ハンナ・アーレントさん(1906-1975)は女性ですが、女性扱いしちゃうと睨まれて怒られそうなので、丁寧語で(お互い)冷たい会話をしております。言わないでほしいんですが、たばこくさいのに閉口してるんです(苦笑)

 

まだご健在のかたでは、哲学者の中島義道さん(70歳)。最近よく読んでいるのですが、ごめんなさい。「中島ちゃん(失礼!)」と呼んでいます(苦笑)

なぜかというと、「中島ちゃん(失礼!)」だから(苦笑) というのも、『カイン』『人生に生きる価値はない』『私の嫌いな10の人びと』『差別感情の哲学』などを読めば、「そっかそっか、中島ちゃん(失礼!)、今までよく辛抱したよな。。。」って声かけたくなりますよー!

でも脳みそは特級品のようで、近著『時間と死』を今読んでいるんですけど、けっこう難解で読み進むのに時間がかかってます。「中島ちゃん(失礼!)さすが!やればできるんだね!でもボクの頭じゃちょっとついていけないかも。」と会話しながらですが、でも、すごく貴重なヒントをもたらしてくださって、この本、実は知的革命の本になるんじゃないかとさえ思いながら読んでいます。でも、中島ちゃん(失礼!)なんですけどもね。

 

まだまだ書き切れないくらい対話している先賢はいらっしゃいます。

そうそう、35歳の若さで亡くなった母とは、誰にも打ち明けられない決断をした時に、「これで良かったんだよね」などと会話しますし、3年前に他界した愛猫とも、胸が熱くなる対話をしています。(これは書くと泣けてくるので内容は伏せます。)

他界した人で縁が深かったかた、好きだったかたと会話する機会が多いですね。

生きてる人では、中島ちゃん(失礼!)くらいかな~(しつこい!苦笑)

 

というわけで(どういうわけなんだかしりませんが)、ホームページのコンテンツを新設しました。「テーマ」も大幅改定し、「哲学・思想」、「無意識と創造」を作りました。5月スタートですしね!

『ツァラトゥストラ』 を少し書きましたので、ご興味とお時間がお有りのかたは上部のコンテンツメニューからお探しください。

 

 

ニーチェの茶目っ気ぶりご紹介


ニーチェをよくご存知ない人は、ニーチェと聞くとどういう想像をされますか?

哲学者で気難しい感じの人、天才と狂人は紙一重で遂に気が狂ってしまった人、『ツァラトゥストラはかく語りき』での「超人」を発明した人、よくわからない人(苦笑)などでしょうか?

 

いえ、私もそれほど詳しいことは知らないのですが、ブログでちょくちょくニーチェを引用している手前、今日はご存知のないかたに少しニーチェのご紹介をば。WIKIに載っていないような一面を。

ニーチェの主著は『ツァラトゥストラはこう語った』ですが、以下、ニーチェ本人による自著紹介を引用します。

ちなみに、ニーチェが発狂してしまったのは1889年1月で、それまでは、ニーチェの評価は低く、『ツァラトゥストラ』の評判も良くなかった時期です。

結局、ニーチェは自分が正常な時代に無名であり続け、発狂後、一気に有名になってしまったのですが。以下の引用は1888年10月~12月頃に書かれた最後の著作『この人を見よ』からです。

 

私の著作の中ではツァラトゥストラが独自の位置を占めている。私はこの一作を以って、人類に対し、これまで人類に与えられた中での最大の贈り物をささげたことになるだろう。

数千年の彼方にまで響く一つの声を持つ同書は、この世に存在する最高の書、文字通り高山の空気を湛(たた)えた書というだけにとどまらない。

――人間という事実全体がこの書の途轍(とてつ)もなくはるか下の方に横たわっているのだが――これはまた、真理の奥底にひそむ豊饒潤沢(ほうじょうじゅんたく)の中から誕生した最深の書であり、その中へ鶴瓶(つるべ)を下せば、必ずや黄金と善きものとが満載して汲み上げられて来る一つの無尽蔵の泉である。

(新潮文庫版 西尾幹二訳 ニーチェ著『この人を見よ』)

大袈裟でしょ!!(苦笑)
出版から3年以上経って、さっぱり売れていないのに。

だいたい本のタイトルからして『この人を見よ』ですよ?
中二病ですか(苦笑)

この本をどう読むかも人それぞれだと思いますが、私は、5分の1くらいは笑いながら読んでいました。というのも、ニーチェ自身、リラックスして皮肉を混ぜながら自虐的に書いていると思われる部分が多いからです。

私は他人に反感を持たれるようにする術がどうしても呑み込めない。(中略)自分で自分に対し反感を抱いたことさえついぞないのだ。

ダウト(嘘だ)!(苦笑)

誰よりも私が女性の理解者であると、彼女たちは感じるだろうと思われるのだが?

と言った同じ口で、

女は男より、言いようもないほどに邪悪である。

と言い(苦笑)、また、

ひょっとすると私は「永遠に女性的なるもの」の機微に通じた最初の心理学者かもしれない。女という女はみな私を愛してくれる。――これもべつに今さらの話でもあるまい。

ダウト(嘘だ)!(苦笑)

ニーチェ(38歳)が片思いで恋したルー・ザロメ(21歳)にプロポーズを断られた以外(ザロメはロシア出身の将校の娘ですのでカトリックの可能性が高く、婚前に性的関係にはなっていないと思われます)、ニーチェの女性恋愛歴はゼロでした。風俗へは行っていたようですが。(写真右端がニーチェ、左端がザロメ)

そんなニーチェなので、ニーチェの女性観について女性読者のかたがたは怒らないで憐れんであげてください(苦笑) まあ19世紀のヨーロッパですしね。

 

この書におけるニーチェの自虐っぷり、自著と自分の大げさな評価については、巻末の解説で西尾幹二さんが、ニーチェの演技に読者は騙されないように と書いています。

『ツァラトゥストラ』についての、ニーチェからのヒントも多く書かれていますので、『ツァラトゥストラ』に中途挫折した人、何を言っているのかほとんどわからなかった人、一度だけ読んで「ふーん」で終わってしまった人に、『この人を見よ』をお勧めしておきます。

税込みで497円。

私の知る限りですが、翻訳者の西尾幹二さんは日本人で最もニーチェを研究された碩学ではないでしょうか。名訳だと思います。

 

ニーチェは他の自著についてもPRしていますので、最初の入門書としても良いかもです。

『曙光』という本については、

この本をもって私の道徳撲滅キャンペーンが開始される。

撲滅キャンペーンって(苦笑) ほかにもありまして、簡略抜粋しますと、

『人間的な、あまりに人間的な』は一つの、危機の記念碑である。

『善悪の彼岸』は一つの、貴人の学校である。

『道徳の系譜は』を構成している三論文は、表現、意図、人の意表を衝く技において、おそらく過去に書かれた本の中で、最も不気味なものであろう。

『偶像の黄昏』は一個の、笑うデーモン(魔神)である。

『ヴァーグナーの場合』を正当に理解して頂くためには、読者は口を開けた生傷に悩むように、音楽の運命に悩むのでなくてはならない。

 

エー、、、関西ふうにツッコミ入れたい気分まんまんですが、そこはちょっと遠慮いたしまして、劇画的ドラマティックに読むのもよいでしょうし、私のようにツッコミ入れながらけらけら笑いつつ読むのもよいでしょうし、紅茶やコーヒーのウンチクなどもあってエッセイ的にどこからでも読める『この人を見よ』でございます。

よほど見てもらえなかったんだなあ(苦笑)

 

今日のアイキャッチ画像は、ニーチェの最も難解な《永遠回帰思想》が閃いたとされる、スイスのシルヴァプラーナ湖を見下ろすロープウェイらしいです。

ああ、行ってみたい。

 

 

大海にひとり


何日も陸地が見えない北太平洋の海にひとり、船で旅をしているとすると、いったいどういう心境になるんだろう。

おだやかな海ばかりではないし、船底と鯨が接触するかもしれないし。

子どもの頃に『海のトリトン』っていうアニメがあって、歌詞がよかったんだ。知ってる人いるかな?

 

水平線の終わりには~、虹の橋があるのだろう~

 

水平線ってロマンチックなんだよね、なんで向こうが見えないんだろうってなる。

トリトンは誰も見たこともない未来の国を探し求めて、ひとり旅立つんだ。希望の星を胸に。夢の国があるかもしれないと。

不安だとか心配ごとだとかリスクだとか、少年にはそういうのゼロなんだよね。

確かに子どもの頃は、未来に対するネガティブ感情ゼロだったかなあ。宿題をやってなくて先生に怒られることを前提に登校していくときでさえ、まあなんとかなるさと思っていたし。

おとなになると失いたくないものができちゃうからなのかも。
それがモノじゃなくて、感情そのもののこともある。

残る命が短くなったかなと実感するとき、やっぱり、少年となって大海へ冒険に旅立ちたいって思ったんですよ。体が動けるうちに。

 

 

削られて


人とは、彫刻のようなモノなんだ

何かを始めて

失敗して挫折して

削られて削られて

やっと芯の綺麗な形が顔を出す

 

だから やるからには 全力でやれ

全力でやって 恥をかけ

そして

何かを成して

ようやく少し見えてくる

 

いい言葉だなあと思います。

削られないと、むきだしになってこない何かがある。

その何かって、自分では気づけないものなのですが、

他人にはよく見えている芯なのだと思います。

 

誰に笑われようとも、全身全霊をこめて!

 

(※上記引用は、本日発売 集英社版『週刊 少年ジャンプ』 馬上鷹将 作『オレゴラッソ』)

 

 

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