概念という概念


「~とは何か?」の問いは哲学的だと言われる。私も長いあいだそう思ってきた。しかし、概念について細かく考えていくと「~とは何か?」という問いは、問い自体がおかしいのではないか?と思うようになった。

例えば、「哲学とは何か?」という問いでは哲学という「概念」を誰もが考えるだろう。ところが、7月26日の断想に書いたとおり、「哲学という概念」は普遍的なものに思えるが実は個人的なものであり、その問いを考える人のみにおける今ここにしかない「哲学」のイメージなのだ。この感覚が腹落ちする人はたぶんとても少ないと思う。かくいう私も、「哲学とは何か?」とか「自由とは何か?」という問いに普遍性のある答えが必ずあると思って何度も考えてきた。

なので私は、「~とは何か?」という問いではなく、別の問いの形で概念を扱っていこうと考えた。哲学という概念は、私個人固有のイメージに帰結する。哲学という単語一語だけでは概念は確定せず、文章の全体的な意味のなかに哲学という単語が使われることで、初めて哲学の語義と語感が現れる。「リンゴ」もそうだし「美しい」もそうだ。逆説的に言えば、そのようにしてあらゆる言語(名詞に限らず動詞や形容詞などあらゆる単語)が誕生した。

私がここで使用している「概念」は言葉を内包するが、言葉以外のイメージの範囲のほうがはるかに広い。

さて、そうすると「概念」を考えるには、概念という言葉の概念イメージについて考えねばならない。使用表現によって言語の語義語感が変わることを思うと、「概念の定義」についての議論はどうしたら良いのだろうか。概念、定義、意味、この三つの違いについて、まず考えてみよう。何をイメージとして、どのようにこの言葉が生まれてきたのかの語源から考えてみよう。

文末に、今夜の断想のヒントになりそうな論文の一部を引いておこう。

言葉の構造は閉じている、と構造主義言語学では説いている。言葉が全体として閉じている、ということは、言葉を使い、言葉で考える人は、簡単にはその外に出られない、ということである。人は言葉の宇宙の中に閉じこめられている。だからふつうは、その外に出るということを考えもしない、意識もしない。

その外に出ようとすると、ものすごいエネルギーが要る。

(中略)

言葉の限界の向こうには、もはや言葉の世界はない、が、現実の世界は、まだそこに拡がっている。

(法政大学出版局版 柳父章著『近代日本語の思想』)

 

 

TOP