概念も価値観も「今ここ」にしか存在しないのか


過去の歴史を振り返るとき、或いは過去の思想を解釈しようとするとき、まず、言語をもってその意味をとらえようとする。近世では音声や写真・映像が残っているものもあるが、それ以前を知ろうとすると文字と絵しかない。アリストテレスやカント、本居宣長らが残した文献つまり言語だけを頼りとするしかない。歴史的事実も同様にその瞬間的な事実はあっても、事実をつなぎ合わせたものは人間の創造によるストーリーである。

そしてさらに重要なことは、過去の文献で使われている言語概念が今と同じ保証はどこにもない。むしろ違っていて当然と思われる。紀元前500年にアテネで著された文献のなかの言語概念は、紀元前500年のものであり、たとえそこに紀元前700年のことが著わされていたとしても紀元前500年のアテネの概念によって書かれたものである。

「愛」という言葉がある。この言葉を使って語る文脈に「愛」概念は依存する。幅広い「愛」の語義があり、語感がある。語義のほうは辞書を使って意味を調べる。しかし語感は調べようがない。個人個人異なる「愛」の現実体験、恋愛映画鑑賞による「愛」の疑似体験、書籍から、他人の発する言葉から、多様な情報収受によって個人の「愛」イメージが形成され、新しい情報を得ることによって常にイメージは変容する。言語として自分が使う「愛」の語感に、自分個人の概念イメージを込める。しかし十人十色で概念イメージは個々異なるので、自分の発した「愛」イメージが完璧に伝わることはあり得ない。受け手の「愛」イメージによって解釈されるのだ。

日本語の「愛」と英語圏の人が使う「Love」とでは、歴史的背景、文化的背景、社会的背景、宗教的背景などが大きく異なるので、単語の語感は違って当然だ。それを、単純で乱暴な教育によって同じだと洗脳させられている。

言語は概念のごく一部を限定的に切り取る。概念のほとんどは言語化されるときに捨象されてしまう。つまり言語というものの性質は抽象であり、いくらその内容が具体的なことを指し示しているとしても一部の抽象だ。

究極的なことを言えば、私の頭の中にある無数の概念は、それぞれひとつずつ、「今ここ」にしかない世界で唯一の概念なのだ。その概念を軸に、他者の発する言葉を聞き、文章を読み、解釈する。または、自分が声に出し、文章に書き、表現する。今日、私がここに書いた断想も同様である。

価値観も同様なのかもしれない。

 

 

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