おのずからは心を尽くすことを求める


今日は昨記事のつづきです。「おのずから」について、相良亨(倫理学者 1921-2000)の著書より引用しつつ考察してまいります。

「おのずから」は、日本人の形而上にかかわる思惟の根底にあるものとして、さらに、本格的に考察されなければならない問題である。(東京大学出版会版 相良亨著『日本人の心』増補新装版)

相良は私のような心理分析からのアプローチからではなく、「おのずから形而上学」と「日本人の自然観」を区別しつつも、「自然観」からのアプローチによって「おのずから」の説明を試みています。正攻法だと思います。

元来日本人は大自然のことを、「天地」「万有」「森羅万象」「造化」などの言葉を使って表現してきた。それが明治三十年代から「自然」と呼ばれるようになったそうです。山川草木のことを私たちは「自然」と呼びますが、動作・運動としての「自然に」「自然な」という形容表現は「おのずから」で表すこともできる。

東京大学で彼の師であった和辻哲郎(哲学者 1889-1960)の言葉 「日本における究極者は不定である、否、不定そのものである」(『日本倫理思想史』)を引きつつ次のように述べます。

究極的なものが不定そのものであったから、運動と、運動において生々する物に、究極性がその背景として内包されてきて、いわゆる宗教的自然観を形成するのである。究極なるものは、万物において、その万物の背後のものとしてのみ捉えられるのである。

明治三十年代の出来事が伝統的自然観を反映するものであるとすれば、われわれの伝統的自然観は、まさに無限定な究極的なものの「おのずから」においてあるものということになる。自然をわれわれはそのようなものとして捉えてきたことになる。(東京大学出版会版 相良亨著『日本人の心』増補新装版)

少々難解ですが、日本人において世界(宇宙)のすべて=大自然の究極は無限定であり、常に形状を定めず不定である。その無限定で究極的なものが「おのずから」運動して「自然」となっているとし、さらに、無限定で究極的なもの=「おのずから」それ自体だと言うわけです。「おのずから」が、おのずから運動しているということを述べています。

ちょっともう少しイメージ化しないと私には掴みきれていない。

今日はここまでにして、彼の次の言葉で締めましょう。

 

「おのずから」に生きることは、「おのずから」の者として、自己の最も根源において生きることであり、それは「心を尽くす」ことを求める。(同)

 

いい言葉でしょう?

日本人の真骨頂です。
自我が「おのずから」を完全に信頼しきらないとこうはなりません。

大自然そのものである自分の根源に一切の疑いをもたず、最も根源において生きるためには心を尽くすことが求められる。そのとおりだと思います。

 

 

「自我」と「己」、「みずから」と「おのずから」


「自ら」と書いて、「みずから」とも読みますし「おのずから」とも読みます。漢字が同じなので意味も同じように思えますが、まったく異なっており正反対とも言える視点というか現れかたなんですよねえ。

「みずから」は「身つから」、「おのずから」は「己つから」が語源だそうです。これを頭に入れながら心の仕組みのことを少し考えてみます。

 


 

(心の図 1)

人の心は複雑で図で表せるほど単純でないのは承知の上で書きます。心の図1は球形だと思ってください。グレーの部分が自分の外側の世界、赤の部分が自分の世界で心。ふつう私たちは赤のことを「私」と呼びます。

 

 

 

(心の図 2)

さて次の心の図2です。この赤い球形を縦に切って内部構造を見てみると、赤の部分は外側の卵の殻のような薄い部分で、内部ではぎっしりと黒い領域が占めています。仮に、赤の部分を「表層自我」と呼び、黒の部分を「深層自我」と呼ぶことにします。通常は表層自我は深層自我のことを知りません。言葉を変えれば赤は意識、黒は無意識(潜在意識)です。たまに自分の深層自我が現れてくるのを表層自我が感じ取れることがあります。「あれ?なんで私はあんな言動をとってしまったんだろう」とか、「魔が差した」とか、「急にアイデアが閃いた」とか、なぜか左足右足を交互に出して歩いているとか、習い性によって自動的に動いていることなど、みんな体験してると思うんですけどどうですか。

赤の部分は大脳新皮質と言ってよいかもしれません。黒の部分はそれ以外の脳全部、顔も手足も内臓も血管も、新皮質以外の身体全部の「生」が黒の部分にあるとします。

 

(心の図 3)

表層自我(赤)も深層自我(黒)も、あとからくっついてきたモノですから、くっついてくる前の純粋無垢な何かがあるはずだと考えることができます。それが図3の中央にある白い部分で、これを仮に「純粋な己」と呼ぶことにしましょう。この純粋な己って万人共通っていうふうに考えることもできますよね。そうすると万人共通なのに、なんでたまたま私がこの純粋無垢な部分に宿ったんだろう、確かめることもできない純粋な己ってなんだろうという疑問が湧いてきます。

 

(心の図 4)

じゃあ、今からでも表層自我と深層自我をとっぱらってしまえば、純粋無垢な己だけで世界を見ることができるはずだと考えた人がいました。お釈迦さんですね。これを「正見」と言ったわけです。そうすると自分は中身も全部真っ白の球形になることができると。禅宗に『十牛図』というのがあるのですが、そこでは牛の尻尾が本来の己の一部だと言っているので、黒(牛)と赤が仲良しになり一体化することで真っ白になれるイメージでしょうか。それってユング心理学の光と影の統合に似てるんです。ユングは真っ白を目指さなかったけど。

 

 

(心の図 5)

すると今までグレーに見えていた外部の世界も白くなって一体化してしまう。自分=世界だということになるのではないかと。これが仏教の悟りの考えかただと私は思っているんですが、「そんな単純なもんじゃねえんだよ!」と怒られそうですね。図5となったところで、また世の中の価値を取り込みますから、すぐに深層自我や表層自我がくっついてくる。またやり直しと、円環的にこれを繰り返しているのが高僧と呼ばれる人なのか。わかりませんけども。

 

さて、じゃあ、「私」とはどれのことを指しているのでしょうか。図1なのか、図2全体なのか、図3の純粋な己を本来の私だと思っているかもしれません。単層決定論なのか重層論なのか人それぞれなのでしょう。

でも、そもそも表層自我でしか私たちは世界を感覚できず、思考することもできずと考えるのが一般的です。仮に白の玉の純粋な己が私の本質だ!と思っても、赤がそう思ってるだけですね。もし悟って赤も黒もなくなって図4になったとしたら、歩くことも食べることも話をすることもできなくなりますよね、自動車が危険だと知らずすぐに死んでしまいそうです。理論的には。迷宮ですが、上記はすべて「仮説」ですので理論を超越しても許されるのではないかとも思います。人間が論理づけること以上の、どれほど人間の知能が発達しても未解決のレベルがあると私は思っています。

ニーチェは図2の深層自我に気づいて、黒い部分こそが私の本性だとした。これが西洋の「無意識の発見」の論理的端緒となった。それまで西洋では赤の表層自我だけしかなくて、赤が万能でなんでもできる、自分のすべてをコントロールできると考えてきたのです。二―チェは赤みたいな薄っぺらい自我で、自分すべてのコントロールなんてできやしないんだと主張しました。

ユングはこれを発展させて図3とし、赤黒白全部を含めて「自己」としました。他方、仏教でも浄土宗において親鸞は、黒の部分こそ本性だとして民に布教し悪人正機だから安心しなさいと諭しました。おそらく親鸞自身は図3以降の心得があったと思いますが、彼は僧の「職」(プロフェショナル)に徹したのだと私は考えています。(浄土真宗という呼称ができたのは親鸞没後で、親鸞自身は法然の浄土宗信徒です)

 


 

(心の図 6)

さて、私はと言えば、どれが「私」なのかは言語の問題なのでけっこうどうでもよくて、仕組みのほうにずっと興味があるのです。白の純粋無垢な己が本当にあるのだろうかと、あってもなくてもわからないのですが、それよりも、己の本質自体が変化し続けていると考えたいタイプです。それが図6です。ちょっと大きくブルーにしてみました。

赤の表層自我も黒の深層自我もすべて受け容れて、なくならなくていいし、なくそうとも思わない。その代わりに中央の変化する「己」がなんとなくいい感じになっていくといいなあと。私自身の個人のことを言えば、すべてをブルーの己に任せ、赤と黒の自我で自分をコントロールしようとするのは爪の先ほどもなく、完全に、きっぱりと、諦めています。(苦笑)

自分の自我で自分全体を律する、正す、自分と格闘する、という発想が私にはありません。自分の内面の調整はすべてブルーの「己」に委ねています。というのも、長いこと生きた経験上で、私にはこのスタイルが一番合っていると得心したからです。

 

冒頭の「自ら」に戻りますが、「みずから」は表層自我の赤からの意識的な自我の発動です。きわめて西洋近代的な自我だと思います。そして「おのずから」が、中央の変化する「己」から、まず黒全体にそれが反映し、黒が赤を動かすイメージになります。「己」には意志や意識はなく、釈迦が言ったように外部世界の表象を正見によって純粋に見ることもできず、なんといったらいいんだろう、オーラみたいな、そういう影響を心全体に与えているイメージです。

「おのずから」の考えかたは日本独特のものらしく、次の投稿記事になるかどうかはわかりませんけども、愛読書のうちの一冊、相良亨(倫理学者 1921-2000)著 『日本人論』 から引用しつつ、もう一度イメージし直してみようかなと思っています。想像が膨らむ楽しい時間です。

 

 

削られて


人とは、彫刻のようなモノなんだ

何かを始めて

失敗して挫折して

削られて削られて

やっと芯の綺麗な形が顔を出す

 

だから やるからには 全力でやれ

全力でやって 恥をかけ

そして

何かを成して

ようやく少し見えてくる

 

いい言葉だなあと思います。

削られないと、むきだしになってこない何かがある。

その何かって、自分では気づけないものなのですが、

他人にはよく見えている芯なのだと思います。

 

誰に笑われようとも、全身全霊をこめて!

 

(※上記引用は、本日発売 集英社版『週刊 少年ジャンプ』 馬上鷹将 作『オレゴラッソ』)

 

 

地球に「意識のような何か」は有るのだろうか


上の写真の視点で地球を眺めてみましょう。
地球は太陽の周りを時速10万キロで高速移動しています。と同時に地球自体も自転していて赤道付近の自転速度は時速1667キロ、日本のほぼ中心である北緯35度付近で時速1366キロです。音速よりも速いスピードでぐるぐる回っているのに地球から振り落とされませんね。人体への影響は不明ですが、なにかあるのではないかと想像しています。

公転と自転の生み出すエネルギーはとてつもなく大きなもので、人類社会のエネルギー問題を簡単に解決してしまいそうですね。潮力発電は地球の自転と月の公転による潮汐力を利用したシステムですが、海の利用はなかなか難しいようです。自転エネルギーを取り出せる他の方法を人類は考えつくのでしょうか。もう私は生きていないでしょうけども。

 

この地球上にたくさんの人が生活し、生死を繰り返しているのですが、もし私たちが生きることに何らかの意味や目的があるとすれば、地球のためという想像が一番しっくりきます。人は死ぬと単なる物質になってしまい、意識は消え去ってしまうようですが、物質になぜ意識が生まれるのかというテーマは、科学的に未解明であり、哲学的にも意識の難問とされています。

これを地球に置き換えたとき、46億年も生きている地球に、「意識のような何か」が無いとは言い切れないと思うのです。あくまで「ような何か」で、植物に意識があるのかないのかわかりませんけれども、人間の知性など到底およばないところに宇宙のはじまりが(始まりが無かったかもしれませんが)あったことを思えば、新陳代謝をし続けているような地球にも、植物にも、人間意識「のような何か」がむしろ有って当然ではないかと考えられるのです。

二酸化炭素排出によるオゾン層の破壊、森林破壊、海洋および大気の汚染などなど、地球環境破壊に歯止めをかけようとするインターナショナルな動きや、NGO団体などの活動もありますが、そのほとんどが人類種保存という目的であって、本当に地球のためかどうかはわからない。

ジェームズ・ラブロックは『ガイア論』で次のように述べています。

私たちが自らを改めて、正式な支配人あるいはこの惑星の全生物を世話する親切な庭師になれるのだろうか。そのような問いを立てること自体が、あるいは自らの天職を地球の支配人であると思うこと自体が、たいそうな傲慢であると私は思う。

(中略)

よく考えれば、気候、海洋、土壌の円滑な運営の責任を永久に背負っていくような、そんな途方もない仕事に縛りつけられるほど恐ろしい運命は、他にないのではないか。ちなみに、私たちが森羅万象を侵し始める以前の時代には、気候、海洋、土壌はガイアからの無償の贈り物だったのだ。(ガイアブックス版 ジェームズ・ラブロック著『ガイア 地球は生きている』)

 

彼は、地球環境を論ずることができるほど人類は偉大なものではなく、地球全体が一体となって、その一部を人間が担っているという感覚をもち、他のさまざまな種の生物たちと協調して生きていくべきだと述べています。

身体の外部の物体として地球をとらえる感覚が一般的かと思いますが、「地球の身体の一部が私という物体」との感覚をもてば、私の意識が地球の「意識のような何か」と一体化しているように感じてくるから不思議です。

 

未知なる世界に希望を抱くために


今日1月14日は、初めて知ったのですが「愛と希望と勇気の日」だそうで、理由は調べていただくとして、まあ、ずいぶんと豪勢というか欲張りな日だなあというのが第一感でしたが。

 

さて、私たちが希望へ向かって第一歩を踏み出せないのはリスクをとろうとしないからだと、そうした記述を目にすることがよくあるのですが、これは少し違うのではないかと考えています。

話が飛びますが、私たちは宇宙の外側はなんだろう?という疑問を抱くことができる。そこは未知なる領域です。死んだら私はどうなってしまうのだろう?、これも未知ですよね。翻って3000年前の人類を想像してみましょうか。あの光っている空の玉のようなものはなんだろう?という未知があったはずです。けれどもその時点では、宇宙の外側はなんだろう?なんて疑問を抱く人は一人もいなかったはずです。未知であることをも知らないというレベルです。

エルンストブロッホ(ドイツの哲学者 1885-1977)『希望の原理』から引用します。ちょっと難解な部分を含みますが。

 

あらゆる人間の唯一の率直な特性である願望が、探求されていないのである。未だ意識されないもの(das Noch-Nicht-Bewuβte)、いまだ成らざるもの(das Noch-Nicht-Gewordne)は、すべての人間の感官とすべての存在の地平に一杯になっているにもかかわらず、言葉としてすらも、いわんや概念としては、一貫して見通されたことがない。この花ざかりな問題領域が、従来の哲学ではほとんど口もきけないでいる有様である。

(中略)

人間のなかの未だ意識されないものは、こうしてどこまでも世界のなかの未だ成らざるもの、未開発のもの、未だ顕在していないものに属する。未だ意識されないものは、未だ成らざるものと連絡し、相互作用をおこなう。(白水社版 エルンスト・ブロッホ著『希望の原理』)

 

哲学者の文章表現というのは、まったくもってまどろっこしい!同じことを別の表現で何度も述べていてうんざりする!のですが、辛抱して読み解いていくと、上記の言説はとても大切なことを簡略して(これでも!)述べています。(ここの場面では論理に飛躍を含みますが、ずっと後のページにぎっしり一週間かけて読まねばならないほどの量で解説が書かれています)

まず、哲学として「希望・願望の解明」は誰も足を踏み入れていない原生林であるということ。冒頭で私が書いた、未知のことと、未知であることさえも知らないこと、この二つの領域が相互作用をおこなうとブロッホは言うのです。

 

ちょうど昨日のブログで私が書いた、「こうして時代が流れるにつれて、“Good” という価値はどんどん変わってゆく。なのに私たちは今日までの “過去のGood価値” しか追いかけていないのです。ああなりたい、こうなりたいという、追いかけるモデルは過去に出来上がったモデルであって、・・・」に関連することをブロッホも以下のように述べています。

 

哲学的にも未来形は今日までまだまったく適切に書き留められてはいない。そのあげくに、おそろしく静的な思考がこうした状態を名指しで呼ぶこともなければ、理解するしないで、ただくり返し既成のものの話をつけることばかりに終始する。それは、定義どおり観察的な知として、もっぱら観察可能なものの、つまり過去の知だけがあって、成らざるもの(das Ungewordene)の上に、既製品完結篇の形式内容というおおいをはりめぐらす。おかげでこの世界は、歴史的にとらえられるばあいでも、一貫して反復の世界、ないし大きな輪回の世界となる。(同)

 

ブロッホが言いたいのは、未来に予想されることを過去の知見からしかもってこれないのであれば、われわれの想像する世界はすべて同じことを繰り返すような世界でしかないということでしょう。でも実際には今まで一度も起きたことがないことが現にたくさん起きているわけです。偶然か必然かは別として。

 

あの世界は何だろう?と、未知なることにチャレンジしてゆく際に、私たちはそこに「新しい未知」への畏怖を無意識のうちに感じ取っているのではないでしょうか。ちょっと頭がこんがらがってしまう表現ですみません。

A.H.マズローに説明の手助けをしてもらいましょう。

 

彼らは未来を怖れており、予想外の事態に遭遇した場合に、即興的に適切な行動を取るという自信がもてないらしい。つまり、自分を信頼できないという気持ちと、自分には、予想外の事態や予測が不可能なできごとを正面から受け止める力が備わっていないという不安感が入り混じっているのだ。(日本経済新聞出版社版 エーブラハム・マズロー著『完全なる経営』)

 

予想外の事態に、自分が未だかつて経験したことのないことが含まれていることが予想できるとき、人間は向かっていく目的を怖れるというよりは、現時点で予測不可能な出来事を怖れるのです。

例えば、人間は古来より死を恐れてきました。それは死後の世界が未知だから怖いというよりは、「何も見えない、何も聞こえない、意識もない」ような、現時点では予測不可能な状態に自分が置かれることに対する不安感なのではないかと。なので天国や極楽浄土という感覚できる死後の仮想世界を人間はねつ造した。それによって人間の、死後が怖いという感情を薄めたのは宗教の大きな成果だと言えます。

 

しかしながら私が思うに、死という瞬間を新たな未知の世界への旅立ちだ、冒険だとする勇気、予測不能な自分の状態とはいったいなんだろうかという好奇心、その2つがあれば宗教は必要なく、エイヤー!と飛び込んでいけるのです。まさに死後への希望はここにあるのです。(人との別離の悲しみを克服することは横に置くとして)

すみません、持論を少し熱く語ってしまいました。(18年ほど前に癌告知を受けたその日に、一晩じゅう独り天井を見つめつつ、暗黒の恐怖に苦悶しながら片を付けることができた。よし、死のう!と。その後に寛解し今もしぶとく生きられている理由は、その一晩の覚悟が自己催眠効果を生み出したからなのではないかと思っているわけです)

 

生きているあいだに、未知なる世界に希望を抱くことも同様ではないでしょうか。

リスクを取るというのではなく、(未だリスクともわかっていない)不可知を怖れず、かえって好奇心で楽しもうと一歩ずつ前へ進んでいこうとする心の内面に、希望の道がぶわっと開けていくような気がしてなりませんが、いかがなものでしょうか。

勇気と好奇心と希望の日ということで。

 

ダイバーシティの「次」を見て生きる


ダイバーシティ(多様性を認め活用する)の時代だと言われ、小池都知事の3つのスローガンの一つでもあるのですが、価値としてのモデルというのは時代とともに移り変わってゆきます。

多様性を認める寛容、人それぞれの自由を尊重すること、差別をしないこと、いろいろと言われる2010年代ですけれども、2020年代は、「きちんと差を認めなさい」「秩序をとりもどそう」という価値の時代になるかもしれません。あと30年たったら、ヤクザ渡世の任侠道を見直す機運が高まるかもしれない。こればかりはわからない。いろいろと反動もあるでしょうし、トランプ氏がアメリカ大統領になるほどですし。

人の社会的性質のロールモデル、或いは成功者のロールモデルにおいても、同じことが言えます。一般経済界を例にとりますと、かつては一つの会社の社員であることを終身まっとうすること、或いは会社の社長になって多くの人を雇用することなどがロールモデルとされてきましたが、現代ではすっかり変わりました。

価値観はさらに合理性を増し、「自分の時間とお金」を損しないことや科学的に検証されたものを重視し、心や経験に基づくものは軽視する、そういうタイプの人が成功者または成功者になりえる人としてロールモデルになっています。

100年前、200年前を振り返った時、その時代のロールモデルに理解は示せるけれども、現代ではモデルにしようと思わない人がほとんどではないですか。もちろん歴史に名を残した立派な人は除いて。

そうして現代的な価値観のモデルに私たちは憧れたり嫉妬したりしていることが、200年先の視点をとおしてみると、いかに馬鹿げたことなのかがわかります。その馬鹿げたことのために、成功者になるためにはああしなさいこうしなさいと、身近なことでいえば正社員として成功するため、多様性を認める社会のため、他人の自由を尊重するため、弱者を大切する社会のため、差別をなくすため、善人になるために、「こうすればよい」といった本(電子書籍を含めて)やネット上の啓蒙が巷に溢れているわけです。

そんなこと言っていても、遺伝学によって人間のさまざまなことが解明されていけば、多様性を認める社会というスローガンはもろくも崩れ去っていくことは自明と言ってよいでしょう。「白人も黒人も日本人も男性も女性も『無条件に平等』」なんていう夢の世界がいかに現実的でないかを遺伝学は示してゆくと思います。その『平等』には条件がついていくようになるのが科学の流れでしょう。誰も逆らえない。

 

こうして時代が流れるにつれて、“Good” という価値はどんどん変わってゆく。なのに私たちは今日までの “過去のGood価値” しか追いかけていないのです。ああなりたい、こうなりたいという、追いかけるモデルは過去に出来上がったモデルであって、10年先のモデルにはなっていない可能性が高い。そのことに連想が及ばなければ、10年たった時に、時代に取り残された自分にようやく気づき唖然とする、そういう想像はちゃんとしておいたほうが良いと思うんですよね。

団塊の世代の人が「俺は一つの会社で勤めあげたんだ」と胸を張っても、現代の現役世代に言わせれば「ああ、あなたたちの時代はそれで良かった、ずいぶん楽な時代でしたね。おまけに年金までちゃんと貰えて。」と批判され、「わき目を振らず一つの会社に勤めることが善だ」とアドバイスしようものなら白い目で見られることでしょう。加えて団塊世代の人たちは福祉財政で若者の足を引っ張り、今の社会のアンチロールモデルというわけです。現代における反面教師です。でも彼らは古い時代に善とされたロールモデルを目指し、辛い思いもいろいろあったでしょう、こつこつと頑張って生きてきたのです。結果としては良い循環の社会を築けなかったとしても。

このような悲劇を繰り返してはならないと思うのです。

他人や社会が(現在までの)過去の価値観に沿って、ああしなさいこうしなさいと言っていることに惑わされてはいけません。選別できる判断力を養わなくてはならない。長く続く価値は稀にありますが変わらぬ価値はない。

自分で未来を考えて、自分独自のモデルを自分で創造していかなくては。

と、自分に言い聞かせています。

 

 

 

 


― 永遠の香り、永遠の匂いだ。うっとりと薔薇のような、濃い黄金色の葡萄酒にも似た香り、年老いた幸福の香りだ。

― 真夜中の酔い痴れた死の幸福の香りなのだ。その幸福は歌う。

「世界は深い、昼が考えたよりも深い!」と。

わたしの肌は、お前の手に触れられるには、余りに清浄だ。構わないでくれ、お前、愚かで、粗野で、陰気な昼よ! 真夜中の方が、もっと明るいのではないか?

最も清浄な者たちが、大地の主人となるべきなのだ。最も知られない者たち、最も力強い者たち、どんな昼よりも明るく深い真夜中の魂を持つ者たちが。

(白水社版 ニーチェ著『ツァラトゥストラはこう語った』)

 

夜に愛された女たち  夜に捨てられた男たち

いつか夜を主人公とした物語をつくってみたい。

 

 

多人格考察におけるメタ認知


人類文明は、分解、細分化という高等な知能を必要とする作業能力を獲得してから急速に進歩しました。ヨーロッパ発の近代科学が世界を席巻したのも、分解、分析、変革、統合、分解・・・という繰り返しによってであり、手元にあるスマートフォンも、そうして現在のように小型で高性能のものになってきたのです。

この、分解、分析、変革、統合の円環的な高等作業を「人間の性質」や「人間の能力」「人間の世界」に当てはめることについては、古代より東洋のほうが先進的であり、中国には儒教の五常(仁、義、礼、智、信)、孟子の四端、五行、三徳なとがあり、インド仏教では、十二支縁起、六道、四諦、八正道、唯識の八識、五蘊(色、受、想、行、識)、三学、三法、三毒などなど、こうして眺めてみても、いかに東洋文明が「人間とは何か」について探求してきたかが解ります。

西洋においては、個人主義をインディヴィデュアリズム(それ以上分解できない)と形容するように、つい最近まで「1」として捉える以外の考え方はなかったのです。それを分解しだしたのは、ニーチェ~フロイト~ユングの流れでした。(アードラー心理学は従来どおり分解せずに「1」としたため個人心理学と呼ばれています)

フロイトは深層心理と表層意識の二極にこだわったのですが、ユングはタイプ論において8つの性向に分け、なおそれを2分割したので16の性向への分解となりました。そして50代後半からの円熟期には、アニマ、老賢者、グレートマザー、永遠の少年、トリックスターなどの人的モチーフをレトリックとして用いました。ユング心理学は分析心理学と呼ばれます。

マズローは人間の欲求を五段階に分けました(とされています)。が、正確には芸術的欲求については未解明と述べており、円熟期以降には自己超越の創造的欲求が最も高度なレベルにあると修正しています。ピラミッド型の図はマズローが作ったものではなく、マズローの理論とは若干異なっており、多くの人が誤解していると思われます。

 

さて、こうした人間の心についてですが、自分自身で「自分個人」を客観的に観察し分析していくというのは、「人間」という普遍的なものを観察するよりもはるかに高度な作業になります。これを『メタ認知』と言います。

客観というと、自分の外部に視点を置いて自分を観察する、或いは神の視点で天から観察するように思われるかもしれません。けれど実際には、自分の表象世界(自分の内部にあらわれている世界)を、(できるだけ自我を排除した)自分で観察することが本来の客観です。(※内観と客観は異なりますが、わき道に逸れ長くなるのでまた別の機会に)

表象世界には空間があるわけでも言語があるわけでもない。よってユングは老賢者やトリックスターが個人の中にいるというふうに、イメージで表したわけです。イメージ人格になりきり言語によってアウトプットすることで、多人格である自分の、それぞれのモチーフを客観分析するチャンスが生まれます。

私がこのブログで試みているのは、風、炎、水、山、桜、黄昏などの、なんとなくそういうイメージで表すことができる個性的多人格の、メタ認知のアウトプットです。当初は赤や青という色彩で始めましたが、色はどれほどあいまいな中間色でも平面的であり、それ自体が「動かない」、世界としての広がりがなく単純すぎると思い、現在のモチーフにしました。

自分をできるだけ正確にメタ認知するという作業は大変難しいのですが、始めてみて思うのは、それぞれの自分のすがたが明瞭に表れてくる、輪郭がはっきりしてくる、それを理解して自己変革できる(かもしれないと思える)という利点があることです。もちろん光の人格の裏には影の人格が、水の人格の裏には鉄の人格があるのだと思いますが、影では書くものじゃないと思っています。影のニヒリズムで、もうどうでもいいよ、どうせ死ぬんだからという投げやりな気持ちがもわ~っと浮き上がってくることがたまにあるのは事実です。私はそういう自分がいても良いと受け容れていますが、特にアウトプットする必要はない。読者さんの気分を害するのもなんだか気が引けます。

こうして自分のパーソナリティ=人格(気質、キャラクター、個性、感情、欲求など)を分解しモチーフとして分析してみると、一つ一つのモチーフの延長線上すべてに、別々の、「創造」(自己価値に限らず社会価値の創造も)への道が開けていることに気づきました。これは私にとって画期的な発見です。

 

少なくとも私は80歳までは自己創造し続け完成させません。80になってもちゃんと本が読めて考える気力があって、生きていたらそのときは延長するかもしれませんが、80にしてようやく一つの人間となったことにしてみようと、そんなふうにずっと思っています。

社会的に威張る立場の老害にはなりませんので、まあ安心してください。加齢によって気が短く頑固になる人もいればやわらかくまあるくなる人もいるのです。反動なのかもしれせんが。
娘いわく、「お父さんは老人性痴ほう症になったらきっと可愛いお爺ちゃんになるね」とのこと(苦笑)

 

 

セブンのティーン


「(DANZA)さん、何言ってるのかさっぱりわからない」というのが私の仕事のホームページを見ていただいた人たちほとんどの感想で、ちょっと悲しい2017年の船出ですが、、、2017だし、、、まいっか、セブンのティーン、ふふふんふん・・・と開き直りのスルーしてる場合じゃない!

去年10月くらいに制作したホームページから(その時も難しすぎてわからないという悪評だらけ)、がっつり7割くらい文章を切り捨てたのですが、それでもわかってもらえないということで、要は私の表現力の乏しさなんですけど。アメブロで書いてきたような、ここで書いているようなプライベートの個人ブログであれば唯我独尊でよいと思うのですが、仕事はやっぱりまずいだろと、でもどうしたらよいんだろうかと悩んでおります。もともと他人に教えるとか言語で説明するとか、苦手なんですよねえ、というかやる気がない。めんどくさい。

どうしたらよい?

教えてください、お願いします。

あれ以上どうすれば?という私の限界なのですが。

 

仕事のホームページの位置づけは「詳細についてはホームページ見てね」という営業ツールの一つとして考えているのですが、詳細を見てみたら何が何だかわからなくなったというのでは困るわけですよね。そんなんじゃHP無いほうがいいよね。

 

結局、私の目指す、労働や雇用、正社員といった概念の破壊、すべての個人がファウンダーまたは業務受託で収入を得ていく社会の仕組みを小さなところから創り始めること、ということを打ち出すべきではないのかもしれないですね。

だって一般的には正社員が上流階級なわけでしょ、組織の中にいるインサーダーの人たちにとっては。なかなかね、インサイダーにいながらにしてアウトサイダーの視点で自分を客観視し、「奴隷のように雇われている立場から脱却したい」と考えられる人は稀なのだと思います。

これって経営者にとっても大歓迎だと思うんですよ。ふつう一人の正社員を雇うと支払う給与の3倍は覚悟しなくちゃいけないと言われてきました。一社員が占有する会社の不動産的価値、かかる経費や保険、退職金、さまざまなリスクや気づかいする経営者の心理的人件費、特に最近ではブラックだと内部告発されないかとびくびくしなくちゃいけないとか、ちょっとのことでもハラスメントと言われてしまうとか、ほんと経営者にとってはめんどくさい時代で、正社員じゃなくて業務委託で2倍支払ってもそっちのほうが得なのではないかと。いわゆる会社への奉仕の精神だとか、社員一丸となってとか、アウトソーシングに転換してのマイナス面はあるけれど、今どきそういう意識をもっている社員ってどれほどいるんでしょうか。

そうして考えてゆくと、私の目指す方向は必然性があると思っているんですけどどうですか。

 

で、そうしたときに個人の所属欲求が満たされなくなる。バックボーンを持てなくて不安になるわけです。私のような一匹狼ならぬ一匹野良猫タイプで、バックボーンなんて必要ねーぜ、老後に金なくても不安なんかなんにもねーよ、という人は1%くらいしかいないんじゃないの?日本人の85%以上が天皇制を支持しているというし。ああ、国民の依存心に縛られ自由のない哀れな天皇がかわいそう。とのぶつぶつはあとで削除対象かな。

バックボーンをプライベートの個人に当てはめると「宗教」が浮かび上がってくる。欧米やアラブの人たちが強い個人主義(インディビデュアリズム)を発揮し社会で活躍できるのは、キリスト教やイスラム教という宗教のバックボーンがあるからです。ユダヤ人もそう。日本人にも一部には創価学会なんかがあるけれど、ほとんどの国民は安心できる「所属」に宗教を使っていないと思います。

ゆえに私は、日本人こそが世界で最も早く「ポスト宗教」を実現できる国民だと、その可能性に大いに期待しているわけです。このポイントも、うっすら仕事に反映させてしまっている。その辺りも今は要らんことなんでしょうね。書いてるとだんだん気づいてきますね、自分で。

そっか、こういう全体像を表したいという自分の無意識の欲求が仕事のホームページににじみ出てしまっているわけか。それに加えて価値や目的を固定化せず、水に浮かぶように常にフロー(浮いて流れている自然体)の状態でいようという信条もありますから、さらに話をややこしくしているのかもしれませんね。

 

だいたいここのホームページご覧になっていただいてるかたがたにしても、私の悪文に(特に昨日のブログは酷くさすがに自分でもうんざりしながら修正しました)、「は?何言ってんだろ」と思いながらもおつきあいくださって、まいどありがとうございます。また明日のご来場をこころよりお待ちいたしております。

セブンのティーン。

 

センチメンタル


感情は抑えることが善なのか、感情を抑えないことは悪なのか。

人間は理性的な動物だとして、理性で感情を全面的にコントロールすることが良いことだとする近代の価値観は、科学の発展によって急速に進むロボット化社会を想定したとき、感情価値の見直しを迫られることになると思います。いやもうすでに「心」に焦点をあてた活動が、さまざまな形で動きは始めています。

感情にもいろいろありますよね。驚きや喜び、楽しみは良い感情だとされ、怒りや悲しみ、憎しみは悪い感情とされています。一方、古代インド哲学では、喜びを含めたすべての感情が執着心の源だとして断ち切ることを善しとしており、それは仏教に継承されています。(日本の仏教は改造されましたが)

そもそも論で、善と悪の価値を相対させラベルを貼っていったのは人類であって、最初からあった自然界の絶対的価値とは違います。ここに踏み込むと哲学論になりますので今日は立ち入りません。

 

悲しみは負の感情だとされているのですが、怒りや憎しみなどと違って他人や社会に対してそれほど悪影響を与えるものではないと思うのです。閉じた自分のなかでの辛さ、苦悩ですよね。

今日とりあげたいのは酷な悲しみではなく、淡い悲しみと言いますか、黄昏(たそがれ)るセンチメンタリズムです。

感傷と訳されるセンチメントですが、英語のセンチメントには情操なども含まれますし少し違ってるようです。英語の語義は横に置き、日本語のセンチメンタル=感傷的な気持ちについて考えてみるのですが、あまり良い意味には定義されていません。「理性的に身を処しないで感傷に溺れる態度(大辞林)」。ここでも理性的が善とされています。

センチメンタルにはナルシシズムが同居していますよね。なのでナルシシズムもテーマに加わってくるのですが、一般社会の常識的と言われる価値観に囚われずに自分のこととして考えてみれば、センチメンタリズムもナルシシズムも自分の心を豊かに、心の傷を癒し潤いを与えてくれる、よきものだと思うのです。

 

話は変わりますが、日没の光景はなぜセンチメンタルになるのでしょうか。

たくさんの子どもたちが遊びまわった小学校の校庭の下校時、かつては多くの乗客で賑わった駅のプラットホームが今ではすっかり寂れてしまっている光景。何を言いたいかはもうお分かりになると思いますが、明の光景と暗の光景の対比を心の無意識下で行ったことによる感傷ではないのだろうかと。どう思いますか?

これから私はセンチメンタルに限らず『哀感』というテーマにスポットを当てていこうと思っています。日常の機会をみつけ哀感の心をつくり、哀感を昇華させてゆくようなイメージ、心潤う表現として、大げさかもしれないが、「哀感が人と世界を救う」こともできるんじゃないかと、なんかそんなふうに直観しているのですが。

 

実は、sentimental 絡みのドメインを元旦に確保しまして、感傷を、間接的に希望を生み出すものとして、なんらかの形で事業化(プロジェクト化)したいと、いや必ずするのだと決意しています。今年20立ち上げるプロジェクトの一つとして。営利事業で厳しいのなら非営利でも良いし、少なくとも新しい価値創造のきっかけにはなると思います。

何も決まっておらず、何の考えも今のところないのですが、直感として出来ると感じたのでチャレンジします。

 

 

TOP
Copyright © 2017-2025 永遠の未完成を奏でる 天籟の風 All Rights Reserved.