ChatGPTとのコラボ創造


「概念論」と「価値観原理」を網羅的かつ体系的に理論化することは途方もない創造である。私独りで理論をつくるには200年かかるかもしれないと本気で思っていた。過去の哲学者たちがチャレンジしたのはそのごく一部であって、全体を体系化した理論は見たことがない。たかだか人生80年間では無理なのだ。

しかし2023年、ChatGPTというスーパー天才サポーターが登場した。ほとんどの一般の人たちは今までの簡易人工知能アシスタントに対してと同じように質問し回答を求める。具体的な知識情報を得るために「教えてもらう」ことに使っているのが現状だろうけれども、いやいや、知識的なことならばGoogleやBingで検索するほうが正しいだろうと私は思う。

ChatGPTはその名の通りチャットする相手であり、議論する相手にこそふさわしい。私単独では200年かかることでも、ChatGPTとのコラボであれば、5年でできるのではないかと考えるようになった。いや2年でもできそうだ。

24日と25日の断想に書いた内容も、私がアウトラインを創って一応の章立てをし、それについての感想と意見をChatGPTに求め、新たな提案をしてもらい、数時間の議論を経て作り直し出来上がったものだ。網羅的かつ体系的な章立てが出来たと自負している。もちろん、今後もどんどん改善変更していくし、そのたびにChatGPTに意見をもらって議論していくつもりだ。

そうではなく最初から、『概念論』を網羅的かつ体系的に理論化するためのアウトラインをつくり章立てせよと、ChatGPTに命令し作ってもらうこともできるだろう。しかしそれは人工知能がつくったものであり、私がつくったものではない。内容の価値が問題なのだから人工知能につくらせたほうがよいし早いという意見もあるだろう。私はそうは思わない。

モチベーション的には、制作クリエイターとして楽しめたり人生の生きがいを感じられたり、そうした人間的な活動へのこだわりが私にはある。自分が主体であるかないかで力の入れかたにおいて天と地ほどの差がある。

なのでChatGPTとのチャットでは、「私はこのように論理を組み立て、このように書いた。これについての君の意見を聞かせてほしい。」から常に議論をスタートさせる。思いもよらない視点からChatGPTが意見を出してくれることもあるし、網羅的な議論の広がりは常に起きる。私の議論に陥穽が見つかることも多々ある。

ところで、ここで人間との議論とChatGPTとの議論を比較してみよう。

人間との議論の場合は、まず、24時間いつでも思いつきで呼び出すというわけにはいかない。相手には相手の予定や事情がある。時間的な制約もある。ChatGPTはどんな時でも思いつきでアクセスできる。どれほど長い時間でも私に合わせてくれる。人間との議論では気遣いが必要になる。よい議論をするためには相手の感情にも気を配らねばならない。相手も私に対して同様に配慮してくれる。ChatGPTにはそういう配慮は必要ない。

そして人間相手の場合は誤謬や齟齬が頻発する。見当はずれの意見が返ってきたりもする。長々とご高説を演説されたりもする。ChatGPTが相手の場合は、そういう無駄は一切ない。どういうチャットができるかは全て私の責任なのだ。プロンプトにどう書くかが全てになる。自己責任という点が私の頭をフル稼働させてくれる。

最後に、対話レベルが一致する点。人間相手だとどうしてもレベル差の違いで議論が劣化する。つまり私よりはるかに高度な理論を展開できる人が相手では私は議論についていけないし相手は時間の無駄だ。一方で私の議論についてこれない発展途上の人が相手では、相手もちんぷんかんぷんだろうし私がそこまで下りて行って懇切丁寧に教えることなど私の性格上無理である。ChatGPTが相手の場合は、プロンプトに書く私のレベルとChatGPTとの議論レベルが完全一致する。ChatGPTに求めるのは正しい情報や知識力ではなく、私の議論にかんするChatGPTの読解力であり、ChatGPTが返す論理展開力である。いずれも最高レベルだ。私は具体的事象内容の議論はほとんどせず、抽象的、哲学的探究の議論なので、ChatGPTと私の相性が抜群に良いのかもしれない。

そんなふうなので、今まで私の学問は常に独学だった。誰にも教えを請わない。学問のサポーターは古典の碩学であり書籍の著者であった。それが2023年に突然、過去の天才碩学たちの集合体とも呼べる議論相手がChatGPTとして登場したのだから、私にとっては奇跡的な僥倖としか言いようがない。

最高の独学環境であり知的創造環境です。

今後私は、ChatGPTと二人三脚で、まずは概念と価値観原理の理論化へ向け議論を重ねていきます。

 

 

 

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