subject(9)実在と観念


「実在」という言葉を一般的に使用する場合、例えば「実在する人物」のように使います。確かに存在する(した)人という意味です。哲学における「実在」は少し違っていて、それも幾つか異なる定義があるのですが今扱っている議論では、「近世哲学においては、実在論は物ないし対象がその表象としての存在以外に、それ自体としての存在をも持つと考える立場を基本的に指す。この意味での実在論の反対概念となるのは観念論である。」(『岩波哲学思想事典』)という立場に準拠しています。

平たく言えば、物理的もしくは仮想物理的なモノ以外をも含めた対象(例えば情報や他者の意思を含む)を「実在」として扱います。自分の外部にある、誰が見ても考えてもそうだと言える客観性(明証性、定説)を具えた、モノとコトの全てを実在認識の対象とします。「実在」に拘ることはなく造語をつくっても良い。優先は「自分の頭で考える哲学」ですので先哲の言葉や何とか論に縛られたら窮屈です。

 

■ 三つの視座の関係性

ディオ・トレビスタの図を再掲します。

 

メタ視座Mへは最終的に進みますが、今は前段階の議論です。
三つの視座はどのような関係となっているのか、それを考えます。

 

それぞれに異なる関係性をもちます。
以下のチャートに整理してみました。あくまで“つかみ”として「こんな感じ」程度ですが。

 

(1)の実在(モノ)の発見と受け止めは、主体(自分)が能動的に発見する場合と、先方から自分へと向かってくるモノやコトを受動的に受け止める場合があるということです。後者は、モノであればボールが飛んできたとか、コトであれば見たくもないテレビCMが流れてきて目に入ってしまったとか。

 

■ 未開人を都会へ招待した想定での認識の考察

原初的認識を考える際、赤ちゃんから幼児の頃の経験を想起し推理していくことを思いつきます。しかしここでは、もう少し客観的な方法として、現在もアマゾンに暮らす未開人や数万年前の原始人類を、現代日本の都会へ招待することを想定してみます。

言葉は通じません。意思疎通できる言語を習得するには時間がかかります。身振り手振りでのジェスチュアや、実際に自分が行い示すことで意思疎通を図ります。例えば自動車は、歩いたり走ったりするジェスチュアで「移動する目的のもの」を表現し、実際に自分が乗って動かして見せる。

自動車という物体(モノ)と、目的は移動であり肉体的労力が軽く便利だという情報(コト)が、「実在している」となります。

実在している客観世界の事象を、未開人は自分の内面にインプットします。学習します。外部の実在を表象化(観念化)し自分の内面で繰り返すことで、それをあたりまえのこととして、徐々に無意識へ落とし込んでゆきます。

すると次の段階では、外部世界へ、実在するモノやコトとして返してゆくのです。

 

例えば未開人に、「キリスト教の神は存在する」ということと教義を毎日のようにくり返し教育していくとどうなるか。観念上で神が存在することは彼の信念となるでしょう。次は「誰にとっても神は存在する」となり、自分の外部に神を実在化させるのです。霊魂や死後の世界なども同様です。人によってはコト(情報)としてだけでなく、姿かたちの在るモノとして実在していると信じてゆくのです。日本の神々はモノ化されていたと思います。山の神への生贄の風習もありましたし黄泉の国もあった。

意味的なコトとしては、例えば天動説と地動説も実在する情報として外部にあって、当初はみんな天動説を信じていました。コペルニクスは地動説を唱え客観性を証明しましたが、頑なな信念となっていた天動説からの転回は、人々の相当な抵抗に遭ったのではないでしょうか。

未開人は自分の知らないことを、現代の都会人をモデルに学習してゆきます。現代人には自分とは異なる現代人なりの価値観があって、欲求や感情も自分とは異なることを発見し内面へインプットします。未開人でなくても現代人の子どもたち、例えば小学生も同じですね。まずは実在する客観世界の情報を学び習得してゆく。

科学的なものごと、歴史や哲学などの過去の叡智は全て外部世界に実在しており、それを検証するための視座によって認識されます。

 

■ 実在世界の認識

 

上のチャートの右上にDirect-Subject(直接主体)を置きました。この直接主体が、外部の客観世界を認識しようとして、間接視座O(通称:神の視点)を作ります。この視座Oの対象となる要素を、「物理的なモノ」、「情報・意味的なコト」、「他者の意思・価値観・欲求・感情」の3つに振り分けました。現段階では叩き台です。

外部観察視座は、「直近⇔遠方」の空間的および時間的な遠近法によって客観世界の解釈を変えます。目に入る外部事象を対象とする場合もあれば宇宙空間を対象とする場合もある。現代を対象とする場合もあれば、五千年後や十万年前を対象とする場合もあります。

一人を対象とする場合もあれば一億人を対象とする場合もある。現象している表面上のことだけをさらっと認識する場合もあれば、拘って深層の本質を探究し理解する場合もあります。

この外部認識の視座Oから、内面認識の視座Iへ表象化します。

 

■ 観念世界の認識

 

Direct-Subject が内面の間接視座Iを作るのは外部認識のときと全く同じです。
間接視座Iは、イデアの観念世界での対象を次のように認識します

「(私は)こう考える」「(私は)このように意思している」「それを偽だとするのは私の判断だ」「(私は)怒っている」「(私の)身体の節々が痛むので(私は)風邪をひいたかもしれない」というふうに、間接主体(一人称代名詞)を使用する西洋的思考での、メタ認知(事実上の神の視点を使った認識)をここでは原則とします。日本人的にはちょっと不自然に感じるかもしれませんが、ヨーロッパ言語の構文(主語を必ず使う)を基礎として西洋で発達した「認識」のロジックです。

外部認識からインプットした情報を観念内に形成します。その際に最も重要なことは真偽を正確に判断することです。幼児・童児を想像すれば解るとおり、最初は自力での真偽判別はできません。価値観のストックが少なく方法論に未熟であるためです。教わること全てを真実として受け容れることから出発します。

少し脱線しますが現代までの教育では、子どもが素直になんでも真実だと思って聞き入れてくれた方が大人にとって都合がよいため、真偽を判別するための方法論を小さな子どもに教えることができていない現状があると思います。その理由としてもっともらしく語られるのは、疑いの目をもつことで性格が悪くなるとか、嘘偽りのテクニックを覚えて悪用するとか。しかし、そろそろ幼児教育の初めに「真偽判別」を教えていく時代のような気がします。嘘や偽ることを真正面から教え、真実がいかに貴いことかを無意識の価値観へ落とし込んでゆくのは、幼児期の原体験のほうが良いと思うのです。「リテラシー教育(ネガティブ要因)」ではなく「真実性の教育(ポジティブ要因)」として。

 

■ 真偽の判別

客観世界の実在の真偽判別を観念世界で行うとき、その方法論とロジック構成においては個人差がとても大きい。ロジック構成には事実を繋ぎ合わせていくセンスと、仮説を立てるために推量する想像力を必要としますが、誤った推量によって妄想になってしまうこと、仮説であることを忘れ(真実とは成っていないのに)真実として実在世界へ返却してしまうこと(観念の信念化)が往々にして起こります。

特に他者の意思や感情について、「こう思われているんじゃないか」とか、「これを求めているんじゃないか」とか、おもんばかることは良いのですが、それが推量であることを忘れ疑心暗鬼となり、やがて「こうに違いない」と信念化してしまう。そうなるとそれは実在することとなって、堅い信念を崩すことができなくなることもあります。宗教の洗脳なども同様です。

推量による仮説は真実ではなく、真実を求めるためのステップに過ぎません。仮説の結果ありきとなれば、次には、それを否定する材料ではなく支える材料を探しだそうとします。ますます固陋の罠にはまりこむことになる。これはあらゆることに当てはまり誰にでも陥る危険性があります。イデオロギーや正義、歴史などすべてにおいて。

 

■ 悪の判断および相互主観性

最も重要な真偽判別の次には、悪いことかどうかの判断をします。社会倫理的に悪いこと、自分にとって損失となる悪いこと。観念上で自分の価値観と照らし合わせ、欲求と感情を含め判断する。感情と理性との相剋がある場合、たとえ倫理的に悪だと知りつつも行うことがあります。自己保身のために嘘をついたり、欺瞞を隠すために攻撃的になったり、逆に同情をかおうとしたりと、知性が高いほどいろいろな手法を駆使し悪いことをしようとする。倫理的悪よりも自己損失的悪のほうを重く測る。残念ながらこれは人間の自然の性(さが)だと得心するほかありません。いいじゃないですか、人間らしくて。その上で自分をどうコントロールするかを考える。

また、「自我的⇔社会的」の考察の差があります。これは悪の価値観を考える際にも自然活用しています。「自我的」は自分にとって損失となる悪、「社会的」は倫理的な悪をそれぞれ量ります。倫理とは自動的に誕生したものではなく、その社会に暮らす過去の人々が「これは善いこと、これは悪いこと」にしようと、言ってみれば共同体構成員全員の自我的損得を調和させたものが倫理です。

subject を集めて調和させ社会的価値をつくる過程に「相互主観性(間主観性)」があります。この言葉はフッサールの哲学用語です。これは、実在論の客観世界へ、“観念論から”至る方法論として、相互主観性(Inter-subjectivity)という概念をフッサールが造ったものです。このロジックはとても優れているので、記事をあらためまして、主体、客体、客観性(普遍性)、主観性(自我性)、相互主観性(間主観性)について書くことにします。今日の記事では立ち入りません。

 

■ 実在へすべてを返却する大森哲学

ほとんどの西洋哲学はO視座からI視座へと、一方通行の様相を呈していました。これに異を唱えたのが日本の哲学者の大森荘蔵です。彼は、全てを実在へ返却するというロジックを創りました。私の知る限りにおいてこの論を展開したのは大森が初めてで、且つ唯一の哲学者です。

全てとは、感情も含めてすべてです。例えば、虎はおそろしい動物だという価値が観念世界に定立されたとすれば、それを外部の客観世界へ「おそろしい虎が実在している」として返す。身内を失ったばかりの人を哀れに思ったのであれば、「哀れな人が実在している」として返す。このロジックには大きな欠陥があることを大森自身が認めていますが、とても日本的な考えかただと思いませんか。

ここでは、西洋哲学の観念論への一方通行による一元化(観念論・独我論等)と、大森の実在への『立ち現われ一元論』の対立は、“その次元”での一つの真理を求めているために生じていることとします。しかし二元論ではない。一つ上の次元の視座において二元の矛盾を許容することと同時に、もう一つの直接視座を含めたディオ・トレビスタ(視座三元論)を鼎立させる。そしてその全体をメタ認知する、“調和と創造”を行う「第四のメタ視座」によって新たな地平を開いてゆけると踏んでいます。大森の議論を引き継ぎ生かしていきたい。

 

■ 観念世界の知的活動から無意識へ

内面認識ではO視座からの表象化だけでなく、I視座のメタ認識をもちいての、観念世界内での考察と推量の知的活動が行われ、価値観の生成と変更が起こっている。このことはデカルトも指摘しています。彼はそれにプラスして生得的な、つまり遺伝的な価値観もあるとして、神の存在を信じることは生得的で約束されたことだとしました(『省察』)。私的には本能に原因を求めることは哲学からの逃走(思考停止)だと位置付けています。特に「生存本能」は万能の思考停止剤です。他方、心理学からのアプローチであれば生得と習得は考察対象となります。

真偽、善悪、損得、美醜といった価値観のモノサシは常に意識上にあるわけではありません。無意識に潜在化しています。I視座内での価値観生成は潜在化に重要な役割を果たしている。この無意識が人格の中核となって、私たちは「人間として成立している」と言えます。

 

どのようにして無意識へしたたり落ちていくのかについて、いま考えています。

 

 

subject(8)中核となる個人価値観の解体


もののあはれとは、自分の志向の先にあるその世界と自分の心が溶けあった、全体感の哀情だと前の記事で書きました。こちらの方向へ論理を展開していきたい誘惑を、今の時点では振り切ります。考察の羅針盤は、できるだけ「心」や「意識」という観念的で不確かな“モノ”を避ける方向を示しているように思います。

また、西洋と東洋の文化比較、インド・ヨーロッパ言語とウラル・アルタイ言語の比較が目的ではない。ヨーロッパや東洋という括り、ウラル・アルタイという括りも大雑把過ぎて、ステレオタイプで精確性を欠きます。それに、あくまでこれらは手段の一つでしかない。

しかし、母国語によって世界を認識する視座や解釈の角度が変化しますし、表現することも変化するのは見てきたとおりです。現代人が生まれてくる遥か昔から、長い年月をかけて醸成されてきた母国語視座による世界観がある。異なる母国語の異なる視座に無自覚無反省のまま、つまりヨーロッパ人と日本人は同じ視座で世界を解釈していると思い込んで生きているのですが、この誤認は、未来の新しい価値への可能性を孕んでいると考えています。

 

さて、D視座での直接世界の図をもう一度見てみます。

 

直接世界Oは実在世界、直接世界Iは観念世界で、それぞれ Object(対象) だけが自分の感覚上に広がっているのですが、いずれも「無意識の Core-Personality に支えられる」と書きました。ここを掘り下げます。

 

前の記事に登場したケーキに再登場願いましょう。

直接世界Oで「ケーキの存在を認識」します。と同時にそのケーキに付随している情報もあります。また、店員さんが笑顔で勧めてくれる。が、これだけでは駄目で、直接世界Iで「美味しそう(生唾ごくり)」が絡まって初めて「食べたいな」という欲求が生まれます。

無意識の Core-Personality はO視座で「それがケーキであること」の名辞と意味とを知っていないとなりません。その知識は私たち個人が内面から獲得したものではなく、実在世界で先人ら他者がケーキの意味を確立させ名付けたものを、後から自分が知り得たということ。あたりまえのことを書いていますが重要ポイントです。自分が認識する以前にそのケーキは存在していた。

ケーキを食べるという経験を通じて「これは自分にとって美味しく、食べる価値が高いものだ」という価値を自分の無意識の中に確立させます。これがI視座のなかで起こっていることです。情報が観念化されており、お勧めしてくれる店員さんの気持ちにも応えたいと思う。食べたことのないケーキについては、食べたことのあるケーキの価値を無意識の中で参考にし、美味しそうか、あまり美味しくなさそうかどうかを判断しています。知性で考えもせずに無自覚に。

急いで付け加えておきますが、ここには身体的状態(体調含)と比較相対的価値変化の二つの要因が、無意識内の価値変動に関与します。I視座内は複雑構造で個体差もありますが、深慮沈潜し解体を試みます。

 

以上の手順を踏んで、「食べたいな」という欲求に繋がる。

そこで初めて、ケーキを手に入れるにはどうしたら良いか、手に入れるべきかどうかをI視座の内部で知性を使って考え始めるわけです。金額が妥当かどうか、手荷物となることはどうか、幾つ手に入れようか、順番待ちは何分くらいかなどを考え、迷いなく買うこともあれば迷って買わないこともある。

次に、「よし、〇〇個買おう」と意思決定をし、行動に移ります。

欲求までの過程を解体します。これはケーキに限らない。普遍的に成立するロジックを根源から原理として組み立てていきます。なお、先に書いておきますが、以降に書く分に関してはまだ頭の中で整理できておらず、この場で仮説の叩き台として考えつつアウトプットしてゆきます。

全体的な仮総論としては、O視座(外部実在論的)で意味や価値を学び、それをI視座(内部観念論的)へ表象する。I視座では自分なりに考え価値を与える。自分のなかに定立させた価値を、O視座へ実在化する。価値は変動するので表象も実在もその都度書き換えられる(次の記事で詳述します)。このOとIの連動によってCore-Personalityが造られてゆき、D視座を支える。大まかなダイナミズムは以上のように考えています。

 

参考図。ディオ・トレビスタ(DIO-Tre-Vista)

 

次の記事では、O視座とI視座の関係性と連動を明らかにしていきたい。予告編になりますが、O視座の解体については以下のチャートを新しく作成しました。

 

 

subject(7)主体なき直接世界


subject シリーズ後半の始まりです。まずは、直接視座とはどういう視座なのかについて、例を挙げながらおさらいしておくことにします。

あなたは渋谷で友人A子さんと待ち合わせをしました。多くの人が待ち合わせ場所と利用するハチ公前です。LINEで連絡をとってA子さんは既に着いていることがわかっています。あなたはA子さんを探し10m先に見つけました。

そのときにあなたはどう思いますか。

「いた!」となりませんか。

「A子さんがいた!」とは思わないのではないでしょうか。ましてや「私はA子さんを発見した!」にはならないでしょう。ヨーロッパ言語圏では思うときでさえ「私はA子さんを発見した!」と、自分を「私」として客観視する間接視座での内的世界が開かれます。

「いた!」と思い、そちらへ向かっていけばA子さんも気づきます。そこであなたは「ごめん。待った?」と言い、A子さんは「全然平気!」と応える。ここには「私」も「あなた」もなく、ただ互いの相手方が目の前にいるだけで自分の存在など全く意識していないはずです。

デパ地下を歩いていると美味しそうなケーキを目にしました。

頭の中で「私はこの美味しそうなケーキを食べたい!」と考えるでしょうか。おそらく「美味しそう」だとか「食べたい」だけで、「私」という主語も「ケーキ」という目的語も思い浮かべないと思います。更に言えば、味覚と食感の質感とイメージだけで何の言語的心象もない。

個人差はあると思います。現代人は西洋的な教育を学校では受けてきていますから、主語があって目的語があってという、学校で習った的な(西洋文法的な)「正しい日本語」を頭の中で展開させる方もなかにはいらっしゃるのかもしれませんね。けれど、神の視点を使った客観的、間接的視座に慣れてしまうと、せっかくの直接視座を失ってしまうことにもなりかねません。

言葉の乱れだとか正しい日本語だとかを、世間や学校の先生、文科省らがとやかく言うことがありますが、いったい正しい日本語とはなんだろうかと思うのです。

むしろ、「いた!」「美味しそう」「食べたい」などの述語だけ、或いは固有名詞だけを口にするとき、日本人同士ではコンテクストを共有できることが多いため、より自然な表現になります。こちらの方が日本的「視座」での自然体かつ正しい日本語だと言っても良いくらいです。

 

subject は消えてしまっているのです。あとかたもなく。A子さんを発見し「いた!」と判断するのが下の図です。

 

ケーキを見て「美味しそう」「食べたい」となるのは無自覚に自分の内部で観念化(表象化)しているので下の図になります。

 

そして、A子さんやケーキという object も消えてしまいます。二人で一体となって行動している感が強まり、「美味しそう」や「食べたい」も消え、ケーキは口の中に入っているような状態になって、味覚と食感を想像して感じているのが下の図です。

 

私は subject が消えてしまったと書きました。また、object も消えてしまうと書きました。しかし発想を逆転させれば、最初に subject も object もなかった、直接視座だけがあり、そこに object と subject が加わったというロジックの展開も可能です。

直接視座での認識と表現をごく自然に、無意識のうちに行っているのが日本人です。母国語である日本語の会話構文のスタイルが、直接世界の感覚表現を可能にしていることによって、この視座が日本人に自然に具わるようになっているのです。

もちろん、神の視点である実在論的視座と観念論的視座の認識と表現も、日本語でもともとできるようになっています。けれど日本人が優先してきたのはこの直接視座です。

国学の中興の祖といえる本居宣長に「もののあはれ」という思想がありますが、ここでの「もの」というのは object ではなく、object と自分の心が一体化した『世界そのもの』の哀情です。

 

 

subject(6)第4のメタ視座


個性的で個人的な「価値」とはどのようにして生成されるのか。このメカニズムの仮説を立てることが今回のシリーズの隠れたメインテーマです。自らの中核にある価値生成に自らが意識的にかかわれるとなれば、その人は自分の人生を主体的に造作し操作することができる。言わば無意識領域を意識的に創造し調整していくことになります。メカニズムが解明されれば、ビジネスにおいても人間全ての根っこを押さえることとなり、万能のメソッドを成立させることができる。少なくともこのテーマについての探究を進めることは、たとえそれが僅かな一歩であろうとも、最も確実に、人類の全てが抱える問題や悩みを解決することに繋がります。未来に大きな希望をもてる世界観を、個々が独自に自分の内面に創造できるメソッドの開発になる。100年200年で足りなければ3000年5000年かけたっていいじゃないですか。それだけの価値があることです。

そこへたどり着くための土台を subject シリーズで一段一段積み上げているつもりです。はるか上空1万メートルの地点へ、高さ30㎝の石段を確実に、途中で崩れることのないようにがっしりと積み上げていくようなイメージで。

 

前の記事で西洋哲学による subject 概念二つ(OとI)と、subject を失う日本的視座(D)の、三つの視座チェンジのロジックができました。トータルすると下のチャートになります。メタ視座Mが新しい第4の視座として生まれました。

しかし、下図は面倒で理解が大変です。全部を把握して考えるためには下図がとても良いのですが、わかりやすく分解することにします。

 

メタ視座Mとは、直接視座D、内面的間接視座I、外部的間接視座O、この三つの視座を更に上の次元から見つめようとする視座です。

 

D・I・O のいずれか一つの視座に、または二つの視座を一つに収斂させようとする試みが今までの哲学の流れでした。しかしこの D・I・O を、たとえそのうち二つを一つにしようとしても矛盾を生じさせジレンマに陥ります。三つなので「トリレンマ」の葛藤が起きてしまう。

D に収斂させようとすれば(西田哲学や国学)、世界は自分を含めて存在している、世界の中に自分が存在しているということが言えませんし(視座Oの否定)、「私はいま考えている」という「私」という主語を内的にも外的にも使うことができません(視座Iの否定)。

Ⅰに収斂させようとすれば(観念論や独我論)、自分が生まれる前に世界はなく世界の意味もなかった、他者とは私への現象のみがあって他者の本質の心は無いとなりますし(視座Oの否定)、内面世界には必ず subject があって「私は」という概念と言葉を捨てることができません(視座Dの否定)。

Oに収斂させようとすれば(唯物論や科学主義)、人間は全て物質であり心は脳という物質の科学作用であり、自分の心のなかに世界があるというのは幻想に過ぎないとなりますし(視座Iの否定)、「私は存在している」という観念がいつまでもどこまでも追いかけてきます(視座Dの否定)。

 

このように、どれか一つの視座へ収斂させようとロジックづくりをするのは無理筋なのです。

このトリレンマから解放されるために、三つの視座を自由に解き放ち、この立場であればこう考えることができる、この立場であればこうだというふうに、矛盾をそのままに受容できる「トレビスタ」(※Tre vista イタリア語で三視座・・・これが響きがいいなあと思い自論言語として使うことにしました)の関係性をロジックにしたものが私の仮説です。

そうすると自然に、「今の自分はどの視座を使っていたのか」のメタ認知ができますし、「この視座を使って考えるとどうなるのか」という工夫ができる。

D・I・Oのトレビスタをメタ認知するための視座Mがこうして誕生しました。

この頭文字の順序は「ディオ・トレビスタ」という呼称を意識したものであることは言うまでもありません。発音してみてください。ちょっとオシャレでしょ? Dio Tre vista. ディオ・トレビスタ。

 

話を戻します。例えば徹底的にDの視座で旅をしてみようとか、DとOの2種類のブレンドで、或いはDとIとOの3種類のブレンドで、あの件について考えてみようとか、ブレンドする際の割合はOを7割くらい強くしてIを少なくしてみようとか、そういう工夫が意図的にできるようになるわけです。すばらしいと思いませんか?

人間の悩みのほとんどは、健康や人間関係を自分の価値観で判断しようとするIの視座によるものです。深刻な悩みを抱えている時に、Oの視座へ移動し、宇宙の生誕からの悠久の歴史について突き詰めて考えてみると、どうせこのちっぽけな命は死ぬ運命にあるし、苦悩も死んだらなくなるわけだし、こんなちっぽけな命のちっぽけな悩みに悩まされているとは、なんて私は愚かなんだろうと、I視座での発想転換へ自分で自分を導けるはずです。

そうして意図的に視座移動を行い、Iにおける精神状態をよりよく有意義な状態に整えるために、視座Mはスーパーマンのように大活躍するのです。

 

自然に、習慣的に視座Mが作動し、無意識が視座Mを有効に使えるようになるまでは、意識的に視座Mをつくり、D・I・Oの観察の訓練が必要になると思います。自分を観察することの不得手な人は(私のように)、他者を観察し、「この人は今、どの視座で話しているのだろう」「この学者(或いは著作家)の論文(或いは随筆等)における、D・I・Oのブレンド割合はどんな感じだろう」などの意識付けを行うことから始めれば良いのではないかと考えています。

Iの視座とOの視座については古代ギリシア哲学から subject 絡みでみてきました。次は、西洋人がなかなかもてないのに日本人が普通にもっているD視座について、もう少し深く考えてみたい。

 

このD視座は、無意識のコア・パーソナリティ(中核となる人格・個性・人間性)に支えられており、コア・パーソナリティはどのようにして造られるかといえば、冒頭に書いた「個人的な価値の創造」そのものへと直結するのです。

いよいよ核心部分へ入城し、考えてみたいと思います。

 

 

subject(5)フッサールの第三視座


西洋哲学における subject の変遷にかんしては、今回のフッサールをもってラストとします。このフッサールの第三視座こそが日本の 「subject喪失観」 と重なるものであり、subject の「後ろに控える」、コアな(中核となる)「personality(人格・個性)」および「Ego(自我)」への入り口と言えるのではないかと思います。

前の記事 の最終チャートは以下でした。

 

上記図にある Direct-Subject から、直接、 Direct-Object (直接実在対象)を認識し、「一切の内面思考によらずに」判断し表現する、この視座をフッサールは発見しました。私を含めおそらく日本人であれば、(西洋的教育によって少し薄められたとはいえ)普通に所有している視座だと思いますがいかがでしょうか。

なぜ西洋ではほとんどの人が気づかないのか、この視座を普通にもてないのかの理由については、以下の3点が大きいと考えます。

1.古代ギリシア哲学の hypokeimenon からラテン語の subiectum→subject へ、間接視座Oにより存在ロジックを成立させてきた伝統。

2.一神教の「神の視点」と subiectum との関係がぴたりと符合してしまったこと。

3.インド・ヨーロッパ言語の構文上の問題。多くの場合、一人称代名詞を主語として用いる構文形式となり、文法が思考に影響を与え続けていること。

 

思惟するうえでの、それに先立つ「認識の先入見」があるのです。

ニーチェは次のように看破していました。

インド・ギリシア、ドイツのすべての哲学のもつ驚くべき家族的類似性は、きわめて簡単に説明される。言語の類縁性の存在するところ、まさにそこでは、文法がもつ共通の哲学のおかげで――それは、同じような文法的諸機能の無意識の支配と指導のおかげで、という意味だが――、あらかじめ一切が哲学的諸体系のある同種類の発展と順番のために用意されているというのは、まったく避けがたいことであり、同様に、世界解釈のある別の可能性への道がふさがれているように見えることも、また避けがたい。ウラル・アルタイ言語圏(そこでは主語概念がいちじるしく未発達である)の哲学者たちがインド・ゲルマン族や回教徒たちとは異なった風に「世界を」眺め、異なった道を歩きつつあるというのは、大いにありうることであろう・・・ある文法的機能のもつ魔力とはつまるところ、“生理学的”価値判断と種族の条件のもつ魔力なのだ。

(白水社版 ニーチェ全集 ニーチェ著『善悪の彼岸』第一章「哲学者の先入見について」20番)

 

上記に対する反論もご紹介しておきます。

ニーチェのこの言い方も超越論的批判である。彼にとっては、「ウラル・アルタイ語」は、インド=ヨーロッパ語で自明とされる「哲学」が何によっているかを超越論的に吟味(批判)するために必要な「外部の視座」である。(略)ニーチェは、「西洋」を、当時も今も「東洋」(オリエント)と目されるインドやアラビアに対置するような思考の圏外に出ようとしている。彼は、そこにどのような「哲学」が実際にあるかを知らないし、知りたいと思っていない。重要なのは、彼が、自分が属している世界に対して外部的に実存していることである。

(略)

たとえば、日本語は「ウラル=アルタイ語」の一つである。すると、そこに西洋とは違った独自の哲学があるといえるだろうか。その前にいっておくべきなのは、ニーチェがウラル=アルタイ語を「主語のはなはだしく発展していない言語」と言ったのは不正確だということである。膠着語では、主語がないのでなく、省略されているのでもない。たんに、西洋語でいう「主語」がないだけなのだ。

(柄谷行人著『非デカルト的コギト』(筑摩書房『ヒューモアとしての唯物論』所収)

 

ニーチェと柄谷氏の論述にはズレが見てとれます。

ニーチェの主張は、「言語の違いによって“世界の”眺めかたが異なるということがあっても当然だろう。それほど言語の威力は大きく、文法のありかたは思考に影響する」との主旨であって、(ニーチェの知らない)ウラル=アルタイ語をステレオタイプで「異なるに決まっている」と言ったわけではない。

加えて、「(ウラル=アルタイ語を)知りたいと思っていない」という断言はいくらなんでもまずいでしょう。なぜ柄谷氏が生まれる40年も前に死去したニーチェが「知りたいと思っていない」ことが解るのか。

柄谷氏のこの論文では subject に触れる箇所もあり、また別の論文『文字論』(文藝春秋『〈戦前〉の思考』所収)においてもこの件について述べており、読みどころはあります。しかし、紙面の都合上かもしれませんが全体を通じて論拠と論理展開が貧しく感じるため、今回はこれ以上立ち入りません。

では、具体的に Direct-Subject から直接的に世界を眺める視座とは何か。

 

Direct-Subjectへ置く主語(I,Je,Ich,Ego等)を排除します。言語化だけでなくアウトプット以前の思考のなかから排除します。Subject を喪失します。

 

Objectだけの世界となりました。意識は全てObjectだけでSubjectは在りません。D視座を支えるのは無意識のコア・パーソナリティによってのみです。

観念論でも同様です。

 

内面への表象化の段階を含みますが、同様にObjectだけです。

 

このD視座を徹底追及し、純粋化を図ったのがいわゆる禅の境地になります。Object(対象)という概念も消えます。subjectシリーズの (序) に引用した哲学者の西田幾多郎の「主体から環境へと云ふ方向に於いて何処までも自己自身を否定して物となる、物となって見、物となって行ふにあるのではないかと思ふ。」はこのことを言いたかったのではないかと思います。

 

西洋言語で発見できなかった視座Dをフッサールは発見しました。彼は、デカルトが著書『省察』において、第一省察及び第二省察で視座Dに近くまで接近したにもかかわらず、第三省察~第六省察で「神の全知論」へ逃げてしまったことを見てとったのだと思います。直接視座を含めて探究した著書が『デカルト的省察』です。

船橋弘訳/中公クラシックス版『フッサール デカルト的省察』に、39ページを割いた哲学者・谷徹氏の論評が掲載されています。その論考内容が同書の核心をついていると考え、一部引用します。

・・・今回はパスカルの記した「言葉」でロゴス的にこのことを示してみよう。「考える葦。・・・空間によっては宇宙が私をつつみ、一つの点のようにのみこむ。考えることによっては、私が宇宙をつつむ」

ここでは二つの見方が語られている。宇宙空間といった枠組みで見れば、「私」は極端な一点にすぎない。(略)しかし、そのように語っているのは誰か。「私」ではないか。その「私」はどういう視点から「私」を見ているのか。「私」は、宇宙全体を見渡すほとんど神の(全知的な)視点から、「私」を見ているのではなかろうか。いや、むしろ、自分自身とその“視点を忘却して”、「私」を見ているのではなかろうか。

他方で、パスカルは、「考える」場合には「私」が宇宙をつつむ、と言う。この「考える」を、デカルトの「考える」(思う)と同様に、「見る」などの直観的な活動も含むとしよう。そうすると、ここで語られているのは、「私」がまさに「私」の視点から宇宙(世界)を見ている場合だということになる。言い換えれば、この場合の宇宙(世界)は、神が無視点的に見渡すようなものではなく、あくまでも「私」が見ている世界だということになる。そして、じつは、「私」はこの視点から抜け出したことは一度もないのである。

(略)

デカルトもパスカルも「私」の視点から世界を見ることを一度は発見した。ところが、神的(視点忘却的)視点から世界を見る存在観が残っていると、この存在観に舞い戻ってしまう。これを防ぐのが、世界の存在に対する「判断中止」(エポケー)である。世界があらかじめ存在している、「私」もその一部として存在している、という信念にコミットせず、宙づりにしておくのである。

 

宇宙が「私」をつつむは実在論であり、「私」が宇宙をつつむが観念論です。フッサールは観念論を独我論へと昇華してゆくのですが、その過程で、実在論における存在の問題を一旦判断中止します。でなければいつまでも、「私は存在している」という実在論的神の視点が残ってしまう。

しかし観念論においても、例えば「私はいま頭の中で考えている」と、「頭の中で」そう思ったとしましょう。その時もやはり神の視点と言うべき間接視座を使っているのです。なぜなら「私は」と、その間接視座から指し示しているからです。

subject を排除し喪失しない限り、「私」を意識から外さない限り、「私」という存在を忘却しない限り間接視座からは逃れられません。上記の例で言えばたんに「考える」とか、「考えてみるか」「考えよう」という述語だけの世界になる。日本人にとってはこちらのほうが自然でしょう?

 

なお、今回の論考シリーズで私の使用している「視座」というのは、知覚的、視覚的視点ではありません。意味の世界を認識し解釈するものであって、喩えていうならば、全盲の方のそれです。真っ暗闇でもありませんし真っ白な世界でもありません。視覚的意味のない意味的世界を想定する。それを認識するための視座です。上記のフッサールの論評に使われている「視点」という言葉も同様に解釈したほうが良いと思います。

フッサールは当初、「私(自我)」という言葉を使うことに批判的だったそうです。この一文を読んで、ああフッサールはしっかりと視座Dを発見したのだなあと、そう確信しました。

しかし、発見したはいいけれど、西洋の言語ではどうにもならないのです。言語的にどうにもならないものを発見したということは、彼は、言語以外の方法で頭脳を使い発見したということです。

著書『デカルト的省察』は超のつくほど晦渋です。西洋の言語でどうにもならないものについて、フッサールは何とか説明しようと試みたのです。

 

「主体は世界に属さない。それは世界の限界である。」と述べたウィトゲンシュタインも独我論上で同じ問題と格闘していたというのが私的見解です。「主体」とはまさに「Subject」です。

結果、「語りえぬものについては沈黙しなければならない」「世界が私の世界の限界であることは、唯一の言語、私の理解できる唯一の言語の限界が、私の世界の限界を意味することに示されている」として断念した。ウィトゲンシュタインは、ヨーロッパ言語でそれを説明できないことに煩悶し続けたのだと考えます。

D視座を発見した西洋哲学者は例外として、言語による認識の先入見は固くこびりついています。

 

最近、新進気鋭の哲学者・マルクス・ガブリエルが『世界はなぜ存在しないのか』という著書を刊行し世界的に話題となっています。しかしこの論は西洋伝統の観念論から一歩も出ていません。直接視座Dを多くの一般人が使っている日本人ならば、『「私」はなぜ存在しないのか』という哲学書が書ける。西洋人にこれは書けない。日本語で書いて西洋語に翻訳する時点で変質してしまうかもしれませんが。

日本が優れているとかそういうことではありません。

視座Oも視座Iも、西洋の学問を学ぼうとしなければ一日本の一般人には気づけなかった「メタの視点」です。つまり明治維新以降の、日本人にとっては新しい教育による新しい認識方法でした。西洋近代が科学を発展させたのは、このメタ視点(視座O)の絶大な威力があってこそでしょう。日本の発展も間接視座抜きに有り得ませんでした。

 

こうして私が subject についての論考を書いている、このシリーズの全文、そして今書いている視座は、常にメタの視点(神の視点)にあります。その自覚もあります。直接視座Dにおける文章は一語たりとも書いていません。

ところで、自分の存在を外に置き、自分を含めた全体を俯瞰するメタの視点が日本人にまったく無かったわけではない。世阿弥の『風姿花伝・花鏡』には「我見」と「離見」についての記述があります。

見所(※客席のこと)より見る所の風姿は、わが離見(りけん)なり。しかれば、わが眼(まなこ)の見る所は我見(がけん)なり。離見の見にはあらず。離見の見にて見る所は、すなはち見所同心の見なり。

(略)後ろ姿を覚えねば、姿の俗(しょく)なる所をわきまへず。さるほどに、離見の見にて、見所同心となりて、不及目(ふぎゅうもく※肉眼では見えない)の身所まで見智して、五体相応の幽姿をなすべし。これすなはち、心を後ろに置くにてあらずや。かへすがへす、離見の見をよくよく見得して、眼(まなこ)、まなこを見る所を覚えて、左右前後を分明に案見せよ。さだめて花姿玉得の幽舞に至らんこと、目前の証見なるべし。

 

芸の道に入った人、役者、俳優、テレビアナウンサーや政治家もそうでしょう。メタの視点を使ったパフォーマンスがその職に要求される。経営者やリーダーにも言えるところがあると思います。

 

もうひとつ、もっと古く有名な例を挙げておきましょう。

花の色は、うつりにけりないたづらに、わが身世にふるながめせしまに

小野小町のこの歌は二重の意味を掛け合わせるテクニックを駆使した見事な歌ですが、自分を(桜の)花に喩えてメタ認知していることが解るかと思います。

 

直接視座と二つの間接視座の視座移動に、ほとんどの人は無自覚です。

ゆえに、認識及び解釈、思考する際、混同や混乱が日常的に生じます。

上手に活用すれば、逆に、芸術的(アーティスティック)にもなります。

この subject 問題をきっちりと整理しておくことは、頭の中に認識メカニズムの立体的地図を描いておくことであり、それは、人生の迷い道に入らないことでもある。と同時に、素晴らしい可能性を秘めているロジックなのです。

迷わないための整理として、次は、メタ視座を含めてメタ認知します。メタメタです。予告編としては次のチャートになります。

 

 

 

subject(4)カント観念論


私たちは「認識する」という言葉をどのように使っているのでしょう。日本語の「認識」とは、“物事の本質を十分に理解し、その物と他の物とをはっきり見分けること(心の働き)『新明解・国語辞典』”とのこと。

中国語の認識にあたる言葉は単に「知っている」という意味で子どもでも使うそうです。日本語の「認識」は、中国語の意味と、西洋哲学から輸入した「(独)Erkenntnis」という概念を合作した半和製漢語と言えるのではないかと思います。

 

国語辞典にあるとおり「認識」とは心の働きであり、人間内部で行われる活動であることが現代の共通理解だと思います。しかし、西洋での「存在を認識すること」とは、人間内部ではなく外部の視座が行うことであり、その後、あらゆる存在を創造したのは神であるとなった。これを前の記事で確認しました。

 

宗教哲学から近代認識論への変革の端緒となったのはデカルトでした。ここまでは 前の記事 のおさらいです。

 

ところで、数日前から読んでいる新書『日本語は敬語があって主語がない』(金谷武洋著・光文社新書)に、今回のテーマに即した論考がありましたので一部を引用します。著者は東大卒業後にカナダへ渡りモントリオール大学で博士号を取得した言語学者で、長きにわたり、フランス語を公用語(ケベック州)とするカナダ人学生を主な対象として、日本語教育に携わってきた方です。

今では「神の視点」を得た英語を象徴するのが「主語」と訳される「subject」です。ところが、歴史的に見るとこの翻訳は正しくありません。subject の原意は「主」でなく、その正反対の「従」だからです。たとえば「君主」(sovereign)に対する「臣民」が subject であることも、英和辞典を引けばご確認いただけるでしょう。語源的にも sub- が「下」であることは、「地下鉄」の subway を考えてみても明らかです。

その反対に「君主」のほうの sovereign の sove- は、ラテン語の super- 「上から」来ています。本来は文においても「従語」だった「 subject 」が、いまや「主語」となってヨーロッパ語の多くで君臨しているわけです。まさに自然と人間のパワーシフト、「コペルニクス的転回」がなされたと言わねばなりません。それ以前の、自然が人間よりも力を持つと英語話者が思っていた時代を、この「 subject 」という一語が化石のように証言しているのです。

カナダに長年住んでいて私が恐いと思うものがあるとすれば、それは何よりも、状況を上空の高みから見下ろす「神の視点」です。多くの場合、その視点はキリスト教という「一神教」と手を組んで「神に守られた正義」の主張となります。

(上記同書)

 

今回の私の、subject 論考シリーズのど真ん中です。subject の語源はラテン語の subiectum であり、その語源はギリシア語の hypokeimenon (ヒュポケイメノン)であり、その意味が「下に置かれたもの」だったことは本論考シリーズで見てきたとおりです。

金谷氏は続けて、欧米人は「神の視点」を使い、日本人は「地上の視点」を使うことを論述しています。この「地上の視点」は対比的にも文学的にもいいレトリックだと思いました。今後、使わせていただくかもしれません。

上記引用文の「それ以前の、自然が人間よりも力を持つと英語話者が思っていた時代」というのは、11世紀に、ノルマン人(フランス人・ラテン語族)から侵略をうける以前の古英語には、神の視点も主語もなかったことを示しています。言語が世界観までも変えてしまうのですから、言語の威力は恐ろしい。

 

さて、哲学の「存在論」「認識論」において、「コペルニクス的転回」と言われる全体ロジック構造のパラダイムシフトを敢行した哲学者は、イマヌエル・カント(1724-1804)です。神の視点を人間の視点へと大転換したため、後にカントは「神を半殺しにした哲学者」と呼ばれることになります。

認識論と存在論の subject-object 関係のコペルニクス的転回が起き、それが現在の「認識する」という意味になりました。

簡単にチャートを使って、その構造を確認します。

 

次の1図では、上記の存在論の「外部視点(神の視点)」原理を、そっくりそのまま「自分の内面(心のなか)」で起こっていることだとしました。自分の内面に世界はあるのだ、自分の心の中に世界のすべては存在しているのだというロジックです。この心の中に外部世界を映し出す(取り込む)ことを哲学用語で「表象」と言います。近代認識論とは、存在の問題を認識の問題に還元してしまおうとする決然たる立場のことです。(『岩波哲学思想事典』)

 

この表象化された中身をどう解釈すれば良いのかを考えるとき、上記1図は「対象化」されます。Object となる。その Object を観察する間接的(仮設)視座が必要になってくる。そうすると次の2図になります。

 

自己の内面では、表象化された世界を自分なりに解釈しようとする動きが起きます。近代認識論は自己内面への世界の観念化であり、カントは自身の論を「 transzendental idealismus (超越論的観念論)」と名づけました。とりわけ注意しておきたい点は、主体と客体が対立軸(対照軸)に置かれたことです。どのような内面の動きが展開されることになるのかを次の3図で表しました。

 

では、外部世界との関係はどうなったか。ここからは私の個人的なカント解釈を含め、個人的に構築したロジックを混合し、展開していきます。実際のところ、観念論のみを認識論とするのではなく、実在論も認識論の範疇に入ると考えるほうが自然です。実在認識論と観念認識論と言い換えることが可能だと思います。次のチャートでは紛らわしくないように、「実在論―観念論」を使います。

 

実在論と観念論は、視座をOと I に分けることによって共存できます。つまり、観念論ひとつの原理にこだわらずに、二つの視座、二つの原理を共存させることによって、それぞれの論の矛盾点を取り除くことができるのです。過去の哲学者はみな、一元原理主義にこだわり、矛盾点を強弁によって強引に論理づけてきました。ただし誠実なカントは、どうしても観念論に還元できないことを「Ding an sich (物自体)」として除外しました。

3図では、実在論と観念論とで、常に、「表象化」と「実在化」の活動が休みなく続いている。視座Oと視座 I の移動と混合が、無意識の中で無自覚に発生し活動している。夢の中でさえも。

このダイナミズムが私の試論における特徴の一つです。(次の記事で視座は3つとなり、現段階での最終視座数は4つになります)

 

インド・ヨーロッパ言語で考察する場合、それを言語化する場合には、必ず、視座Aと視座Bを必要とします。金谷氏が述べていた「状況を上空の高みから見下ろす神の視点」を、私は、「 indirect-Subject(間接的主体)の視座」と表現することにしました。

 

上記の図が今日のまとめチャートです。

上下にある視座Oと視座 I から、「Direct-Subject」を一人称代名詞(英)I、(仏)Je、(独)Ich として高みから自分自身を指し示す「感覚」がインド・ヨーロッパ言語の主語であり、これらは全てラテン語「Ego」の変形です。ドイツ語の Ich は現代でも自我の語義と「私」の語義を同じ単語で併用しています。

つまり単なる一人称指示代名詞ではありません。日本語の「私は」は透明性が高いのですが(単なる指示的「私としては」または主題的「私について言えば」)、ヨーロッパ言語の一人称代名詞は「Ego」の要素をたぶんに含みます。デカルトはこれを「疑い、知解し、肯定し、否定し、欲し、欲せず、また想像もし、そして感覚するもの」と述べています。

 

上記チャートにおける、内面での主観性と客観性、外部でのパースペクティブ(遠近法)については、また改めて詳述します。ここでは主観と客観について少し触れておきます。

日本語の「主観」は subject を和製漢語として西周が造語したものですが(主体と主観の二つ)、既に日本の社会生活上では意味が変容しており、「自分が思うこと」「自分の認識や思考、解釈、意見」というふうに使われています。例えば「それは君の主観だ(君個人の考えだ)」という言葉には偏見的要素が多く含まれ、この使い方では全てにおいて通用してしまい、客観的な言説もすべて主観に含まれるということになってしまいます。これは、哲学上では誤りです。

 

西洋哲学の subject , object を「主観」「客観」の意味で使用する場合には、仮設した間接視座を活用して、「主体(subject)の立場(見地―stand-point)において観る」「客体(object)の立場(見地―stand-point)において観る」ということなのです。「考え」ではありません。間接的視点、神の視点に不慣れな日本人は、「地上の視点」として、主観(西洋哲学の subject )という概念を誤用しているケースが多いということです。西洋哲学での subject は自分ではない。subject は自分の中にあるのではない。ヨーロッパ言語と日本語における一人称代名詞の、性格・性質の違いの認識不足も関係していると思われます。

中身が相当濃いことを駆け足で乱暴に書いてきましたので、中間省略や言葉足らずのところが多々あるかと思います。理解不能や誤読は当然あり得ます。この点も西洋と日本の違いの一つで、西洋では相手に理解してもらってナンボなのでとことん説明するのですが、日本人の場合は相手のコンテクストに任せ(悪く言えば放り投げ)、誤解を生もうがそれはそれで仕方ないとする。「一を聞いて十を知る」(主体は聞き手)が日本で、「十の説明によって一を理解させる」(主体は話し手)が西洋です。正反対の価値観ですが、徐々に日本の西洋化が進んでいると思います。

 

それでも今回はけっこう頑張って、日本人の私にしては懇切丁寧に説明しているつもりなのですが、「身近な例」を入れるなどせずに抽象論だけで押し切っているところは相変わらずの反省点であります。

今日の最後のチャートに、これから別のロジックの構造が次々と加わりますので、もはや自分用にアウトプットしているだけの意義・価値かもしれませんが、頭脳明晰な読者の方がいらっしゃって、ぼんやりとでも試論の概観を理解していただければ嬉しい限りです。

 

 

subject(3)宗教哲学からデカルトへ


今回の記事では解り易くチャートを活用することにしました。本来は「裏に隠されたロジックの構造」にだけ目を向ければ良いのですが、哲学論の表面上にはそれを覆い隠す難解な言語があります。加えて、面倒な言い回しの数々が難解さに拍車をかける。派生する枝葉の論や歴史的背景は極力そぎ落として、「ロジックの構造」特に subject にフォーカスしてゆくことにします。

まずは、前記事の古代ギリシャ哲学のおさらいです。

 

単純に上記だけで良いのです。簡単でしょう?

外の世界のさまざまな事象を対象化して、それについて、普遍的なものは何か、真実のものは何か、法則性は有るのか無いのか、有るのならばどういう法則性か、などを考えること。それが「知を愛すること」として学問の頂点でまとめるフィロソフィー(哲学)でした。以前の記事でリベラル・アーツについて書きました。下のチャートです。

 

ところで、1枚目のチャートには、それ全体を「対象化」した「視座」が隠されています。この「視座」は知覚的世界を感覚する視点ではなく、価値的世界を「間接的に」把握する「一つの解釈装置および表現装置」として、人間が作為的暫定的に仮設した機能です。この間接的視座について人間は、特に日本人はほぼ無自覚です。

下記の図のように間接的視座が subject (主体)として、外部の実在世界を object として対象化し解釈しているということです。(もちろんこの考え方は現代だから言えることです)

 

古代ギリシア哲学は、上記の構図によって存在論を中心に、普遍学について研究し学ぶことが盛んでした。しかし最終的にはヘレニズム哲学をその最後として、外部からの侵入者や戦争により国は疲弊し古代ギリシア文明は終焉をむかえます。紆余曲折を経てギリシアはローマ帝国の支配下となります。

他方、西暦2世紀頃からローマ帝国全体にキリスト教が広まり、同7世紀頃からはアラビア諸国にイスラム教が立ち上がり、キリスト教にもイスラム教にも、ギリシア哲学が影響を与えてゆくことになります。その哲学のほとんどはアリストテレスの残した文献の解読によってなされ、「アリストテレス=哲学」でした。一部にネオ・プラトニズム(プラトン)もありました。

逆に言えば、哲学が宗教の影響を多大に受けた時期で、世界解釈すべての基礎が宗教になってしまった。14世紀頃にルネッサンスが起こるまで西洋文化の発展は停滞し、「暗黒時代」と呼ばれることもあるようです。およそ1000年以上にも及ぶ暗黒時代を思うとぞっとしますね。

 

14世紀から始まるルネッサンスでは、宗教を中心とした、音楽・絵画・建築等の芸術文化が隆盛となります。学問においては遡ること300年、11世紀頃から始まった神信仰を基礎とするスコラ哲学(スコラ神学)が起こり、その後のモンテーニュら人文主義者の活躍もあって、哲学の気運も徐々に回復してゆきます。しかし、あくまで創造主は神であり、人間が存在するのも世界が存在するのも神ありきであり、それに逆らおうものなら厳しい刑罰があった時代です。

宗教が学問の主役に躍り出たことで、subiectum-obiectum にも変化が生まれます。特に変わったのは obiectum のほうです。

アリストテレスのもとで「対象」を意味していた antikeimenon=obiectum が中世のスコラ哲学・近代初頭の哲学においては「知性に投影されたもの」を意味するようになる。例えばドゥンス・スコトゥスにあっては、obiectum は志向的対象つまり表象(※心の中に投影される象)を意味しているし、デカルトやスピノザのもとでも realitas obiectiva は、現実化された事象内容である realitas actualis (現実的事象内容)や事物そのものの形相として存在する事象内容 realitas formalis (形相的事象内容)に対して、単に表象されたかぎりでの事象内容、つまり可能的事象内容を意味している。したがって、中世から近代初頭にかけては、subiectum がそれ自体で存在する客観的存在者を意味し、obiectum が主観的表象を意味していたのである。

(岩波書店版『岩波哲学思想事典』)

 

少し難しい記述ですがスルーしてもかまいません。次のチャートで肝腎のロジックだけを簡略化します。

宗教哲学全盛時を思えば、上記の「間接的 subject の視座O」は、そっくりそのまま「神」に変更できてしまうのです。神の視座による object (客観視)=誰もがそう認める客観性があることとして、信仰上と学問上とで違和感がなくなってしまいました。

ルターに端を発した宗教改革が起きプロテスタントとカトリックが分かれたとは言え、キリスト教全盛期の西洋でした。

 

さて、神信仰によって思考停止してしまった西洋学問でしたが、ギリシア哲学の時代から暗黒時代を含め約1500年後の1600年代に、勇者が現れました。

「人間は創造主である全知全能の神によって存在を与えられている」がジョーシキで、逆らえば厳しい刑罰が待つ時代に、神を無視した形で、「われ思うゆえにわれあり」と書いたのがデカルトです。私が存在しているのは神によってではなく、私が思惟するから、私が考えることが可能だからだ、と述べたのです。現代で言えば某政治家諸氏の「放言」を彷彿させるような事態で、宗教による同調圧力が極限まで高まっていたキリスト教社会全体からバッシングを受けるようなことでした。学問に忠実であろうとし、真実の学問体系を建設しようとしたデカルトは偉かった。

もっともその著『方法序説』を著したときには出身国であるフランスを離れオランダに隠棲していたようですけれども。さすがに身の危険を感じていたのかもしれません。デカルト自身はカトリック教徒であり神の存在自体は積極的に認めていました。(もしかすると彼の神の存在を認めていた態度は、身を守るためのパフォーマンスであった可能性もあります)

デカルトの出現はアリストテレス以来の、現代から遡ること2000年間における人類知性の分水嶺と言っても過言ではないと思います。

 

『方法序説』のその一部を参考までに引用しておきます。

ほんの少しの疑いでもかけうるものはすべて、絶対に偽なるものとして投げ捨て、かくしてそのあとにまったく疑いえない何かが、私の信念のなかに残りはしないかどうかを見なければならない、と考えた。(略)そして最後に、われわれが目覚めているときに持つあらゆる思考と同じものが、眠っているときにもわれわれに現れるが、その場合、真である思考は何ひとつないということを考えて、私は、かつて私の精神のなかに入りこんでいたすべてのものは、夢のなかの幻想とおなじくらい真ならざるものだと仮定しておこう、と決心した。しかしすぐあとで、このようにすべてを偽であると考えようとしている間も、そう考えているこの私は必然的に何ものかでなければならないことに気がついて。そして「私は考える、ゆえに私はある(当初はフランス語で Je pense, donc je suis 、のちにラテン語で Ego cogito, ergo sum と記述)」というこの真理はたいそう堅固で確実であって、懐疑論者のどんな法外な想定をもってしても揺るがしえないと認めたので、私はこの真理を私が求めていた哲学の第一原理として、ためらうことなく受け取ることができると判断した。

(ちくま学芸文庫 山田弘明訳 『方法序説 ルネ・デカルト』第4部)

 

上述の後に同書では、エゴ・コギト・エルゴ・スム の吟味に入るのですが、「私は考える、ゆえに私はある」と同時に、「私が存在していなければ考えることはできない」という命題にも触れ、明瞭な真実であるとしました。後に書かれた『哲学原理』のなかでは公理だと説明しています。しかし、存在しているから考えることができるという命題は、後のカント哲学以降では「超越論的」(先験的)とされます。この命題は当然のように思うかもしれませんがロジックとしては飛躍があります。

いずれにしてもキリスト教教条主義全盛の時代にあって、その教条主義や因習から解放され、ゼロから学問の体系を建設していこうとするデカルトの姿勢について言えば、圧倒的な「知のリベラリズム」に深い感銘を受けます。また、個人的には大きな共感とともに憧憬と若干の嫉妬心を禁じ得ない。

ルネ・デカルトについてはまだまだ書き足りないのですが、今回は subject がテーマですので改めて機会を設けるとして、これ以上は立ち入りません。

 

以上のように、デカルトを嚆矢として近代認識論の地平が開かれました。もっとも、後世から歴史をながめる眼差しにおいてそう言えるのであって、当時のデカルトには、自らの論が近代認識論の端緒だという自覚はもちろんなかったことでしょう。

デカルト以降、スピノザやライプニッツ、イギリス経験主義のロック、バークリ、ヒュームらの登場があったとは言え、新しい認識論の扉は重く、それが完全に開かれるまでには、デカルトの死後130年を待たねばなりませんでした。

〈subject-object〉の価値転倒、コペルニクス的転回を実現したのは、『純粋理性批判』を著したイマニエル・カントでした。

 

 

subject(2)ギリシア哲学


前の記事で予告したとおり、西洋哲学の「基礎構造」を明らかにしてゆきます。

その前になぜ構造なのか、構造をどうやって明らかにするのかについて触れます。

哲学には難解な哲学用語がたくさんでてきて、それも哲学者によって語義が異なることもあり、その誤解を避けるために持論構造の説明用に新しい概念の造語を創り出した哲学者も多いです。「私の持論上でこの言葉はこの語義として使いますよ」という哲学者からの親切な説明はありません。

哲学にとって言語で表現されているほとんどは前景でしかありません。このことは二つ前の記事 『仮説ロジック』 の後半に「仮説ロジックの表現」として少し触れました。何を言いたいのかというと、難解な言語の語義・語感に惑わされずに、その背後にある「ロジック構造」全体にフォーカスするということです。乱暴な言い方をすれば言語などどうでもよい。記号として扱えばよい。哲学は文学ではないのだから。

 

私たち日本人が明治維新以降、先進の西洋文明から輸入した最も重要な舶来品は、物質的なモノではなく、言語の意味や概念の意味でもなく、(学問的および科学的・技術的)「思考の構造」でした。

しかしまだまだ日本人の多くは「思考の構造」に弱い。

前世紀の碩学の一人、国語学者の故大野晋氏は次のように指摘しています。

日本とは何かを考えるうえで、日本人の弱点と思われることを一つ挙げたい。
それは日本人が「体系的な思考」に弱いということである。人間界についても、自然界についても、分析を重ねていって原理・原則を求め、それを全体として観察して構造的に、体系的に把握する力が弱い。

(大野晋著『日本人は日本語をどう作り上げてきたか』/新潮選書『日本・日本語・日本人』所収)

 

短所・弱みはそのまま裏返して長所・強みになるという反論は抑えて、大野氏からの訓諭を真摯に、且つ積極的に、課題として受け止めたい。もちろん、日本人の全てがそうというのではなく、歴史上でいえば、藤原定家、契沖、本居宣長など、体系的、構造的に全体を把握する能力、表現する能力のあった先人もいると氏は述べています。

少し逸れますが、2014年にノーベル生理学・医学賞を受賞した グリッド細胞 の発見は、人間の新たな可能性を示唆しています。グリッド細胞は物理的空間を把握する能力を持ちますが、私は、「意味的世界」を全体的に把握する能力もまた、人間に内在しているのではないかと考えています。何故なら全盲の人にも空間的把握能力があるからです。グリッド細胞の展開力にかんして言えば、むしろ晴眼者よりも優れている可能性が高いと思います。彼らには「意味的世界」の立体地図しかないのです。そこに「視点」は存在しません。

頭脳内に内在している、数千万数億かはわかりませんが膨大な数の、精密なグリッド細胞に意味的世界のロジックを立体的に展開してゆくこと、それはまさに、哲学の構造を明らかにしてゆくことと同義であります。

 

話を戻します。哲学論の構築を建設に喩えると、subject 概念にかんするロジックは、土を数メートル掘り下げて鉄筋鉄骨を打ちコンクリートで固めた基礎工事にあたります。地表に現れる建築は唯物論であったり独我論であったり、或いは、自由や平等、科学や芸術、民主主義や共産主義といったイデオロギーでもあったりするのですが、肝腎かなめの基礎は subject 概念に集約されるというのが私の見立てです。

その基礎中の基礎がギリシア哲学にあるわけです。

英語の subject は、ドイツ語の Subjekt を英訳したものであり、Subjekt はラテン語の subiectum,substratum,substantia,suppositum,subjectum 等、複数の哲学的語義を統合したものと事典にはあります。ラテン語は古代ローマ帝国の公用語でした。古代ローマ帝国が古代ギリシア文明を継承した際、ギリシア哲学で使用されていたギリシア語 hypokeimenon (ヒュポケイメノン)をラテン語訳し、それが巡り巡って英語の subject になったということになります。その過程で語義の変容はありますが、哲学的構造においては西洋文明の基礎であることに変わりはありません。

 

まず哲学事典から下記に引用します。

ヒュポケイメノン [ギ] hypokeimenon

アリストテレス哲学の用語。受動の動詞「下に置かれる」(hypokeisthai)の現在分詞中性形で、「下に置かれている(もの・こと)」を意味する。また能動ないし中動の動詞「下に置く」とその分詞形、さらにその名詞形(hypothesis)との連関により、文脈に応じてこれらの語と同じものを意味する。一般に「基体」と訳されるが、これらの多様な連関とその動詞的な性格をよく映しているとは言い難い。

(略)「ヒュポケイメノン〔の「何であるか」〕について述べられる」と「ヒュポケイメノンのうちにある」という、〈本質述定〉と〈内属性〉の二規定を通じて展開されるが、とくに「任意のある人」「任意のある馬」という形で表現される〈かけ替えのある〉個体としての第一実体が他のすべての存在のヒュポケイメノンであると主張されるところから、ヒュポケイメノンとは次のようなものとして理解されることになる。

つまり、われわれが言葉によってなにごとかを語り、明からしめるとき、その言葉の発語に先立って、そのなにごとかとは別のあるものがすでに何らかの仕方で措定され、了解されている、と。これより、ヒュポケイメノンは「先言措定」と訳されよう。

(岩波書店版『岩波哲学思想事典』)

hypokeimenon とその訳語 subiectum は、古代から近代初頭までは一貫して「基体」と「主語」を意味していた。そこにはカント以降の「主観」という意味はまったくふくまれておらず、むしろ「基体」という意味での subiectum は心の外にそれ自体で自存するものである。

(同書)

 

同事典では subjectobject(和訳は客体・客観)を併せて解説を試みている部分も見受けられますが、ギリシア哲学の時点では、hypokeimenon を「下に置かれたもの」、object 概念の根源である antikeimenon (ラテン語 obiectum)は「向こう側に置かれたもの」とし、現在の主体と客体(主観と客観)のような対立関係は全くありません。

「基体」も哲学用語です。goo国語辞書によれば物の性質・状態・変化の基礎をなしていると考えられるもの」。Googleによれば「種々の作用・性質の基礎にあってそれらを支持する実体。また、主体の精神活動の基礎にひそみ、客観的存在の根源をなす実在。」

    1. 下に置かれたもの
    2. 物の性質等の基礎となっているもの
    3. 主語
    4. 心の外に自存するもの
    5. 動詞的な性格
    6. 先言措定

以上の6つがキーワードになっています。「先言措定」は難しい概念です。

 

アリストテレスは、ヒュポケイメノンは述語にはなり得ないと言い切っているのですが、それと「動詞的な性格」はどう整合させたら良いのだろう。「動詞的な性格」と「先言措定」を外した4つのキーワードからならば、全体ロジック構造における、ヒュポケイメノンの位置や役割などのイメージをつくれそうです。

上記事典の二つ目の解説文は「主観」項目のなかにあり、故木田元氏によって書かれています。一つ目の解説文は今後の課題(アリストテレス研究課題)として、今回は参考にとどめておきたいと思います。

 

ところで、現代では subject を「人間の主観」として哲学ロジックに使用することが多いなか、その淵源たるヒュポケイメノンの語義には人間の影がとても薄いのはなぜか。それは、アリストテレスが、「実体のロジック」を構築していたなかから創造制作した概念であるからだと思います。実体のロジックを構築しようとすれば、人間よりも考察固定し易い物質から入ることは当然だからです。

この「基体」概念は、アリストテレスを出発点とした存在論の基軸となり、普遍学、実在論、唯物論、現代科学全ての基礎となりました。

そして現代では、「人間その一個人の基体とは何か」について、従来からある霊魂や神の創造物といった形而上学的な思考停止ではなく、アリストテレスのような哲学的思考のロジックによって明らかにされるべきテーマになっているのではないでしょうか。

 

 

subject(1)序


アイデンティティから続くこのシリーズですが、当初の予定では「自我について」が次のテーマでした。しかし7月一か月間の自己内議論と突如の閃きによって自我問題は矮小化されました。小さな問題になったということです。それよりも大きなテーマとして【 subject 】を掲げ、その一部として自我をどこかで扱います。

subject は哲学では「主体」「主観」と和訳されますが、いずれも明治以前の日本には無かった概念です。「主語」という概念もありませんでした。なぜ無かったのかについては、subject シリーズの後に、純日本思想を深く掘り下げる予定です。

 

テーマ名を「主体」や「主観」にしなかったのは、どちらの和訳語も、歴史上多義的に使用されてきた subject の語感には相応しくない、誤解を招きやすいとの判断からです。

次の記事からは本格的に西洋哲学の根幹ともいえる、或いは西洋哲学の中核として推移してきた subject 概念の変容の歴史とその構造(ロジック)について書いてみます。subject – object の対立軸も当然含みますが、西洋哲学の基本は subject  に集約されると思います。

 

最終章では、西洋文明が subject を失うことができなかったために混沌となった西洋哲学の陥穽(※かんせい…おとしあな)を指摘したい。これは西洋だけの問題ではなく現代日本人の問題でもあります。明治以降の教育によって西洋文化的な視座が中心となってしまい、戦後教育を受けた現代日本人は特に、subject を前提とした先入見で考えるようになってしまっているという現状がある。

もちろん、subject 概念を取り入れて考察できるようになったことは、日本人にとって大きな進歩でした。しかし、subject 概念をもたなかった日本文化を捨ててしまうことはない。かたくなに一つの真理を求めようとするのではなく、一元原理主義に固執するのではなく、柔軟に、しなやかに、多元原理の不安定さのなかで認識し、解釈し、考察してゆくことは楽ではありませんが、知的能力を向上させます。当然です。

 

あらためて純日本文化の subject 抜きの視座シリーズで触れますが、哲学者の西田幾多郎の次の言説は有名です。ここではそのさわりだけ。

私は日本文化の特色と云ふのは、主体から環境へと云ふ方向に於いて何処までも自己自身を否定して物となる、物となって見、物となって行ふにあるのではないかと思ふ。己を空うして物を見る、自己が物の中に没する、無心とか自然法爾とか云ふことが、我々日本人の強い憧憬の境地であると思ふ。

(岩波新書版 西田幾多郎著『日本文化の問題』)

 

西田は徐々に仏教へと傾倒してゆきましたので「自然法爾」という仏教用語が飛び出していますが、淵源へと辿って行けば、国学者の本居宣長による「もののあはれ」の思想がある。宣長の思想というよりも連綿と継承されてきた日本独自の、自己が大自然の中に溶け込み一体化していたことが、ごく一般の日本人の感覚だったのではないかということです。

重ねて書きますが、純日本文化を復興させてという考えは私にはありません。西洋と日本に限らず、「常に自由なブレンド」によって新しい価値観の“ブランド”を創造してゆくという、野心的企てがメインテーマです。そのためにも西洋哲学の subject をしっかり押さえておきます。

 

 

仮説ロジック


今日は単発記事を軽い感じで書きます。ロジック (logic) とは論理であり哲学的には論理学を指す場合もあります。古代ギリシア語のロゴス(言語)に由来する言葉です。論理的な思考のことをロジカル・シンキングと言いますよね。「どういうロジックになっているか」を考えるときは、幾つもの論理的命題がどのように繋がって全体の論理を構成しているのかが焦点となります。

本題は仮説についてです。

 

1.仮説を立てる

仮説を立てるとはどういうことか、です。いろいろな仮説のタイプがあるのですが、代表的なものとしては、まず「現象」に懐疑の目を向けます。「なぜ今日の台風は少し東へ逸れたのだろう」だとか、「台風って何?」という素朴な疑問でもなんでもいいのです。物理的な現象でなくても「美しい心って何だろう」なども。

2.帰納について

台風を例に取れば、東の海上へ台風が逸れた理由を天気図を見ながら、日本周辺の高気圧と低気圧の動きや海の状態(黒潮の流れや海水温)から、後付けで理由を見つけることは案外簡単な推論で、このロジックは「帰納法」によって構成されます。現象を遡ったり掘り下げたりして法則や原理を見つけようとすることです。台風は科学での仮説ですが、人文学分野の仮説はこうは簡単にはいきません。「なぜ日本人には空気を読む国民性が定着したのか」だとかの仮説を立てることは範囲が広いですし歴史を深く掘り下げねばならず、けっこう大変です。でも楽しいかもしれない。

3.演繹について

帰納法は推論ですので完全性が要求されることはほぼありません。一方で、演繹(えんえき)という方法があって、こちらは事実と事実を組み合わせて、必然的な事実を構築することになります。数学的な考え方で、必ずそうなるというロジックですが、未来の事象について言えば可能性が100になることはあり得ません。よって「演繹“的”にロジックを組み立てる」という表現になるのが現実的です。ビジネスの未来戦略構想や新しい価値の創造は演繹的な思考によることがほとんどです。

4.帰納と演繹の合わせ技で仮説を創る

大抵はこれですね。何か新しい価値を創造しようとしたときでも、そのことの過去への延長線上で、エビデンス(複数の統計、権威ある学者の論文など)や定説(哲学で言えばカントの観念論など)を元にするなどして、原理や法則のロジックを自分で組み立てる。これだけでも仮説になりますが、新しい価値の創造仮説を立てたいとするのならば、過去から現在までは既に演繹できていますので(帰納のあとの演繹の再確認は必要)、次は、未来へ志向を延長し演繹「的」にロジックを創っていくことになります。こうして立てる未来の仮説は楽しいです。そのままそのとおりになるなんてことはまず無いし、無くていいのです。大切なことは仮説をもつことですね。

 

脳科学者の茂木健一郎さんが以下のブログを書いていました。一部引用します。

『仮説力を持とう』

「仮説」は、自分が興味が持ったことを自ら学ぶことでもいい。(中略)「仮説」という名称が大切なのは、不確実な未来に向けて、とりあえず今持っているもくろみ、計画であるということが明らかになるからである。必要ならば変えればいい。仮説は何度変えてもいい。十回変えても、百回変えてもいい。たくさんの異なる仮説があってもいい。

上記のブログは就職を前にした大学生へのメッセージが主旨ですが、誰にでも当てはまり、ただ漠然と現実に流されて生きるよりも、自分の未来について仮説を立てることで充実した人生になること、心豊かにクオリティの高い生活を営めることってあると思うんですよ。

 

ところで仮説とは、こうして自分が自力でロジックを創り、意図して立てることが一般的なのですが、もう一つ、「閃きの仮説」について述べておきます。私はこちらの方が好きで常に狙っています。誕生する仮説のレベルが違うんです。超A級の仮説はこちらからしか誕生しないと言っても過言ではありません。

5.閃きの仮説について

こちらは何の意図も目的も無いところに突如誕生します。

しかしそれには幾つもの「重要な断片」が無意識内に必要で、且つ、何か一つのことについて真剣に考えて続けていることと、先入観や固定観念を捨てた柔らかい思考が不可欠です。Aのことについて真剣に考え続ける。そのために必要なことに対し関心をもって学ぶ。学んだことが幾つもの断片となって、あるとき突然、Bの仮説が閃く。Aとは近接関係にあるBの仮説です。私の場合は睡眠中の夢の中、もしくは起床直後にそれが起こることが多いです。断片が一気に一つの塔を築くようにロジックが自然に繋がって、数秒で重要な仮説が誕生します。ただ、その仮説が果たして正しいかどうかは解らない。もちろん、修整やロジックの補強は必ず必要になってきますが。

6.仮説ロジックの表現

仮説のロジック自体の「構造」は言語的ではありません。それゆえ言語で構造を表現するのはとても大変で、その構造によって導き出される現象内容を言語表現できるだけです。一行の一文が膨大な量の全体ロジック構造の上に置いてあることもしばしばです。ロジック構造自体については、その言語表現されたものの数々から全体を推論してもらうほかないのです。チャートを使うなどすれば他者理解が深まるかもしれませんが、そもそも第三者に理解してもらうことは私にとってはほぼ無益なのですよね。ですので理解できる人に理解してもらえば充分かなと思って書いています。不親切なブログですみません。

ただ、ここに書くことによって、自分の書いたモノがまるで第三者が書いたモノのように、無自覚に自分が読みこむこともあって、そうすると新たな気づきが生まれることがあるので全くの無益とは言い難い。

 

最後に余談です。とても不思議ことなのですが、私はよく難解な哲学の言説を引用するでしょ、哲学事典に書いてあることとか。あれね、引用する前は自分でよく解っていないんです。難しくて。頭悪いし。疲れるの早いし眠くなるし。でも、引用するために、一所懸命にキーボードを触って打ち込むことの効果なのか、引用した後に、「ちゃんと引用文が”従”で自分の意見が“主”になるように書かないと著作権違反になるぞ」という内なる声が聞こえてくる効果なのか、なんとなく後者なのですが、ブログを書きつつ難解な謎が溶けてしまうことがほとんどなのです。

そういうこともあるので、これからもしっかりとアウトプットしていこうと思います。よろしくお願いします。

 

 

TOP
Copyright © 2017-2025 永遠の未完成を奏でる 天籟の風 All Rights Reserved.