タトゥーについて


はい、こんばんはー!昨日掲げた「明日はこのどれかについてコラムを書く」宣言を堂々打ち破りまして(笑)、まあ余裕があれば二本目書きますが、今夜はタトゥーについてです。気に留まったので。

年末にボクシング世界戦で防衛を果たした井岡選手のタトゥーについて、なんか盛り上がっている感じですが、まず、入れ墨と聞くのとタトゥーと聞くのではイメージちゃうがな(笑)みんなそうじゃない?意味は同じだからイメージも同じっつー人もいるでしょうけど、私はイメージ違うんよね。タトゥーって聞くとなんか芸術的作品じゃない?ほかにも彫り物とかモンモンとかその辺も微妙にイメージが違うんですが。

ま、そこんとこは長くなるからアレなので置くとして、私のイメージは子どもの頃にでき上がったのかなあって思い起こしてた。たぶんね、水戸黄門とか遠山の金さんとか。この二つ全然違うんだけどね。

水戸黄門の爺ちゃんは今考えると儒教っぽかったと思う。他のテレビ番組やアニメでも儒教っぽい「教え」がけっこうあったんだ。そのひとつに「親からもらった大事な体を傷つけちゃいけない」ってのがあった。私の親はそんなこと教えてくれなかった。あたりまえだよね。自分があげた体だから、なんてぶさいくなことを言うわけない。

その教えとテレビのイメージがあって、いや遠山の金さんは若いころやんちゃで博徒ヤクザの道にあったという説があって、それで桜吹雪を彫ってるって感じなわけだけど。つまりヤクザになるってことは実の親を捨ててヤクザの親分の子になるってことだからさ。

だから私の子どもの頃にはヤクザしかモンモンしょってる人はいなかったわけよ。

そのイメージをね、捨てられないんだなあ。これが。

そういう世代の幅はどれくらいだろうね。清原さんはご両親ご健在でヤクザにもならずに彫っちゃったわけだから、親からもらった大事な体、っていうのは知らなかったのかな。どうなんだろ。

で、現代。

明らかに芸術としてというか気軽な装飾としてのタトゥーの価値が台頭してきて、ヤクザのモンモンとは違ってるよね。親からもらったうんぬんっていう儒教的価値観もすたれた感じだし。善し悪しは別として。

これからの世代の価値観が台頭していいんじゃないかとあたしゃ思う。

でもさ。われわれ世代のたぶん多くは、ヤクザのイメージ捨てられないと思うんだな。だからそれはそれとして、それぞれの価値観が違うことを寛容してもらえると多様な社会になると思う。

今の40代の人たちに根づいているさまざまな正しい価値観も、20年も経って今10才くらいの子たちが30才になる頃には間違った価値観になってることがたくさんあるんじゃないかな。

そうして人類は歩んできたんだなと、タトゥーに盛り上がる世論をみて思った次第でありんす。

 

なんや、今夜のコラムぜんぜんおもろないやん(笑)

 

 

根拠なき自信?


新春二発目のコラムっていうか、コラム書き始める前の殴り書きなので、どーーーーせ、消すからね、消すんだよ、消す消す必ず消す(笑)

根拠なき自信を持てってたまに聞くんですが、あれってなんですか?自信って必要なの?要らなくない?邪魔でしょ?

だって順番がちゃうよね。実績ができて、そこから自信が芽生えていくっていう順序でしょ。先に自信を持てって言ったってどう持って良いかわからんでしょ。ふつうに考えて。

んでもって、自信なんて簡単に吹っ飛ぶもんだよ。そうでしょ。だいたい傲慢さが自信にはもれなくおまけで付いてくるし。だよね?

自分に可能性を持て、が正しいと思うんだな。人間なんて可能性のかたまりじゃん。小さければ小さいほど時間がたっぷりあって可能性は大きいし。でもいつ死んじゃうかわからんからね。そういう意味では10才の子も80才のおばあちゃんも可能性は同等だとも言える。言えるだけだけど(笑)

言葉を少し変えれば、自分の可能性を信じ切ろ!だね。信じるだけじゃ足りない。信じ切らないとね。

私は何回すっころんで何回恥かいても、自分の可能性だけは信じ切ってますよ。年令とか関係なく、20年前の自分の可能性も今の可能性も同じって感じる。

でさ。自分の可能性を信じ切るというのは、自分だけじゃなくて何に対しても、たとえば未来に起きることとか、他人との関係とか、他者の人格や能力とか、出会いだとか、あらゆることにたいして可能性をみる、ってことの習性によって自分にも可能性を常にみられるってことだと思うんだ。

可能性への志向。心が可能性へ向くイメージなんだけど、じゃあなんで志向性が生まれるんだってところは、未だわかっていないんだ。私もわからないし世界の哲学も科学もわからない。それを考察していくのが私のひとつのテーマでもあるんだけどね。

ま、とりあえずさ。根拠なき自信を持てよりも、自分の可能性を信じ切ろのほうが圧倒的に健全だと私は考えるけど。傲慢にならないし、むしろ謙虚になると思うよ。

君はどう考えるかな?

 

 

 

問題解決でなく希望と憧憬の創造(5)


年初から考察を始めたテーマは今回がラストです。4か月ぶりですが。人が生きてゆくことの本質を徹底的に掘り下げて考え抜きました。この2カ月でそれまでの自分に根づいていた生の哲学を大きく塗り替えることができた。表題のテーマ「未来の希望と憧憬をつくるために」これ自体を変更しなくてはならなくなった。のかもしれません。

今回のシリーズを振り返ると、(1)では「価値観を変えること」が必要ではないかと考え、(2)では「人間のモノ化」が進んでいるのは良くないと考え、(3)では「日本の古典思想」によってモノ化を乗り越えられるのではないかと考え、(4)ではビジネスの「能力主義」も人間のモノ化であると考えました。人間がモノ扱いされている現状が続けば、未来に希望も憧憬もないと思うのです。価値観の大転換を目指そうということで、今回の(5)になります。

(4)の後にぼんやりと、「個性による志向(個の人格主義)」を考えていました。パーソナリティー・ドリブンです。そうしているうちに中国でコロナ禍が発生し、あれよあれよという間に日本も世界もコロナ一色になった。でも今回を機に、「人間という生物の本質」まで掘り下げようとする「心の欲求(心の志向)」が私に生まれ、「人間のモノ化」とサヨナラできる論理ができたと思います。

もう誰も「求められる人材」や「能力のある人材」になどなろうとしないでほしい。

 

途中をいくらか端折りまして結論です。

人間は「反応」によって幸せを感じます。外部から自分への反応だけでなく、自分の内部でも反応を起こします。反応によって感情が生じます。この感情は自分独りだけの、唯一無二のものであり、他者のそれで代替はききません。

「何」の価値に対して反応した時に自分が最も大きな幸せを感じるのか。

その「何」の価値を欲求するのが人間です。

この欲求の先にその人固有の希望があるのです。その人にしかない。

「何」の価値に対して最も大きな幸せを感じるのか、感激するのか、その人固有の感情のクオリティこそが、オリジナル・パーソナリティーを象徴するものです。

反応と欲求、この二つが人間の生の営みそのものであり、何に反応し欲求するかはその人個人に内在する「価値観」で決まります。そしてその「価値観」は人類が創作してきたフィクションです。人類発祥から幾多の文明を経て現代に至るまでの人類知によって創作されてきた価値観は、自分ではなく「他者の総体」が創ったフィクションです。事象は実相ですが、価値は虚構です。

いきなり全ての価値は虚構だと言われて驚くかもしれませんが、この哲学については、本サイトでこれから肉付けしていこうと思いますので、ここでは詳細を省きます。

どのような希望をつくるのかは、どのような欲求が自分に生じるかであり、どのような価値に幸せを感じ感動するのかであり、価値を生み出す価値観はどうせ人間の他者が創作したフィクションなのだから、絶対ではないのだから、自分でそのフィクションを組み立て直して、あなた固有の、世界で唯一の素晴らしい価値観の宇宙を創造してみてはいかがでしょう。「この価値で私は感動できる。思わず感激してしまう。」を幾つか集めてみることが第一歩のような気がします。

誤解のないよう書き添えますが、これは、自分の感情が幸せを感じることをそのまま自分のために欲求し、ストレートに追求してゆくことであって、他者に共感してもらうことを求めたり、他者に押しつけたりするものではありません。社会にとって善という価値観も無関係です。

フィクション構造さえできあがって強い欲求をもてるようになれば、後は自動的に、何も目指さなくとも自分だけの「道」が開かれるはずです。

自分だけの道を歩き始めれば、自分がもっと感動できる価値観に気づき、それを更に組み込んで成長してゆくことになるのではないかと。

私自身もこれから、「フィクション構造」をこのサイトで構想してゆきます。

サイトの地図を全面的に描き直さないとなりませんが、楽しい仕事になりそうです。

 

 

問題解決でなく希望と憧憬の創造(4)


キリスト教、ユダヤ教、イスラム教の一神教文化では、「人間は神によって創造された」という教義上の原点がある。両親の子どもとして生まれるが、自分の創造主は神であるとの価値観が根底にある。

自分という「人間存在」は既に神によって創造されている。一方、才能や能力といった「人間の一部分」については、個人の努力によって高められるものがあるとする。ここでも能力を対象化し「モノ」として扱う。この認識論が、西洋の(物質)科学文明のみならず、人間の知性的能力を大いに発展させた。

しかしコンピューター時代の到来とその進歩によって、知性的能力のほぼ全てをコンピューターによって代替できるようになり、AIによって人間知を超えるところまできたのだ。

ビジネスにおいて、年功序列主義から能力主義へと価値観が変わり始めたのが30年ほど前からで、今ようやく、多くの日本の各企業が能力主義へとシフトし出してはいるが、実は、もう(知的)能力主義は終局へと向かっているのだ。このことに日本のほとんどの企業やビジネスマンは気づいていない。

勘の良い人ならもう解るだろう。人間の知的能力を使う仕事のほぼ全ては、AIにとって代わられる。だから、今ごろ能力主義を掲げている鈍感な企業は終わる。

 

では、人間自体が淘汰されてしまうのではないか、コンピューターと人間の合体化から(今既に、サイボーグ化の一部テストが始まっている)、近い将来にはAIロボットが人間を使う立場になるのではないかという想像が働く。

人類は、人間とは何か、人間にとって良いこととは何か、その個人にとって良いこととは何かなどについて、人間の本質を一から考え直さねばならない時期に入ったのだと思う。

西洋文明は、モノ化した「人間」の文明として、モノ化した「能力」の文明として限界点に差しかかっている。一神教文化では、神の創造文化があったために、「人間らしい全人的人間(部分や能力ではなく)」としての、非目的的な“自分創造”をしていく文化は育たなかった。ここに可能性をみる。

科学文明の進歩、経済文明の進歩は、医療や福祉などを通じて人類の不幸を減少化させることに貢献したけれども、けっして幸福を増加させたとは言えない。

ポスト「人間のモノ化」の価値観大転換によって、私たちはこれを乗り越えて行こう。

 

 

問題解決でなく希望と憧憬の創造(3)


前の記事で、現代社会問題の幾つかは欧米の価値観依存によってもたらされているとし、人間の「モノ化」は、欧米の「言語(インド・ヨーロッパ言語)」構造と「一神教的な価値観」に原因と原理があると書いた。

まず言語構造について。

欧米の言語はメタ認知言語であるということ。私(I) という主語(一人称代名詞)を彼(He) の三人称代名詞と同じようにメタ視点から自分を指す(対象化する)ように使用する。

一方で、日本語には本来、主語は無かった。これも複数の言語学者が指摘している。

明治維新の頃、西洋から形而上学を輸入したことで、日本人に言語的なメタ認知思考が育っていった。但し、それが「メタ認知」であることに無自覚のまま、「私」という主語を(今も殆どの人が)使用している。常に旧来の日本語視点感覚で(メタ認知としてではなく)「私」を使用する人、常にメタ認知感覚で「私」を使用する人、時と場合によって、日本語視点感覚の「私」とメタ認知感覚の「私」を使い分ける人の3パターンがある。

メタ視点言語しかない西洋においては、まず、インド・ヨーロッパ言語以外の可能性についてニーチェの言及がある。次に、日本語視点感覚の「私」に気づいた哲学者は、デカルト、パスカル、フッサールなどごく少数だったとされるが、しかし、彼らにしても散々苦労したあげく、ついに西洋言語ではこれを説明できなかったのである。

メタ視点は、自分を「モノ化」してしまう。だから「私は存在している」(デカルトの、われ思うゆえにわれ在り、等)という言葉が生まれる。通常の日本語視点感覚では「私は在る」という言葉も感覚も有り得ない。この、有り得ないという感覚すら、欧米の言語価値観に慣れてしまった現代日本人は忘れ去ってしまっているのである。

日常的な日本語視点感覚では、自分を「モノ化」できない。

けれども、日本人にメタ認知が無かったわけではない。世阿弥の能についての考え方や、古典には自分をメタ認知した視座の和歌が数多くある。

現代文明の限界点の超克には、「自分をモノ化しない日本語的視点」、これが一つのポイントになると考えている。

 

 

問題解決でなく希望と憧憬の創造(2)


世界で最も先進的な科学文明を誇っていた西洋であるから、日本人が全面的にそれを是として「信仰状態」になったのは必然で、それは結果的に大成功をもたらした。当時の日本がアジアで唯一、世界の先進国入りを果たせたのは、科学文明のモノ真似よりも、西洋の形而上学的(概念的)な考え方を学び、教育に取り入れた学問的意義が大きい。

「社会」「意識」「経済」「主観」「客観」「義務」「空間」「公立」「計画」「環境」「思想」「民族」「分析」「抽象」「理想」、これらは和製漢語のわずか一部である。言葉がなかっただけでなく概念がなかった。(似た観念があったものもある) こうした概念を組み合わせて思考する、新しい大脳新皮質の誕生的変化が起こった。

明治初期に、どれほどドラスティックな知性革命が日本人を襲ったか、想像を絶する。

これによって日本人の思想的価値観は、古き良き日本道徳の伝統を残しながらも、西洋的価値観へ大きく舵を切った。昭和の敗戦後はアメリカ的価値観を強烈に押しつけられ(アメリカの国家的占領政策であるWGIP。日本人の堕落的洗脳。)、現代の日本人においても、アメリカの価値観に右へならえしようとする「習性」から脱却できていない。

日本人にとって、しかし、欧米の文化や思想、価値観、道徳を学べたことは非常に有意義だった。ところが、この欧米価値観依存によって、前の記事の冒頭に書いた多くの社会問題を抱え込むことになった。

否、日本だけではない。日本が先行しているだけで、他の先進国や東アジアの少子高齢化は進んでおり、先進国国民のニヒリズム(無力感、虚無主義)は世界中に蔓延しだしている。鬱病患者は世界的に増加の一途をたどっている。

なぜそれが欧米価値観依存に原因があると言えるのか。

我々の意識上(観念上)では、人間の「モノ」化、人間の物質化が急速に進んだ。社会を構成する「数」という考え方、政界では「議員」、行政雇用では「公務員」、会社雇用では「社員」、役に立つ人を「人材」と呼ぶ。或いは「学者」「経営者」「作者」などの「者」。ごく一般的で、何の抵抗もなく使用しているこうした言葉は、我々の無意識の深層にこびりついている。「員」は「数」であり、「材」は「役立つ材料」であり、「者」は「物」と同語源である。「自分は数だ」「自分は材料だ」と、もっと言えば「自分は数になりたい」「自分は材料になりたい」と、多くの人々が、自分自身でも自分を「モノ」化し、「モノ」として役に立つことを目指してしまっていることに無自覚なのである。

その上、あらゆる知性のAI化を前に、人間のモノ化は更に加速する。

人間が「人間」を失いつつある。

これは、欧米の「言語(インド・ヨーロッパ言語)」構造と、「一神教的な価値観」に、原因と原理がある。倫理観や道徳観にも大きな影響を与えている。

この原理を超克することなしに、現代の病いの根治は無い。そして、これを乗り越える最も高い可能性を秘めるのが、日本人だと思う。なんとしてもこれを超克し、明治維新の時の「西洋文明からの恩義」に対するささやかな回向と為すことを、日本人の使命として考えてみてはどうだろうか。

次の記事では上記の「原理」から入る。

 

 

問題解決でなく希望と憧憬の創造(1)


2020年が始まった。

現代日本では、少子高齢化問題、長期デフレによる貧困格差問題、政財官民の癒着構造による人心腐敗、犯罪の異質化、鬱など心の病気の増加など、さまざまな社会問題を抱え込んでいる。こうした社会問題にかんし対症療法的に解決しようとする試みは必要である。しかし、対症療法だけでは根治は無い。日本国と日本国民の「体質」を、長期間をかけて改善していく工夫が必要であるのに、根治療法のほうは見事に無視されている。要するに、体質とは国民の人間的欲求であり、欲求に根ざすのは個々人の自己愛(自己保存および利己心の快を求めるもの)であり、自己愛の基盤には価値観が横たわっており、価値観を変えてゆくことが根治療法であって、且つそれは、未来への「希望」や「憧憬」に結びつく。

99%以上の人々は対症療法に熱心なので、そちらの方は大多数の方々に任せ、私は(今までもそうだが)、1%未満の「根治」について考察し続けてゆく。

現代日本を生きる人々の価値観はどのように培われてきたか。これについて深く掘り下げ、その思想的大河の流れの「全体像」を俯瞰することなしに、未来への大きな流れを修整することはできない。

愛国主義者や民族主義者のなかには、戦前と戦後とを分け、戦前の道徳教育の復権が必要であると考えている人も多い。「教育勅語」の復活を望む声は一部政治家からも上がっているようだが、まず、あまりに浅い。明治後期の修身まで遡っても浅い。

そして、少し逸れるけれども、現代の世界的に情報化された社会は、既に「上から与える教育」の時代ではなくなっている。教育では情報が遅く、すぐに古くなってしまうため時代に追いつけない。子どもたちは今後ますます、インターネットを使って自主的に新しい世界基準の学問情報を手に入れ、個々に学び考える。一方、文科省と教育委員会を数年かけて通って、学校の先生から教えられる古びた学問情報は、子どもたちから馬鹿にされる未来がすぐそこに見えている。上の立場から教える「教育」はもう終わっているのだ。「自分は教えることができる上の立場」と思っている多くの大人たち及び教育者は、時代の潮流に鈍感な大いなる勘違いの人たちなのである。必要とされるのは各学問の専門研究者であり、教育者ではない。

 

閑話休題。

本題に戻すと、明治維新直前より日本が取り入れた西洋型(当初はフランスがモデル)の近代教育は、日本人に思想の大転換をもたらした。小中高の学校、大学の制度、細分化された教科、内容を学ぶにも概念言語が少なかったため大量の和製漢語が造られた。子どもたちへの学問は、当時の大人たちにとっても学問となった。歴史的に、それまでは中国から輸入した思想と、そこに日本人らしく改良を加えた思想および学問しかなかった。それが一挙に、まるでオセロゲームのごとく、形而上学を中心とした西洋思想にひっくり返されたのだ。

 

 

principle(4)習得


前の記事では生得について少し触れた。本記事からは、生後まもなくから死の直前までの経験によって獲得されるあらゆることを習得として扱う。

ひとりの人格はどのようにつくられてゆくのか。

人間が意味や価値をものごとに与えるのは、実在客観世界から受容する第一次情報から始まる。私たちの身体も実在客観世界の物質からつくられている。

デカルトは「私は考える」「私は存在している」から始めたが、「私」「考える」「存在」の物質、意味、価値のすべては、言語習得も含め、実在客観世界から始まっている。親が私を誕生させなければ、思考することも私という存在もない。言わば私の全ては客観世界からの借り物でつくられている。いずれ客観世界へ返却されるのである。

習得を考えるとき、客観世界に何が実在しているか、どのようにして実在しているかを第一に分析せねばならない。今思いつくままにその要素を挙げるならば、自分が生まれ育った地域の自然風土、気候、食生活、発音言語(特に文法)、文字、国家、宗教、主要産業、家系、強い影響を与えうる人物たち(親が筆頭)、学問(教育含む)、芸術、政治経済、共同体文化、時事の出来事、多数派の意見、まだほかにもあろう。このひとつひとつの環境要因ついて考察していくことがここでの課題となる。

こうした第一次情報を受容し習慣化していくことで、これらが複雑に組み合わさって無意識のうちに価値観が形成され、その個人なりの解釈と表現が生まれてゆく。解釈と表現は「好む方向(或いは成功体験がある方向)へ無意識が欲求する」ため、その強弱は別として偏向することになる。これが個性だ。

更に、習得に対して生得が干渉している可能性も大であることを忘れてはならない。相当に複雑ではあるが「ひとりの個人」は有限であり無限ではないことを思えば、「個人固有の価値観の生成構造とそのダイナミズムを解明できない筈はない」という探究心と気概だけは持ち続けたい。

 

 

principle(3)生得


生得的は先天的と言い換えることができる。対象となる生物(例えば人間)が生まれながらにもっている性質や個別的気質を表す。生得的の対義語は習得的。

近い意味の言葉に本能があるが、現代の学問上ではこの概念は放棄されている。語義の精微さに欠け、論拠に用いれば思考停止に陥る。哲学的にも既に本能という言葉は使われなくなっている(『岩波哲学思想事典』)。なので本能という言葉は、本サイトではなるべく使用しないことにしている。( 実在と観念 の後段部分)

生得は科学的側面からは遺伝と捉えられる。科学では徐々に解明されつつあるが、その解明を待っているだけでは能がない。また、科学は全能ではなく誤りも犯す。正しいとしても所詮、人類知上の正しさだけでしかない。その点に留意しつつ、一つの参考知見として遺伝学を利用していきたい。

自らの存在を遡り生得を考えるとき、両親、祖先、人類の祖先、生物の祖先、地球、宇宙、宇宙以前、人類知の時間を超える何かというふうに広大無辺な時間軸がある。今回の論考では時間軸で生得を考えるのではなく、切り分けとして生得と習得を扱うことにする。

参考になる哲学の学説として生得観念を認めたプラトン、デカルト、ライプニッツらによるものがまずある。一方、ヒュームらのイギリス経験論者は生得を否定し、真っ白なカンバスに人のすべての生の営みが描かれるとした。カントは超越論的議論によって、アプリオリな感性認識能力が人間には備わっていることを論証しようとした。言語学者のチョムスキーは言語能力に生得がなければ幼児の言語獲得は不可能とした。

心理学者のユングは生得を集合的無意識と位置づけ「太古性」についての議論を深めた。彼の『元型論』では、古代からの神話を人類がどのようにして創作してきたかを論拠として、「アニマ」「グレートマザー」「老賢者」「永遠の少年」「トリックスター」などをモチーフに、生得を普遍的に説明しようとした。

生物学の面では進化論的視点から生得は考察の対象になる。

連綿と継がれてきた学問上において生得は古くからのテーマであり、現代の今もなお、新しいテーマとして考究の対象となっている。

先人たちの主たる学説のすべてを参考として取り込み、無意識の混沌(カオス)状態のなかからのセレンディピティを待ちたいと思っている。今の段階では、生得にかんする独自論考は書けない。

 

 

principle(2)人類知の限界


人間(個体)の本質を探究していく上で、未来において究極の人類知でさえ小さな一部として包摂される、永遠に未知の「〇〇」の世界観を仮設定しておく。人類知を超越した「〇〇」は人類知では対象化できないため人類言語で定義づけることも名づけることも避けねばならない。

人類知は、その究極に至っても鎖に縛られた箱から出ることはかなわない。

なぜ人類知の限界を設定するのかについて言えば、限界を設けることで人類を超え得る可能性を理論に含んだ方が、優れた理論ができるという直観である。現状で理由は明確ではないが、いずれこの設定は生きてくると思っている。この可能性を人類は人類のロジックで否定できない。

人類の自然科学の発展によって地球は自転していることが解り、宇宙誕生は137億年前、太陽系誕生(地球誕生)は46億年前という推定も可能になった。そのような知のない古代では、天地と人を創造した「神」を人類が物語化した。紀元前1000年頃発祥のユダヤ教のヤハウェ、紀元後発祥のキリスト教の三位一体の神、西暦600年頃発祥のイスラム教のアッラーなど。紀元前1500~2500年頃の古代インドにおけるヴェーダ聖典では「宇宙原理」を仮想し「ブラフマン」と呼んだ。それぞれ人類を超えるものを設定し宗教として信仰した。しかし、いずれも人類が対象化した観念である。

私に言えるのは「人類知には限界があり、一部として包摂される」ということだけで、何によって包摂されるのかについては対象化もできないし言及もできない。

他の人にはスッキリしないかもしれないが、これは独自の理論を展開し創造してゆくための個人的な設定である。別の言いかたをするならば、未来に究極まで発展した人類知の、「封印」を可能にした。

 

 

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