人は二度死ぬ。


タイトルの「人」を「私」に替えてみるほうがわかりやすいかもしれない。

この言葉は、私が肉体的に死ぬことがひとつ。こちらについては説明不要だろう。

もうひとつは、生前に在った私の生々しい姿を知る人が全員死ぬこと。後者は、著名で世に知られているとか、後世に名が残って知られるとか、映像や書物を遺して知られるとか、それらは含まない。あくまで、生前の私を身近に感じていて、私が生を営んでいる姿を知っていた人々を指す。生々しい私の現実の物語を記憶にとどめている人に限られる。具体例を挙げれば、娘や息子、親族、親友、少し範囲を広げれば、直接的に接して影響を与えた人も含んでよいのかもしれない。

彼らのなかに、私が存在として残されるというのは哲学的にどういうことか、という断想。

生きている私を今、良く知っている人がいるとしよう。子でも親友でもいい。彼らの内面にどのように私が存在しているか。それは、彼ら自身の観念世界に、彼らが意味と価値と感情の物語(小世界)をつくり、そこに私が登場人物として現象しているということである。ここでの「現象」は実在世界ではなく観念世界への現象を指す。ありありとした生々しい私が、他者の観念世界内に「存在」しているわけだ。

ここまで書けばもう誰にでもわかる。説明不要かもしれない。上記の観念世界内への現象を「相」として捉えてみよう。
私が生きていようと、仮に亡くなったとしても、彼らの観念世界内には「過去の」生々しい私が、生きている時と《同じ「相」》で存在し続けるのである。

更にわかりやすく、逆の立場に替えて考えてみよう。私の親友が南米のボリビアへ転居し暮らしているとしよう。既に20年が経ち一度も会えないでいる。彼が生きていることは知っている。しかしある日、突然の訃報が届き彼の死を私は聞く。何が変わったのかについて考えてみよう。もう二度と会えない。電話やメールでの対話もできない。この世にもはや存在していない。実在の物質的なことはそのとおりである。

しかし「存在」そのものについて言えば、私の記憶から消えない限り彼は、私の観念世界内に存在し現象し続けている。私たち人間が意味を付け、価値を付与し感情を与えているのは観念世界内に起きている現象にであって、実在世界へ直接にではない。間接的に、主体(私)の観念世界を外部の実在世界へ投影しているというのが、人間を含む生物の本質的な認識原理である。その原理にしたがえば、彼の生死にかかわらず、実在世界では会えなくても観念世界ではいつでも会える「現象的存在」である。

私が十歳の時に亡くなった母は、彼女が生きている時と《同じ「相」》で私の観念世界内に「現象的存在」として生き続けている。これは実感として確かなことだと言える。

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観念世界の物語をどのように創作するのかは、その人のイマジネーションの力量に委ねられる。個人差が大きいかもしれない。あらゆる意味で、この創作活動が人間の幸不幸を左右したり、生きがいを与えたりする原動力になっていると言えはしないか。

「人は二度死ぬ。」この言葉の価値について表層だけをとらえて終わらせるのではなく、他者の観念世界内に生きている自分と、自分の観念世界内に生きている親しい他者(生死を問わず)のこと、それぞれの「物語の創作」に焦点を当て想いを巡らせれば、人生はより意義深いものとなるように思う。

 

 

 

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