死を恐れないために


たとえば突然、貴方は医師から癌の告知を受けたとしよう。今それを仮定として想像するのと、現実に告知を受けるのでは迫真さが全然異なるから想像通りにはいかないと思うが、それは横におこう。

死が真に身近に迫ってくる「感じ」は、たった一人の個別体験であり、自分がいなくなることであり、真っ暗な闇の世界に物音ひとつ聞こえない。考えることができない。それも永遠に。自分が永遠に消え去り二度と現れない。

おそらく、がん宣告を受けた人の多くは、永遠に不存在となる自分ということについて考える。それはそれは恐ろしい。永遠の「無」に恐怖する。宗教を信じる人にとっては仮想物語のフィクションに依存し、永遠の「無」からの逃避を欲求する。

私は39才のときに大腸がんの告知を受けた。直径3センチの大きさの腫瘍がS字結腸にあることがわかった。大きさと形状から考えて、ただのポリープではなくがんですと医師から告げられた。永遠の「無」の恐怖に一晩眠れなかった。しかし明け方まで考えていたら、「そもそも生まれる前は無だったんじゃないか?」となった。それで、心は落ち着いた。ぐっすり眠ることができた。

しかしよく考えてみると、生まれる前と死んだ後が同じ「無」だとは限らない。そうしてまた考え続け、これは未知なる新しい世界へのスタートだと思うようになった。これについては「死の完全肯定-別世界への新たなスタート」にまとめてあります。

最近は、別の二つの視点を考えている。

一つは、誰もが死ぬんだから仕方ない。何人もの身内が旅立っていったし、今地球上に生きている人たちも一人残らず全員がいずれ旅立つ。みんな一緒で自分もその中のひとりなんだから仕方ない。この視点は現実的で、あきらめの境地に入ることで恐怖は相当やわらぐかもしれません。

もう一つは哲学的な視点。なぜ永遠の「無」が恐いかの理由を考える。なぜ、なぜを繰り返していくと、自分に「価値観」があるからだという結論になる。価値観が一切なければ「無」はない。永遠もない。存在も非存在も評価がない。

ところで、宗教は永遠の「無」を失くすために、物語をつくってきた。物語の価値観を信じることで死を恐れなくなるという、素晴らしいアイデアを発見した人類最初の人に心から敬意を表したい。しかし哲学ではそうはいかない。価値観を捏造するのではなく、価値観を失うということはどういうことかについて考えていかねばならない。

「価値観原理論」の創造に、ますます力が入る。

 

 

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