探究にわざわざ「 」を付けて「探究」にしたタイトルを見てわかるとおり、今回は探究について少し考えてみる。
探求と探究はどう違うのか。いや、どのように二つの概念を私は使い分けているのか。日本人にとって漢字は便利なもの。探求とは探し求めるということである。探究とは探し究めるということである。求めることと究めること、この違いで十分わかる。
探し求めるとは、暗闇に両腕を前に開き「どこ?どこ?どこにある?」というイメージ、或いは「いったい、自分の求めるものはどこにあるのだろう?自分の求めるものは何なのだろう?」というイメージ、だいたいこんな感じかな。私にとっては。好奇心に似たイメージがある。
一方で、探究は「究める」「きわめる」(極める、窮める)ほうにの重心がかかり、徹底的に本質を究めようとそのルートを探っていくようなイメージがある。限界点をきわめる場合は極めるを使う。山頂を極めるとか。窮めるは窮するに通じ動きが取れなくなることに使う場合が多く、窮まる、窮状、窮鼠、困窮などに使われる語感だ。
究めるは、研究や学究という言葉があるように、頭を使って知性的に本質を突き詰めようとするイメージになる。「価値観について探究する」というふうに、既に究めようとする何かが決まっている。探し求める段階ではなく、価値観について徹底的に究めようとする、その姿勢や気持ちのことを探究心と言う。哲学的に探求することと哲学的に探究することは異なる。
言葉は概念イメージの一部であって全部ではない。私にとっての探求と探究の概念は、私が今日までその二つの言葉を使用してきたイメージに依拠しており、辞書に表されている語義はイメージの百分の一にも満たない。よっと万人が「探究」という言葉について、寸分狂わず同じ概念イメージをもつことはあり得ず、正しい「探究」概念などない。よって「探究とは何か」という普遍的なイメージを見つけようとする問いは、問い自体に矛盾がある。
私は価値観の「探究」をやっているけれども、それを言葉を尽くして万人に理解してもらおうとは全く思わない。なぜなら、言葉自体が個人の主観イメージの抽象物であり、不完全だからである。