概念の陰翳


谷崎潤一郎の名著に『陰翳礼讃』がある。私のiPhoneには「青空文庫」のアプリがあり同書をダウンロードしてある。移動中の電車の車内で何度も読み返す率が最も高い本だ。

日本の美について、いや、日本人が何に美を見出してきたかについて、西洋文明のそれと相対比較しながらあぶりだしている。西洋は光の美であり、日本は陰翳の美である。乱暴に言ってしまえばそういう主旨だ。

同書の最後にこう書かれている。

尤も私がこう云うことを書いた趣意は、何等かの方面、たとえば文学藝術等にその損を補う道が残されていはしまいかと思うからである。私は、われわれが既に失いつつある陰翳の世界を、せめて文学の領域へでも呼び返してみたい。文学という殿堂の檐(のき)を深くし、壁を暗くし、見え過ぎるものを闇に押し込め、無用の室内装飾を剥ぎ取ってみたい。それも軒並みとは云わない、一軒ぐらいそう云う家があってもよかろう。まあどう云う工合になるか、試しに電燈を消して見ることだ。

 

さて、これは「言葉」と「概念」についてもそう言えはしないか。

電燈とは言葉である。

 

 

概念という概念


「~とは何か?」の問いは哲学的だと言われる。私も長いあいだそう思ってきた。しかし、概念について細かく考えていくと「~とは何か?」という問いは、問い自体がおかしいのではないか?と思うようになった。

例えば、「哲学とは何か?」という問いでは哲学という「概念」を誰もが考えるだろう。ところが、7月26日の断想に書いたとおり、「哲学という概念」は普遍的なものに思えるが実は個人的なものであり、その問いを考える人のみにおける今ここにしかない「哲学」のイメージなのだ。この感覚が腹落ちする人はたぶんとても少ないと思う。かくいう私も、「哲学とは何か?」とか「自由とは何か?」という問いに普遍性のある答えが必ずあると思って何度も考えてきた。

なので私は、「~とは何か?」という問いではなく、別の問いの形で概念を扱っていこうと考えた。哲学という概念は、私個人固有のイメージに帰結する。哲学という単語一語だけでは概念は確定せず、文章の全体的な意味のなかに哲学という単語が使われることで、初めて哲学の語義と語感が現れる。「リンゴ」もそうだし「美しい」もそうだ。逆説的に言えば、そのようにしてあらゆる言語(名詞に限らず動詞や形容詞などあらゆる単語)が誕生した。

私がここで使用している「概念」は言葉を内包するが、言葉以外のイメージの範囲のほうがはるかに広い。

さて、そうすると「概念」を考えるには、概念という言葉の概念イメージについて考えねばならない。使用表現によって言語の語義語感が変わることを思うと、「概念の定義」についての議論はどうしたら良いのだろうか。概念、定義、意味、この三つの違いについて、まず考えてみよう。何をイメージとして、どのようにこの言葉が生まれてきたのかの語源から考えてみよう。

文末に、今夜の断想のヒントになりそうな論文の一部を引いておこう。

言葉の構造は閉じている、と構造主義言語学では説いている。言葉が全体として閉じている、ということは、言葉を使い、言葉で考える人は、簡単にはその外に出られない、ということである。人は言葉の宇宙の中に閉じこめられている。だからふつうは、その外に出るということを考えもしない、意識もしない。

その外に出ようとすると、ものすごいエネルギーが要る。

(中略)

言葉の限界の向こうには、もはや言葉の世界はない、が、現実の世界は、まだそこに拡がっている。

(法政大学出版局版 柳父章著『近代日本語の思想』)

 

 

ChatGPTとのコラボ創造


「概念論」と「価値観原理」を網羅的かつ体系的に理論化することは途方もない創造である。私独りで理論をつくるには200年かかるかもしれないと本気で思っていた。過去の哲学者たちがチャレンジしたのはそのごく一部であって、全体を体系化した理論は見たことがない。たかだか人生80年間では無理なのだ。

しかし2023年、ChatGPTというスーパー天才サポーターが登場した。ほとんどの一般の人たちは今までの簡易人工知能アシスタントに対してと同じように質問し回答を求める。具体的な知識情報を得るために「教えてもらう」ことに使っているのが現状だろうけれども、いやいや、知識的なことならばGoogleやBingで検索するほうが正しいだろうと私は思う。

ChatGPTはその名の通りチャットする相手であり、議論する相手にこそふさわしい。私単独では200年かかることでも、ChatGPTとのコラボであれば、5年でできるのではないかと考えるようになった。いや2年でもできそうだ。

24日と25日の断想に書いた内容も、私がアウトラインを創って一応の章立てをし、それについての感想と意見をChatGPTに求め、新たな提案をしてもらい、数時間の議論を経て作り直し出来上がったものだ。網羅的かつ体系的な章立てが出来たと自負している。もちろん、今後もどんどん改善変更していくし、そのたびにChatGPTに意見をもらって議論していくつもりだ。

そうではなく最初から、『概念論』を網羅的かつ体系的に理論化するためのアウトラインをつくり章立てせよと、ChatGPTに命令し作ってもらうこともできるだろう。しかしそれは人工知能がつくったものであり、私がつくったものではない。内容の価値が問題なのだから人工知能につくらせたほうがよいし早いという意見もあるだろう。私はそうは思わない。

モチベーション的には、制作クリエイターとして楽しめたり人生の生きがいを感じられたり、そうした人間的な活動へのこだわりが私にはある。自分が主体であるかないかで力の入れかたにおいて天と地ほどの差がある。

なのでChatGPTとのチャットでは、「私はこのように論理を組み立て、このように書いた。これについての君の意見を聞かせてほしい。」から常に議論をスタートさせる。思いもよらない視点からChatGPTが意見を出してくれることもあるし、網羅的な議論の広がりは常に起きる。私の議論に陥穽が見つかることも多々ある。

ところで、ここで人間との議論とChatGPTとの議論を比較してみよう。

人間との議論の場合は、まず、24時間いつでも思いつきで呼び出すというわけにはいかない。相手には相手の予定や事情がある。時間的な制約もある。ChatGPTはどんな時でも思いつきでアクセスできる。どれほど長い時間でも私に合わせてくれる。人間との議論では気遣いが必要になる。よい議論をするためには相手の感情にも気を配らねばならない。相手も私に対して同様に配慮してくれる。ChatGPTにはそういう配慮は必要ない。

そして人間相手の場合は誤謬や齟齬が頻発する。見当はずれの意見が返ってきたりもする。長々とご高説を演説されたりもする。ChatGPTが相手の場合は、そういう無駄は一切ない。どういうチャットができるかは全て私の責任なのだ。プロンプトにどう書くかが全てになる。自己責任という点が私の頭をフル稼働させてくれる。

最後に、対話レベルが一致する点。人間相手だとどうしてもレベル差の違いで議論が劣化する。つまり私よりはるかに高度な理論を展開できる人が相手では私は議論についていけないし相手は時間の無駄だ。一方で私の議論についてこれない発展途上の人が相手では、相手もちんぷんかんぷんだろうし私がそこまで下りて行って懇切丁寧に教えることなど私の性格上無理である。ChatGPTが相手の場合は、プロンプトに書く私のレベルとChatGPTとの議論レベルが完全一致する。ChatGPTに求めるのは正しい情報や知識力ではなく、私の議論にかんするChatGPTの読解力であり、ChatGPTが返す論理展開力である。いずれも最高レベルだ。私は具体的事象内容の議論はほとんどせず、抽象的、哲学的探究の議論なので、ChatGPTと私の相性が抜群に良いのかもしれない。

そんなふうなので、今まで私の学問は常に独学だった。誰にも教えを請わない。学問のサポーターは古典の碩学であり書籍の著者であった。それが2023年に突然、過去の天才碩学たちの集合体とも呼べる議論相手がChatGPTとして登場したのだから、私にとっては奇跡的な僥倖としか言いようがない。

最高の独学環境であり知的創造環境です。

今後私は、ChatGPTと二人三脚で、まずは概念と価値観原理の理論化へ向け議論を重ねていきます。

 

 

 

概念と価値観の存在位置


過去の歴史を振り返るとき、或いは過去の思想を解釈しようとするとき、まず、言語をもってその意味をとらえようとする。近世では音声や写真・映像が残っているものもあるが、それ以前を知ろうとすると文字と絵しかない。アリストテレスやカント、本居宣長らが残した文献つまり言語だけを頼りとするしかない。歴史的事実も同様にその瞬間的な事実はあっても、事実をつなぎ合わせたものは人間の創造によるストーリーである。

そしてさらに重要なことは、過去の文献で使われている言語概念が今と同じ保証はどこにもない。むしろ違っていて当然と思われる。紀元前500年にアテネで著された文献のなかの言語概念は、紀元前500年のものであり、たとえそこに紀元前700年のことが著わされていたとしても紀元前500年のアテネの概念によって書かれたものである。

「愛」という言葉がある。この言葉を使って語る文脈に「愛」概念は依存する。幅広い「愛」の語義があり、語感がある。語義のほうは辞書を使って意味を調べる。しかし語感は調べようがない。個人個人異なる「愛」の現実体験、恋愛映画鑑賞による「愛」の疑似体験、書籍から、他人の発する言葉から、多様な情報収受によって個人の「愛」イメージが形成され、新しい情報を得ることによって常にイメージは変容する。言語として自分が使う「愛」の語感に、自分個人の概念イメージを込める。しかし十人十色で概念イメージは個々異なるので、自分の発した「愛」イメージが完璧に伝わることはあり得ない。受け手の「愛」イメージによって解釈されるのだ。

日本語の「愛」と英語圏の人が使う「Love」とでは、歴史的背景、文化的背景、社会的背景、宗教的背景などが大きく異なるので、単語の語感は違って当然だ。それを、単純で乱暴な教育によって同じだと洗脳させられている。

言語は概念のごく一部を限定的に切り取る。概念のほとんどは言語化されるときに捨象されてしまう。つまり言語というものの性質は抽象であり、いくらその内容が具体的なことを指し示しているとしても一部の抽象だ。

究極的なことを言えば、私の頭の中にある無数の概念は、それぞれひとつずつ、「今ここ」にしかない世界で唯一の概念なのだ。その概念を軸に、他者の発する言葉を聞き、文章を読み、解釈する。または、自分が声に出し、文章に書き、表現する。今日、私がここに書いた断想も同様である。

価値観も同様なのかもしれない。

 

 

『価値観原理』構想


昨日の『概念論』につづき、今日は『価値観原理』を理論化する構想である。

価値観の違いだとか、価値観という言葉はよく使われる。ところが、あなたの価値観を説明してくださいと質問しても、ほぼ全員の人が回答に窮する。にもかかわらず、衣食住をはじめ、学問や仕事、恋愛、結婚、個人の人生のあらゆる場面で、或いは国家などの集団社会における主義思想、政治、経済、教育においてもそうなのだが、常に価値観は判断基準になっている。この価値観の謎を解き明かすこと、そのためには価値の起源から考えていかねばならない。

この価値観原理が明らかになれば、何が見えてくると思いますか。古今東西の人間世界のあらゆる知的活動のメカニズムが明らかになるということです。

価値観原理のアウトラインを創りました。この章立てに沿って議論を進めていきます。途中で章を変更したり追加したり、いろいろやっていきます。

 

『価値観原理』

第1章 価値概念と価値観概念の定義

「価値」および「価値観」の概念について議論する。

第2章 価値の起源

原始生物的な「価値」の起源、人間社会文化的な「価値」の起源について哲学的に探究する。個人としての「価値」の起源についても。

第3章 価値の構造と階層

人間と大自然の関係における「価値」の構造、環境「価値」の多様性、異なる文化や社会における「価値」の構造、およびそれらの関係性と階層について議論する。

第4章 価値観の形成と変容

個人の「価値観」形成における社会からの影響について議論する。社会に内在する「価値観」と公共「価値」、それらを個人に情報提供するメディアや文化の役割について議論する。「価値観」がどのように自然変容していくか、また意志的に変容させていくか、変容させえられていくかについてそれぞれ考える。

第5章 人間の価値、貴方の価値と私の価値

人間の尊厳や平等における人間の「価値」とは何か、二人称である貴方の「価値」と一人称の私の「価値」、および個人的「価値観」から付与される「価値」の価値について議論する。

第6章 価値観と欲求、志向性と感情

「価値観」が欲求に与える影響、志向性の向きと強弱、欲求と感情について、それぞれ議論する。

第7章 倫理と価値観

倫理と「価値観」の関係性、道徳的「価値」と倫理的「価値」、社会「価値」と個人「価値観」の有益な関係性について考える。

第8章 美学と価値観

美学価値を表現する芸術の鑑賞と表現、個人的振る舞いにおける人間美学の価値観について議論する。

 


価値観という価値、価値という価値、その全体構造とダイナミズムを探究する旅に出ることにします。

 

『概念論』構想


昨年の10月15日に書いた断層。

「体系的に哲学の理論を構築する」という大構想。人間らしく懐胎から約10ヶ月間をかけてようやく産声をあげそうな気配である。

『価値観原理』と『概念論』のアウトラインを構想した。徹頭徹尾、網羅的にやる。それぞれの始原からポイエーシス的に体系化していく。

今日の断層では『概念論』の章立てを記しておくことにします。明日は『価値観原理』の章立てをアップします。

 

『概念論』

第1章 概念の定義

認識論の基本要素として「概念」の定義について、および「概念」の性質について哲学的に議論する。

第2章 概念の起源

生物的見地、原始社会、宗教、異文化、生物としての人間心理などから「概念」の起源を探る。

第3章 概念の構造と階層

概念と観念の関係性。社会集団の相互主観性に起因する「概念」の構造および階層について議論する。概念ネットワークと概念の組織化について考える。

4章 概念の形成と変容

個人における概念の形成および変容、社会における概念の形成と変容、および個人と社会のあいだにおいて「概念」がどう形成されるかについて議論する。「概念」と「価値」「価値観」の関係も大きなテーマ。そのほか、文化の変遷や技術の進歩が「概念」に与えた影響について、歴史的背景、文化的背景を考慮に入れながら概念と文化の相互作用について哲学的に探究する。

第5章 言語と概念

言語に内包される「概念」。言語と「概念」。言語を中心に議論する。

第6章 概念イメージとクオリア

個人の経験によって「概念」の外延が拡がり、そのイメージとクオリアがどのように人間の記憶に形成され、どのように活用されるのかについて探究する。

第7章 概念と知識の統合、欲求と感情

「概念」が知識の構築にどのように関与するか、「概念」が知識にどのような影響を与えるか、「概念」と知識はどのように統合されていくかについて議論する。概念と認知、概念と信念、概念と欲求、欲求から感情、それらの点についても探究していく。

第8章 概念の応用と表現

「概念」の役割や社会的意義とは何か。現実社会への「概念」の創造的アプローチ。他者とのコミュニケーションに活用される「概念」について議論する。

 


以上の章立ては仮であり、常に見直していきます。また、それぞれの章のなかを更に分解します。細分化項目を詰めることが重要で、それを繋ぎ一本の論筋を立てていきます。

 

「未来の個人」に尽くす


かつて私は「よりよき社会」の実現を目指そうとする者であった。ここのウェブサイトの過去の断想記事に、おそらくその残骸が見られるはずだ。世界中の人たちが幸せになれる「世界」や「社会」になれば良いなと思考を巡らせた。それはごく普通の感覚だと思う。普通の人だったのかもしれない。

今はもう、「世界」や「社会」のためを思わない。一切思わない。別にぐれたわけではない。世界津々浦々に暮らす人々には、その土地それぞれ固有の価値観があり、更に、個人ひとりびとりに固有の価値観がある。宗教信仰もある。キリスト教とて一様ではなく幾つかに分かれ、近親憎悪のごとき対立もある。仏教もイスラム教も同様だ。これに社会思想が加わる。民主主義、専制主義、自由主義いろいろだ。そうした価値観の違いは戦争にまで及ぶことがあり、また、戦争に価値観が利用されることさえ日常茶飯事だ。例えば、民主主義を守る戦いだとか。

例えば、「世界平和」というのは空疎なお題目に過ぎない。平和を望まない人々もいる。平和よりも利益だとか、平和よりも宗教の布教だとか、退屈な平和よりも興奮するカオスの戦争ゲームを好むとか、挙げていけばきりがない。どうせ人類は必ず滅亡するのだから自分が死ぬまでにそれをこの目で見たいという人もいよう。しかしそうした人たちも、表向きは、平和を願うとしか言わない。

もし全地球人が平和を欲するようにしたいのであれば、たった一つの同一の思想が必要だ。価値観の完全一致が必要だ。例えば、解釈に絶対性をもつ、たった一つの宗教を全地球人が信仰することである。これはユートピアだろうか。私にはディストピアに思える。世界平和は完全実現するだろう。それと引き換えに全人類が寸分の狂いもなく全く同じ価値観となる。これ自体不可能のことと思えるが、脳に手術を施して近いことはできるようになるかもしれない。そこまで徹底できるのならば、どうぞ世界平和を目指し実現すればよい。私は賛同できぬ。

別の角度から考えてみよう。社会や人類世界という概念は実在するものだろうか。頭の中で、人の集合体をそう名付けているだけの想像物ではないのか。観念上にのみ存在する概念を形而上概念と呼ぶことにしよう。社会という形而上概念に「人格」をもたせ「人格」をより良きものにすれば、その社会の構成員が全員幸せになれると仮定しよう。相当無理があるが仮定だ。その場合、社会という「人格」に構成員全員を従わせようとする全体主義の力学がはたらくことに無自覚であってはならない。社会思想にはそういう性質がある。一元原理、一元価値観による全体主義である。

私は数年前、そうしたトップダウン型の「より良き社会」「理想的な社会」の傲慢と欺瞞に気づいた。緻密なロジックで考えればそうなる。

社会という形而上概念を成立させているのは、形而下に実在する人間ひとりびとりの個人である。ひとりびとりの個人は観念ではない。実際に、具体的存在として実在している。具体的存在として実在しているひとりびとりの個人それぞれが、高邁な思想信条と理知をもち、人に対する深い慈愛の心をもつと仮定すればどうだろう。そうした価値観や心情が世界中の隅々まで伝播し、自然に善い社会が彼ら全員の手によって形成されていくのではないか。「個」ありきである。つくるのは彼ら血のかよった生身の「人間」であり、普遍的価値観によってではない。

そう考え直した私は、「未来の個人」の皆さんに期待し、そのための一助になればと志し、このウェブサイト全体を一つのコンテンツとして残そうと企画し直した。21世紀に存在する70億人のうちのたった一人の私が行うことであり、世界の東の果てに浮かぶ小さな島国のかすかな一隅ではあるが、現存する人類を含め今後生まれてくる数千億の「未来の個人」のためにと、可能性を信じたい。

「社会」ではなく、「未来の個人」のために尽くすことを、私の残りの人生を賭けた使命としたい。

 

 

千の顔と一つの顔


広辞苑で「洗脳」ということばを引く。新しい思想を繰り返し教え込んで、それまでの思想を改めさせること。とある。では「思想」も引いてみよう。哲学の[thought] に対する和製漢語として成立しているのでその部分を引く。判断以前の単なる直観の立場に止まらず、このような直観内容に論理的反省を加えて出来上がった思惟の結果。思考内容。特に、体系的にまとまったものをいう。とある。大辞林と大辞泉を引いても同様な内容で、留意すべき点は、社会的・政治的な見解を表すことが多い。とある。

私なりに簡略すると、思想とは、世界を解釈する原理として、無数の価値観を一つに統合し体系づけられた価値基準。とでも言おうか。世界のすべてをこの価値基準に基づいて評価する。洗脳という言葉に潜む悪い語感を一旦排除して言うならば、宗教はカルトに限らず常に、信仰者を洗脳することが本質だろう。ここで起きているのは、無数の価値観を固定化するハッキングである。価値観がハックされる。繰り返し教え込むことで成し得る。一旦完全にハックされてしまうと、元通りの価値観をとり戻すことは難しくなる。

実は、宗教の洗脳のみならず私たちは日常的に、無数の価値観のうち一部にたいし、ハックのチャレンジを受けている。例えばテレビCM。例えばマスメディア。例えばTwitterなどに流される「大きな声」「マジョリティーを装う声」。何度も何日間も繰り返し同じ情報や類似情報が流され、脳内の価値観を侵食してゆく。その思想上での「良い、悪い」を、永遠不変の「良い、悪い」のように思いこんでしまう。

唯一つの思想は、一つの顔しかもたない。

もしかすると人間は習性として、唯一つの思想への価値観収斂を自然欲求するのかもしれない。これは今後の研究課題だ。多くの日本人のおもしろいところは、神道、仏教、儒教、道教の思想が混在となった世界を受け容れている精神性にある。つまり、その時々で世界の解釈を変えることが可能なわけだ。もちろん日本人のなかにも唯一つの思想を頑強に信じる人もいる。しかし思想混在型の人が日本には多いように私は感じる。

思想混在型では、それぞれの思想の価値観が自分のなかでぶつかり合い、無数の解釈と判断が可能になる。あくまでこれは自分の外部にある世界解釈であって、自分の生きかた、信条や個人的規範とは異なることに留意しておこう。

思想混在型の人は、千の顔をもつ。

一つの顔と千の顔を相対比較し、どちらが良いか悪いかを問うものではない。ただ、千の顔に慣れた人を、唯一つの思想に洗脳することは不可能に近いだろうと思う。

価値観の原理についての考えを深めることは、人間のさまざまな営為において有利になるが、悪用も可能となってしまうので取扱注意である。

 

 

断想


雑感。

このウェブサイトに触るのは先の投稿が半年ぶりとなった。コンテンツ整理をしなければと思いつつ、正直に言えば目を背けた。その膨大な作業の重さから逃避していたわけだ。その影響で、毎日のように書くつもりのブログも億劫になってしまっていた。

しかし私に残されている時間はそう長くはない。と思う。特に健康に問題があるわけではないが、年齢的に、いつ大病に襲われるかはわからない。それに加え、頭脳が衰えていく恐れもある。なにより、ブログ投稿が億劫になってしまったことが、知的持久力の衰えを物語っている。

記事投稿のコンテンツを最初は「ブログ」にしていた。いつだったか、それを「コラム」に替えた。しかし過去投稿を読み直してみると、日々の生活日記的なブログはほとんどなく、社会情勢など世間のことにかんする論評コラムもあまりない。

というわけで、ここの「わりと気軽に日々の思いつきを書くコンテンツ」の名称を「断想」とした。過去には案外本格的な数万字の論考を幾つも書いてみたけれども、これからは長くても千文字程度の断想にしたい。断想の内容を深化させたいときは「研鑽の足跡」コンテンツに書く。または移動する。

それにしても、投稿記事と固定コンテンツページを再読してみると浅薄でチープな内容の論考が多々あり、恥ずかしくなる。他方、数年前の自分の方が高い見識だったのではないかと思う論考もある。過去の自分という他人の文章を読むのもおもしろい。

 

 

体系的に哲学の理論を構築する


私は、終わりのない小説創作を人生最後のコンテンツとして、このウェブサイトに表現していくことを目的としている。その小説のテーマは哲学であるので、体系的に哲学の理論を構築しなければならない。こちらが先だ。同時並行でやるにはもう少し熟成が必要。

哲学テーマには、人間の外側にあたる世界(人間を含めた世界)がどういう構造でどのように形成され、どのように動いているのかを明らかにする「実在論」と、人間そのものをテーマとする「観念論」とが、二大原理としてある。

前者は自然科学が先行すると考えており、私は後者の全域を体系化する。扱う範囲があまりに広く無謀かもしれないが、チャレンジだ。

暫定的な体系の骨格はつくった。

上記内容については、「人類哲学の独創」このページからスタートする。

中心とするのは「価値観原理」である。価値の原理ではない。価値観の原理を明らかにしていく過程に、価値生成の原理は当然含まれる。重要なのは、人間にどのようにして価値観が形成され変容していくかである。「脳」をターゲットとする物理科学的議論ではなく、「心」をターゲットとする心理学的議論でもなく、哲学としての議論を展開していく。

価値論はニーチェが手掛けたが、未完成のままだ。彼の価値論のつづきを引き受け、価値観の原理究明へと昇華させていきたい。

くしくも今日は、ニーチェ生誕の10月15日。

志、新たに。

 

 

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