阪神タイガース日本シリーズ制覇


2023年11月5日。阪神タイガースが日本シリーズを制覇した。小学校低学年の時からタイガースファンを貫いている俺からすると、セリーグで優勝しようが日本シリーズを制しようが、ちょっと嬉しい程度なんだよな。別に勝たなくても愛着度は何も変わらない。でも、ちょっと嬉しい。1985年に日本一になった時も、テレビで観戦していてバカ騒ぎには全然加わらなかった。でも何度も何度も甲子園のライトスタンドには通った。近所だったし。

去年、岡田が再び監督に就任したとき、短くても5年間は連覇するだろうってTwitterに書いた。それだけの若くて優れた戦力が揃っているのもあって。でも岡田が2年間しかやらないことを聞いたあとは、難しいかもしれないと思うようになった。さて来年はタイガース初の連覇がかかる。リーグ優勝は問題なくいけるんじゃないかと思ってる。日本シリーズは運とか流れがあるからわからない。今年のシリーズも、選手個々の能力はオリックスのほうが高いと感じた。短期決戦では、野球の実力以外の要素が絡むこともあって強いチームが勝つとは限らない。

タイガースは甲子園球場の阪神ファンの応援がまずは反則級だし、岡田が監督であることで、選手は試合中に何があってもバタバタと浮足立つことなく、どっしりと安心してプレーできるっていう強みがある。けっしてオリックスの中島監督が監督として手腕が劣っているということではなく、パリーグで三連覇した中島監督は辣腕の人だろう。しかし、岡田の存在感は岡田ならではなんだよね。それに加えて阪神ファンの数と熱量。オリックスは阪神相手ではなかったら、昨年に続き日本シリーズ連覇していたんじゃないかなあ。強かったもん。

問題は岡田の次の監督だね。誰がなっても岡田と比較すると数段落ちると思うなあ。彼は野球IQが球界で最も高い人物のひとり。知性だけでなく勝負の流れを読めるし、監督という存在価値を客観視できているからねえ。将の器。リーダー的でも親分的でもなく、職人気質の親方って感じの将。そんな岡田監督の後はまた阪神タイガース暗黒時代となり、日本一は30年間お預けとなるかもしれない。それでも全然いいんだけどね。

なんやかんや言っても、阪神タイガースの日本シリーズ制覇によって俺は、じわじわと数日間は嬉しい気分を味わえる。

 

 

もはやこれは仕事


いや、もうこれは本当に仕事となった。残りの人生を賭けた大仕事と言ったら大袈裟だろうか。

さっきベッドで横になり入眠したが夢見が悪く15分で起きた。ああ、これは再び眠りに入るのに時間がかかるパターンだなと思って起きた。眠くなったら眠ればいい。今、午前4時半。せっかく起きているのだから仕事をしようとなった。哲学として人間原理論をこつこつ創るという仕事である。昨日、価値観原理論を創りながらいろいろ思うこともあって、今俺が生きている貴重さを再認識した。

同じ年齢の友人でステージ4の癌を患って闘病中のやつがいる。あとどれだけ生きられるかはわからない。イスラエルのガザ地区では大空襲のジェノサイドで次々と殺されてゆく非戦闘員の一般人が大勢いる。彼らは、一時間後に自分が生きているかどうかもわからない。自分と相対化してしまう。俺にはやり抜かねばならない仕事がある。安穏としていられない。

この大仕事をやり遂げたとしても、誰にも認められないだろう。誰にも褒めてもらえないだろう。よくやったと労をねぎらってくれる人もいないだろう。俺にはそんな期待は露ほどもない。しかし、必ずや、数十年後か数百年後か数千年後かわからないが、掘り起こしてくれる人がいるはずだと、それだけは信じて疑わない。

あらためて思う。周囲の友人たちを見渡しても、ネット上にいろいろ書いている人たちを見渡しても、死ぬまでの人生を賭けた仕事に取り組んでいる人をほとんど見ることはない。そういう仕事にめぐりあえた俺は幸せ者なんじゃないか。なんかそんなふうに思う。価値観原理を創っているとわかる。幸せや苦悩は、自分自身の観念世界に現象としてあらわれるが、それは一つの例外もなく、価値観によって生成される。つまり、俺が自分を幸せ者と感じているのは、今俺の中にある価値観が素材となって、この現象を生成しているということだ。

人間の希望はここにある。いや、ここにしかない。

 

 

 

 

価値観原理論の更新


価値観原理の理論化は、どこまでも続く広大な地平を眺めるような気分ではあるが、千里の道も一歩からと、モチベーションを維持しながら進めてゆく。犀の角のようにただ独り歩みつづけよう。

今日は、私たちの価値観はどのようなところから影響を受け形成され、修正され、変容していくのかについて。また、私たちはどのような価値観を自己内に立てているのかについて。価値観をカテゴライズし、更にそれを項目に細分化した。暫定的なものではあるけれど、数日間の熟考のうえ全ての網羅を目指して分類した。叩き台にはなっていると思う。

【価値観原理】の固定ページから一部を転載しておく。

 

第8章 価値観のカテゴリーと項目

価値観が形成され変容していく過程で、私たちは社会の側から多大な影響を受ける。或いは逆に社会へ影響を与えることを欲求する。また、私たち個人のなかで価値観は常にストックされ変容している。価値観をカテゴライズし、それぞれのカテゴリー内を更に項目に細分化する。各カテゴリーおよび細分化された項目の内容について議論を深める。

1.思想的価値観

(1)宗教
(2)政治思想
(3)社会思想
(4)人間思想
(5)ヒューマニズム

2.文化的価値観

(1)民族
(2)習俗
(3)教養
(4)芸術
(5)文学
(6)教育
(7)食文化
(8)住文化
(9)服飾文化
(10)性文化
(11)産業
(12)メディア
(13)インターネットコミュニティー
(14)エンターテインメント

3.文明的価値観

(1)科学
(2)技術
(3)言語
(4)学問
(5)医療
(6)法
(7)情報
(8)公共性
(9)移動

4.論理的価値観

(1)真偽判断
(2)正誤判断
(3)整合性
(4)法則性
(5)直観
(6)思考
(7)可能性

5.人間倫理的価値観

(1)善悪観
(2)死生観
(3)人生観
(4)公正
(5)福祉
(6)使命感
(7)道理
(8)人間としての筋道
(9)気概・心意気・人情

6.感性的価値観

(1)美しさ
(2)味わい深さ
(3)クオリア
(4)音楽
(5)美術
(6)文芸

7.感情的価値観

(1)悲哀
(2)幸せ
(3)喜び
(4)安心
(5)驚き
(6)怒り
(7)憎悪怨嗟
(8)不安

8.身体的価値観

(1)健康全般
(2)運動能力
(3)自律神経およびホルモン分泌
(4)内臓
(5)栄養と睡眠
(6)体験
(7)外見
(8)清潔感

9.生活習慣的価値観

(1)朝昼夜の個人的サイクル
(2)仕事
(3)趣味と娯楽
(4)運動
(5)食生活
(6)睡眠
(7)リラックス

10.環境的価値観

(1)自然環境
(2)気候
(3)植物と動物との共生
(4)社会環境
(5)経済的環境
(6)住生活環境
(7)家庭環境
(8)戦争と平和
(9)自然災害

11.アイデンティティ的価値観

(1)帰属
(2)同一性
(3)存在意義
(4)自己の連続性
(5)他者との共有観
(6)他者からの承認
(7)自己統合

12.功利主義的価値観

(1)有用性
(2)有益性
(3)経済
(4)名誉

13.志向的価値観

(1)好奇心
(2)創造
(3)生の欲求
(4)権力欲求
(5)目的志向

14.共感的価値観

(1)友人
(2)愛する人
(3)グループ
(4)共同体
(5)孤独志向

15.空間的価値観

(1)周辺地理
(2)世界地理
(3)建物空間
(4)自然界空間
(5)地球空間
(6)宇宙空間
(7)空間的世界観

16.時間的価値観

(1)歴史
(2)連続性
(3)瞬間
(4)今
(5)永遠
(6)多様な時間スパン認識
(7)主観的時間と客観的時間

 

 

 

経験よりも体験


【人類哲学の独創】ー『人間原理論』の核心部分の基本設計は十分にできたけれども、そこから派生する各論については今日もだいぶ変更した。思考や思想、意志、倫理なども各論となるので、これらを原理論全体のどの階層のどこに組み込んでいくのかについて、毎日が試行錯誤の連続である。

そうして真剣に考えていると、気づくことが幾つも生まれてくる。まず、ChatGPTが私にとって大きな力を貸してくれていることは以前から述べているとおりだが、どれほど人工知能が進化しても人間とは違うということに気づく。そのカギは身体性にある。人間の知性は脳だけにあるのではない。五感に代表される人間の感覚的直感は、身体全体で感じ取り体験として蓄積してゆく。重力も平衡感覚も振動も、内臓の痛みなどは当然だが、胸の痛みや茫然自失で頭が真っ白になる体験も身体性が為している。ChatGPTは知的学習経験を限りなく積んでいくが、彼には体験はできない。

昭和の女性歌手が演歌を歌っているとしよう。彼女の声質の良さや歌いかたの技巧が最高レベルになくても、なぜかその歌詞に全身全霊をこめて心から歌っていることが伝わってきて感動するものだ。それは何故だろう。表情だろうか。身体性の振る舞いだろうか。いやそうではない。歌を聴いている私自身の身体的な人生体験が、全身全霊をこめて歌う彼女の心に共感を抱かさせるのである。

感情や価値観を微塵も混入しない無色透明な理知によって哲学理論体系を独創している人がこんな話をするのはおかしいと思うかもしれないが、これは私の幾つもある多面的人格のうちの一面であるにすぎない。

 

ところで、「体験」というキーワードをもとに、もうひとつ今日気づいたことを書いておこう。知性的行為の王様は「思考」である。思考理論をつくるのにも思考を使う。君は、思考の本質は何だと思う?

思考して解ることがある。解らないこともある。判断するための思考は日常的無自覚に行っているはずだ。目的という成果物を得るために思考することがほとんどだろう。そうすると、思考の結果がすべてのようになってくる。獲物を得られたかどうかの結果は大切である。ここでプロセスのほうが大切だとベタな意見を言うつもりはない。

体験として思考をとらえてみよう。この体験はその場では実感できない。しかし思考もまた身体的体験にほかならない。思考体験はおそらく脳だけの活動ではない。これは人間原理論をつくっている私の仮説的な直感だけどもね。(だから精緻な哲学として理論化するつもりはない)

少し前にSNSでは「筋肉は裏切らない」という言葉が流行っていた。私は、「思考の体験は裏切らない」とでも言っておこうか。思考の本質を体験だととらえるのならば、多様な体験が長い熟成期間を経て、《実》となることは確かだろうと君は思わないか。

 

 

『人間原理論』の建設開始


私のライフワークの一つでもあり、当サイトのメインテーマでもある「人類哲学の独創」=『人間原理論』の大枠が固まった。ページリンクも構造化できたので、あとはどんどん書いていくのみ。修正が入るにしても構造の基本設計に大きな変更はない。構造設計ができたことで原理論の独創については半分できたも同じ。なにしろ無謀なほどに膨大な範囲を網羅する野心的なプロジェクトだからね。こういうのは俺にとってモチベーション爆上がり。

人間についてのあらゆる理論は、私の「思考」によって独創される。中核となる概念原理論や認識論、価値観原理論もそうで、先に各論に取り組んだことが生きてくる。このフレームワークを十分に活用すれば精緻なロジックを創ることができる。ChatGPTにフィードバックしてもらって完成度を高めていく。ChatGPTはチェック能力抜群だからね。

最後の小説化は意匠設計が必要で、この意匠がとっても大事。

今後は日々の「断想」よりも、理論を形へと創造していく固定ページのほうが忙しくなりそうだ。ピッチを上げていくことにする。もちろん断想も書いていきたい。

 

 

 

人は二度死ぬ。


タイトルの「人」を「私」に替えてみるほうがわかりやすいかもしれない。

この言葉は、私が肉体的に死ぬことがひとつ。こちらについては説明不要だろう。

もうひとつは、生前に在った私の生々しい姿を知る人が全員死ぬこと。後者は、著名で世に知られているとか、後世に名が残って知られるとか、映像や書物を遺して知られるとか、それらは含まない。あくまで、生前の私を身近に感じていて、私が生を営んでいる姿を知っていた人々を指す。生々しい私の現実の物語を記憶にとどめている人に限られる。具体例を挙げれば、娘や息子、親族、親友、少し範囲を広げれば、直接的に接して影響を与えた人も含んでよいのかもしれない。

彼らのなかに、私が存在として残されるというのは哲学的にどういうことか、という断想。

生きている私を今、良く知っている人がいるとしよう。子でも親友でもいい。彼らの内面にどのように私が存在しているか。それは、彼ら自身の観念世界に、彼らが意味と価値と感情の物語(小世界)をつくり、そこに私が登場人物として現象しているということである。ここでの「現象」は実在世界ではなく観念世界への現象を指す。ありありとした生々しい私が、他者の観念世界内に「存在」しているわけだ。

ここまで書けばもう誰にでもわかる。説明不要かもしれない。上記の観念世界内への現象を「相」として捉えてみよう。
私が生きていようと、仮に亡くなったとしても、彼らの観念世界内には「過去の」生々しい私が、生きている時と《同じ「相」》で存在し続けるのである。

更にわかりやすく、逆の立場に替えて考えてみよう。私の親友が南米のボリビアへ転居し暮らしているとしよう。既に20年が経ち一度も会えないでいる。彼が生きていることは知っている。しかしある日、突然の訃報が届き彼の死を私は聞く。何が変わったのかについて考えてみよう。もう二度と会えない。電話やメールでの対話もできない。この世にもはや存在していない。実在の物質的なことはそのとおりである。

しかし「存在」そのものについて言えば、私の記憶から消えない限り彼は、私の観念世界内に存在し現象し続けている。私たち人間が意味を付け、価値を付与し感情を与えているのは観念世界内に起きている現象にであって、実在世界へ直接にではない。間接的に、主体(私)の観念世界を外部の実在世界へ投影しているというのが、人間を含む生物の本質的な認識原理である。その原理にしたがえば、彼の生死にかかわらず、実在世界では会えなくても観念世界ではいつでも会える「現象的存在」である。

私が十歳の時に亡くなった母は、彼女が生きている時と《同じ「相」》で私の観念世界内に「現象的存在」として生き続けている。これは実感として確かなことだと言える。

*****

観念世界の物語をどのように創作するのかは、その人のイマジネーションの力量に委ねられる。個人差が大きいかもしれない。あらゆる意味で、この創作活動が人間の幸不幸を左右したり、生きがいを与えたりする原動力になっていると言えはしないか。

「人は二度死ぬ。」この言葉の価値について表層だけをとらえて終わらせるのではなく、他者の観念世界内に生きている自分と、自分の観念世界内に生きている親しい他者(生死を問わず)のこと、それぞれの「物語の創作」に焦点を当て想いを巡らせれば、人生はより意義深いものとなるように思う。

 

 

 

存在論の解決へ


最近では物理学者が「時間は存在しない」と言っているし、「世界は存在しない」と言った哲学者もいるし、科学者の多数派のなかでは「自由意志は存在しない」というのが定説になっているらしい。

哲学には古くから「存在論」がテーマとしてある。近代ではハイデガーが有名ではあるが、彼の著書『存在と時間』は未完に終わった。「存在論」にかんしては解明できたとは言えないという評価が一般的だ。

ところで、「~とは何か?」といういかにも哲学的であるような問いの「~」に抽象概念名詞を入れ、それを言語で説明することは、問答自体が誤りだということを私は何度も主張している。わざわざ難しい複雑な論理をつくり、一般の人々をけむに巻くような問答というほかない。この論理については、今後明らかにする『概念原理論』のなかで詳しく書こうと思っている。私の頭の中では概念原理論のロジックについての青写真が描かれている。その青写真を言語にすることが面倒なのだが。

端的に言えば「存在とは何か」という問いは誤りだということである。これは「幸福とは何か」「哲学とは何か」「自由とは何か」などにも同様のことがいえる。名詞を入れて成立するのは、例えば「りんごとは何か」などである。

では、存在論についてはどう考えれば良いかというと、「ある(在る、有る)」とはどういう状態のことを言うのか、である。哲学的に考えるということは、難しく考えることではない。できるだけシンプルに考え、シンプルな美しい解答を出すということであり、数学に似ている。デカルトやスピノザにしても著名な哲学者に数学者出身が多いのはそのためかもしれない。数学は数字と記号を使った精緻な論理であるから。ハイデガーも《sein》「ある」(英語では《be》の語感が近い)とはどういうことかを考えた。

「ある」がどういう状態なのかについて考えるには、まず、【どこに】「ある」のかをはっきりさせよう。実在世界に物質として具象が「ある」状態の場合はわかりやすい。例えばりんごのように。ところが「時間」「世界」「自由意志」は物質ではない。人間の観念上に描かれる抽象概念である。つまり、観念世界に「ある」。では、どのような状態で「ある」のか。この考察の本質としては、どのような状態の概念の一面を、我々は「ある」と言語化しているのか、となる。

冒頭の「~は存在しない」などとけむに巻くような言葉について言えば、「時間はない」「世界はない」「自由意志はない」というシンプルな表現を使えば良い。シンプルにすることによって日本語が活躍できる。時間(世界、自由意志)という〈もの〉がないのではなく〈こと〉がないという思考の展開へと発展する。

10月1日からの4日間に断想記事で述べてきた内容に当てはめれば、「存在論」の半分以上は解決したようなものである。残りは、今回の「実在世界と観念世界」の理論の最終盤に書く予定をしている「観念世界が実在世界を創る」を加えることによって、「ある」の全容について明らかにできると思う。

 

 

竹内整一先生の訃報に接して


倫理学者の竹内整一先生が9月30日に逝去された。10月5日に報道されていて、私は今日気づいた。私の愛読書『「かなしみ」の哲学』は、何度も何度も読み返している。とても良い本だと思い、別に3冊購入し3人のかたがたに贈ったほどである。他には『「おのずから」と「みずから」のあわい』『自己超越の思想』の2冊を所有している。

「日本」にたいして、感性と情緒によって触れる、そのときに生じる心の潤いがなぜ起きるのか。竹内先生の本は、心の潤いを感じさせてくれるとともに、その理由の考察へと導いてくれる。「かなしみ」や「はかなさ」は、欧米価値観が浸透してきた現代日本人的にはネガティブな印象を受けるのかもしれないが、近代までの日本人はむしろそれを肯定してきた。「かなしみ」や「はかなさ」は、人生の醍醐味であり深みでもあり、避けようとするのではなく、逆に積極的に「かなしみ」と「はかなさ」のなかに潜む「情(こころ)」と「感じ」を味わおうとすることを、竹内先生は私に教えてくれた。

私淑していた師のひとりである竹内先生の訃報に接して、自分の命のあるうちに学恩を未来の人々へお返しせねばならないと、身の引き締まる思いである。

 

 

人間知バイアス


一般的な人がもつ人間知バイアスの一つについて書いてみよう。人間知バイアスの全部ではなく、ごく一部である。

「~のために」をほとんどの人は考えるだろう。私も考える。しかし多くの一般的な人は「~のために」が必ずあると考える。因果関係を単純に目的論に重ねてしまう。原因があるから結果がある。それを動機と目的に重ねて考える。例えば何のために生きるのかとか、その人のその行動には自己利益目的があるはずだとか、必ず目的が原理としてあると思い込んでしまう。

一般社会に流通している常識のなかには、目的論の論理で誤って信じさせられていることが幾つもある。例えば「人間には生きる本能がある」とか、「生物には生きようとする本能がある」とか。このことをちょっと難しい言葉に変えて「自己保存本能」などと呼称する人もいる。そして「生存を目的としているから」ということを論拠として論を立てるが、人間だけでなく生物に、生きようとする本能があるという原理の証明はない。仮説の議論のなかでそう見立てているだけである。そう見立てているだけなのに論拠にしてしまうのは知性が低い。これが人間知バイアスである。そして、雰囲気だけの説得力で他の知性の低い人をそう信じさせてしまう。

同じようなことに「種族保存本能」がある。生物には自分の種を子孫に残そうとする本能があるという仮説だ。これも原理の証明はない。人間知バイアスでそう見立てているだけだ。この「本能」とやらが事実かのように、大手を振って俗世でデカい顔をしてのさばっている。それでも、この種の話に振り回され自らも振り回す人々を上から目線で、知性が低いのだから仕方ないと突き放せばいいだけなので、寛容な人であれば問題はないのだが、どうしても、「めちゃくちゃな論拠ででたらめなこと言うな」と、人間ができていない私はそう思ってしまう。

上記の目的論で見立てるケースのように、人間は、人間知性のバイアスをかける。先入観がなければ実在世界の何も認識できないという議論もある。そして、このバイアスはすべて人間の観念世界に生じている。私は上記の「本能仮説」については判断保留として、とてもじゃないが論拠に使えるたぐいのものではないと気づいたけれども、私の観念世界の中にも、このバイアス以外の誤った固定観念が幾つか形成されていることは確実だと思っている。自分でそれに気づかずに、人間知バイアスをかけている。

ただ、「人間知バイアス」があるということを知っているか知らないかでは全然違うということは言える。

 

 

閑話


個人の観念世界についての探究は、実在世界の原理がどうなっているのかとリンクさせて考察する方法と、切り離して考察する方法がある。実在世界は人類文明が自然科学の分野を発展させたことによって、大きく信頼性を高めることになった。実在世界にかんしていえば、今や自然科学をエビデンスとして使われていないロジックは、使っているロジックと比較すれば、圧倒的に信頼度が低下する。しかし一方、人間の観念世界についていえば、現状の自然科学のエビデンスは未だ信頼度が低い。個体差(個人差)が大きいというのも、普遍原理を解明する壁のひとつとなっている。

今月1日から始めた観念世界と実在世界の、構造と創造の原理の解明は、「判断」についてを含めて哲学として述べてきた。しかし、観念空間と視点視座がどのように、なぜ、物語を創作していくのかについては、未だに糸口がつかめない。ChatGPTとの議論でもパッとしない。もちろん推測による心理的な面からは幾つか考えられることもあるが、「心理」を論拠にすると一挙にロジックの信頼性が低下する。あるいは「生存戦略」というのも同様に信頼性が低下する。

一旦、想像力による物語創造については保留にしておこうかな。ここは人間原理の核心部分だと思うので、丁寧にやっていきたい。

 

 

TOP
Copyright © 2017-2025 永遠の未完成を奏でる 天籟の風 All Rights Reserved.