『愛するということ』―2


フロムの愛する技術は、知→尊重→責任→配慮という4要素の流れによるものだった。私は流れではなく、3要素を技術として独立させ考えてみようと思う。

相手をよく知ることは大切だ。しかしよく知らなくても尊重はできるだろう。また、責任についても尊重の範囲内に収まると考える。配慮にかんしては実践であるので単体の要素としたほうが解りやすい。

よって、まず第一に「尊重」を技術としてとらえ、その内容を吟味していく。第二に「配慮」という技術についての吟味。最後に私なりに考えた、愛することに欠くべからざる要素ではないかと思う第三の技術を提示したい。では、「尊重する」から始めていこう。

 

1.尊重する

相手をひとりの人間として捉えるときの価値は、私と同等の価値であることをまず考える。同じひとつの生命であり、私が誕生から死まで多様な人生を歩み生を終えること、それは、相手にも同等の「自分の生の大切さ」があるということを、少しの疑いもなく完全に認めることから尊重は始まる。

私が私の生命と人生がたった一度きりのかけがえのないものと考えることと同じように、相手のそれも相手にとってかけがえのないものである。私が唯一無二の存在であると同じように、相手も唯一無二の存在であり、他の誰かに代替することなどできない人である。このことは、失って初めて気づくことがある。或いは失ってその重みにあらためて気づく。

第一段階の、自分と同等に相手を尊重するという技術は、相手に対峙して磨くものではない。独りで磨くものだ。まず、自分自身がたった一度きりの生を歩む一人の人であるということを脳髄にまで叩きこむ。それには習練が必要だ。これを私は正しい自己愛と定義づける。正しい自己愛ができてこそ、正しい他者愛ができると考える。

第二に、正しく自己を愛するには、正しく自分自身を知らなければならない。自分をよく知るには自分について高い関心を抱かねばならない。この方法は他者にたいしてもそっくりそのまま援用できる。相手に対する高い関心が必要だ。

では自分の、或いは相手の、「何に対して」の関心が必要なのか。ここは重要部分であると思う。尊重に限らずすべての技術において「何に対して」つまり「詳細な対象」は何か。これについては三つの技術の内容をつまびらかにしたのちに書くことにする。既に「対象」は私のロジックの中で細分化され明確になっている。

さて、第三段階の尊重は「信じる」という大きなテーマになる。

真実であること、虚偽ではないことを信じるといった表面的で些細なことではない。むしろ、仮に嘘をつかれてもそんなことでは微動だにしない「信じる」がある。

ひとつは「人間のこころ」そのものを信じる。いや人間に限ったことではない。犬や猫のペットを想像してみてほしい。彼らは人間の言葉を使えないから真偽はわからない。しかし彼らには「こころ」があって、飼い主はその「こころ」を信じてはいないか。一点の曇りもなく全面的に信じてはいないか。ペットの「こころ」を信じることで、ペットの方も飼い主の「こころ」を信じているのではないか。私にはそう思える。否、そうとしか思えない。

科学的な証明はできない。しかし、非言語的に信じることの相互作用は、人間同士にも存在すると私は考えている。

次に、可能性を信じる。自分の可能性を信じることに長ければ、相手の可能性を信じることは自然にできる。何の可能性かについては後述する「対象」に。また、可能性には実現可能性と潜在可能性とがあり、これは先日のコラム【可能性主義論を提唱する準備として】に書いたとおり。

ひとつめの技能「尊重する」だけでも、以上のように範囲は広い。今考えつくままに書いたものであるので、他の尊重もあるにちがいない。

尊重するという態度は技術として磨くことができる。

 

 

『愛するということ』―1


世界的にロングセラーとなっているエーリッヒ・フロム著『愛するということ』を数年間にわたって何度か読み返してきましたが、今回は「愛する」よりも「技術」に焦点をあてて考えています。

原著のタイトルは『THE ART OF LOVING』で、直訳すれば「愛することの技術」です。「技術」を表す英単語は他に [technique] [skill] があり狭義では [technology] も入りそうです。本書タイトルで著者は [art] を用いています。

[skill] に関していえば、個人に内在する技能そのものを表し、主に仕事上でのことに使用されるので適切ではないのかもしれません。では [technique] と [art] はどこが違うのか。テクニックは方法や手順であり、主に身体性や知性を用いる際に使うのかなと幾つかの辞典を調べていて思いました。[art] は感性や心を使って何かを産みだす技能という語感かなと。あくまで個人的な語感印象ですが。
ちなみに参考にした辞典は、大修館書店『ジーニアス英和大辞典』、小学館『ランダムハウス英和大辞典 第2版』、研究社『新英和大辞典 第6版』、研究社『英語語源大辞典』です。

本文内容には、[technique] や [skill] と表現してもよい意味内容で技術という言葉が使われている箇所が幾つもあります。原文でどうなっているかわかりませんが。

本論考では、それら英語的意味の区別は枝葉の部分だと思うので横に措き、すべての「技術」の語義を日本語的に分解して捉え、愛する根幹の技術を考えてみたいと思います。

 

まず、本書第2章「愛の理論」p48 から引用します。

愛の能動的性質を示しているのは、与えるという要素だけではない。あらゆる形の愛に共通して、かならずいくつかの基本的な要素が見られるという事実にも、愛の能動的性質があらわれている。その要素とは、配慮、責任、尊重、知である。(紀伊国屋書店 鈴木晶訳 エーリッヒ・フロム著『愛するということ』1991年新訳版)

要素の指摘は重要部分です。愛することの技術はこの4点だと言っているに等しいからです。理論的には、この4要素レベルの高低で愛する技術の優劣が定まるとフロムは考えたのだと私は解釈しました。

配慮とは、子どもに対する母の愛のように、愛する者の生命と成長を積極的に気にかけることであり、愛の本質はそのために働くことであり育てることであると述べています。

責任とは、愛する者から求められた時に私が応じることであり、応じる用意が事前にあるという意味で、身体的または精神的に相手から求められればそれに応じることだと述べています。

尊重とは、相手が唯一無二の存在であることを知る能力であり、私のためや私の仕方ではなく、その人なりの仕方で成長することを望むことで、それには私の独立性が必要であると述べています。

知とは、気遣いすることを動機として相手をよく知ることであり、現象としての状態を洞察し知ることでもあり、更に掘り下げ相手と融合して知るというレトリックまで使っています。

最後の知にはより多くのページが割かれているので、精神分析学に携わったフロムが最も言及したかった部分のように感じました。

4要素の一連の文脈は、配慮には責任が必要であり、責任には尊重が必要であり、尊重には知が必要であると。これを順に戻すと、まず知ることで尊重する準備が整い、尊重することで責任を負う準備が整い、責任を感じることで配慮することができるという、知から始まり配慮が行われるというロジックだと解釈しました。

以上は本書内容の重点部分にかんする私の解釈であり、私の意見・考察ではありません。

次の稿では、フロムの理論を参考にしながら私の論考を書いていきます。

 

 

可能性主義論を提唱する準備として


4月10日よりこのサイトで私が主張していく主旨が「哲学論」に変わったわけですが、個人的な価値観、信条や生きかたの美学の建設をやめたわけではなく、第二の目的として、こちらの探究と研鑽、創造も今まで以上に行ってゆく決意です。

その中核としたい新しい価値観が可能性主義です。

可能性という概念についての哲学的探究が基盤となりますが、最終的に建設された姿を想像するに、哲学理論には成り得ず思想的なものになることが予想されます。何故かというと、可能性主義を「正」の論とすることになるからです。普遍的な理論ではなく個人的な価値観として提唱していく予定です。

まず可能性主義の、いちおうの、海図を作らねばなりません。海図で目的地を目指すということではなく、海図をアップデートしていくことで海図そのものが可能主義論になるイメージなのですが。

ひとくちに「可能性」と言っても、possibility の実現可能性は未来へ開かれているそのイメージをもつもので、potential の潜在可能性は内蔵(埋蔵)されているイメージをもちますし、probability という蓋然性は今回のテーマからは外れます。

或いは、近代から現代にかけてのプラグマティズムの哲学者らが唱えた可謬主義 fallibilism  にも言及しなくてはなりませんし、そうなると全体性理論 holism にも少し足を踏み入れなければならなくなります。

偶然性の問題も発生します。
「実現可能性」に内在する自由と秩序の問題も垣間見えます。
「潜在可能性」はロジックにならないのでは?とさえ今は思います。

過去について可能性を考察することの意義。未来について可能性を推測し良い方向へ可能性を広げるにはどうしたら良いのかとか。「時間」とのかかわりもあります。

なによりも、その可能性は自分(当事者)にとって良いことか悪いことか。社会にとっての善悪はどうか。起きたことを幸運と不運という「運」で測る方法について。可能性を考える際に生じる心の様相としての「うきうき」と「不安」。これら正負の相対的価値における「可能性」概念の考察は思想になり得るのか、今は未だわかりません。

そうした諸々の難問をどのようにクリアにし、地下1万メートルにまで届く杭を何本も打ち込んでいく作業は困難を極めそうですが、同時にわくわく感が抑えようがないほど楽しい知的活動です。これも可能性の一つですね。

単にふわっとした「自己と人間の可能性を信じる」「人間には無限の可能性がある」を唱えるだけの雰囲気的なスローガンは、直截に言えば私の趣味には合いません。地中の基礎部分をしっかり固めた理論でなければ、少しの強風ですぐに吹き飛んでしまい、あとかたもなくなります。

こうして書きながら、おおまかな「第一次海図」が頭の中にはイメージ出来てきたかなという感じです。

ビジョンとしては、理論の土台をしっかり築き最終的な海図を示して、「常に可能性をイメージすることには正の価値がある」という思想を提唱したい。

 

 

「和熟」―― 折り合うということ


他人に共感を覚える。このことが始まりとなって友人となったり恋が芽生えたりすることもある。なぜ私たちは共感するのか。或いは共感できないのか。そして共感することは良いことなのか。また、共感できずに友人を遠ざけてしまったことはないだろうか。

自分の認識は真実であり正しい。自分の価値付与は善であり正しい。

なるほど、正しいことには皆が共感すべきであるということか。ではその認識に誤謬はないのか、価値付与を行った価値観は相対的であって時代や場面によっては価値がひっくり返ることは歴史を振り返れば山ほどある。そう考えてみると、正しいと判断する根拠の土台はそう盤石ではない。なのにひとつの正しさを押しつけようとするのは何故だろうか。

更に厄介なことに、正しいことには社会秩序と個人の自由がからむ。

同じ国民でさえ、いや、同じ同居家族でさえ、価値観や欲求が異なり喧嘩になることがいくらでもあるのに、文化習俗や価値観、社会秩序、主義、個人の自由度が異なる国家の人たちと100%共感し合えるわけはない。

互いに激しく対立し争う前に、折り合おうとする知恵が現代人の私たちにはあるのだと思う。そう信じたい。

折り合いをつけるとは、『大言海』の言葉を借りれば「相互に和熟す」ることである。「和熟」という言葉を知らなくても漢字の語感で、どういうことかを感じることができる。特に「熟」。

互いに譲り合って歩みよること、そうして折り合いを意識する精神が常在している成熟した社会であれば、決定的対立や争いになる前に「和らぎ」がもたらされるはずで、第三者はすすんで仲裁に入るものだと思うがどうだろうか。

行き過ぎた個人主義や行き過ぎたナショナリズムは、「和熟への努力」を忘れ、自らの利益国益を譲らない損得勘定主義や、すぐに法廷に持ち込み裁判をしようとする法依存主義に陥る。要するに複雑さから逃れようとしている。頭脳もこころも劣化してしまうのに。

「人間の」知恵とこころの努力によって良質な社会が育まれることを心から望む。

 

 

無意識の調律(2)


暗中模索のまま進む「無意識の調律」ですが、調律を行うのはあくまで無意識であって、意識上の私はそのサポートをするしかない。意図的な調律はできない。

意識上に生じる「私」は私全体の主人公ではないのだ。

私全体の主人公は無意識であり、意識は無意識の出先機関のようなもの。これを意識上の私が感覚にまで落としこめるかどうか。無意識が主人公であることを頭でわかるだけでなく感覚にまで。

無意識の定義が必要かなと思う。

ざっくり言えば、意識活動以外のすべてが無意識である。私の肉体も無意識の領域にある。意識上では感覚もできず動きを変えることもできない胃や腸、肝臓などの臓器、消化器、すべての神経、ホルモン物質、記憶、価値観、生理現象、生命の生死にいたるまで、すべてが無意識の領域にある。

意識も無意識の範疇と言えるのかもしれない。

一生命体の全体の本質が無意識なのだ。

 

無意識の調律(1)


「無意識の“調律”」をライフワークにしていこうと思う。

科学にはならないとは思うけれど、普遍的な何かを目指してみよう。

“調律”することが「良い」のではない。「良い」は“調律”のなかに含まれなければならない。この点は哲学的な精確さを追求する。“調律”の意義があるとすれば、進めながら発見できるのかもしれない。要は私の好奇心というだけなのだが。

論理を組み立て常に考察し、実験してゆく。

実験体は自分自身である。

例えば、現代人の多くは「柔軟な思考がよい」という価値評価を下すことが多い。それはそれでいい。私も柔軟さはよいと思う。しかし剛直さもよいと思う。この二つは、同時に成立し得ない。対立する価値は世界にやまほどあるが、同時に成立し得ないがために、「私はこっち。あなたはどっち?」というふうに、どちらかの価値を「正しい」として定立させようとする。私はこれを定立させず常に留保状態とし、そのたびごとに無意識に決定してもらおうと思う。そのための“調律”である。

上記の例で柔軟性と剛直性を価値均等に併存させるために、例えば、老荘、淮南子から柔軟性を学び、一方で葉隠の武士道から剛直性を学ぶというふうに。

理性と野生、知性、感性、情感、それぞれをどのように活性化させていくか、どのような交響曲を無意識が奏でるようになるかのベースは、“調律”のアートにある。

 

 

〈自然〉について改めて考えてみる(2)


〈自然〉について考察するということは、「生きる」ことについて考察することとほぼ同じだと思います。なぜ人は生きるのか。

「生くる目的は生くること也」

前回のコラムで野口晴哉氏の言葉を引用しましたが、この一文をどのように解釈すれば良いのか。その次の段落で彼が述べているとおり、ヒントは〈自然〉を知ることにあります。

ところで、私たちは昭和以降の教育を受けています。それ以前、明治維新を契機として教育の大改革が起こりました。全面的にヨーロッパの学問と教育システムを日本は採り入れました。その際に Nature の訳として「自然」があてられました。ですので、私たち現代日本人は「自然」を Nature の語義として捉えています。

それまで Nature の意味で使用していたのは「森羅万象」「天地万物」「造化」などの言葉でした。〈自然〉は「自然な」「自然に」というふうに、主に形容詞と副詞として使われており、語義が異なりました。

明治までの千年以上の長いあいだ、私たち日本人が〈自然〉として扱ってきたのは、「自然体で」とか「不自然な感じがする」などに使われる〈自然〉です。

もともとの「自然」という漢字は、紀元前500年頃、中国の『老子』第二十三章に「希言自然」、同二十五章に「道法自然」の言葉がありますので、中国から「自然」(発音はシゼンではありませんが)という漢字が(中国における)意味を伴って日本に入ってきたわけです。中国の「自然」については稿を改め、後日書こうと思います。

平安末期の辞書『名義抄』(観智院本)には「自然 ヲノヅカラ」とあり、すでに『万葉集』でも「おのずから」と訓まれていたと思われる。

(ペリカン者版 相良亨著『日本の思想』)

 

「自然な」の読みかたは「おのずからな」であり、「自然に」は「おのずからに」と読んでいたわけです。つまるところ、冒頭に引用した野口氏の文脈に沿っていえば、「生きる目的は生きること」を解釈するために〈自然〉を知ることが必要で、それは〈おのずから〉を知ることと同義ということです。
ただし、これはあくまで野口氏の生命論ではあるのですが。

〈おのずから〉を古典辞典で調べます。

【おのづから】
オノは、代名詞のオノ(己)。ツは、上代に用いられた、体言と体言とを関係づける連帯格の格助詞。カラは「族・柄」で、生まれつきの意。よって、物事がもともとのそのままが原義。そこから、ひとりでに、たまたま、万一などの意が派生する。

(角川書店版 大野晋編纂『古典基礎語辞典』)

※現代語の「自ずから」には、〔おのずから〕〔みずから〕という、ふたとおりの読みかたがあります。〔ミヅカラ〕は「身ツカラ」が語源で、〔オノヅカラ〕から時代が少し下った平安時代から使われだしたと同辞典にあります。語釈は自分、自分自身で、主に一人称の名詞として使われていたようです。

 

〈おのずから〉の意味するところは、自発的(内発的)に、それ自身(その人自身)あるがままに成り行きで、意識的でなく無意識的な発露によって、必然でなく偶然に、という感じです。同辞典の同項目の語釈には「成り行きで」が二度登場しています。

次の断想は少々時間を置いて、この「成り行き」について考察したいと思っています。とても大切な〈自然〉の動きで、実は、日本人の特質が(今も)ここにあるようです。

 

 

〈自然〉について改めて考えてみる(1)


『気流の鳴る音』を読んでからというもの、すっかり見田宗介氏のファンです。著作集を揃えるほどです(笑) 同書は真木悠介のペンネームで書かれた本なのですが、なんていいますか、見田氏と「志向性」がぴったり合っていることに驚きました。興味を持つ方向性が同じという感じです。

見田宗介著作集第10巻に『晴風万里』という短編の論考があります。ここで語られているのは整体の世界で最も有名な野口晴哉氏のこと。内容については省きますが、見田氏の薦める本として野口晴哉著『治療の書』を挙げています。

それはいくつかのわたしにとって最も大切な書物と同じに、「分類不能の書」、野口晴哉の『治療の書』としかいいようのない孤峰の書である。

(岩波書店版 見田宗介著『晴風万里』)

 

ということで野口晴哉著『治療の書』を入手しました。本の内容量は少ないのですが、装丁のクオリティーが高い本で一生モノになりそうです。文章が昭和前期の文語体なので、私にはスラスラとは読めませんが、逆にゆっくり読むことで一語一語の重みを感じています。

一部を引用します。

人もともと目的なく生れたり。生れし後、いろいろと目的たてる人あれど この目的 人の生くる為の便宜也。生くる真の目的に非ずして、生くる目的は生くること也。

生くることの何なるか 人知らず  たゞ自然之を知る也。太陽の輝くも空の蒼く見ゆるも 人何の故か知らず。人の何の故に在るか  人知らず。たゞ生れたが故に生きんとする也。生くるを全うすること大切也。

(全生社版 野口晴哉著『治療の書』)

 

私はこの一文だけでもう、この本を買った価値があったと思いました。野口氏の「治療」の根本には、〈自然〉があります。同書には一貫してこの「思想」が散りばめられているようです。まだ飛び飛びに一部しか読めていませんが。

見田氏と野口氏が共有している〈自然〉についての価値観は、西洋近代の「自然」とは全く異なります。私もお二人と同じ価値観を共有する仲間です。

そこで改めて、日本思想の〈自然〉を、西洋近代の「自然」や中国思想の「自然」と比較しつつ、深掘りしてみようと思いたちました。どのように展開できるかは未定ですが、成り行きで、それこそ〈自然に〉考えてゆこうと思います。

参考テキストとして、倫理学者の相良亨氏が最後まで研究し続けた「おのずから形而上学」について、ある程度まとめられた書『日本の思想―理・自然・道・天・心・伝統―』から、まず学びます。この本を読み解きつつ、〈自然〉について考え、何かを書き綴ってみようと思います。

この一冊でおなかいっぱいになってしまうかもしれませんが、丸山眞男『歴史意識の「古層」』、溝口雄三『中国思想のエッセンス』、『岩波講座 日本の思想 第四巻 自然と人為』などの本にも触れていきたいと構想しています。

 

 

言語でなく「感じ」で考える


今日は、というよりいつもそうですけど、真面目な話題ですね。倫理とか道徳とかについてを原理的に考察中で、その備忘録でもあるんですが。

その前に、私は言語を使用しないで考えることが多いんですよ。もちろん言語を使用して考えることもあります。で、言語を使用しないで考えるってどういうこと?って感じでよくわからない人がけっこういて、この説明を言語でするってのもなんか変って感じなんですが。

言語を“感じ”にいったん自動変換して、「感じ」で考えてるんです。考えてそれを他者に伝えたりこうしてここに書いたりするときに「感じ」を言語に再変換しているわけですね。だから私の平易な文章やリアル会話では、「こんな感じ」が多い、かもしれない(笑)だって言語表現は(私にとって)相当めんどくさいことで、言語に直すと「感じ」が劣化してしまうし、誤解を与え、その誤解を解くのにまた言語でひと苦労する。「こんな感じ」という表現だと幅と深さができるから便利なんですね。

そんな感じなので(笑)、でも、「感じ」で考えるってどんな感じ?ってことを、いま考察中の倫理と道徳、そして情意を使って表してみます。

以下は、この数日間で深掘りしたそれぞれの「感じ」です。

〇 倫理の「感じ」

道徳のアレンジ、理性的、社会的判断、個人的判断、相互の関係、柔軟、複雑、時代や環境によって変化、相手と社会と自分を考えて妥協する、道徳の原理を考える倫理学、一方通行ではない、思考する技術が必要、民事、生命倫理、社会倫理、これらの複合化イメージ。

〇 道徳の「感じ」

情意のアレンジ、モラル、子どもに教える、個人の規範、固定的、命令的、相手を選ばない、どんな相手にも、人工知能でも可能、宗教教義、前提に社会善がある、画一的、正しい、義務、すべき、習俗、因襲、道徳の一部の悪は法で裁く、これらの複合化イメージ。

〇 情意の「感じ」

心のままに、まごころ、純粋な思いやり、思考しない、人情、仁、無意識的、本音、社会的でない、おのずから、内発的、理屈じゃない、清きこころ、未熟または老熟の両極致、純真、純愛、言葉にならない、心意気、至情、至誠、直きこころ、これらの複合化イメージ。

こんな「感じ」で数学で言えば変数のまま数字にしないで、他のさまざまな変数を組み合わせて連立方程式を組んで法則や構造、原理を考える、ってのが私の主な思考スタイルなんですね。そもそも言語の発明はもともとの広大で複雑なイメージを言語の意味という狭い範囲に限定し単純化して伝えるためのもので、「初めに言語ありき」ではなく「初めにイメージありき」だというのが私の原理感覚です。

倫理、道徳、情意(この言葉を選択していますが他の言葉でもOK)、これら言語の本質は「倫理とは何か」にはなく、「倫理というイメージ」を使ってほかのことを考える、連立方程式を考える、そのために存在しているのであって、なので「自分のイメージで“感じ”という固定化されない定義」でよい、他者と違ってもぜんぜんよい、というかそうあるべきだとさえ思う。ただし他者とコミュニケーションをとるときには概念をなるべく共有しないとならないんですが。まあそれも無意識内で自然に調整していると思います。

というわけで、倫理その他について考察中の現段階では、もともと人間は情意があってそれを道徳へと発展させた。しかし道徳だけでは不十分で倫理へと発展させた。

そして倫理について十分に理解を深めたあとは、その倫理が、無意識の情意としておのずとあらわれることによって、他者もおのずとまごころでそれを受け止める。それでこそ人間どうしというものではないかと、こんなふうに今考えているわけです。

情意を言語化して教えるようになると道徳化が始まってしまう。もちろん子どもにはその順序が必要かもしれませんね。情意、守(道徳)、破(倫理)、離(アップデートされた情意)のようなイメージで。

 

今日のコラム内容は、「感じ」や思考感覚を共有できない人の方が圧倒的に多いでしょう。何言ってるかわかんないかも。共感してくれる人は僅かにいる。私の経験上。ですので、もしいつか、ああなんか昔、あんなこと言っていた人がいたなあ~って思いだしてもらえることがあれば僥倖と思います。

 

 

店名公表について


今夜二本目でございます。みなさんいかがお過ごしでしょうか。緊急事態宣言前夜ですぜ。祝杯でもあげますか。え?そんな気分じゃないぞって?おこらんといてください(笑)

さて、飲食店に発令される、おまえらこの時間以降に店あけてたら店名公表すんぞ!という罰則についてですがな。法改正が必要かどうかはあたしにゃわからんので明日からすぐの実効性があるかどうかは知りませんけど。

これってどうなん?脅しだよね、明らかな。

法的に強い罰則を現状与えられないので、違反したら店名公表するぞ、民間自粛警察にフルボッコにされるぞおまえらって、感じ悪いのぉ~~。

だってこれは民間リンチを利用しての脅迫にほかならないじゃん。

これを現代の公的立場の政治家が堂々とやるってほんま信じられんのだが。

要請を守んない店舗は店名晒されてあたりまえって、悪者あつかいする民間人もたくさんいるわけだけど、そりゃまあ気持ちはわからんでもないよ。でもさ、政治家がやったらあかんでしょ。

裁判で社会的制裁を受けたから減刑するというのは結果にたいしてであって、ハナから社会的制裁を民間リンチによって与える、あるいはそれを脅しに使うというのは、政治家がじぶんらの統治力や指導力のなさについてみずからパンツ脱いじゃってる感じで、ばっかじゃねーのって感じなんすけど(笑)

法整備して罰則をつくるにせよ、法に頼るってのは政治家の政治能力の無能さを示しているんだよ。いっちょまえに政治家を名乗るんなら、国民に説諭して国民がそれに納得してとなって初めて政治家としての価値があるんすよ。

法というのは最終手段で、法に頼らなくても国民の自主自律によって共同体秩序を形成していく、ここを志向していくのが政治でしょ。自粛警察は他律の強要やからね、民間リンチは自主自律じゃないし。

ってわけで、店名公表すんぞ!のタチの悪さを指摘しておきましたが、それはともかく、特に首都圏の医療関係の現場がたいへんなことになっているのでね、ここはなんとか皆で力を合わせて乗り切っていきましょう!

最後はあたしゃめっちゃ善人やん。あかんなあ。はずいから消す、消す、ぜったい後から消す、最後の一文だけでも消す(笑)

 

 

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