同一性について、少し考えてみよう。
自己同一性のことをアイデンティティと呼ぶことがある。この概念については以前、「帰属」を中心に断想を書いたことがある。今回は新しい視点で考える。
最も単純に、目が覚めたときの自分は、寝る前の自分と同じだと認識できるのはなぜか。それは記憶があるからだと皆言うだろう。記憶が再現されるからだと。
なるほど、では記憶とはいったいなんだろうか。
脳科学の文脈で海馬に記録されてどうのこうの、という物理的な面ではなく、哲学的な妥協を許さない論理として。そもそも科学的に記憶のメカニズムが解明されているとは全然言えないはずだ。
情報の記憶、たとえば出来事だとか知識的なことだとか。人工知能が言語として記録する種のことであれば、まだわかる。
しかし、個人固有の価値観であるとか、その価値観に伴う欲求や感情であるとか、それらは毎分毎秒、少しずつ変化しつつも前後が分断されることなくなめらかに繋がっている。この繋がりの同一性についてはどう考えたらよいのだろうか。なぜ感情にまで繋がりの同一性があるのだろうか。
いったいその原理はどうなっているのだろう。俗にいう「意識上」で認識されない無意識領域に、繋がりの同一性があるように思う。しかしその原理については、今はまったくわからない。
他者の同一性について、不思議に思ったことが最近ある。
20年ぶりくらいに7名の同窓生に先週会った。私は皆が既に集まっているお店に最後に入っていたので、全員を瞬間的に把握しようとした。顔や姿を見た瞬間にわからない人が数名いた。ところが声を聴いた瞬間、すぐに全員が誰なのかを完全に把握した。目よりも耳で感じようと自然にそうしたのか、それとも声がほぼ変わらないために偶然そうなったのか、それはわからないが、他者の同一性については声が一番頼りになるのは確かなのだろう。
同一性については、今日の記事のほかにも別の視点がある。今後、分類し整理していく。