リベラリズム考(9)―批判


リベラリズムには多面的な主張があることが解ってきた。

自由に境界を超えてゆこうとすること、現状の価値を理性の力によって変革しようとすること、進歩を良いこととすること、先入観の排除および事実と分析、個人主義と自律、他者の個人主義的主張を理解し認める寛容、公正としての正義など。

19世紀よりこうした多面的価値観が交錯しながら、つまりある面とある面では矛盾を抱えつつもそれぞれの主観上で半ば強弁的に整合性をもたせ、「啓蒙的な社会運動」の色合いを濃くしていったのである。

不寛容に対する寛容、グローバリズムとグローバリゼーション、自律の他律化、リバティのフリーダム化等の矛盾と葛藤をそのままに、現代ではメディアや自称リベラルがリベラリズムとは言えないリベラルを気取り、大衆を煽り立てた活動が先鋭化している。(ポリティカル・コレクトネス等)

上記のリベラリズムにおけるそれぞれの多面的性格への批判は、例えば共同体主義(コミュニタリアニズム)や保守主義(コンサヴァティズム)と価値対立する点においては当然ある。価値の対立については今回は立ち入らない。

 

今回取り上げるのは、リベラリズムという社会運動に対する批判である。リベラリズムを社会運動化したことによって、個人のリベラリズムの自由と自律を台無しにしてしまっていることについて、ニーチェは以下のように看破している。

それは、あまりに長いあいだ、霧のように「自由な精神」という概念を不透明にしてきた、古い愚かな先入観と誤解を、われわれ双方から吹き払わなければならない、という負い目なのだ。ヨーロッパの国々や、また同様にアメリカにも、いまやこの名前を濫用しているあるものがあり、われわれの意図や本能のなかにあるものとはほぼ反対のものを欲する、ある非常に偏狭な、捕えられ鎖につながれた種類の精神の持ち主がいる。(中略)

彼ら、この誤って「自由な精神」と呼ばれる連中は、手短かに悪い言い方をすれば、水平化する者たちの仲間であり――民主主義的な趣味とその「近代的理念」の能弁で筆達者な奴隷である。

彼らはいずれも孤独をもたない人間、自分自身の孤独をもたない人間であり、勇気と一応の礼儀を心得ていないわけではない、野暮で健気な若僧たちだが、ただ、ひどく不自由で、おかしいほど浅薄であって、とりわけ、これまでの古い社会の諸形式のなかに、ほぼすべての人間的な悲惨と失敗の原因を見ようとする、根本性向をもっている・・・・・・そこで、真理は幸いにも逆立ちすることになるわけだ!

彼らが全力をあげて手に入れようと努力しているのは、万人のための生活の保証、安全、快適、安心をともなった、畜群がもつ、あの一般的な、緑の牧場の幸福である。彼らがたっぷりと歌いあげた歌と教説はといえば、「権利の平等」と「すべての悩めるものに対する共感」の二つであって――つまり苦悩そのものは彼らによって、除去されなければならないあるものとして受けとられるのである。

われわれ逆の立場に立つ者、これまで「人間」という植物はどこで、またどのようにしてもっとも力強く大きく成長してきたか、という問いに対して眼と良心とを開いたわれわれは、次のように想定する――人間の成長はその都度これとは逆の諸条件のもとで行われたのであって、そのためにはその状況の危険性が巨大なまでに増大しなくてはならず、その工夫と扮装のちからが(その「精神」が――)長い圧迫と強制のもとで繊細かつ大胆にまで発達し、その生の意志が無制約の力の意志にまで高められなければならなかったのだ、と。

――われわれはまた想定する――苛酷、暴行、隷属、路上や胸中にある危険、隠遁、ストア主義、あらゆる種類の誘惑術と悪魔的所業、さらには、人間におけるすべての邪悪なもの、恐ろしいもの、暴虐なもの、猛獣や蛇のような性質は、その反対物と同じくらい、「人間」という種族の向上に役立っているのだ、と。

(中略)

われわれ「自由な精神」がまさにもっとも話好きな精神でないからといって、何の不思議があろう? われわれがまた、精神というものは何から自己を解放しうるのか、その場合には精神はおそらくどこへ駆り立てられてゆくのかを、どんなことがあっても洩らしたがらないからといって、何の不思議があろう?(中略)

われわれは「自由思想家」すなわち「リーブル・パンスール」や「リベリ・ペンサトーリ」や「フライデンカー」とはある別のものであり、「近代の理念」の代弁者を好んで自称する、これらすべての健気な連中とも別のものである、と。

(白水社版 ニーチェ全集 ニーチェ著『善悪の彼岸』44番「第二章 自由な精神」 )

 

われわれの「自由な精神」と、リベラリズムを社会運動として「我こそは自由な精神だ。解放者だ。」と唱えている人たちとは全く違う、むしろ真逆な自由な精神を論じている。

 

文中、「水平化するもの」とは、平等の名のもとに「みんな同じ顔になれ!」と社会の側から命令する、自由主義を全体主義化した「社会からの専制」運動のことを言う。

何について平等を目指しているかと言えば、「万人のための生活の保証、安全、快適、安心をともなった、畜群がもつ、あの一般的な、緑の牧場の幸福」であり、苦悩は除去されなければならないとする理想。

もしかするとそれは当然じゃないかと考える現代人のほうが多いかもしれない。しかしニーチェは深い。

けっして、個人みずからが、安全や快適、安心を求めることを全面否定しているのではない。苦悩や危険、邪悪、恐怖は、その反対物と同じくらい、「人間」という種族の役に立っている、と言っているのがその証左である。

人道的に人間同士が殺し合う戦争は悪であり平和を善とする価値に間違いはない。しかし歴史を俯瞰すれば戦争が人類種の役に立ってきたとも言えるのだ。少なくとも戦争によって人類種が滅亡することはなく、逆に七十数億人まで増え続けているのだから人類種にとって戦争は悪だとは言い切れないと、柔軟に思考することが哲学である。

むしろ植物が剪定されて枝ぶりが良くなるように、厳しい自然環境に適応した生物だけが生き残ってきたように、競争淘汰と適者生存の双方が機能して人類種が成り立ち、人類種においても同様の仕組みが機能したことによって爆発的に人口が増えて現代人に至っている。

 

しかしニーチェは自分で述べておきながら禁を侵しました。本質的な「自由な精神」は外へ向けて自由な精神を語ってはいけないにもかかわらず、ニーチェは上記のように同著で述べてしまったのです。人類種にとって本質的に必要な「自由」は、ニーチェ自身が述べているとおり自由の肯定論を述べてしまうことが読者にとっては他律となりかねない。ニーチェの「力への意志」はナチスに利用されることになってしまった。

 

文中、「リーブル・パンスール」は原著で libres-penseurs (フランス語)、「リベリ・ペンサトーリ」は liberi pensatori (イタリア語)、「フライデンカー」は Freidenker (ドイツ語)となっておりいずれも英訳すれば Free thinker です。章タイトルの「自由な精神」は原著で freier Geist 、英訳本で free spirit 。

ニーチェは「超人」というモチーフ(ロールモデル)を創造しました。これは Superman と英訳されているのですが、原著では Übermensch す。この場合にドイツ語の Überbeyond の語感が相応しく、日本語義的な万能のスーパーマンではなく、原義は「人間を超えて(ゆく何者か)」であります。ここは重要なポイントだと思います。

あらゆる近代的価値にNOを突きつけ価値転倒を試みたのがニーチェ哲学であり、先入観を疑い、現時点での流行的なモノに対して徹底的な変革を望み、人を超えてゆく超人という概念さえをも創造しました。彼の述べる自由な精神とは現代で言うのならばリバタリアニズム(超個人主義)であり、他律を断固として拒否し徹底した自律を説いている。まさに、ニーチェは正真正銘、最強のリベラリズム哲学者でありました。

 

次はリベラリズム考シリーズのラストとして、現代的リベラル社会運動ではないリベラリズムの本質としてあるべきすがたを私なりに整理し、現時点での総括とします。

 

 

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