subject(6)―第4のメタ視座


 

山の人モード

個性的で個人的な「価値」とはどのようにして生成されるのか。このメカニズムの仮説を立てることが今回のシリーズの隠れたメインテーマです。自らの中核にある価値生成に自らが意識的にかかわれるとなれば、その人は自分の人生を主体的に造作し操作することができる。言わば無意識領域を意識的に創造し調整していくことになります。メカニズムが解明されれば、ビジネスにおいても人間全ての根っこを押さえることとなり、万能のメソッドを成立させることができる。少なくともこのテーマについての探究を進めることは、たとえそれが僅かな一歩であろうとも、最も確実に、人類の全てが抱える問題や悩みを解決することに繋がります。未来に大きな希望をもてる世界観を、個々が独自に自分の内面に創造できるメソッドの開発になる。100年200年で足りなければ3000年5000年かけたっていいじゃないですか。それだけの価値があることです。

そこへたどり着くための土台を subject シリーズで一段一段積み上げているつもりです。はるか上空1万メートルの地点へ、高さ30㎝の石段を確実に、途中で崩れることのないようにがっしりと積み上げていくようなイメージで。

 

前の記事で西洋哲学による subject 概念二つ(OとI)と、subject を失う日本的視座(D)の、三つの視座チェンジのロジックができました。トータルすると下のチャートになります。メタ視座Mが新しい第4の視座として生まれました。

しかし、下図は面倒で理解が大変です。全部を把握して考えるためには下図がとても良いのですが、わかりやすく分解することにします。

 

メタ視座Mとは、直接視座D、内面的間接視座I、外部的間接視座O、この三つの視座を更に上の次元から見つめようとする視座です。

 

D・I・O のいずれか一つの視座に、または二つの視座を一つに収斂させようとする試みが今までの哲学の流れでした。しかしこの D・I・O を、たとえそのうち二つを一つにしようとしても矛盾を生じさせジレンマに陥ります。三つなので「トリレンマ」の葛藤が起きてしまう。

D に収斂させようとすれば(西田哲学や国学)、世界は自分を含めて存在している、世界の中に自分が存在しているということが言えませんし(視座Oの否定)、「私はいま考えている」という「私」という主語を内的にも外的にも使うことができません(視座Iの否定)。

Ⅰに収斂させようとすれば(観念論や独我論)、自分が生まれる前に世界はなく世界の意味もなかった、他者とは私への現象のみがあって他者の本質の心は無いとなりますし(視座Oの否定)、内面世界には必ず subject があって「私は」という概念と言葉を捨てることができません(視座Dの否定)。

Oに収斂させようとすれば(唯物論や科学主義)、人間は全て物質であり心は脳という物質の科学作用であり、自分の心のなかに世界があるというのは幻想に過ぎないとなりますし(視座Iの否定)、「私は存在している」という観念がいつまでもどこまでも追いかけてきます(視座Dの否定)。

 

このように、どれか一つの視座へ収斂させようとロジックづくりをするのは無理筋なのです。

このトリレンマから解放されるために、三つの視座を自由に解き放ち、この立場であればこう考えることができる、この立場であればこうだというふうに、矛盾をそのままに受容できる「トレビスタ」(※Tre vista イタリア語で三視座・・・これが響きがいいなあと思い自論言語として使うことにしました)の関係性をロジックにしたものが私の仮説です。

そうすると自然に、「今の自分はどの視座を使っていたのか」のメタ認知ができますし、「この視座を使って考えるとどうなるのか」という工夫ができる。

D・I・Oのトレビスタをメタ認知するための視座Mがこうして誕生しました。

この頭文字の順序は「ディオ・トレビスタ」という呼称を意識したものであることは言うまでもありません。発音してみてください。ちょっとオシャレでしょ? Dio Tre vista. ディオ・トレビスタ。

 

話を戻します。例えば徹底的にDの視座で旅をしてみようとか、DとOの2種類のブレンドで、或いはDとIとOの3種類のブレンドで、あの件について考えてみようとか、ブレンドする際の割合はOを7割くらい強くしてIを少なくしてみようとか、そういう工夫が意図的にできるようになるわけです。すばらしいと思いませんか?

人間の悩みのほとんどは、健康や人間関係を自分の価値観で判断しようとするIの視座によるものです。深刻な悩みを抱えている時に、Oの視座へ移動し、宇宙の生誕からの悠久の歴史について突き詰めて考えてみると、どうせこのちっぽけな命は死ぬ運命にあるし、苦悩も死んだらなくなるわけだし、こんなちっぽけな命のちっぽけな悩みに悩まされているとは、なんて私は愚かなんだろうと、I視座での発想転換へ自分で自分を導けるはずです。

そうして意図的に視座移動を行い、Iにおける精神状態をよりよく有意義な状態に整えるために、視座Mはスーパーマンのように大活躍するのです。

 

自然に、習慣的に視座Mが作動し、無意識が視座Mを有効に使えるようになるまでは、意識的に視座Mをつくり、D・I・Oの観察の訓練が必要になると思います。自分を観察することの不得手な人は(私のように)、他者を観察し、「この人は今、どの視座で話しているのだろう」「この学者(或いは著作家)の論文(或いは随筆等)における、D・I・Oのブレンド割合はどんな感じだろう」などの意識付けを行うことから始めれば良いのではないかと考えています。

Iの視座とOの視座については古代ギリシア哲学から subject 絡みでみてきました。次は、西洋人がなかなかもてないのに日本人が普通にもっているD視座について、もう少し深く考えてみたい。

 

このD視座は、無意識のコア・パーソナリティ(中核となる人格・個性・人間性)に支えられており、コア・パーソナリティはどのようにして造られるかといえば、冒頭に書いた「個人的な価値の創造」そのものへと直結するのです。

いよいよ核心部分へ入城し、考えてみたいと思います。

 

subject(7)―主体なき直接世界 へつづく。