母の日


小学6年生の5月、児童全員にカーネーションが学校から配られた。赤いカーネーションを子供から母親に贈る年一回の恒例行事だ。クラスひとりひとりに配られる。40人のうち39人に赤いカーネーションが、1人に白いカーネーションが担任教師から渡された。白の1人は私である。

前年の7月30日に母は35年5か月の短い人生に幕を下ろした。美容室を経営していた彼女の夢は日本一の美容師になることだった。毎週火曜日の休業日は片道2時間以上をかけて東京へ出向いていた。最新の流行と技術を学ぶために。そして既に新しい店舗の内装が始まっていて、当時としては画期的な5つの個室で接客をする企画だった。美容師の腕が良かったらしく、借家の自宅には常に住み込みの美容師見習いさんが2~3人いた。

順風満帆な33才の頃から母は、原因不明の腹痛に悩まされた。自宅で休むこともあったが仕事は続けた。亡きあとに叔母が教えてくれたが、出産時よりも強い痛みだと言っていたそうだ。誤診が続き入退院を繰り返したが、ある病院で医師から、すい臓がんの告知を代理人として父が受けた。父は長いあいだそれを母に告げることができなかったが、遂には告げたそうだ。

病のために夢をあきらめ、10才の息子と6才の娘を遺して世を去る無念さはいかばかりだっただろうか。亡き母を思い浮かべるたびに私は、母の無念の心に寄り添う。子供たちが育っていく環境に母親がいないことを、彼女は思い浮かべたはずだ。子供たちに申し訳ないと謝る気持ちがあったかもしれない。いや、あったのだと思う。

亡き母の無念を、本当の無念にしてはならない、子供たちに謝る気持ちのままにしておいてはならないと、そう思って私は生きてきた。母がいない子だからといってそれがどうしたと。母の独立自尊の精神、そのDNAをしっかりと受け継ぎ早々に私は自立した。成功や失敗の結果はどうであれ志を抱き、その内容が変化しても常に志をもち続け、己の可能性を信じて生きることが、無念の亡き母から無言のまま引き受けた、私の使命である。

私は、己の死の瞬間を迎えるまで、この使命感を失わずに我が道を行く。

一生のあいだ失わない使命感を私に贈与してくれた世界一の母。彼女にとって誇りに思える人間にはまだ遠い。7月30日は、私だけの贅沢な、母の日。

 

 

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