人は二度死ぬ。


タイトルの「人」を「私」に替えてみるほうがわかりやすいかもしれない。

この言葉は、私が肉体的に死ぬことがひとつ。こちらについては説明不要だろう。

もうひとつは、生前に在った私の生々しい姿を知る人が全員死ぬこと。後者は、著名で世に知られているとか、後世に名が残って知られるとか、映像や書物を遺して知られるとか、それらは含まない。あくまで、生前の私を身近に感じていて、私が生を営んでいる姿を知っていた人々を指す。生々しい私の現実の物語を記憶にとどめている人に限られる。具体例を挙げれば、娘や息子、親族、親友、少し範囲を広げれば、直接的に接して影響を与えた人も含んでよいのかもしれない。

彼らのなかに、私が存在として残されるというのは哲学的にどういうことか、という断想。

生きている私を今、良く知っている人がいるとしよう。子でも親友でもいい。彼らの内面にどのように私が存在しているか。それは、彼ら自身の観念世界に、彼らが意味と価値と感情の物語(小世界)をつくり、そこに私が登場人物として現象しているということである。ここでの「現象」は実在世界ではなく観念世界への現象を指す。ありありとした生々しい私が、他者の観念世界内に「存在」しているわけだ。

ここまで書けばもう誰にでもわかる。説明不要かもしれない。上記の観念世界内への現象を「相」として捉えてみよう。
私が生きていようと、仮に亡くなったとしても、彼らの観念世界内には「過去の」生々しい私が、生きている時と《同じ「相」》で存在し続けるのである。

更にわかりやすく、逆の立場に替えて考えてみよう。私の親友が南米のボリビアへ転居し暮らしているとしよう。既に20年が経ち一度も会えないでいる。彼が生きていることは知っている。しかしある日、突然の訃報が届き彼の死を私は聞く。何が変わったのかについて考えてみよう。もう二度と会えない。電話やメールでの対話もできない。この世にもはや存在していない。実在の物質的なことはそのとおりである。

しかし「存在」そのものについて言えば、私の記憶から消えない限り彼は、私の観念世界内に存在し現象し続けている。私たち人間が意味を付け、価値を付与し感情を与えているのは観念世界内に起きている現象にであって、実在世界へ直接にではない。間接的に、主体(私)の観念世界を外部の実在世界へ投影しているというのが、人間を含む生物の本質的な認識原理である。その原理にしたがえば、彼の生死にかかわらず、実在世界では会えなくても観念世界ではいつでも会える「現象的存在」である。

私が十歳の時に亡くなった母は、彼女が生きている時と《同じ「相」》で私の観念世界内に「現象的存在」として生き続けている。これは実感として確かなことだと言える。

*****

観念世界の物語をどのように創作するのかは、その人のイマジネーションの力量に委ねられる。個人差が大きいかもしれない。あらゆる意味で、この創作活動が人間の幸不幸を左右したり、生きがいを与えたりする原動力になっていると言えはしないか。

「人は二度死ぬ。」この言葉の価値について表層だけをとらえて終わらせるのではなく、他者の観念世界内に生きている自分と、自分の観念世界内に生きている親しい他者(生死を問わず)のこと、それぞれの「物語の創作」に焦点を当て想いを巡らせれば、人生はより意義深いものとなるように思う。

 

 

 

山紫水明


風に夏の終わりを感じ始める。古典文学を見れば一目瞭然だが、日本人は大自然と親和的であり心を重ねる文化がある。

風流という言葉がある。語源は中国語で「古代美風・伝流」で美しい風のような人間の情操や行動の立派さを表すものとのこと。そこから語義が変転し、雅やかで俗っぽくないことを言うようになったという。風雅。

私は大自然の中に風流を感じることがある。秋は特に。

ところで。

子どもたちが哲学的探究心によって、例えば「考えるってどういうこと?」を自分の頭で考えられるような、そういう物語を創作することについて、8月8日の断想記事『物語化』と8月12日の断想記事『神話』に書いた。神話のような世界観にしようと考えているが、そこに大自然の花鳥風月や山紫水明の雰囲気を加えたいと思う。主人公の子どもが神々に会いに行く、その道程には大自然の情景。

いわゆる純文学のように、人間の内面における自己対話を描いたり、主人公の繊細な心情を読者の心のひだに絡めるような感性と文章力は私にはない。志向の指向が内向へ向く人ならば、心の内面の動きを描くことは得意なのだろうけれど、私はあいにく外向的であるから難しい。他方、例えば宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』のようなファンタジーの世界観を描くことはできる。楽しい。

花鳥風月や山紫水明の”感じ”は、日本らしくていいんじゃないかと思う。この物語コンテンツをインターネット上のどこに公開するのかは全然未定なんだけども、言語は英語でいこうと計画している。英語の次はスペイン語フランス語と中国簡体字。日本語はそのあとにしようと。もちろん原文は日本語で創作し、それを英訳するわけだけどね。

物語化構想のほうも、並行していい感じになってきた。

 

 

メロディー創作


哲学ばかりやっていると、つまり、情緒を伴わない理性ばかりを使っていると、俺の体に何が起きると思う?心が乾いてくるんだよ。この心が乾く感覚は誰かと共有できるのかな。できないかもしれない。だから俺が「心が乾く」と言ったって誰にもその乾く感覚は共有できないのだと思う。少なくともそのクオリアは他者とは共有できない。

いや、共有どうのこうのはまた頭の理性のみをつかってるじゃないか。

話を変えよう。何の話をしようか。

そう、子どものときにギターを使って作曲をしていた話なんかどうかな。他人が描く俺のイメージに合わないかもしれないが、まあ、イメージ壊してすまん。許せ。確か小学校1年生まではピアノの教室へ行かされていて音楽には早くから接していたんだな。でも女の子ばかりのなかで習うことが恥ずかしくなってやめちゃった。言っとくけど俺の両親は借家暮らしで母が美容院をやっていて父はそれを手伝っていて、そんな裕福でもなくお坊ちゃんでもなかった。母が芸術の方向へ俺を向けたかったみたい。当時のピアノの月謝は安かったようだしね。

前置きが長いっちゅうねん。

ギターはコードの進行ができれば、ギターが弾けるって言えるのかも。だから最初にコードを覚えていったわけね。で、その子どもの頃のコードの印象は、いまだに自分のなかにカラーのクオリアとして残ってる。それを書いてみよう。

Cコードはホワイト、Dコードはイエロー、Eコードはグリーン、Fコードはブルー、Gコードはブラウン、Aコードはレッド、Bコードはバイオレット。

メジャーコードは鮮やかなカラーで、マイナーコードは黒を混ぜた感じになるかな。そんなカラーのイメージが俺にはあって、作曲で好きだったコードは、メインがB-minor(青めのバイオレット)でサブがE-minor(濃いグリーン)の感じ。そこからA-major(ビビッドな赤)に転調したりね。フランス映画のテーマソングに使われていた、B-minorのメロディーに全身が痺れる感動の原体験があったんだ。

だからね、例えば、C-majorとF-majorで構成されるハ長調の曲なんかは、ホワイトとブルーの明るく爽やかなクオリアが私にはある。そこにアクセントでG-7の焦げ茶が混ざったりね。

作曲で特に意識していたのは、大自然の情景。たとえばロシアの広大な大地に降る雪と針葉樹林、深くどこまでも透き通ったバイカル湖の湖面、その感じをメロディー化した。或いはドイツのライン川をモティーフにワインレッドのイメージの曲を創ったり、中東の砂漠とアラビアンナイトをモティーフにイエローとバイオレットのイメージの曲を創ったり。現地には行ったことないけれど、旅行代理店へ行き(笑)、パンフレットをもらってきてイメージを膨らませてた。行ったら行ったでイメージが壊れるから行かないほうがよいのかもね。小説が実写化されてがっかりするときがあるよね。小説は小説のままで、みたいな。初恋の人には大人になって二度と会わずにイメージそのままにとか。あ、これは少しちゃうか(笑)

作曲はまったくの自己満足で、歌詞もないし、誰かに聞いてもらうこともない。でも、たしか中学の音楽の授業で生徒に作曲の宿題が出て、そのときは歌詞も付けた。音楽の先生が授業中にクラスのみんなの前で、俺の作ったB-minor調の単純な楽譜をピアノでめちゃめちゃアレンジして壮大に演奏したもんだから、みんなぽかんとしてた。「え?え?」って感じに驚かせることができておもしろかった。作曲した曲は山ほどあったけれど他の人に表現したのはそのとき一回こっきり。

時間があれば、ギターを買ってきて数十年ぶりに作曲してみるのもいいかな。

自動生成AIにやってもらえばきっといい曲ができるんだろうけど、創作するよろこびはそれとは違うしね。作曲を自分でやって編曲を音楽系AIにやってもらうといいかもしれない。

今日は夜の感性モードの話を書いて少しは俺の心の乾きを湿らせることができたかな。本当はね、日本の悲哀の情緒について書ければ、体中にあふれるくらいの水分でいっぱいになるんだけどさ。思い浮かんだのが音楽のほうだったから。情緒的なお話を書くのはまたこんどね。

 

 

神話


8月8日の断想記事『物語化』で述べたように、私の哲学独創と美学建設の最終表現目標は、哲学と美学の小説創作にある。そのストーリーテリングの構想は、まだ白紙のままだ。どのような世界観にするのか。どのようなキャラクターを主人公にするのか。どのようなストーリー内容にするのか。幸いにして「何を伝えるのか」の内容は、哲学独創と美学建設によって尽きることは無い。

ふと思いついたのだが、「神話」の世界観はどうだろうか。

以下に、備忘録を兼ねて「神話」について、辞書と事典から引用する。


現実の生活とそれをとりまく世界の事物の起源や存在論的な意味を象徴的に説く説話。神をはじめとする超自然的存在や文化的英雄による原初の創造的な出来事・行為によって展開され、社会の価値・規範とそれとの葛藤を主題とする。(広辞苑 第六版)

古くから人々の間に語り継がれている、神を中心とした物語。宇宙・人間・文化の起源などを超自然的存在の関与の結果として基礎づけ、説明した話。神聖な真実として信じられ、日常生活の規範として機能することもある。人間の思惟や行動を非合理的に拘束し、左右する理念や固定観念。(大辞林 第三版)

宇宙・人間・動植物・文化などの起源・創造などを始めとする自然・社会現象を超自然的存在(神)や英雄などと関連させて説く説話。実態は明らかでないのに、長いあいだ人々によって絶対のものと信じこまれ、賞賛や畏怖の目で見られてきた事柄。(大辞泉)

【人間と神話】ホモ・サピエンスとして地上に出現として以来、人間は、いつの時代どこの場所でも必ず神話を持ち、それによって世界や人間や文化の起源を説明し、神話が提供する範例に従って、社会を組織し生活することを続けてきた。他の生物はすべて、本能に従って自然に生きているので、生き方の意味や理由を説明し、自分たちに納得させる必要はない。ところが人間の文化は、本能に従ったものではなく、どれも自然から明らかに逸脱している。だから人間は、それぞれの文化で行われている、どれも反自然的な制度や習俗が、なぜ必要で尊ばれ守らなければならぬかを説明する神話を持たずには、文化を維持していくことが、そもそもできない。フランスの大神話学者だったデュメジルはそのことを、「神話を持たぬ民族がもしあれば、それはすでに生命を無くした民族だと言うべきであろうと言い切っている。(岩波 哲学・思想事典)


ニーチェは「神は死んだ」と言ったが、その神は価値観を依存するモデルであり、神を盲目的に信じる民に向けて、個々の人間みずからが価値観を創造すべきだと言いたかったわけだ。

もし私が創作する小説を神話化するとして、徹底的に「問い」を人類個々に生じさせるイメージになる。神や英雄は一切の答えを出さず、「人間」を問い質すようなストーリーになる。

検討してみよう。

 

 

物語化


このウェブサイト全体のメニューは、当記事のようなその日の「断想」があり、主目的の「人類哲学の独創」「私の美学建設」がある。そして最終的な創造として、主目的の二本立て内容を物語化し、子ども向けの小説として表現したい。生きる時間の制約はあるが、未来の子どもたちへコンテンツを残したい。

なぜ物語なのか。

ChatGPTに「物語効果」について聞いてみた。下記にその内容を転載しておく。

 


1.感情への訴求

物語は登場人物の喜びや苦しみ、挑戦や成功などの感情的な側面を描写することができます。感情は人間の価値観に密接に関連しており、物語が感情的な共感を呼び起こすことで、価値観を形成しやすくなります。

2.共感と認知の活性化

物語に登場するキャラクターや状況に共感することで、読者や視聴者は自分自身の経験と重ね合わせることがあります。これによって、物語の中での価値観が実際の生活にも関連づけられ、より深く理解されます。

3.複雑なテーマの探求

物語は現実の複雑なテーマや問題を簡潔に表現する手段です。人間は物語を通じて哲学的な問いや道徳的なジレンマに直面し、それについて考えることができます。これによって、物語が新たな価値観や視点を提供することがあります。

4.記憶と共有

物語は人々の記憶に残りやすく、また他人と共有しやすい形式です。物語は口承文化から始まり、伝承として次世代に引き継がれてきました。これによって、特定の価値観や教訓が広まり、社会的な共通の価値観が形成されることがあります。

5.想像力と創造性

物語は読者や視聴者に想像力を刺激し、別の現実を探求する機会を提供します。この過程で、新たなアイデアや価値観が生まれる可能性があります。

6.統合とアイデンティティの形成

物語は個人の経験や価値観を統合し、自己のアイデンティティを形成する手助けをします。自分自身の物語を見つけることで、価値観を自己と繋げることができます。


 

ChatGPTに整理をしてもらうと100人力だ。

 

 

価値観の「探究」


探究にわざわざ「 」を付けて「探究」にしたタイトルを見てわかるとおり、今回は探究について少し考えてみる。

探求と探究はどう違うのか。いや、どのように二つの概念を私は使い分けているのか。日本人にとって漢字は便利なもの。探求とは探し求めるということである。探究とは探し究めるということである。求めることと究めること、この違いで十分わかる。

探し求めるとは、暗闇に両腕を前に開き「どこ?どこ?どこにある?」というイメージ、或いは「いったい、自分の求めるものはどこにあるのだろう?自分の求めるものは何なのだろう?」というイメージ、だいたいこんな感じかな。私にとっては。好奇心に似たイメージがある。

一方で、探究は「究める」「きわめる」(極める、窮める)ほうにの重心がかかり、徹底的に本質を究めようとそのルートを探っていくようなイメージがある。限界点をきわめる場合は極めるを使う。山頂を極めるとか。窮めるは窮するに通じ動きが取れなくなることに使う場合が多く、窮まる、窮状、窮鼠、困窮などに使われる語感だ。

究めるは、研究や学究という言葉があるように、頭を使って知性的に本質を突き詰めようとするイメージになる。「価値観について探究する」というふうに、既に究めようとする何かが決まっている。探し求める段階ではなく、価値観について徹底的に究めようとする、その姿勢や気持ちのことを探究心と言う。哲学的に探求することと哲学的に探究することは異なる。

言葉は概念イメージの一部であって全部ではない。私にとっての探求と探究の概念は、私が今日までその二つの言葉を使用してきたイメージに依拠しており、辞書に表されている語義はイメージの百分の一にも満たない。よっと万人が「探究」という言葉について、寸分狂わず同じ概念イメージをもつことはあり得ず、正しい「探究」概念などない。よって「探究とは何か」という普遍的なイメージを見つけようとする問いは、問い自体に矛盾がある。

私は価値観の「探究」をやっているけれども、それを言葉を尽くして万人に理解してもらおうとは全く思わない。なぜなら、言葉自体が個人の主観イメージの抽象物であり、不完全だからである。

 

 

 

言語でなく「感じ」で考える


今日は、というよりいつもそうですけど、真面目な話題ですね。倫理とか道徳とかについてを原理的に考察中で、その備忘録でもあるんですが。

その前に、私は言語を使用しないで考えることが多いんですよ。もちろん言語を使用して考えることもあります。で、言語を使用しないで考えるってどういうこと?って感じでよくわからない人がけっこういて、この説明を言語でするってのもなんか変って感じなんですが。

言語を“感じ”にいったん自動変換して、「感じ」で考えてるんです。考えてそれを他者に伝えたりこうしてここに書いたりするときに「感じ」を言語に再変換しているわけですね。だから私の平易な文章やリアル会話では、「こんな感じ」が多い、かもしれない(笑)だって言語表現は(私にとって)相当めんどくさいことで、言語に直すと「感じ」が劣化してしまうし、誤解を与え、その誤解を解くのにまた言語でひと苦労する。「こんな感じ」という表現だと幅と深さができるから便利なんですね。

そんな感じなので(笑)、でも、「感じ」で考えるってどんな感じ?ってことを、いま考察中の倫理と道徳、そして情意を使って表してみます。

以下は、この数日間で深掘りしたそれぞれの「感じ」です。

〇 倫理の「感じ」

道徳のアレンジ、理性的、社会的判断、個人的判断、相互の関係、柔軟、複雑、時代や環境によって変化、相手と社会と自分を考えて妥協する、道徳の原理を考える倫理学、一方通行ではない、思考する技術が必要、民事、生命倫理、社会倫理、これらの複合化イメージ。

〇 道徳の「感じ」

情意のアレンジ、モラル、子どもに教える、個人の規範、固定的、命令的、相手を選ばない、どんな相手にも、人工知能でも可能、宗教教義、前提に社会善がある、画一的、正しい、義務、すべき、習俗、因襲、道徳の一部の悪は法で裁く、これらの複合化イメージ。

〇 情意の「感じ」

心のままに、まごころ、純粋な思いやり、思考しない、人情、仁、無意識的、本音、社会的でない、おのずから、内発的、理屈じゃない、清きこころ、未熟または老熟の両極致、純真、純愛、言葉にならない、心意気、至情、至誠、直きこころ、これらの複合化イメージ。

こんな「感じ」で数学で言えば変数のまま数字にしないで、他のさまざまな変数を組み合わせて連立方程式を組んで法則や構造、原理を考える、ってのが私の主な思考スタイルなんですね。そもそも言語の発明はもともとの広大で複雑なイメージを言語の意味という狭い範囲に限定し単純化して伝えるためのもので、「初めに言語ありき」ではなく「初めにイメージありき」だというのが私の原理感覚です。

倫理、道徳、情意(この言葉を選択していますが他の言葉でもOK)、これら言語の本質は「倫理とは何か」にはなく、「倫理というイメージ」を使ってほかのことを考える、連立方程式を考える、そのために存在しているのであって、なので「自分のイメージで“感じ”という固定化されない定義」でよい、他者と違ってもぜんぜんよい、というかそうあるべきだとさえ思う。ただし他者とコミュニケーションをとるときには概念をなるべく共有しないとならないんですが。まあそれも無意識内で自然に調整していると思います。

というわけで、倫理その他について考察中の現段階では、もともと人間は情意があってそれを道徳へと発展させた。しかし道徳だけでは不十分で倫理へと発展させた。

そして倫理について十分に理解を深めたあとは、その倫理が、無意識の情意としておのずとあらわれることによって、他者もおのずとまごころでそれを受け止める。それでこそ人間どうしというものではないかと、こんなふうに今考えているわけです。

情意を言語化して教えるようになると道徳化が始まってしまう。もちろん子どもにはその順序が必要かもしれませんね。情意、守(道徳)、破(倫理)、離(アップデートされた情意)のようなイメージで。

 

今日のコラム内容は、「感じ」や思考感覚を共有できない人の方が圧倒的に多いでしょう。何言ってるかわかんないかも。共感してくれる人は僅かにいる。私の経験上。ですので、もしいつか、ああなんか昔、あんなこと言っていた人がいたなあ~って思いだしてもらえることがあれば僥倖と思います。

 

 

新しい哲学と美学を創造する思索のアトリエ


サイトのサブタイトルを変更しました。「五千年後を遠望し 新しい哲学と美学を創造する思索のアトリエ」としました。自分の意識の中での位置づけも少し変わりました。

最近、竹田青嗣の哲学者としての集大成『欲望論』を読み始めています。正確には昨年末に一度挫折しての、再チャレンジです。昨年10月に刊行された第一巻と第二巻はそれぞれ『「意味」の原理論』『「価値」の原理論』と銘打たれています。第三巻は準備中だそうです。一冊700ページにも及ぶ大著であり、哲学学究的に先哲の思想や哲学用語なども含まれているため、一般の人には難解かと思われます。かくいう私も昨年は数時間で放り出しました。五か月後のいま再チャレンジしたところ少し理解できるように自分が進化していて、次第に夢中になって読みふけっております。

サブタイトルの変更はこの書が刺激となっていることもある。

 

ところで今後のコラムテーマの予定ですが、近いところでは、「ナショナリズム」「所属の欲求」「アイデンティティー」「自我」「主観・間主観・客観」等についての論考を予定しています。というよりも、自分に対して何を書くかの整理をいま書いているわけですね。

アメリカのトランプ現象とイギリスのブレグジット、フランスのカトリーヌ・ドヌーヴら100人のMeToo運動に対する反対運動、これらはすべて、メディア主導によるポリティカルコレクトネス運動に対する反発だと考えています。もっともこれは、私だけの認識ではなく、知名度の高い有識者のなかにも同様の見解が散見されますので目新しいものではありません。

こうした反発をもとに、世界中で「ナショナリズム」への揺り戻しが起こっており日本も例外ではありません。「保守(コンサバティヴ)」への回帰が本格化するのかどうかわかりませんが、リベラル(日本のリベラルではない)とコンサバが両極的に偏れば社会は分断されます。感情論が渦巻くようになる。

どうしたら良いかを表面的対処的に考えるのではなく、まず、ナショナリズムの心理的な原理はなにかを考察してみようと思っています。そこには所属の欲求がついて回る。マズローの心理学から所属欲求について考察したい。おそらくここでは、自分のアイデンティティーを、所属する集団概念に置換していることが明らかになりそうです。アイデンティティーを心理学に持ち込んだエリクソンの論を見直してみたい。

アイデンティティーとは自我の確立ともいえる。自我とはいったい何なのかについて西洋と東洋のそれを比較し、自我についての哲学的見解、心理学的見解を併せて参考にしつつ考えを深めたい。自我は主観だけの問題なのか、客観世界とどのようにかかわりをもつのか、これについては「間主観性」という概念の生みの親であるフッサールの現象学にあたってみます。超越論的自我論とも言われている彼の哲学は、ちょうど、冒頭に書いた竹田青嗣『欲望論』の下敷きとなっています。竹田はフッサール現象学とニーチェの力への意志を主軸に同書を著したと自ら述べています。

 

さて、私のサイトのサブタイトル(副題)を変えたことについてです。

竹田青嗣にしてもフッサールにしても、或いはほとんどの哲学者と呼ばれる人たちは、存在とは何か、認識とは何か、自分とは何かというふうに原理解明や自己究明への指向性によって、哲学学究的に、世界を解明しようとする、人間の認識システムを解明する、或いは自分自身を究明する方向で考察しているわけです。

私はそちらの方向性ではなく、新しい価値を、つまり現代における「経済」だとか「科学」だとか「名誉」「権力」「福祉」「愛」などの価値に代わる価値を、創造していこうとするものです。ニーチェの「力への意志」は解明究明型テーマでしたが、「永遠回帰」は創造型のテーマだと私は考えています(未だ誰も正当に解釈できていないとも思っています。私も含め。)。ニーチェ自身は新しい価値創造のほうを高く評価しています。趣味の問題かもわかりませんが、私は、こちらへ向かおうとするほうが自分の性に合っています。

ほぼすべての哲学者は哲学界内だけに拘って解明究明の理論を目指します。しかし私は哲学だけに拘らず、分析心理学や医学、日本思想などをリベラルアーツ的に幅広く活用し、新しい価値を創造していきたい。これは、言わば、思想の芸術的創作ではないかと考えました。それがサブタイトルの変更に繋がりました。

私は、自分の性格が職人気質的だとようやく気付きました。サイト制作でも1ミリ、1pixel のズレが絶対に許せないほどの完璧主義の一面がある。とことんのめりこみ、他者評価よりも自分が納得できる作品を創作し自己満足するタイプなので、思想の芸術的創作を職人的にやっていきたい。人生最後にして最大の事業と自分では位置付けています。生ある限り。

 

最後に、ニーチェの言葉を引用します。

 

彼らは、創造する者を最も憎む。石板を割り、古い諸価値を打ち砕く者、破壊者を、彼らは――破戒者と呼ぶ。

それというのも、善人たちは――創造できないからなのだ。彼らは常に、終末の始まりなのだ。――

彼らは、新しい石板に新しい価値を書く者を十字架につける。彼らは、わが身を救うために、未来を犠牲にする。――人間の未来すべてを十字架につける!

 

それゆえに、おおわが兄弟たちよ、”新しい貴族”が必要なのだ。すべての賤民とすべての暴君を敵に回し、新しい石板に新しく「高貴」の文字を刻む”貴族”が。

”貴族が成立するためには”、多数の、そしてさまざまな高貴な人たちが必要だ。あるいは、わたしがかつて比喩で語ったように、「神々はあっても、ひとりの神など存在しない。それがまさしく、神というものだ!」

 

おお、わが兄弟たちよ、わたしは君たちを選んで新しい貴族に任じよう。君たちは未来を生み出し育てる人、未来の種蒔き人であって欲しい。――

 

おお、わが兄弟たちよ、君たちの新しい貴族は、後ろを振り返るのではなく、”前方を”見やるのでなければならない!君たちは、すべての父と父祖の国から追放された身であらねばならない!

おのれの”子供たちの国”をこそ、君たちは愛せねばならない。この愛をもって、君たち新しい貴族の徴とせよ。――遠い遠い海に浮かぶ、いまだ発見されざる国! ひたすらにその国を求めて走れ!と、わたしは君たちの補選に命じる。

君たちは、君たちの子供によって、”償い”をせねばならない。君たちが君たちの父祖の子供であることの。”そうすることで”一切の過去を救済しなければならない! この新しい石板を、わたしは君たちの頭上に掲げる!

(白水社版 ニーチェ全集 ニーチェ著『ツァラトゥストラはこう語った』第三部「古い石板と新しい石板」11・12・26より一部引用、順不同)

 

私の場合は”貴族”などと呼べるような者ではありません。新しく創造する価値を石板に刻んでいこうとする「職人」です。上記における「遠い、遠い海に浮かぶ子供たちの国」が五千年後です。創作する作品は美学価値です。このサイトは芸術的に思想を創作するアトリエ、工房という位置づけとしました。

リアルにおいてもできるだけ早く「思想工房」をつくりたい。

そして高貴なる志をもつ有志を募っていきたい。

 

私にはそれほど多くの時間は残されていない。

 

 

古くて新しい価値観「美しく貴き心」


昨日の記事につづき日本的美学観に入っていきますが、意識しているのは深層心理です。常に無意識を念頭においています。

本記事の前半では、次の記事で扱う『幽玄とあはれ』の著者である大西克禮の経歴と時代環境、学問的系譜、現代における彼の美学論の価値について簡単に記します。

 

1888年(明治21年)大西克禮(おおにしよしのり)は東京に生まれ、1913年に東京帝国大学文科大学(現在の文学部)哲学科を卒業します。1927年に東大助教授になりドイツ・イタリア・フランスに留学。1931年に東大教授。1949年(昭和24年)に退官し東大名誉教授の称号を授かる。その後は福岡に隠棲し個人的に美学研究を続け1959年に没します。享年71歳。

九鬼周三とは同い年、和辻哲郎は一つ年下です。美学者と言えば日本的美学を『茶の本』として欧米に紹介した岡倉天心(1863-1913)が有名です。大西と岡倉に接点があったか否かはわかりませんが、当然、大西は岡倉の著書を読んでいたはずです。

大西の美学論は難解のためか研究する人が少なく資料も乏しいのですが、田中久文著『日本美を哲学する』で扱っています。同書より美学についての記述を、「はじめに」から引用します。いい文章だと思います。

「あはれ」「幽玄」「さび」「いき」といった言葉は、西洋の「美」よりも広がりをもった概念ともいえる。それらは、ある場合には「美」的概念というよりも「倫理」的概念であったり、「存在」論的概念であったり、さらには「宗教」的概念であったりする。しかし、だからこそ、限定的な「美」の概念に制約されない豊かな内容をもったものとして今日の私たちには映るのである。

むしろ、近代以前の日本人は、「あはれ」「幽玄」「さび」「いき」といった概念によって、広い意味で「哲学」していたといってもよいのではなかろうか。中江兆民が述べたように、「わが日本、古より今に至るまで哲学なし」といった見方が一般化している。もちろん、日本でも仏教や儒教の領域に於いて独創的な思索を展開した者は少なからずいた。しかし、それらは何といっても特定の経典や教義に制約されたものであり、世界や他者と素手で格闘しながら考え出されたものではない。それに対して、「あはれ」「幽玄」「さび」「いき」といった概念をめぐって展開された思索は、今日的にいえば芸術論・文学論・芸能論・演劇論などといわれる形をとりながらも、実際には人間や世界のあり方全体に関わるものであり、しかも、何ものをも前提とせずに世界を考えようとする、まさに「哲学」的なものであったといっても過言ではない。

(中略)

そうしたことを最も体系的に考えたのが大西であった。(略)こうして彼は日本の伝統的美学をその閉鎖性から解放し、普遍的な美学のなかでその意義を明らかにしようとした。

これほど体系的ではないにしても、日本の伝統的美学を捉えるこうした基本的な姿勢は和辻や九鬼などにも共通している。彼らが日本の美学の独自性を説く場合にも、その背景には常に西洋へのまなざし、さらにはそれを超えて普遍性へのまなざしが存在していた。

(中略)

こうして、日本の伝統的美学は、近代の哲学者たちのまなざしを介することによって、日本人が「哲学」する際の格好の指標として甦ったといえよう。

(青土社版 田中久文著『日本美を哲学する』)

 

美学という名称やその領域に囚われず、大西克禮を含めた近代の哲学者たちが日本伝統の美しさ観について掘り起こしてきた、考えてきたことがよくわかる言説です。

 

さてここからは心の構えを「情」に転調します。

徐々に。

上記の美しさ観についてですが、大きく分ければ、自分の心を外へ映してゆく外向的テーマと、外の世界を感受し自分の心のなかで練ろうとする内向的テーマとに分かれます。後者ですが、なぜ、私たちはそれを美しいものとして感受できるのだろうか。あるいは、なぜ、まだ美しいものとして感受できないのであろうか。

子どもに「もののあはれ」を感受しなさいと言ったってできません。私だって「幽玄」を感受してみろと言われても自信がない。こんなに生きてきても、世阿弥が晩年に著した『花鏡』の「幽玄の境に入ること」を、本質的な体感として解ってはいないし、幽玄の美を未だ浅くしか感受できない己れの未熟さを自覚しています。

 

もっと身近なところで「愛」はどうでしょうか。

子どもの頃の歌に「かあさんの歌」がありますよね。「かあさんが夜なべをして手ぶくろ編んでくれた…」の歌詞とメロディを思い浮かべてください。YouTubeで聴いてみてください。子どもが自分のこととして歌って母の愛を感受できていると思いますか。自分の子どもの頃を思い浮かべて、小学校3年生のときにこの歌を聞いて歌って感動しましたか。

子どものときに、母の愛を感受できなくていいのです。感動しなくてもいいのです。でも歌っておくのです。たくさん歌っておく。

やがて自分が母になった時に、ようやく母が自分に与えてくれた愛の深さに感動するのです。20年、30年かけて、母の愛情がわかる。母もおばあちゃんからそうして、愛情を教わってきたのです。子どものことをひたすら思って、夜を徹して編んでくれた手ぶくろ。暖かくないわけがないじゃないですか。その暖かさを、心の温もりを、20年かけてようやく感じとるのです。

今すぐに子どもが母である自分の愛情を、真の愛情を感じとれることはない。でも、ずーっと後になって感じとれてくれたらいいなあ。娘に子どもができた時に、その思いを自分の子どもに伝えてくれたらいいなあ。そんなふうに、母親は子どもに、或いは間接的に孫に、20年、30年と、その後も引き継がれる愛情の大事業を行っているのです。

そうした心の構えが自分の無意識の中にできれば、「かあさんの歌」を聴いて歌ってみたときに、胸にぐっときて、落涙しないことがあり得ない。

 

自分の母が自分に手ぶくろを編んでくれたかどうかなんて関係ない。自分の境遇にフィードバックしなくても想像力があれば感動してしまう。母の子どもに対する愛情はほかにもたくさんある。子どものことを思って料理して、ほうれん草を茹ですぎておひたしがやわらかくなってしまっても、おいしくないわけがないのです。おいしいに決まってるじゃないですか。どんな高級料理よりもおいしいに決まってます。母子に限ったことではありません。父子でもそうですし夫婦や恋人どうしでも、そんなことはあたりまえなのです。

 

愛情を感受できるこころ、愛情いっぱいの真ごころ、そんな貴い心よりも価値のあるものなどこの世にあるものか!と。

経済的に富裕であること、科学による様々な恩恵、それを幸せだとし、裕福になることが成功だと言われて久しい世の中ですが、美しく貴き心にまさるものなどこの世にはありません。過去にも未来にも永遠にありません。綺麗ごとですか。いえ、もしこれが綺麗ごとに聞こえるのならば本当に汚い世界や暴力と利権にまみれた世界を深く体験してこなかったからです。真っ暗で絶望的な悪と闇の世界を体で知れば知るほどに、そうした世界でもキラリと光って通用する、美しく貴き心にまさるものなど何もないと言い切れるのです。

古くからあるこの日本の、いや日本だけじゃなくて世界中にその素はあると思う。美しく貴き心のすばらしさを掘り起こすだけなく、更に磨きをかけ日本から世界へと発信し、新しい価値として台頭させることができたなら、どうですか。素晴らしいこととは思いませんか。子どもたちの目に希望の光が灯るとは思いませんか。100年200年かかっても1000年かかってもいい。個人の手柄なんていらない。何世代も超えた有志のつながりで、人間の最も大切なまごころを、美しく貴き心を第一等の価値にしようじゃないかと、少なくとも私ひとりはそう思ってます。

想像してみてください。人の美しく貴き心に触れて、感動して、自分も美しい心をもちたいな、あたしも、ぼくもと、その連鎖が起きる社会を想像してみてください。経済や科学は人のまごころの営みを支えるために存在しているのです。

 

 

日本的美学論と無意識論


大西克禮『美学コレクション』全3巻を購入し手元に揃いました。大袈裟な表現になりますが、この本は私に出会うのを待っていた、そんなふうに、感動を超えて感激しています。美学者・大西克禮氏(1888-1959)が生前に著した数冊の著書を現代仮名遣いに直し、3冊に纏めた著作集です。2012年~2013年に刊行され未だ初版のままですので、(たぶん人気がないため)おそらく重版はなく絶版になるかもしれず、確保できて良かったです。高価でしたが価格以上の価値ありです、私にとって。

 

 

1冊目の帯にはこうあります。

長く理論的考察がなされないまま、独特の美概念としてただ体験的に論じられてきた 幽玄・あはれ・さび の理論的様相を、美学者の立場から明かした画期的業績。

 

2冊目の帯にはこうあります。

人と自然とが対立しない美という日本人の感性の最深層を探る。知性によって自然を統御支配するよりも、生活そのものを自然の多変性、多様性に順応させる文化の息吹。

 

3冊目の帯にはこうあります。

西洋美学の枠を破り日本特有の美概念をも組み込んだ新たな普遍美学への試み!

東洋的芸術精神のパントノミー即ち本源的綜合性とは何か。生活の全面と深く一体化する芸術の心を総合的に理論化する。

 

「美学」というと芸術(美術や音楽など感覚的なもの)を想像するかと思いますが、いやまさに西洋の美学はそこが基本なのですが、日本の美学は感覚的なものにとどまらず、抒情的なものもあれば生きかたの信条的なものもある。日本人は古くから、非常に幅広く、この「美しさ」というものに、外形的にも内面的にも、生きざま的にも拘ってきたのです。『葉隠』の武士道や世阿弥の『風姿花伝/花鏡』、その他挙げればきりがないほどですが、深いところで通底しているのは、日本人的な美しさへの意識です。

大西克禮は、その日本人的美学観を体系化し、理論化しようとしました。

彼の論は実に多面的です。認識論的な哲学であり、日本人が連綿と受け継いできた無意識の美学すなわち深層心理学であり、平安王朝からの抒情的な国学の系譜であり、知性・知識に裏打ちされた想像的体験論であり、集団生活の芯とすべき道徳を扱う倫理学であり、人と人との絆の美しい人情論であり、もちろん感覚的な芸術論でもあるのですが、それらすべての基準に「美しさ」を置いた。

悲哀や悲壮・悲愴の「陰性」の美しさなどはまことに日本人らしい、独特の、無常感的な美しさの捉えかただと思います。

 

大西克禮氏も心理学に少し触れていますが、そうした美しさを感受できる心の構えは(実際に「構え」という言葉も本文で使っています)、無意識論へ伸びてゆきます。

私は、大西克禮の日本的美学論と、ユングの深層心理学的無意識論を結合させようと思っています。

 

 

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