『概念論』構想


昨年の10月15日に書いた断層。

「体系的に哲学の理論を構築する」という大構想。人間らしく懐胎から約10ヶ月間をかけてようやく産声をあげそうな気配である。

『価値観原理』と『概念論』のアウトラインを構想した。徹頭徹尾、網羅的にやる。それぞれの始原からポイエーシス的に体系化していく。

今日の断層では『概念論』の章立てを記しておくことにします。明日は『価値観原理』の章立てをアップします。

 

『概念論』

第1章 概念の定義

認識論の基本要素として「概念」の定義について、および「概念」の性質について哲学的に議論する。

第2章 概念の起源

生物的見地、原始社会、宗教、異文化、生物としての人間心理などから「概念」の起源を探る。

第3章 概念の構造と階層

概念と観念の関係性。社会集団の相互主観性に起因する「概念」の構造および階層について議論する。概念ネットワークと概念の組織化について考える。

4章 概念の形成と変容

個人における概念の形成および変容、社会における概念の形成と変容、および個人と社会のあいだにおいて「概念」がどう形成されるかについて議論する。「概念」と「価値」「価値観」の関係も大きなテーマ。そのほか、文化の変遷や技術の進歩が「概念」に与えた影響について、歴史的背景、文化的背景を考慮に入れながら概念と文化の相互作用について哲学的に探究する。

第5章 言語と概念

言語に内包される「概念」。言語と「概念」。言語を中心に議論する。

第6章 概念イメージとクオリア

個人の経験によって「概念」の外延が拡がり、そのイメージとクオリアがどのように人間の記憶に形成され、どのように活用されるのかについて探究する。

第7章 概念と知識の統合、欲求と感情

「概念」が知識の構築にどのように関与するか、「概念」が知識にどのような影響を与えるか、「概念」と知識はどのように統合されていくかについて議論する。概念と認知、概念と信念、概念と欲求、欲求から感情、それらの点についても探究していく。

第8章 概念の応用と表現

「概念」の役割や社会的意義とは何か。現実社会への「概念」の創造的アプローチ。他者とのコミュニケーションに活用される「概念」について議論する。

 


以上の章立ては仮であり、常に見直していきます。また、それぞれの章のなかを更に分解します。細分化項目を詰めることが重要で、それを繋ぎ一本の論筋を立てていきます。

 

千の顔と一つの顔


広辞苑で「洗脳」ということばを引く。新しい思想を繰り返し教え込んで、それまでの思想を改めさせること。とある。では「思想」も引いてみよう。哲学の[thought] に対する和製漢語として成立しているのでその部分を引く。判断以前の単なる直観の立場に止まらず、このような直観内容に論理的反省を加えて出来上がった思惟の結果。思考内容。特に、体系的にまとまったものをいう。とある。大辞林と大辞泉を引いても同様な内容で、留意すべき点は、社会的・政治的な見解を表すことが多い。とある。

私なりに簡略すると、思想とは、世界を解釈する原理として、無数の価値観を一つに統合し体系づけられた価値基準。とでも言おうか。世界のすべてをこの価値基準に基づいて評価する。洗脳という言葉に潜む悪い語感を一旦排除して言うならば、宗教はカルトに限らず常に、信仰者を洗脳することが本質だろう。ここで起きているのは、無数の価値観を固定化するハッキングである。価値観がハックされる。繰り返し教え込むことで成し得る。一旦完全にハックされてしまうと、元通りの価値観をとり戻すことは難しくなる。

実は、宗教の洗脳のみならず私たちは日常的に、無数の価値観のうち一部にたいし、ハックのチャレンジを受けている。例えばテレビCM。例えばマスメディア。例えばTwitterなどに流される「大きな声」「マジョリティーを装う声」。何度も何日間も繰り返し同じ情報や類似情報が流され、脳内の価値観を侵食してゆく。その思想上での「良い、悪い」を、永遠不変の「良い、悪い」のように思いこんでしまう。

唯一つの思想は、一つの顔しかもたない。

もしかすると人間は習性として、唯一つの思想への価値観収斂を自然欲求するのかもしれない。これは今後の研究課題だ。多くの日本人のおもしろいところは、神道、仏教、儒教、道教の思想が混在となった世界を受け容れている精神性にある。つまり、その時々で世界の解釈を変えることが可能なわけだ。もちろん日本人のなかにも唯一つの思想を頑強に信じる人もいる。しかし思想混在型の人が日本には多いように私は感じる。

思想混在型では、それぞれの思想の価値観が自分のなかでぶつかり合い、無数の解釈と判断が可能になる。あくまでこれは自分の外部にある世界解釈であって、自分の生きかた、信条や個人的規範とは異なることに留意しておこう。

思想混在型の人は、千の顔をもつ。

一つの顔と千の顔を相対比較し、どちらが良いか悪いかを問うものではない。ただ、千の顔に慣れた人を、唯一つの思想に洗脳することは不可能に近いだろうと思う。

価値観の原理についての考えを深めることは、人間のさまざまな営為において有利になるが、悪用も可能となってしまうので取扱注意である。

 

 

体系的に哲学の理論を構築する


私は、終わりのない小説創作を人生最後のコンテンツとして、このウェブサイトに表現していくことを目的としている。その小説のテーマは哲学であるので、体系的に哲学の理論を構築しなければならない。こちらが先だ。同時並行でやるにはもう少し熟成が必要。

哲学テーマには、人間の外側にあたる世界(人間を含めた世界)がどういう構造でどのように形成され、どのように動いているのかを明らかにする「実在論」と、人間そのものをテーマとする「観念論」とが、二大原理としてある。

前者は自然科学が先行すると考えており、私は後者の全域を体系化する。扱う範囲があまりに広く無謀かもしれないが、チャレンジだ。

暫定的な体系の骨格はつくった。

上記内容については、「人類哲学の独創」このページからスタートする。

中心とするのは「価値観原理」である。価値の原理ではない。価値観の原理を明らかにしていく過程に、価値生成の原理は当然含まれる。重要なのは、人間にどのようにして価値観が形成され変容していくかである。「脳」をターゲットとする物理科学的議論ではなく、「心」をターゲットとする心理学的議論でもなく、哲学としての議論を展開していく。

価値論はニーチェが手掛けたが、未完成のままだ。彼の価値論のつづきを引き受け、価値観の原理究明へと昇華させていきたい。

くしくも今日は、ニーチェ生誕の10月15日。

志、新たに。

 

 

可能性主義論を提唱する準備として


4月10日よりこのサイトで私が主張していく主旨が「哲学論」に変わったわけですが、個人的な価値観、信条や生きかたの美学の建設をやめたわけではなく、第二の目的として、こちらの探究と研鑽、創造も今まで以上に行ってゆく決意です。

その中核としたい新しい価値観が可能性主義です。

可能性という概念についての哲学的探究が基盤となりますが、最終的に建設された姿を想像するに、哲学理論には成り得ず思想的なものになることが予想されます。何故かというと、可能性主義を「正」の論とすることになるからです。普遍的な理論ではなく個人的な価値観として提唱していく予定です。

まず可能性主義の、いちおうの、海図を作らねばなりません。海図で目的地を目指すということではなく、海図をアップデートしていくことで海図そのものが可能主義論になるイメージなのですが。

ひとくちに「可能性」と言っても、possibility の実現可能性は未来へ開かれているそのイメージをもつもので、potential の潜在可能性は内蔵(埋蔵)されているイメージをもちますし、probability という蓋然性は今回のテーマからは外れます。

或いは、近代から現代にかけてのプラグマティズムの哲学者らが唱えた可謬主義 fallibilism  にも言及しなくてはなりませんし、そうなると全体性理論 holism にも少し足を踏み入れなければならなくなります。

偶然性の問題も発生します。
「実現可能性」に内在する自由と秩序の問題も垣間見えます。
「潜在可能性」はロジックにならないのでは?とさえ今は思います。

過去について可能性を考察することの意義。未来について可能性を推測し良い方向へ可能性を広げるにはどうしたら良いのかとか。「時間」とのかかわりもあります。

なによりも、その可能性は自分(当事者)にとって良いことか悪いことか。社会にとっての善悪はどうか。起きたことを幸運と不運という「運」で測る方法について。可能性を考える際に生じる心の様相としての「うきうき」と「不安」。これら正負の相対的価値における「可能性」概念の考察は思想になり得るのか、今は未だわかりません。

そうした諸々の難問をどのようにクリアにし、地下1万メートルにまで届く杭を何本も打ち込んでいく作業は困難を極めそうですが、同時にわくわく感が抑えようがないほど楽しい知的活動です。これも可能性の一つですね。

単にふわっとした「自己と人間の可能性を信じる」「人間には無限の可能性がある」を唱えるだけの雰囲気的なスローガンは、直截に言えば私の趣味には合いません。地中の基礎部分をしっかり固めた理論でなければ、少しの強風ですぐに吹き飛んでしまい、あとかたもなくなります。

こうして書きながら、おおまかな「第一次海図」が頭の中にはイメージ出来てきたかなという感じです。

ビジョンとしては、理論の土台をしっかり築き最終的な海図を示して、「常に可能性をイメージすることには正の価値がある」という思想を提唱したい。

 

 

principle(4)習得


前の記事では生得について少し触れた。本記事からは、生後まもなくから死の直前までの経験によって獲得されるあらゆることを習得として扱う。

ひとりの人格はどのようにつくられてゆくのか。

人間が意味や価値をものごとに与えるのは、実在客観世界から受容する第一次情報から始まる。私たちの身体も実在客観世界の物質からつくられている。

デカルトは「私は考える」「私は存在している」から始めたが、「私」「考える」「存在」の物質、意味、価値のすべては、言語習得も含め、実在客観世界から始まっている。親が私を誕生させなければ、思考することも私という存在もない。言わば私の全ては客観世界からの借り物でつくられている。いずれ客観世界へ返却されるのである。

習得を考えるとき、客観世界に何が実在しているか、どのようにして実在しているかを第一に分析せねばならない。今思いつくままにその要素を挙げるならば、自分が生まれ育った地域の自然風土、気候、食生活、発音言語(特に文法)、文字、国家、宗教、主要産業、家系、強い影響を与えうる人物たち(親が筆頭)、学問(教育含む)、芸術、政治経済、共同体文化、時事の出来事、多数派の意見、まだほかにもあろう。このひとつひとつの環境要因ついて考察していくことがここでの課題となる。

こうした第一次情報を受容し習慣化していくことで、これらが複雑に組み合わさって無意識のうちに価値観が形成され、その個人なりの解釈と表現が生まれてゆく。解釈と表現は「好む方向(或いは成功体験がある方向)へ無意識が欲求する」ため、その強弱は別として偏向することになる。これが個性だ。

更に、習得に対して生得が干渉している可能性も大であることを忘れてはならない。相当に複雑ではあるが「ひとりの個人」は有限であり無限ではないことを思えば、「個人固有の価値観の生成構造とそのダイナミズムを解明できない筈はない」という探究心と気概だけは持ち続けたい。

 

 

principle(3)生得


生得的は先天的と言い換えることができる。対象となる生物(例えば人間)が生まれながらにもっている性質や個別的気質を表す。生得的の対義語は習得的。

近い意味の言葉に本能があるが、現代の学問上ではこの概念は放棄されている。語義の精微さに欠け、論拠に用いれば思考停止に陥る。哲学的にも既に本能という言葉は使われなくなっている(『岩波哲学思想事典』)。なので本能という言葉は、本サイトではなるべく使用しないことにしている。( 実在と観念 の後段部分)

生得は科学的側面からは遺伝と捉えられる。科学では徐々に解明されつつあるが、その解明を待っているだけでは能がない。また、科学は全能ではなく誤りも犯す。正しいとしても所詮、人類知上の正しさだけでしかない。その点に留意しつつ、一つの参考知見として遺伝学を利用していきたい。

自らの存在を遡り生得を考えるとき、両親、祖先、人類の祖先、生物の祖先、地球、宇宙、宇宙以前、人類知の時間を超える何かというふうに広大無辺な時間軸がある。今回の論考では時間軸で生得を考えるのではなく、切り分けとして生得と習得を扱うことにする。

参考になる哲学の学説として生得観念を認めたプラトン、デカルト、ライプニッツらによるものがまずある。一方、ヒュームらのイギリス経験論者は生得を否定し、真っ白なカンバスに人のすべての生の営みが描かれるとした。カントは超越論的議論によって、アプリオリな感性認識能力が人間には備わっていることを論証しようとした。言語学者のチョムスキーは言語能力に生得がなければ幼児の言語獲得は不可能とした。

心理学者のユングは生得を集合的無意識と位置づけ「太古性」についての議論を深めた。彼の『元型論』では、古代からの神話を人類がどのようにして創作してきたかを論拠として、「アニマ」「グレートマザー」「老賢者」「永遠の少年」「トリックスター」などをモチーフに、生得を普遍的に説明しようとした。

生物学の面では進化論的視点から生得は考察の対象になる。

連綿と継がれてきた学問上において生得は古くからのテーマであり、現代の今もなお、新しいテーマとして考究の対象となっている。

先人たちの主たる学説のすべてを参考として取り込み、無意識の混沌(カオス)状態のなかからのセレンディピティを待ちたいと思っている。今の段階では、生得にかんする独自論考は書けない。

 

 

principle(2)人類知の限界


人間(個体)の本質を探究していく上で、未来において究極の人類知でさえ小さな一部として包摂される、永遠に未知の「〇〇」の世界観を仮設定しておく。人類知を超越した「〇〇」は人類知では対象化できないため人類言語で定義づけることも名づけることも避けねばならない。

人類知は、その究極に至っても鎖に縛られた箱から出ることはかなわない。

なぜ人類知の限界を設定するのかについて言えば、限界を設けることで人類を超え得る可能性を理論に含んだ方が、優れた理論ができるという直観である。現状で理由は明確ではないが、いずれこの設定は生きてくると思っている。この可能性を人類は人類のロジックで否定できない。

人類の自然科学の発展によって地球は自転していることが解り、宇宙誕生は137億年前、太陽系誕生(地球誕生)は46億年前という推定も可能になった。そのような知のない古代では、天地と人を創造した「神」を人類が物語化した。紀元前1000年頃発祥のユダヤ教のヤハウェ、紀元後発祥のキリスト教の三位一体の神、西暦600年頃発祥のイスラム教のアッラーなど。紀元前1500~2500年頃の古代インドにおけるヴェーダ聖典では「宇宙原理」を仮想し「ブラフマン」と呼んだ。それぞれ人類を超えるものを設定し宗教として信仰した。しかし、いずれも人類が対象化した観念である。

私に言えるのは「人類知には限界があり、一部として包摂される」ということだけで、何によって包摂されるのかについては対象化もできないし言及もできない。

他の人にはスッキリしないかもしれないが、これは独自の理論を展開し創造してゆくための個人的な設定である。別の言いかたをするならば、未来に究極まで発展した人類知の、「封印」を可能にした。

 

 

principle(1)序


観念論と実在論および直接視座にかんする subject シリーズ( 1 ~ 10 )の新たな展開として新章に入る。principle は「原理」という意味でタイトルに付けた。人間「個」の原理を追求していこうと思う。価値観、価値付与、現象の認知から解釈、欲求の生成から表現(実行)、意思と意志、意識と無意識などを根本原理から解明したい。

来年か再来年には subject シリーズと principle シリーズの融合ができるかもしれないと、ぼんやりと考えている。けっして目指す目的ではないけれども。もちろん、ブログ的意味の発信としては principle シリーズだけでなく、多様なテーマについて書き進めていく。今年は簡単に短文をアウトプットできるTwitterに表現することで満足してしまい、サイトへの論考のアウトプットが少なくなり、美学価値の創造も体系化も全く進んでおらず反省至極。

サイトの国際化にチャレンジし多言語発信をしていこうと7月1日に書いたことで、書き込み表現のハードルを上げ過ぎたのも一因だと思う。主軸はアウトプットを機会として考察し、アウトプットされた自己の文章を他者の文章として眺め更に考察することであり、表現や誰かに伝えることは二の次であった。初心に戻ろう。文章は敬体でなくなるべく常体で書こう。多言語翻訳は、時間が余って気が向いた時のおまけとしよう。

新章のプロローグは書いた。

しかし次のページに何を書くかとか全体構想などは全く考えていない。未計画、未設計、気の向くままの思いつきを綴っていくことにする。

とは言え、根本原理を考察する上では「人類知の限界」があって、未来に究極まで人類知が進歩しても、それを遥かに超える「何か」によって人類は包摂される。「何か」は言語でも数字でも表現できないことについて、まず始めに考えておいた方が良いだろうと思っている。謙虚に。

 

 

個人的無意識構造と言語の「場」


古代ギリシア哲学のプラトン、アリストテレスから始まった認識論について、以前から「subject」シリーズ (1)序 ~(10)で考察している。私独自の「観念論的視座ー実在論的視座―直接視座、のディオ・トレビスタ」の認識構造を構築し論理展開している。このシリーズの現段階での最終記事は7カ月前の (10)客観世界(改)

ここから更に新しい地図を描こうと思う。

今までは過去の哲学者全員がそうであったように、「人は」「人の認識は」を主語として「人類の認識は同じ構造をしている」が前提にあった。これを覆す。

というのも、記憶の仕方、無意識と意識の接続、そうしたものに全く異なる幾つかのパターンがあることを確信した。例えば記憶ひとつとっても、言語中心に記憶している人もいれば、イメージ中心に記憶している人、場所(場面ではない)中心に記憶している人、時間軸中心に記憶している人がいる。他にもあるかもしれない。多くはその混合だと思うが、現時点では人類の謎と言っていい。こちらは無意識領域。

もう一つは、意識上での言語の「場」の開きかたが個人によって異なること。常に意識上で言語の「場」を開いている人もいれば、私のように普段は全く開いていない人がいる。これはいったいどうしたことだろう。そして言語の「場」中心に思考を展開する人もいれば、私のように非言語のイメージ中心に思考を展開する人もいる。これは「思考の癖」どころではないと考えている。思考構造が違う。

アリストテレスもデカルトも、カント、フッサール、イギリス経験論者たちも皆、認識論を探究してきた哲学者全員が「人は」を主語としてきた。彼ら全員は間違っていたと、私はここに断言しよう。

個人によって認識論は異なる。と言っても人類数分があるわけではなく、幾つかのパターンがある。それは、段階的に、2かもしれないし7かもしれない。大別するならば10以上ということはないと思う。

この理論化は壮大過ぎて、当然、私一人の手には余るが、途中で死を迎えようともライフワークにしたい。

 

 

subject(10)客観世界(改)


1.内面認識と外部認識

subjectシリーズの前の記事まででは、subject と object について「異なる視座」からの考察を基本としました。今回は「認識の流れ」「実在世界と客観世界の差異」に重点を置き、意識と無意識の中で何が起きてどうなっているのかについて、その構造を論理的に解明しようとする試みです。

下の図を参照してください。内面認識は自分の内部のみで起きていることで、外部認識は自分の外部がどう自分にかかわってくるか、その振り分けです。

 

2.「実在世界」「客観世界」とは何か

「実在世界」とは世界の全てです。物理的宇宙的世界(空間と時間)のみならず、概念化された意味の世界と価値の世界を含みます。実在世界には事実もありますが虚構もあります。

「客観世界」とは「自分の外部の世界はこうなっている」というふうに、客体として対象化した外部世界を主体の自分が“仮定的”事実として、または想定的に信じる世界です。「仮定的」は無自覚です。

 

3.「客観世界」をつくる目的は何か

人類は、他者や他家族と群居生活を送るようになりました。危険から身を守ることや食糧確保が主な目的です。そこでは人間同士が互いに危険分子とならないように、一定のルールを決めねばならなかった。守るべき掟(おきて)があり罰則も設けられたでしょう。

そうすると自然に「同じ世界観の共有」を目指します。他者の感情を害さないように、どういう場合に他者はどういう感情を抱くのかを元にした「共感」と、それに伴って「理性的価値観の共有」が必要になったと推測します。当然、数百年、数千年の長い期間をかけて確立していったのだと思います。

(ほぼ)「同じ世界観」を望んだ結果として、「客観世界」を自分の認識につくることは必要不可欠になります。

 

4.「実在世界」から「客観世界」への流れ

人は生まれたばかりの頃は何も知りません。親が子どもに教えてゆく。子どもは「実在世界」の情報を親から与えられ、学習し、認識していきます。疑うことなしに。

子どもの内面では、実在世界のわずかな情報を積み上げながら、“自分の内面に”「客観世界」を構築していく。膨大な無意識の貯蔵庫内部にです。そしてどんどん更新していく。童話などの虚構をもそのまま信じ、客観世界をつくっていく。その内面の客観世界を自分の外部に、確かに存在する客観世界として投影します。

意識からの要請に応じて、無意識内部の客観世界から必要な情報を取り出します。以上までをまとめたのが下の図になります。

 

5.自我の芽生え

疑いをもたないまっさらな幼な子の時期を過ぎると、自我が芽生え始めます。

自我論にかんしては、自我生成論、無意識と意識の関係性、主観との関係性などテーマが多岐にわたり拡散してしまいますので、ここでは立ち入りません。前の記事 で触れたように「メインテーマの一つ」として自我論は別にやります。

下の図は自我が芽生えたところです。

 

6.「主観」の誕生と先入見

自我はどんどん大きくなります。不安感、期待感、願望、さまざまな感情、身体的体調、遺伝的性格、価値観、倫理観などの理性、欲求などの要素が分化していき、「私の感情はこうだ」「私はこうしたい」「私はこうなったら嫌だ」など、「私」という「主観」の「主語」を会得します。「私」を対象化します。object としての「subject」が誕生する。

同時に、虚構を見抜いたり、みずから虚構で遊んだり、不安感を払しょくするために、あるいは「こうなったらいいな」という願望のために、無自覚に、無意識内に構築する客観世界へ色付けを始めます。

そこでは必然的に先入見が生じます。

実在世界と(観念的)客観世界にズレが生じ差異が生まれ、その差異を認識できるようにもなる。子どもから大人への成長段階が下の図です。

 

7.「客観世界」の修正

大人へと成長し、さらに社会に揉まれだすと経験量が増え、ますます自我は増大化します。しかし同時に、自我をメタ認知できるようにもなり、自分の価値観や欲求、感情はどうなっているのかについての内省もできるようになります。

まず第一に、自分の主観は「客観世界」を外部の実在世界だと信じます。そうしないと社会生活ができないのです。しかし実在世界との差異にも気づき、無知、事実誤認、自分の推測や妄想、未来の想定などで間違え、自分がいかに愚かであるかを理解する。

「まず事実を確認しよう」「他者の客観世界と自分の客観世界のすり合わせをしよう」「事実が不確定ならばマジョリティーはどちらだろうか」「なぜ自分は間違えたのだろうか」「自分の自我やエゴ、性格が間違えにどう影響したのか」などをほぼ自動的に無意識内で修正処理するか、もしくは意識的な内省によって修正し、実在世界と客観世界の差異を埋めようとするはずです。

 

記事はここまでとします。

冒頭に述べたとおり、相当荒っぽい仮説概論であることは承知の上ですが、ここまで相応の熟慮を重ねています。上述の「構造」にはある程度自信もあります。フッサールは他者の主観をすり合わせようとする「相互主観性(間主観性)」によって「客観世界」ができているとしましたが、私は、「客観世界」をすりあわせる「相互客観性」(私的造語です)によって、人間は社会生活を営んでいると考えました。

最後に少し逸れますが、メディアや政治家は、個人の内面の、無意識内に構築し絶えず更新されてゆく「客観世界」を彼らの利のための方向に誘導し歪めようと、報道テクニックを駆使していると思います。また個人のレベルでも他人の客観世界に関与しようとする。自分への一人の賛同者を得ようとするために有利な情報をピックアップし、或いは切り取ったりバレないように改ざんしたり、口頭でもインターネット上でも偏った情報を流すことを無自覚にやったりする。人間の習性として仕方のない面もありますが、見極める能力を身につけねばなりませんし、自分自身も無反省であってはならないと思います。

 

subject シリーズは一旦ここで終了します。

 

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