星の王子さま(3)―Creativity


地球上の〈ぼく〉と星の王子さまは、飲み水を切らし砂漠の中の井戸を求めて歩き続ける。日が暮れて夜になってしまう。

「星たちは美しいね、見えない一輪の花のおかげで・・・」

「もちろん」とぼくは答えた。そして話すのを止めて、月光の下の砂の皺(しわ)を眺めた。

「砂漠は美しいね・・・」と王子さまはつけ加えた。

まさしくそれは本当だった。ぼくはずっと砂漠が好きだった。砂山の上に腰をおろす。何も見えない。何も聞こえない。それなのに、何かが、黙って光っている・・・

「砂漠を美しているもの、それは砂漠がどこかに井戸を隠しているということだよ・・・」と王子さまが言った。

ぼくは、砂の放つあの神秘的な光の意味がふいにわかったので、びっくりした。小さいころ、ぼくは古い家に住んでいた。そして、言い伝えによると、ある宝物がその家に埋まっているということだった。もちろん、誰もそれを見つけることができなかったし、たぶんそれを探そうともしなかった。しかし、その宝物が家全体に魔法をかけていた。ぼくの家は、その核心部の奥に一つの秘密を隠していた・・・

「そうなんだ。家でも星でも砂漠でも、その美しさを成り立たせているものは、見えないのさ!」とぼくは王子さまに言った。

「きみがぼくの狐と考え方が一致しているので、ぼくは嬉しいよ」と彼は言った。

(第三書房  対訳フランス語で読もう『星の王子さま』 )

 

王子さまの星の一輪の薔薇の花は、地球上の薔薇農園にあった五千本の薔薇と見た目は同じなのに王子さまにとっては価値が全く異なっていた。狐が「大切なものは目に見えない。本質は目に見えない。」と王子さまに教えてくれた。

夜空の星々のなかに王子さまの星があるけれどどれかはわからない。その星に咲く一輪の薔薇への思い入れが、夜空に輝く星々を、宝石を散りばめたような美しい価値に高める。

砂漠も同じで、どこかに井戸を隠しているという想像力をはたらかせなければ単なる不毛の地だ。彼ら二人はこの砂漠のどこかにきっと井戸があると信じたのだった。

 

誰かにとって全く価値のないものが、他の誰かにとってはものすごく価値の高いものになるという体験を私たちは日常的に感覚できてはいるのものの、それは言葉や論理によって説明できるものでも解明できるものでもない。

ここで何をどう捉えたら良いのだろう。

 

第一段階として、愛着や思い入れのあるモノや他者との関係作りがある。

第二段階として、そこから離れた時や見えない時の想像や洞察がある。

第三段階として、想像によっておのずと生まれる心情の創造がある。

 

第一段階の関係性の構築がなければ何も始まらない。

第二段階の想像力、或いは空想力、洞察力が弱ければ第三段階の価値は高まらない。

最も個人差が大きく難解なのは第三段階の心情の創造だ。

 

この己れの心情の創造は意識して行っているものではないし、経験によるものとも言い切れない。現に星の王子さまのピュアな心情は経験によって得られたものではなさそうで、大人になるにしたがって消えてゆくようにも思える。いったいこの創造の正体とはなんだろう。

 

わからない。

今後の課題としたい。

 

『星の王子さま』での大きなテーマとして今回は Creativity を考えてみました。関係性の創造、想像の創造、心情の創造、いずれも私たちは無意識のうちに行っていることだと思います。

 

 

元旦にあたっての幸福論


幸福であることが他人に対しても義務であることは、十分に言われていない。幸福である人以外には愛される人はいない、とは至言である。しかし、この褒美が正当なものであり当然なものであることは忘れられている。不幸や倦怠や絶望が、われわれすべての呼吸している空気のなかにあるからだ。そこでわれわれは瘴気(しょうき)に耐え、精力的な手本を示していわば共同生活を浄化する人々に対し、感謝と戦士の栄冠をささげる義務がある。それゆえに、愛のうちには幸福たらんとの誓い以上に奥深いものはなにもない。自分の愛する人たちの倦怠や悲しみや不幸以上に、克服しがたいものがあろうか。男も女も、そのすべてが絶えずこう考えるべきであろう。

つまり、幸福というものは、といっても自分のために獲得する幸福のことだが、もっとも美しく、そしてもっとも寛大な捧げものである、と。

(白水社版 アラン著作集2『幸福論』)

 

アランは感情は周囲へ伝染するものだと言います。憎悪の感情も幸福の感情も伝染するものであると。ゆえに、愛する人や周囲の人たちを幸福にしたいのならば、幸福を捧げたいのであれば、みずからが幸福になることは義務なのだと。

幸福とは心が満たされることだという広義の意味では、『老子』の「足るを知る」がそうなのかもしれない。しかし足るを知ったところで自己満足の域を出るものではなく未来への希望とはならない。老子のこの言葉は戒めの金言です。

幸福という名詞を「停止した状態」のごとく西洋風に使うよりも、私たち日本人は「幸せになる」や「幸せな気持ちになる」という心の動きを幸福という言葉の語感に感じとるのではないでしょうか。

そこには必ず比較対象となる過去の自分のこころがあって、知らず知らずのうちに相対化して幸せの感情を創りだしているのです。

アランの幸福論にそって言うのならば、私のこころは昨日よりも幸せでなければならない。いや、昨日よりも幸せであろうとする、その命運はみずからの主体性にあるのです。他の誰かが、社会が、白馬に乗った王子さまが突然現れて自分を幸せにしてくれるのではない。もし仮に偶然宝くじに当たったとしても、それはホンモノの幸せではない。

 

元旦にあたって私がまず手に取ったのはアランの幸福論でした。

多くの人が元旦には気分を一新し新年の誓いを立てたりする。今年はこうしようああしようと、自分の心のなかから湧き上がってくる志に前を向こうとする。ところが去年も同じではなかったかという疑惑が生じてきます。いったい去年の今日のあの志はどうしたのかと内省する。

アランは幸福になることは義務であり、「礼儀」だとも言います。

礼儀の優雅さはダンスのようなもので、一朝一夕にして礼儀を身に着けることはできない。習慣化してこそ礼儀を身に着けることができる。人が見ていない自分一人だけのときにこそ礼儀が試されると。

日本伝統の「カタチ(形)・型・作法」を大切にする文化には、アランの幸福論に通底するものがあることに気づきます。優雅な型の習慣化が礼儀となり、みずからの心に美しさをはぐくみ、愛する人へのもっとも寛大な捧げものになる。

 

昨年にはなかった「新しい型」を、今日より実践し習慣化していこうという新しい試みが、私のささやかな新年の決意であるとともに、みずからへの希望となりました。

皆さまにおかれましては、本年が幸多き一年となりますように。

 

平成三十年 元旦

 

 

星の王子さま(2)―Only One


今日の記事では星の王子さまの核心にいきなり踏み込む。

表題の『Only One』でなんとなく解る人はいるに違いない。しかしそのなんとなく解った人の期待を私はたぶん裏切る。

 

本題に入る前に、書を味読する際には一つの視点から理解しようとする方法と、多数の観点(視点ではなく)を混在させながら感じる方法とがあることを確認しておく。

『星の王子さま』での観点としては、地球に暮らす〈ぼく〉の観点、星の王子さまの観点、著者であるサンテグジュペリの主張にかんする観点、サンテグジュペリがなぜこう書いているかの心理学的観点、ほかの登場キャラクターの観点、作品全体の立体的観点、作品を覆う〈感じ〉の感性的観点、読者一般の成熟した成人の観点、読者である私の個人的観点、その個人的観点を観察するメタの観点。

この辺りが代表的な観点だろう。どれもこれも大切で、この観点群をひとつひとつ分断し分析しながらというのも良いと思います。まずは、全ての観点をカオスとしてごちゃ混ぜにして読むのが私のスタイルです。「なぜ」や「意味」を考えるよりも直感で感じるものを大切にしたい。

 

さて本題。

本作では Only One のテーマがある。突然空から降りてきた王子さまは僕に羊の絵を描いてくれとせがむ。僕はいくつか絵を描くが王子さまは気に入らない。もう王子さまの相手なんかしていられないやと思って箱を描いてやった。「このなかに羊がいるんだよ」と。王子さまはそれで納得したのだ。羊を描いてほしいと言った王子さまは、その箱の中に、自分自身で羊のすがたを描いたのだ。

王子さまのこころにイメージ化されている羊しか羊ではない。ここにOnly One の羊がある。

王子さまは一輪の花と一緒に小さな星で暮らしていた。この一輪の花の機嫌をとることに王子さまは面倒になって、お別れをしてしまう。そして地球に来てみると自分の星に一輪しかなかった薔薇の花が五千本も植えられていた。それを見て王子さまは、一つしかないと思って大切にしていた一輪の花が普通の薔薇に過ぎなかったことに気づき、泣いてしまう。

そうこうしているうちに狐と出会い、花との悩みについて相談する。

王子さまは狐にこう語る。

「一輪の花があってね、・・・その花がぼくを飼いならした・・・」

狐は王子さまにこう語る。

「頼むから・・・ぼくを飼いならしてよ!」
「ものごとは、飼いならして初めて知ることができるんだよ」

ここで「飼いならす」という言葉に違和感をおぼえるが、この会話の前に、狐は次のように説明している。

王子さまからの問いかけ

「『飼いならす』って、どういう意味なの」
Qu’est-ce que signifie “apprivoiser” ?

に対して、狐はこう答える。

「それはみんなが忘れすぎていることだよ。それは『絆を創る・・・』って意味だよ」
C’est une chose trop oubliée, dit le renard. Ca signifie “créer des liens…”

解説にはこうある。

「飼いならす」という通俗的な言葉に「絆を創る」という意味づけをしたのがサンテグジュペリ。apprivoiser というフランス語がここに「絆を創る」という意味を初めて獲得した。

 

狐とのお別れが近づいたころ、王子さまは自分が飼いならした狐との絆に気づき、自分の星にある一輪の薔薇と五千本の薔薇との違いにも気づいた。

狐はこう語った。

「心で見ないかぎり、ものごとはよく見えない。ものごとの本質は、眼では見えない。」

「きみの薔薇の花がそんなにも大事なものになったのは、きみがその薔薇の花のために時間を費やしてしまったからなんだよ」

「きみは、きみが飼いならしたものに対して、永久に責任があるんだ。きみは、きみの薔薇の花に責任があるんだよ・・・」

 

やがて王子さまは毒蛇に噛まれることによって一輪の薔薇の花がある自分の星へ帰ってゆく。

 

SMAPの『世界で一つだけの花』の作詞者が『星の王子さま』の物語を意識したかどうかはわかりませんが、一輪の薔薇の花は王子さまにとって Only One だと理解したのでした。

SMAPの歌に感動し、自分はオンリーワンなんだと勇気と希望をもたれたかたも多いのではないかと思います。「ナンバーワンよりオンリーワン」のコピーライトはブームにもなった。

 

思い入れのある生物や愛用品に愛着を感じる。人間でも赤の他人よりも身近かな人、親族に愛着を感じてはいるはずなのだが、空気のように当然そこにあるのでふだんはそれに気がつかない。しかも、面倒で鬱陶しくなってしまうことさえある。失ってはじめて気づく。

そうしたことは誰もが経験し、本来はもっと大切にしなければいけない絆だったのにと内省したり後悔したり。

私たちの周囲は Only One だらけで、自分自身もまた、誰かにとっての Only One なのです。

 

ここまでは、ベタ論。

 

星の王子さまの魅力とは、Only One に気づく前の彼にある。

本質的には、Only One も相対価値なのだ。その意味ではナンバーワンと何も変わらない。五千本の薔薇と比較して一本の薔薇が Only One ということであって、相対価値の基準を自らの主観に置くか普遍性に置くかの違いがあるだけだ。

王子さまは狐に理屈を教えてもらうまでは、一本の薔薇への相対評価など微塵も抱かずに絶対価値を置いた。相対価値としての Only One に彼は本心から納得したのだろうか。私にはそうは思えない。

相対評価は人間社会の理屈でしかない。

もちろん意味や価値の世界を知ることが人間社会で生きてゆくために重要であるという点は、大人の大部分が理解していることだろう。

『永遠の少年・『星の王子さま』の深層』の著者であるフランツ女史は、最初の王子さまの登場場面では、サンテグジュペリの幼児性が現われたと分析している。幼児性は社会人にとって解決しなければならない「問題」であるとし、克服すべき欠点としてレッテルを貼った。王子さまが徐々に成熟してゆく過程を良いことと評価した。

 

私は逆に、理屈を与えられたことで失ってしまった純粋性こそが「永遠の少年」というテーマの本質だと思っている。欠点ではなく生き生きとした個性。ゆえに物語の後半は、徐々にものわかりのよい星の王子さまに変わってゆくことにがっかりする。

星の王子さまが失った純粋性の一面を私は失いたくないのだ。Only One という価値は今の私の中にはないし、今後も有り得ない。自分のことを特別だとも思わないし、逆に普通だとか一般的だとも思わない。他方、愛着のある何かに唯一の意味や理屈などを付けない。なぜなら愛着の対象は絶対的なものだから。SMAPのあの歌詞は大人の理屈では「ああなんて素晴らしい詞なのだろう」となるのかもしれないが、「永遠の少年」の心にはまったく響かない。私だけかもしれませんが。

 

サンテグジュペリが企図した主旨と私の論考は異なると思います。けれど、「飼いならす」という一方的な、しかも権力的な行動を「絆」という双方向のラインへ狐が誘導し、「本質」という大人の言語をもちいていることに、フランス人特有のアイロニー(皮肉)の可能性を私は捨てきれなかった。

本記事後半では、地球上の「ぼく」の観点とも、一般的な星の王子さま評論とも、情緒的に成熟した観点とも異なる価値観で書きました。

 

 

星の王子さま(1)―Prologue


『Le Petit Prince (星の王子さま)』

Antoine de Saint Exupéry サンテグジュペリ(1900-1944)作

 

1943年に出版されたこの書は現在、200か国以上の言語に翻訳され、世界的なロングセラーとして多くの人たちに愛読されている。日本語版も20社を超える出版社から刊行されており、それぞれの邦訳を楽しむことができる。

「少年だったときのレオン・ヴェルトに」と宛てられた同書冒頭の一節にはこうある。

「昔その人が子供だったその子供に、この本を捧げることにしよう。おとなはみんな、はじめは子供だった(しかし、彼らのほとんどはそのことを覚えていない)。

サンテグジュペリは読者へメッセージを送る。「いまの君のこころに、君が子どもだった頃のあの無垢な気持ちがどこかに残っていないかい?」と。

この問いかけによって想起される何かがあって、読者の胸を打ち続けていることが、今なお世界中の人たちに愛読されている理由ではないか。

 

数年前になりますが、以前に続けていたブログサイトで『星の王子さま』について幾つかの記事を書いたことがあります。

パソコン内に記事のログはあると思うのですが、量が多過ぎて見つけるのに骨が折れることがひとつ。以前に書いた自分の記事を読まずに今あらためて読み直したらどうなのかなという興味もある。そうした理由もあって、いまの新鮮な気持ちで、この著書にかんする私の内面価値をアップデートするのもいいかなと考えました。つらつらと論考を書いてみたいと思います。

『星の王子さま』をリクエストくださり良い機会を私に与えてくださったYさんに感謝します。

 

論考を書くにあたっては以下の仏日対訳本から引用します。

第三書房版 『フランス語で読もう 星の王子さま』訳 小島俊明

 

上記に述べたとおり、この書では人間の無意識に眠る「童児のこころ」を垣間見ることができる。著者においても読者自身においても。分析心理学者のカール・グスタフ・ユングはこのモチーフに「永遠の少年」と命名した。

この書を再度味読すると同時に、大人の男性の無意識にある「永遠の少年」傾向の考察をしようと思う。女性のかたで勘の良いかたは全ての男性の一面に無邪気な子供の影をみることができるかと思いますが、男性自身ではなかなか気づかない人もいるようだ。この傾向が強い男性もいれば、大人として成熟し、この傾向がほとんど見られない現実的な男性もいるのかもしれない。

 

無意識の分析心理学については下記の書を考察の対象とし引用します。

カール・グスタフ・ユング(1875-1961)著 『元型論』
マリー=ルイズ・フォン・フランツ(1915-1988)著『永遠の少年/「星の王子さま」の深層』

 

フランツ女史は1934年よりユングに師事し、ユング派の分析心理学者として終生にわたって無意識心理学の研究に携わり、チューリッヒ・C.G.ユング研究所で講師を務めた。一番の弟子とされ最もユングから信頼された彼女は、数々のユングの著書の編集に携わり、師弟関係というよりも後期においては共同研究者であった。ユングの死後はその仕事を引き継ぐとともに、彼女独自の研究による数々の書を著した。

 

なお、「永遠の少年」というモチーフは、現代の心療内科が、トラウマを克服できない患者に名づけた「アダルトチルドレン」とはまったく異なる。こちらは男女の性差はなく、「永遠の少年」は男性だけという違いもある。

男性諸氏にとって「永遠の少年」傾向を自分のテーマとしてとらえた時、耳が痛い弱点として克服しようとするのか、魅力的な個性として活かしていこうとするのかはその人次第と言ってよいでしょう。

私は活かしてゆくほうをメインとします。

「永遠の少年」についての考察は私にとってとても楽しく、かつ、必ず有意義なものになることを確信している。

 

 

リベラリズム考(11)―新構想


今回が本シリーズのラストの記事となります。

 

新しいリベラリズムを構想する。

個人主義と共同体主義の公正、自由と正義、自由主義の他律化など、相反する価値が混在しているリベラリズムは下手をすれば社会混迷の原因になりかねない。克服すべき点は多いがもっとも現実的な「寛容のパラドックス」を題材に、新しいリベラリズム構想を練っていくことにする。

 

■ 現代における寛容・多様性を認めよ運動

右側に挙げた各主義はリベラリズムの寛容と衝突する場面をよく見かける代表的な主義で、衝突の場合もあれば融和する場合もあり、上記に挙げた以外の主義も当然ある。このA図ではあくまで対立する主義に対して、リベラリズムが「あなたたちは多様性を認めるべきだ」と主張することを示したもの。

しかし、右側の主義から「多様性を尊重するのならば我々の主義主張も多様性のひとつとして認めるべきだ」とリベラリズムは反論される。

A図の先鋭化した運動で、リベラルからの非多様性主義への言葉狩りなどの攻撃、社会の側から同調圧力をかけようとするメディアの喧伝もあり、息のつまる閉塞した社会になってしまっている現状がある。表現の自由は大幅に制限されており病的とも言えるレベル。多様性の押し付けが不寛容化しているのだ。

次に、アメリカの最高裁判例にもあるが、多様な主義を寛容の精神で許容した場合にどうなるか。

 

■ 多様な主義を内包するリベラリズム

 

リベラリズムが多様な主義を内包しようとする。それはそれぞれの主義を一方的に認めることであって、排他的な主義、多様性を認めない主義をも認めることとなる。

B図の内包は次のC図と同義となる。

 

つまるところバラバラの主義が乱立してしまうだけで、アメリカではリベラルと保守主義の対立の溝が深まった。A図とC図の双子のリベラリズムがアメリカンリベラルのジレンマの正体だ。

リベラリズムはそのままでは寛容のパラドックスを克服できない。井上達夫氏は自著の中で「反転可能性テスト」という方法を用い、「相手の立場に立って自分が許容できないことは正義ではない」という論法で多様性受容のための克服を企図しているが、少々強引に正当性を図るための理屈論だというのが今のところの私的感想です。根本的な寛容パラドックスの解決にはならないと思う。

 

■ メタリベラリズム新構想

私は次のD図の、メタリベラリズムとリベラリズムのダブルビュー(二重視点)による立体的なリベラリズムを新しい構想として提唱したい。

 

メタリベラリズムは全体の高次の視点からリベラリズムをも内包する。

メタリベラリズムだけではメタにならずB図になる。リアリティは内側のリベラリズムにある。二重性が重要なポイントだ。

内側のリベラリズムは常にメタリベラリズムの視点に沿って、メタの全体性において「どの程度まで寛容を主張したらよいのか」のさじ加減を整えるのである。多様主義の全体性にとって最も重要な点は、保守主義や民族主義、社会共産主義、独裁専制主義にいたるまで、『共存』を第一義とし、よほどのことがない限り潰してはならないということ。メタの寛容精神である。メタの視点をもったリベラリズムは社会に向けて、或いは社会の側から寛容を押しつける主張はしない。排他主義についてはけん制しつつ、みずからは多様性を実践し、みずからが排他主義者を排除する排他主義者にならないこと。

「怪物と闘う者はみずから怪物にならないように注意するがいい。君が深淵をのぞきこむならば深淵もまた君をのぞきこむ。」(ニーチェ『善悪の彼岸』146番)

 

このメタ認知と現実主張の二重性、二面性は、社会における個人においても、行っている人は無自覚のうちに行っているはずだ。

メタの視点で全体観をもって、左の主張が強すぎれば右の側に沿った主張をし、右の主張が強すぎれば左の側に沿った主張をする。極端に左右に偏った主張をする場合すらある。

「衡平(こうへい)」を感覚的にとらえ、常に一方が極端に勝ったり負けたりすることを防ぎ、両者の溝を深めてしまわないようにし、全体がどこへ向かえばよいのか、全体がどうあったほうがよいのかに常に気をくばる。もちろんその全体性に明確な正しい道、正解や正義は無いが、メタの「正しさ」を考えようとすることと全く考えないのとでは格段の差がある。

 

一個人の内面価値を考えても、リベラリズム、保守主義、ナショナリズム、グローバリゼーション、家族主義のほか複数の価値観が混在しており、時と場面、相手、自己心理によって使い分けているほうが自然であるし健全だろう。無理をして一元の主義やイデオロギー・宗教観に自分を染め、原理主義的主張をするのはあまりに単純で、人間知性の劣化へばく進しているように感じられてならない。

 

D図の右側に「他律」を入れてもいい。

「他律で生きたい」、もっと言えば「依存で生きたい」という人を否定すべきではないと思う(正直に告白しますが私は他律をずっと批判していました。考えが変わりました)。自律したいという内発があってはじめて自律が成立するのであって、自律を押しつけたり誘導したりすれば相手側にとっての他律にほかならない。

すべてにおいて自律できるはずもなく、国家や法や社会の秩序、その時代の道徳やモラル、そうした他律に従うことで自律や自由が生きるというのは疑いようのない事実である。そのことを深く理解したうえでリベラリズムは堂々と自律を主張すべきだ。

 

メタリベラリズム構想は、マルチカルチュラリズム(多元文化主義・B図とC図)を二重化した世界観ですが、更に、三重化も可能ではないかとぼんやり考えています。

以上で、今回のリベラリズム考シリーズは終了です。

 

 

リベラリズム考(10)―概括


今回のシリーズで、リベラリズムについての要点をある程度はあきらかにすることができたと思う。しかし、遠く2500年前の古代ギリシア時代に淵源をもつ、リベラリズムの歴史における深淵の一端をうかがえたに過ぎない。本格的な独自考察は今後じっくりと進めるつもりです。ジョン・スチュアート・ミルの『自由論』、アイザィア・バーリンの『自由論』、ジョン・ロールズの『正義論』、マイケル・サンデルの共同体主義からのリベラリズム批判などを中心に関連著書を味読し、新しいリベラリズム構想のヒントとしたい。

本稿ではここまでの理解を整理し見解を概括しておくことにします。

 

■ リベラリズムの四原則

1.公正としての正義秩序を社会に構築し、その中で個人の自由を最大化する。

2.多様な個性、文化、思想をもつ人々が共存できる社会を目指す。

3.自律した個人主義に基づく成熟した共同体を形成する。

4.固着した価値観に囚われず、人間の理性の力を信じ社会を変革してゆく。

 

■ リベラリズムの陥穽

1.公正が独善となって社会圧力が強まり、全体主義的に価値一元化した正義になることがあり得る。

2.道徳と正義公正の衝突、道徳と多様性の衝突、表現の自由と人権の衝突、人類が築いてきた制度と自由権の衝突、これらが起こった場合にリベラリズムを原理主義的に振りかざせば、悪や不公正、逆差別が勝利することになりかねない。

3.進歩主義の変革による結果が国民や人類にとって善となるとは限らず、不幸で悪となる可能性が十分にある。

4.国家の伝統や文化慣習が次々に破壊され、歴史の重みのない浅薄な国柄になってしまう。

5.現代日本の現状では自律を欲する人は少数派であり、しかも自律可能な人はわずか一部である。大多数の人々は宗教を含め他律に依存することを欲する。他律をも多様性として内包できることがリベラリズムではないか。

6.寛容は不寛容を寛容できない(寛容のパラドックス)。もし排他主義や差別主義的な者を多様性として寛容すればその者たちはやり放題となり、しかも排他的に外部に敵をこしらえ内部求心力を高めるのであるから、強力で横暴な勢力となるのは現代を鑑みても、或いは歴史が示すところを鑑みても自明である。

 

■ リベラリズムの欠陥回避

1.リベラリズムを原理主義的に扱うことを避ける。他の社会善的価値と衝突した際には全体性のバランスを考慮し折れるところは折れ、主張が先鋭化しないように抑制する。急進的で硬直的な変革ではなく柔軟で緩やかに、時間をかけた厚みのある変革を目指す。

2.リベラリズムの主義主張を他者や社会に押しつけない。メディアや社会がそうした空気を作って国民に圧力をかけることは個人の自由意思と意志決定の自由を阻害する。それは社会からの他律により人を動かそうとするものであって、リベラリズムの思想とは逆行する。個人の内発的自律がすべてだとする。

3.多様性や寛容を主張しない。成熟した個人主義の資質としてみずからが内的に多様であることを理解し、自分の個性の自由を他者や社会へ向けて主張するのであるから、他者の個人主義的多様性を認めることや寛容の精神は内包できる。共同体における他者関係の公正性がこれを支える。

4.リベラリズム的価値を固定化しない。善悪観や正義概念は時代と共に移り変わってゆくものであることを忘れずに、価値を普遍的に固定化しようとせず、次世代を築いてゆく人たちに新しい価値創造を委ねる勇気をもつ。次世代を担う人たちもこの精神を承継してゆく。

5.ケースによってはリベラリズムを否定する原理主義的に扱わないことによって生じる不利益はリベラリズムの論理一貫性を欠くところにある。一貫性を欠くことよりも大きな不利益が生じる可能性が予測できるときには、人間的な総合判断によって一貫性を欠くことをためらわない。

 

以上が今回のシリーズにおけるリベラリズムの概括です。

欠陥回避の方法を私になりに考察してみましたが、寛容のパラドックスや他律を望む人はどうなのかなどの課題はそのまま残ってしまいます。すべての課題を超克できる新構想を考えています。今のところその発想は端緒だけですが。

次の記事ではリベラリズムの新しい構想私案の概観を記し最終回とします。

 

 

リベラリズム考(9)―批判


リベラリズムには多面的な主張があることが解ってきた。

自由に境界を超えてゆこうとすること、現状の価値を理性の力によって変革しようとすること、進歩を良いこととすること、先入観の排除および事実と分析、個人主義と自律、他者の個人主義的主張を理解し認める寛容、公正としての正義など。

19世紀よりこうした多面的価値観が交錯しながら、つまりある面とある面では矛盾を抱えつつもそれぞれの主観上で半ば強弁的に整合性をもたせ、「啓蒙的な社会運動」の色合いを濃くしていったのである。

不寛容に対する寛容、グローバリズムとグローバリゼーション、自律の他律化、リバティのフリーダム化等の矛盾と葛藤をそのままに、現代ではメディアや自称リベラルがリベラリズムとは言えないリベラルを気取り、大衆を煽り立てた活動が先鋭化している。(ポリティカル・コレクトネス等)

上記のリベラリズムにおけるそれぞれの多面的性格への批判は、例えば共同体主義(コミュニタリアニズム)や保守主義(コンサヴァティズム)と価値対立する点においては当然ある。価値の対立については今回は立ち入らない。

 

今回取り上げるのは、リベラリズムという社会運動に対する批判である。リベラリズムを社会運動化したことによって、個人のリベラリズムの自由と自律を台無しにしてしまっていることについて、ニーチェは以下のように看破している。

それは、あまりに長いあいだ、霧のように「自由な精神」という概念を不透明にしてきた、古い愚かな先入観と誤解を、われわれ双方から吹き払わなければならない、という負い目なのだ。ヨーロッパの国々や、また同様にアメリカにも、いまやこの名前を濫用しているあるものがあり、われわれの意図や本能のなかにあるものとはほぼ反対のものを欲する、ある非常に偏狭な、捕えられ鎖につながれた種類の精神の持ち主がいる。(中略)

彼ら、この誤って「自由な精神」と呼ばれる連中は、手短かに悪い言い方をすれば、水平化する者たちの仲間であり――民主主義的な趣味とその「近代的理念」の能弁で筆達者な奴隷である。

彼らはいずれも孤独をもたない人間、自分自身の孤独をもたない人間であり、勇気と一応の礼儀を心得ていないわけではない、野暮で健気な若僧たちだが、ただ、ひどく不自由で、おかしいほど浅薄であって、とりわけ、これまでの古い社会の諸形式のなかに、ほぼすべての人間的な悲惨と失敗の原因を見ようとする、根本性向をもっている・・・・・・そこで、真理は幸いにも逆立ちすることになるわけだ!

彼らが全力をあげて手に入れようと努力しているのは、万人のための生活の保証、安全、快適、安心をともなった、畜群がもつ、あの一般的な、緑の牧場の幸福である。彼らがたっぷりと歌いあげた歌と教説はといえば、「権利の平等」と「すべての悩めるものに対する共感」の二つであって――つまり苦悩そのものは彼らによって、除去されなければならないあるものとして受けとられるのである。

われわれ逆の立場に立つ者、これまで「人間」という植物はどこで、またどのようにしてもっとも力強く大きく成長してきたか、という問いに対して眼と良心とを開いたわれわれは、次のように想定する――人間の成長はその都度これとは逆の諸条件のもとで行われたのであって、そのためにはその状況の危険性が巨大なまでに増大しなくてはならず、その工夫と扮装のちからが(その「精神」が――)長い圧迫と強制のもとで繊細かつ大胆にまで発達し、その生の意志が無制約の力の意志にまで高められなければならなかったのだ、と。

――われわれはまた想定する――苛酷、暴行、隷属、路上や胸中にある危険、隠遁、ストア主義、あらゆる種類の誘惑術と悪魔的所業、さらには、人間におけるすべての邪悪なもの、恐ろしいもの、暴虐なもの、猛獣や蛇のような性質は、その反対物と同じくらい、「人間」という種族の向上に役立っているのだ、と。

(中略)

われわれ「自由な精神」がまさにもっとも話好きな精神でないからといって、何の不思議があろう? われわれがまた、精神というものは何から自己を解放しうるのか、その場合には精神はおそらくどこへ駆り立てられてゆくのかを、どんなことがあっても洩らしたがらないからといって、何の不思議があろう?(中略)

われわれは「自由思想家」すなわち「リーブル・パンスール」や「リベリ・ペンサトーリ」や「フライデンカー」とはある別のものであり、「近代の理念」の代弁者を好んで自称する、これらすべての健気な連中とも別のものである、と。

(白水社版 ニーチェ全集 ニーチェ著『善悪の彼岸』44番「第二章 自由な精神」 )

 

われわれの「自由な精神」と、リベラリズムを社会運動として「我こそは自由な精神だ。解放者だ。」と唱えている人たちとは全く違う、むしろ真逆な自由な精神を論じている。

 

文中、「水平化するもの」とは、平等の名のもとに「みんな同じ顔になれ!」と社会の側から命令する、自由主義を全体主義化した「社会からの専制」運動のことを言う。

何について平等を目指しているかと言えば、「万人のための生活の保証、安全、快適、安心をともなった、畜群がもつ、あの一般的な、緑の牧場の幸福」であり、苦悩は除去されなければならないとする理想。

もしかするとそれは当然じゃないかと考える現代人のほうが多いかもしれない。しかしニーチェは深い。

けっして、個人みずからが、安全や快適、安心を求めることを全面否定しているのではない。苦悩や危険、邪悪、恐怖は、その反対物と同じくらい、「人間」という種族の役に立っている、と言っているのがその証左である。

人道的に人間同士が殺し合う戦争は悪であり平和を善とする価値に間違いはない。しかし歴史を俯瞰すれば戦争が人類種の役に立ってきたとも言えるのだ。少なくとも戦争によって人類種が滅亡することはなく、逆に七十数億人まで増え続けているのだから人類種にとって戦争は悪だとは言い切れないと、柔軟に思考することが哲学である。

むしろ植物が剪定されて枝ぶりが良くなるように、厳しい自然環境に適応した生物だけが生き残ってきたように、競争淘汰と適者生存の双方が機能して人類種が成り立ち、人類種においても同様の仕組みが機能したことによって爆発的に人口が増えて現代人に至っている。

 

しかしニーチェは自分で述べておきながら禁を侵しました。本質的な「自由な精神」は外へ向けて自由な精神を語ってはいけないにもかかわらず、ニーチェは上記のように同著で述べてしまったのです。人類種にとって本質的に必要な「自由」は、ニーチェ自身が述べているとおり自由の肯定論を述べてしまうことが読者にとっては他律となりかねない。ニーチェの「力への意志」はナチスに利用されることになってしまった。

 

文中、「リーブル・パンスール」は原著で libres-penseurs (フランス語)、「リベリ・ペンサトーリ」は liberi pensatori (イタリア語)、「フライデンカー」は Freidenker (ドイツ語)となっておりいずれも英訳すれば Free thinker です。章タイトルの「自由な精神」は原著で freier Geist 、英訳本で free spirit 。

ニーチェは「超人」というモチーフ(ロールモデル)を創造しました。これは Superman と英訳されているのですが、原著では Übermensch す。この場合にドイツ語の Überbeyond の語感が相応しく、日本語義的な万能のスーパーマンではなく、原義は「人間を超えて(ゆく何者か)」であります。ここは重要なポイントだと思います。

あらゆる近代的価値にNOを突きつけ価値転倒を試みたのがニーチェ哲学であり、先入観を疑い、現時点での流行的なモノに対して徹底的な変革を望み、人を超えてゆく超人という概念さえをも創造しました。彼の述べる自由な精神とは現代で言うのならばリバタリアニズム(超個人主義)であり、他律を断固として拒否し徹底した自律を説いている。まさに、ニーチェは正真正銘、最強のリベラリズム哲学者でありました。

 

次はリベラリズム考シリーズのラストとして、現代的リベラル社会運動ではないリベラリズムの本質としてあるべきすがたを私なりに整理し、現時点での総括とします。

 

 

リベラリズム考(8)―正義


リベラリズムの淵源である「啓蒙思想」は、理性の光によって公正な社会を啓(ひらく)くことであった。では、公正とはいったい何か。さっそく理性の光で照らし、リベラリズムの本質と「正義」との関係を掘り下げよう。

 

現在の日本でリベラルの権威は誰かと問えば、井上達夫東大教授の名が挙がるだろう。井上氏によれば、リベラリズムとは正義主義だという。

井上氏が東京大学卒業後にハーバード大学哲学科に留学した際、直接、ジョン・ロールズ(1921-2002)の講義を受けている。『正義論』を著したロールズから多大な影響を受け、2012年に『世界正義論』を刊行している。

今年、『自由の秩序』というタイトルで、2008年に刊行した『哲学塾・自由論』に大幅に加筆した文庫本を刊行している。そのあとがきには次のように書かれている。

(1)リベラリズムの根本理念は自由ではなく、自由を律する正義である。

(2)リベラリズムの制度構想としての権力分立は、立法、行政、司法という国家の異なった権力作用を抑制均衡させる「三権分立」に止まらず、国家・市場・共同体という対立競合する秩序形成メカニズムの間の抑制均衡を図る「秩序のトリアーデ」へ発展させるべきである。

(岩波文庫版 井上達夫著 『自由の秩序』)

 

自由には秩序が不可欠だというのが井上氏の見解。その自由を律する秩序は正義だと言うのである。Liberty の語感には「動き」が含まれると リベラリズム考(4) で述べたとおり。その Liberty の動きに勝手な振舞いをさせず、正義によって律しようとする理論である。

ところで、先に触れておかねばならないが、日本人が主に使用表現する「正義」の語義と、ヨーロッパの「Justice」のそれはずいぶん異なる。

日本人は「正義」という語を辞書の語義を調べて使用表現するだけだが、ヨーロッパでは古代ギリシアの時代から正義概念について哲学し続け、さまざまな論争を経ていまだに「正義とは何か」の決着をみていない。

 

『岩波哲学思想事典』からざっくりと正義の歴史を紐解くことで、「西洋の正義」を考えてみることにする。

 

古代ギリシアのピュタゴラス学派は正義を「応報」とした。しかしソクラテスは正義を「国法に従うこと」とした。よってソクラテスは国法が間違っているかもしれないのにもかかわらず、毒杯を飲んで死んだのである。

彼はとことん正義を貫いた。相手が不正を行っても仕返しにこちらが不正をすることを禁止した。

つづくプラトンは、正義は国家の「調和」のためにあり、各々が本来すべき役割を実行するとし、個人の内面においてもこの原則を崩さず、己の理性が命令し、気概がこれを補佐し、欲望がこれに服従するときに、調和的で力強い正義の人となるとした。

アリストテレスは正義を「共同体的な徳」であるとし、「公正」的な概念を創出した。狭い意味では、ひとつは従来からある応報の意味で「匡正的正義」、もうひとつは各個人における価値や能力に応じた平等で「配分的正義」とした。

キリスト教の「義」とは神との正しい関係を表わす。神の側からは救済的恩寵、人の側からは神の義と律法に適う生き方をそれぞれ意味する。

 

さてここで一息ついて、「正義」と「義」のヨーロッパ的相違を確認するために単語を調べてみよう。

正義・・・[ギリシア語]dikaiosyne [ラテン語]justitia [英語]justice [フランス語]justice [ドイツ語]Gerechtigkeit

義・・・[ギリシア語]dikaiosyne [ラテン語]justitia [英語]righteousness [フランス語]justice [ドイツ語]Gerechtigkeit

以上のとおり、英語以外は同じ単語である。(『岩波哲学思想事典』

 

 justice・・・1.正しさ、正義、公正、公平 2.正当(性)、至当、妥当 3.当然の報酬(処罰) 4.司法、司直、裁判 5.裁判官、判事 6、正義の女神 (以上、『グローバル英和辞典』)

righteousness ・・・1.道徳的な正しさ、高潔、廉直 2.当然 (以上、『グローバル英和辞典』)

英語の「義」はキリスト教道徳の語感が強い。ジャスティスは社会的な「公」の正しさが前面に出てくる。

公正では他に fairness がある。これは主に、言動を行うその人の性質、およびその言動のすがた。他方では、人がかかわるなかでの公正さ、例えば取引じたい、商品価格じたい、などの文脈で公正を表現する。

 

正義概念の歴史に戻る。あと半分だ。少し駆け足でがんばろう。

中世では主だった変化はなく、トマス・アクィナスによる、アリストテレス、、ストア派、キリスト教それぞれの正義概念の統合を試みた正義論がある。

こうしたキリスト教正義との統合は、近代に入ると「契約」の色合いが強くなる。人間相互の契約によって正義が成り立つとする。

ホッブズは、自然状態には正義という価値は存在しないとし、人間が共倒れにならないように相互契約を交わし遵守することを正義だとした。人間の「自己保存」という文脈で正義が語られる。

ロックは、自由、生命、財産からなる所有権にかんする、特に労働によって得られた財産の「保証」として、政治と法は公正を担保する、それを正義とした。

ルソーは、人々の私利私欲を排した「公的意志の合意」から正義が生まれるとした。

カントは、人々のアプリオリの意志から生まれる公民体制で実現する「根本規範」を正義とした。

以上からは、社会の利益、人々の利益、それを生み出すためまたは確保するため、不公正にならないようにする社会契約的意味が大きいように感じ取れる。

 

一方、ヒュームは社会ではなく人の側から感情の共有にフォーカスし、慣習的な暗黙の了解によって互いの感情を害さない公的意識の高さを「人為的徳」と見なし、正義は人の属性とした。

A.スミスは、ヒュームの正義観念を社会経済論に援用し、経済体制を支える支柱が正義であるとした。その系譜は、個人の感情論から全体の「快」=幸福を最大化することを正義とした功利主義のベンサム、弱者救済のための分配的正義を提唱したJ.S.ミルへと繋がてゆく。

他方、マルクスおよび社会主義者たちは、社会的不平等の打破または是正を正義だとし、資本主義が生み出す富の不平等や偏在を変革や革新によって乗り越え、平等な社会を実現することに正義の本質をみていた。

 

現代では、1971年に出版されたジョン・ロールズの大著『正義論』を皮切りに正義論争が勃発する。ロールズが着目したのは大衆の多くを占める無知な人々や不遇の人々である。

ロールズの正義の原理は2つある。

第一原理として、各個人が最大限に平等な政治的・思想的自由をもつことの保証。第二原理として、社会的・経済的不平等の打開と機会均等の原則による弱者や不遇な人々の救済。平等主義的、社会主義的ともいえるリベラリズムの正義論である。

ノージックはロールズの批判をしつつも、個人の権利や利益のために社会の側から正義を論じる姿勢に変わりはなかった。

一方、コミュニタリアニズム(共同体主義)の論者、マイケル・サンデルやチャールズ・テイラーがロールズのリベラリズムに対抗する。個人の権利実現を中心とした正義論ではなく、共同体の善や人間の責任、義務を中心とした正義論を彼らは提唱する。

その他にも、「正義」という社会構想は多々あり、日本の井上達夫氏は、法哲学からの正義論を試みている。

 

さて、ここまで見てきて思うのは、日本の「正義」と、西洋(現在では米や豪などの先進国を含む)の「ジャスティス」との、語感のギャップである。

日本の正義の「義」は中国儒教の「義」を基にしているとはいえ、中国の義とはこれも異なる。義理人情、義挙、義憤などに使われるように、人の道の筋を通すこと、公共のための献身、直接自分には関係のないことに対する自己犠牲の情、透徹した非情の正しき理などが複雑に絡みあい、日本の正義にしても多義的である。

 

リベラリズムのジャスティスとは、バランスのとれた「公正」的意味、社会的意義として、justice as fairness が伝統的な考えかただと言える。(ロールズもそう指摘しているが、一方で、アリストテレス~ヒュームの流れにある人徳としての正義価値もある。)

問題は、justice as fairness をどう規定していくのか、れが西洋2500年の正義観論争の主たる歴史的テーマである。

冒頭に紹介した『世界正義論』の著者井上達夫氏は、独自の正義概念の議論を展開しているが、ロールズ、ノージック、バーリン、サンデルほかの議論を理解できていなければならず、正直、今の私では手に負えない。触れるのは別の機会とし今回のシリーズでは立ち入らない。

ロールズの大著『正義論』は現在読書中。議論できる準備ができればまたそのときに。

 

次の記事ではリベラリズムにかんしてのリベラル的批判について、ニーチェを引用しつつ書く。

 

 

リベラリズム考(7)―自律


前記事の後半で言及した「自律」については、個人主義において重要な位置を占めると思うのでもう少し掘り下げてみたい。

まず、西尾幹二氏の言葉を引いてみよう。

ことさらに社会的意識を標榜せずとも、ただ「個人」であることによって、じゅうぶん社会化された個性を発揮できるというのが真の個性の意味なのである。(中略)

「個人」が自律的であるということは、「社会」からの解放や自由や独立を意味してはいない。そう考えて、ヨーロッパにおける「個人」のあり方を権威からの解放や、反封建、因習打破の目じるしにしたところに日本近代が大きな「空虚」にさらされることになる原因があったといえよう。

自律とは、解放によってははたされない。むしろ帰属によってはたされるべき性格のものである。ただ、帰属とは、同化であってはならない。自分と他人との区別を曖昧にし、肌暖め合う家族主義的集団のなかに没入し、同化することは、けっして帰属にはならない。

(PHP新書版 西尾幹二著 『個人主義とは何か』)

 

ヨーロッパの個人における自律とは、社会と個人との緊張関係があって初めて生まれるものだ。宗教関連の社会集団(例えば教会)とのかかわり、仕事をする上での経済にかんする組織(例えば会社)とのかかわり、プライベートの趣味スポーツ等にかんする集団(例えばチーム、ボランティア)とのかかわりなど、常に複数の社会集団と自分との関係がある。

それらの秩序は私にとって外部から課される他律的なものだ。

複数の他律と自分自身が協調するために自律が必要なのであって、個人であるために自律が必要なのではない。フリーの立場になることやジプシー、ボヘミアンになることと自律とは無関係だ。自立や自由ではない。

そして社会集団に帰属する際、なれ合いの同化であってはならないと西尾氏は言うのである。先に書いたように、ヨーロッパ人は自分が良くなるために、社会が良くなることを必要としない。共同体と信頼関係をもって依存することを求めない。

複数の社会集団とかかわりを持つなかで、自己を主張し精神バランスを保つうえで自律が必要不可欠となったのがヨーロッパ社会である。厳しいドライな感覚を個人個人が所有していることを、彼らは個人間で暗に了解しているのである。

 

 

視点を変えて、外に対する主張としての自律ではなく、自分自身にとっての自律における内面的価値はなにかを考えてみる。

今回のリベラリズム考シリーズの (2)啓蒙 では、フランス、ドイツ、スコットランドの、それぞれカラーが異なる啓蒙思想を学んだ。そのうちのドイツ啓蒙思想、主にカントの知見が自律についての考察を深化させてくれると思う。

 

〇 自己自身に責めのある未成年状態から脱却すること

〇 常に自ら思考するという原則

〇 先入観からの解放

 

私たちは他律に囲まれている。

国家の法律や地方自治体の法令。現代倫理観やマナー。宗教信仰している人はその宗教の教義。傾倒している思想や主義、イデオロギー。会社に所属していれば会社の内規。家族間や友人間で暗黙のうちに取り決められている約束事項。さまざまな場面での作法のようなもの。一般常識と言われる何か。他にもまだまだあろう。

他律に自分を委ね、何もかもをその他律の判断に照らし合わせ、是非を確認しようとする現代人が激増しているように感じる。法的な判断に従えと。道徳的に判断してどうのこうのと。既存の法や道徳を当てはめ、判断を他律に委ねれば良いと。それは確かに気楽で合理的なのかもしれない。しかし、人格みずから責任を負わずに逃げ、他律に責任を負わせるという態度はその人の存在価値を自ら放棄しようとすることにほかならない。なによりも思考停止だろう。

自律とは、カントの述べているように「常に自ら思考するという原則」に沿って、既存の法や道徳の「先入観」から自分自身を解放し、「未成年状態から脱却すること」がそれである。

より重要なことは、カントが人間の尊厳の根拠を、門地・身分といった伝統的・封建的な価値にではなく、自律もしくは自律によって導かれうる道徳性におくことで、あらゆる人格の尊厳と平等を基礎づけた点にある。

(岩波書店版 『岩波哲学思想事典』)

 

キリスト教がヨーロッパを席巻していた時代、貴族、王族、小市民といった身分制度が人物の価値を決定していた時代、カントは実に革命的な論をぶち上げていたのである。

しかしカントの主張を理解すればするほど、自律とは厳しいものだ。

「信仰している宗教の教義、既存の道徳観、尊敬する誰かの人生論、そうしたもの一切は他律(Heteronomie)的原理にすぎない」とカントは批判する。借り物の他律を自分の信条にしたところで、牧場に飼われている乳牛と変わりはない。

結局のところ、啓蒙活動によって社会から与えられるリベラリズムも他律なのである。自律とは、みずからの理性によって内発的に創造するものであり、ある程度の長い年月をかけて、或いは何かの機会に一皮むけることがあって(それも一度だけではなく)、実践し反省し醸成されてゆくものだろう。

安全で慣れ親しんだ場に留まることは、牧場での安楽さと同じだが、そこから一歩踏み出すことが真の自律への第一歩である。

 

カントは自身がキリスト教徒であることを否定しなかったし、キリスト教を直接批判することもなかった。しかし良く言われていることだが、カントは神を半殺しにした。そして神にとどめを刺したのがニーチェである。

自律については以下のページにある、駱駝から獅子への変化が示唆的です。

ニーチェ著 『ツァラトゥストラはこう語った』「三段の変化」

 

ところで、リベラリズムの淵源とされる啓蒙思想は、「いっさいに理性の光をあて、旧弊を打破し、公正な社会をつくる」ことが目的となっていた。

公正な社会。

ここでの公正は、Right や Fairness よりも Justice が適切だと思う。

次は、Justice(正義)について。

 

 

リベラリズム考(6)―個人主義(ⅱ)


同一日の2記事掲載ですので、個人主義(ⅰ)を先にお読みください。以下、まずは事典の引用から入ります。

 

(3)規範的主張

規範的主張としての個人主義は、何をもって良き生とするかの決定を個人に委ねよ、という個人の自律・自己決定を主張する。

この規範的な個人主義は、理論的には、社会の存在性格についての存在論的な個人主義とは独立であって、社会を超個人的な主体=実態の自己実現とみる全体論の立場からも主張可能である。

(岩波書店版 『岩波哲学思想事典』)

 

いよいよ、個人主義のリベラリズム的側面のコアな部分に入る。

まず、一人の人間の個人的側面からの主観的な一生の目的や価値について、自己決定する権利が人間にはある。

一方、社会を超個人として扱い、社会が(個人の複合体として)自律的に理想を求めるという、全体主義の視点から主張することもできる。

規範的に個人主義を権利として、主体には必ず自由があるとするのならば衝突が起きるのは言うまでもない。ではどのように折りあいをつけていけば良いのか、ここが個人主義の今なお答えの出ていないテーマである。

 

しかし、ひとたび社会が近代化し、個人の自律的な価値選択の多元性の承認が、社会システムの再生産の条件となると、普遍的な価値の主張は「非寛容」と紙一重になる。(同書)

それぞれが勝手に個人主義を規範として掲げ、多様な価値観を承認し合うことを暗黙的にでもルール化すれば、社会から多様性であることの圧力がかかり、それは非寛容になりかねない。例えば、「保守的な秩序と伝統を守ることが私の自律した個人主義であり、秩序と伝統を破壊する人を自分は許さない」という人に対し、「あなたは間違っている。多様な価値観を認めなさい」という矛盾した非寛容を生み出しかねない。社会からのその非寛容的圧力が強まれば、リベラルが嫌悪した、言葉狩りなどによって表現の自由が大幅に限定され、不自由で閉塞的な社会へ突き進んでゆく。

現在の世界的風潮は、ポリティカル・コレクトネス運動による多様性の尊重による寛容が、実は上記の非寛容であったという欺瞞が暴かれ、欧州やアメリカでのナショナリズム運動に結びついている。下手なことを書いたりしゃべったりすれば吊し上げられ身の破滅を招くほど、表現に厳しい時代になった。黙って何も表現しない方が安全な世相である。

私自身は破天荒に生きているのでリベラリストであることを自他ともに認めるところであるが、リベラリズム運動には反対で、社会はある程度の秩序を堅持し保守的傾向が強いほうが良いと考えている。ニーチェも超の付くほどのリベラル哲学者であったが、19世紀の、まさにリベラリズム運動が始まっていた時点において、これを徹底的に批判した。この件については本シリーズの別記事で触れる。

さてどう考えてゆくべきか。つづけよう。

 

したがって、規範的な個人主義は、普遍主義的な価値論を棚あげしたうえで、「個人が何を選ぼうと、その適否を論じ合う共通の基準はない」という一方の極と、「それぞれの価値選択の適否を語りあい合意しうる共同性において、個人は自己決定の主体たりうる」という他方の極に分裂する。

一方の極は、政治思想においては、社会関係を自己実現の手段・素材と見切る自由主義と親和的であり、ひいては公共財のみならず教育・治療・行政・司法・治安の全てにわたって、必要なサーヴィスは金を払って購入する社会システムこそが個人の価値選択を尊重する、と主張する個人至上主義(リバタリアニズム)を強化しうる。

もう一方の極は、語り合い合意をしうるための高階の価値の共有の不可欠性を騙る共同体主義(コミュニタリアニズム)と親和的であり、ひいては実定的な共同体の伝統を強調する保守主義を強化しうる。

(同書)

共通な基準は無いのだから、「個人主義にあたかも普遍性があるように、外へ向けて語ってはならない」という最低限のルールは守らなくてはならない。

そのうえで、「自分は個人主義の自由と権利を行使する」と主体的に主張し行動すれば、リバタリアニズム=新自由主義(個人を軸とした主観的自由を徹底して主張する主義)へ向かうことも有り得る。

一方では、個人が主体的に共同体にかかわり、それぞれの個人が「自分の自由を自律的に制限する個人主義」という理性をはたらかせ、共同体に重心を置くコミュニタリアンとして保守主義へ向かうことも有り得る。

「個人」という日本語の表層的意味に囚われてしまえば西洋のインディヴィデュアリズムへの理解は深まらない。個人主義は全体主義的視点があり、新自由主義とも保守主義とも親和的になり得るのである。

リベラリズムの根幹とも言える個人主義が上述したとおりであるので、リベラルと保守、リベラルと全体主義を対義概念として二元論に閉じ込めることが、いかに反知性的(思考停止)で頑迷固陋(私は昭和の亡霊と呼んでいます)の思考回路であるかお解りいただけるだろう。

 

個人主義の締めくくりとして、なぜ西洋は個人主義に成熟し自律への意識が高いのかについて。

自律とは、ギリシア語で autonomos と記述され、auto(自己)の nomos(立法)である。

ヨーロッパは、自己による立法をせざるを得なかったのだ。

宗教的対立は共同体の破壊を生み、国家的対立による戦争も共同体の破壊を生み、経済的対立もまたしかりで、基本的にヨーロッパの人たちは国家共同体も会社組織も信用していない。教会さえも。

ヨーロッパには社会の安定が長く続かなかった歴史がある。そうした環境下におかれれば、自己という個人の主義を規範として打ち立て、自己を主張して他者に負けないようにしなくてはならない。共同体が自己を守ってはくれないのだから(ある程度は守るとしても)、社会へ依存できないのである。自分と愛する人、家族の運命と安全、安心、経済的安定および精神的安定を、国家や会社などの社会共同体への依存に委ねることができないのだ。

アメリカの銃規制が進まない根本原因はここにある。

 

日本は幸せな国だ。

東アジアでは中国を含め唯一、世界的にも珍しいことに他国から侵略されることがなく、会社は終身雇用で社員を守り会社自体を長く存続できていた。世界的に長寿企業が日本に多いのは、会社が社員を守ってくれるという信頼感があり、社員の生活基盤が安定し精神的にも良好な状態で暮らせてきたからである。

なによりも、国民みなが社会に信用を築き上げてきた。

社会が個人をしっかり守ってきた。ゆえに、個人主義の台頭は必要なかった。

自分たちが築いてきた信用のおける社会に、自分たちが依存できるように組み立ててきたのだ。日本人の道徳観は、神仏宗教や人徳的善、生き方の美意識からも説明でき得るけれど、社会をいかに信用できるものにするかを暗に目的に置いてきたのかもしれない。

人を人間と呼び、人間の集合体である社会を世間と呼び、「世間様」という観念が尊重されてきた。世間という語は仏教語として場所の意味でサンスクリット語から漢語に翻訳され、中国を経由し日本に輸入されたが、後に、世(移ろいゆくもの)の間(空間)として、時空間上に動きのある実体観念として日本社会に根付き、日本人はこれを大切に扱ってきた。毀誉褒貶と同調圧力の負の部分を自覚しつつも。

 

いま、日本はグローバリゼーションの濁流のなかに混沌の時代を迎え、尊重してきた世間様というよりどころを無くしかけ、社会が信頼を失いつつある。欧米文化の光ばかりを見て影を見ようとせず、まるで信仰のように「ヨーロッパの進歩」に憧憬を抱き善としてきた日本人が、欧米流のリベラリズムと個人主義、能力主義の影の部分に気づき始め、自由を求めた代償として心理的反撃に出会い、これをどのように消化し乗り越えてゆけば良いのかというテーマと格闘している時期だと思う。

 

さて、次の記事ではもう少し「自律」について掘り下げておく。

 

 

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