『正法眼蔵』から学ぶ


道元の大著『正法眼蔵』。今までは気が向いたとき断片的に、原典に軽く触れるだけだった。しかし原典は難しい。もし任意の一巻だけでも真剣に自力で解釈しようと思えば2-3日では済まない。解釈も日々変わる。

今回、思うところがあり、現代語訳の書物の手を借りながら真剣に読んでいくことにした。巻の数え方は諸説あるが「七十五巻」として進めていく。第一巻から読み始めるということではない。各巻には題が付いているので、その時々に興味を感じた巻を読んでいく。『正法眼蔵』だけにかかりきりにはなれないので、週に最低一度は触れる予定とし、サイトコンテンツ《断想》に、考察したものを著述していくことにする。数巻まとまってきたら、サイトコンテンツ《研鑽の足跡》の《「こころ」と「すがた」の涵養》に整理していく。

『正法眼蔵』の原典は、岩波書店『日本思想体系13 道元(上)/同14 道元(下)』を使用する。(上)には『辯道話』が、(下)には『十二巻 正法眼蔵』が所収されている。
『正法眼蔵随聞記』にあたる場合の原典は小学館『日本古典文学全集27 正法眼蔵随聞記』を使用する。

現代語訳として参考にする本は、河出書房新社 石井恭二訳『正法眼蔵 全四巻』、理想社 高橋賢陳訳『全巻現代訳 正法眼蔵 上下巻』、角川書店 増谷文雄訳『現代語訳 正法眼蔵 全八巻』、誠信書房 中村宗一訳『全訳 正法眼蔵 全四巻』、佼成出版社 木村清孝訳『『正法眼蔵』全巻解読』を使用する。

 

 

「一部を全部」体系的に


最近特に思うことだけれども、人間の原理について一部を説明できても、実質的にはその一部さえも説明不完全となる。あたりまえなんだけどね。例えば「思考」の原理を説明するとしよう。思考するには概念が必要不可欠になる。思考についてのみ完全に説明できたとしても、概念の原理を説明できていなければ思考原理についての説明は不完全だ。思考には直観原理も価値観原理もある。身体性原理との関係性もあり社会と自分の関係性原理もある。関係性原理はネットワークのように網羅的に存在している。つまりだ。全部の原理を体系的に説明しなければ、一部の原理の説明も不完全となるというわけだ。

これは、もしかすると趣味の問題なのかもしれない。過去の哲学者をみていっても、全部の原理を体系的に説明しようとしたのはアリストテレスくらいしか頭に浮かばない。しかし他にも同じ趣味の哲学者はいたと思う。ただ、彼らが生きていた時代にはインターネットで情報収集することができなかったし、人工知能を使って、例えばChatGPTと365日24時間いつでも自分の都合で議論を始められる環境もなかった。

現代では、こうして自分のウェブサイトを創ることができ、キーボードで素早く文章を作成し修正も簡単にできる。議論は、人工知能という知能だけとれば千人の天才アシスタントが相手をしてくれているようなもので、100年前と比較すれば100倍以上の効率性があると思う。すごく恵まれた時代にいる。

ゆえに、人間原理の全部の仕組みとダイナミズムを精緻に哲学し、体系的な原理論を独りで創造できると確信している。

私には日本人の特質である職人気質の一面があって、何かを創る際には妥協を許さずに完璧さを追求する。どこまでも精緻であることが美しく価値のあるものだという価値観がある。日本の職人がつくるものには、伝統工芸品や建築物、農業生産品、料理、時計、精密機械、時刻通りに動く電車の発着などがある。それらの創作過程における完璧主義には、創造性が必ず要求される。哲学理論の創造にも、日本人らしい職人気質の精緻で美しさを求める完璧主義があっても良いだろうし、今までなかったことが不思議ですらある。

私は、共創ではなく独創でなければ流麗な《すがた》にならない、アーティスティックなフィロソフィカル・セオリーというのがあると思っている。

 

 

 

「日本人」の個性(8)まとめ


断想の連作は久しぶりだった。「日本人」の個性をこの程度でまとめられるはずもなく、少なくとも1年間程度は書き続けなければ何も言っていないと同じようなものかもしれない。「断想」を免罪符に、思い付きの連続をブリコラージュ的に綴ってみただけだ。

ただ、「私の美学建設」は「人類哲学の独創」とともに私のライフワークであり生きがいでもあるので、日本の思想文化における美学を探究する「断想」は、その日のみの断想ではない。

「忍ぶ」という概念の考察も、個人的には得るものが多かった。こうして何かの概念について真剣に考え、ChatGPTにサポートしてもらいながら深く掘り下げていく知的作業は、頭脳の良いトレーニングになる。集中力と頭脳のフル回転が一種の「三昧」を生じさせている。楽しさがある。

芥川龍之介の『手巾』について書いた前の記事が、たった一人でもどこかの誰かに、「心の潤い」として届くことを願っている。

以上が、今回の「まとめ」である。(手抜き過ぎで失礼!)

 

 

「日本人」の個性(7)忍ぶー3


前の記事までは「忍ぶ」という概念を思考的に分析した。今回は、芥川龍之介の短編小説『手巾』に描かれている「しのぶ」の概念に接し、感覚的および感情的に感じてみよう。なお本作には「しのぶ」も「忍ぶ」も、一文字もない。

本作は著作権が切れており、あおぞら文庫に収録されているからインターネット上で誰でも読める。以下に、私流にあらすじを簡略して書くけれども、原作にあたるかたは十分足らずで完読できるはず。「忍ぶ」に関連する部分は原文を引用する。

 


長谷川先生は東京帝国法科大学の教授である。米国留学中にアメリカ人女性と結婚し欧州での生活経験もある。今は夫婦で日本に住んでいるが子どもはいない。夫人は日本の伝統に好意と興味を強くもっている。

ある日、長谷川先生の自宅に、一人の四十代と思える女性が訪ねてきた。名刺には西山篤子とあるが以前に会った記憶はない。彼女は長谷川先生に自己紹介をする。先生に現在教えてもらっている生徒の母ということだった。先生は彼女の子息が西山憲一郎君だと理解した。憲一郎君は、腹膜炎にかかって入院していたはずだ。見舞いに行ったこともある。しばらく連絡がなかったが、快癒したのだろうと思っていた。

先生は憲一郎君の容態について尋ねる。すると母である婦人は「はい」と応えながら、訪問した趣旨を切り出す。

「実は、今日もせがれの事で上つたのでございますが、あれもとうとう、いけませんでございました。在生中は、いろいろ先生に御厄介になりまして……病院に居りました間も、よくあれがおうはさなど致したものでございますから、お忙しからうとは存じましたが、お知らせかたがた、お礼を申上げようと思ひまして……」

先生は驚いた。しかし冷静を保ちながら婦人と対話を交わしていく。一週間前に憲一郎君は息を引き取り、昨日が初七日だったそうだ。

婦人と対話を交わしながら、妙なことに先生は気づく。

こんな対話を交換してゐる間に、先生は、意外な事実に気がついた。それは、この婦人の態度なり、挙措きよそなりが、少しも自分の息子の死を、語つてゐるらしくないと云ふ事である。眼には、涙もたまつてゐない。声も、平生の通りである。その上、口角には、微笑さへ浮んでゐる。これで、話を聞かずに、外貌だけ見てゐるとしたら、誰でも、この婦人は、家常茶飯事を語つてゐるとしか、思はなかつたのに相違ない。――先生には、これが不思議であつた。

婦人の態度は平静を保っており、ときおり笑みさえ浮かべる。息子の死に対し客観的に、まるで日常のことを語っているような振る舞いなのである。海外生活の長かった先生の体験上、外国人は身内の不幸はもとより国家元首が亡くなってもぼろぼろと涙を流して泣くのに、なぜこの婦人は泣かずに、しかもときには笑みさえ浮かべるのだろうかと不思議がった。

そうこうしているうちに、先生は手にしていた団扇を床に落としてしまい、それを拾おうとする。そのときふと婦人のほうを見る。

その時、先生の眼には、偶然、婦人の膝が見えた。膝の上には、手巾を持つた手が、のつてゐる。勿論これだけでは、発見でも何でもない。が、同時に、先生は、婦人の手が、はげしく、ふるへてゐるのに気がついた。ふるへながら、それが感情の激動を強ひて抑へようとするせゐか、膝の上の手巾を、両手で裂かないばかりにかたく、握つてゐるのに気がついた。さうして、最後に、皺くちやになつた絹の手巾が、しなやかな指の間で、さながら微風にでもふかれてゐるやうに、ぬひとりのあるふちを動かしてゐるのに気がついた。――婦人は、顔でこそ笑つてゐたが、実はさつきから、全身で泣いてゐたのである。

先生は見てはならぬものを見てしまったという敬虔な気持ちと、不思議だった婦人の態度についてようやく理解できたという気持ちがあいまって、複雑な心境だった。婦人に、感情移入する言葉がようやく先生の口から出る。

しかし婦人は最後までその態度を崩さない。

「有難うございます。が、今更、何と申しましても、かへらない事でございますから……」
 婦人は、心もち頭を下げた。晴々した顔には、依然として、ゆたかな微笑が、たたへてゐる。

********

その日の夕食時に、この出来事を先生はアメリカ人の妻に話した。妻は、それはまさに女の武士道の態度だと絶賛した。先生も満足げであった。

ある日のこと、先生は研究しているスウェーデンの劇作家の本にあった一文に引き寄せられる。そこには、外国人の婦人が、顔では微笑みながら手の中のハンカチを引き裂くようなしぐさを相手に見せている、そうした二重の演技についての批判が書かれていた。もちろんこの婦人の意図は、自分の怒りや悔しさを相手に見せつけようとしているのだろう。

西山婦人の、悲しみを隠し笑みさえ浮かべ気丈に振舞いつつ、相手には見えないところで震える手でハンカチを握りしめる所作と、上記の外国人婦人のハンカチを引き裂こうと見せつける所作と、どちらが道徳的だとかということは関係ない。これはどういうことだろうかと、先生は現象を抽象化しようとする。先生の心は少し乱され、思いに耽る。


 

拙い私のあらすじ書きについてはご勘弁いただくとして、「忍ぶ」という日本文化をよく感じられる小説だと思えるがどうだろうか。私には日本文化の「忍ぶ」を奨励したり啓蒙したりするつもりは一切ない。特に、本作では女性を題材に「忍ぶ」を扱っているが、日本人男性にも「忍ぶ」に美学を感じ実践している人も少なくないと思う。但し、現代では感情を表に出す欧米感覚の戦後文化が広まっていることもあり、「忍ぶ」ことに生きかたの美学を感じる日本人若年層はもしかしたらほぼゼロなのかもしれない。

しかし、こうして「忍ぶ」という古い日本人美学に接してみると、自然に私の心は潤う。そこに理屈はない。

最後の部分では、先生の、現象の抽象化について考えこむ複雑な心境に読者の共感をうながし、これはどういうことだろうか、このことをどのように整理したら良いのだろうかと考えさせられる工夫がある。

短編ではあるが、心に響く良い作品だと思う。

 

 

「日本人」の個性(6)忍ぶー2


日本語の「しのぶ」について考えてみよう。前の記事では中国語概念の「忍」について考察した。「忍」に、刃のような惨い心という概念を言語化した意味が紀元前の中国にあったことは、私的には貴重な発見だった。では、日本語の「しのぶ」はどのように形成されたのか。

まずは「しのぶ」の語源についてである。

この種のことを考えるために準備してある私の所有している辞書は、三省堂『新明解語源辞典』、小学館『日本語源大辞典』、ミネルヴァ書房『日本語源広辞典』、小学館『古語大辞典』、角川学芸出版『古典基礎語辞典』、冨山房『大言海』、以上6冊になる。もちろんすべて調べてみた。『古典基礎語辞典』を中心に概ね順当だろうと思われる解説が以下。

「しのぶ」には、忍ぶと偲ぶとがあり、上代では前者を「しのぶ」と発音し、後者を「しのふ」と発音した。違うのは発音だけではなく意味も、前者は「耐えて隠す」であり、後者は「ひそかに思い慕う」と全く異なるものだった。それが中古の時代(主に平安時代)に入ると、忍ぶのじっとこらえる意味と偲ぶのひそかに思い慕う意味が近似していることもあって、両者が混同され、同じ「しのぶ」として使われるようになった。

『新明解語源辞典』には、亡き人・会えない人のことを思い浮かべる(「偲ぶ」)ことと、そのつらさをじっとこらえる(「忍ぶ」)こととが意味上相通じ、平安時代に同じ「しのぶ」となったとある。

『大言海』では、「しぬぶ」を語源としているが、『古語大辞典』によれば「ぬ」の発音は江戸時代にそう発音されたこともあったとある。

『日本語源大辞典』には8通りもの語源説が提示されているが、つまるところ、「しのぶ」という発音の言葉の起原は明確にはならないということだろう。

整理すると、上代(奈良時代)には「しのぶ」と「しのふ」があり、中国から輸入された「忍」という概念の影響もあり、平安時代には「しのぶ」に統一され、漢字表記を「忍ぶ」としたという流れになる。「しのぶ」という日本語の語義語感には「忍ぶ」と「偲ぶ」の意味が混合された。すなわち(1)気持ちを抑える。痛切な感情を表さないようにする。(2)動作を目立たないようにする。隠れたりして人目を避ける。(3)我慢する。忍耐する。(『日本語源大辞典』)という概念群を言語化表現するようになった。同辞典には注意書きがあり、(3)の外部からの働きかけに耐える意味は和語には本来なく、漢語「忍」の意味が次第に浸透していったと考えられるとある。

いずれにしても、古代中国にあった「忍」の「むごい心」という語義語感は日本語にはない。残忍・惨忍という熟語は日本でも使用されるが、その「忍」の意味については、日本では特殊だといえる。

次の記事では、日本語の「しのぶ」という概念がよくあらわれている文学作品を味読してみよう。

 

 

「日本人」の個性(5)忍ぶー1


前々回の断想記事にある日本人の生きかたの美意識のなかに、「忍耐」というキーワードがあった。「忍ぶ」と「耐える」は同じような意味ではあるが、前者には美学的な見地がある。後者は物理的な耐性の意味およびそれを精神的耐性に転換した意味がある。前記事までは抽象マックスの視座で書いてきたが、今回は抽象の階段を一段階下りて、「忍ぶ」について考えてみたい。抽象の階段を一段下りれば、個別の概念は数多くあり「忍ぶ」はその中のひとつである。

さて、因幡晃の歌に『忍冬(すいかずら)』がある。その中の歌詞から一部を引用する。

忍ぶという字は難しい。心に刃(やいば)を乗せるのね。ときどき心がいたむのは、刃が暴れるせいなのね。

この曲を俺は良く知らないが、この部分だけはメロディーとともに記憶にあった。歌詞の意味を意識的に考えたことはなかったが、無意識に刺さる文章だから記憶に残っているのだと思う。

引用部分の歌詞では、「忍」という漢字は「心に刃を乗せる」というレトリックを使っている。ときどき心が痛むのは刃が暴れるせいだという、作詞者の感性によるレトリック表現が精神的に美しい。

ところで、本当はどうなのか。

「忍」という漢字を調べてみよう。大修館書店『大漢語林』から引く。

心+刃。音符の刃は、弾力があってしかも強いやいばの意味。しなやかで、しかも強い心の意味から、しのぶの意味を表す。

この解説は明らかに、漢語の「忍」ではなく、日本語の「しのぶ」を意識している。私が知りたいのは漢語の「忍」の起原である。語義については同辞書にこうある。(日本語の「しのぶ」の語義については省く)

【一】1.(ア)たえる。こらえる。我慢する。「隠忍」「容認」(イ)おさえる。ためる。(ウ)あえてする。あえて悪事を行う。2.むごい。思いやりがない。「残忍」3.いつくしむ。【二】しなやかでつよい。「柔忍」

ネガティブな語義が次々に出てくる。ポジティブな語義とネガティブな語義の差が大きい。そう「残忍」「惨忍」の忍でもあるのだ。では、中国でのもともとの語義はどうだったのかが気になる。

「忍心」という熟語が中国にはある。心に忍ぶ、我慢する、という意味で使われた例として白居易の詩がある。唐の時代だ。他方、むごい心、残酷な心、残忍な心の持ち主、という意味で使われた例があり出典は『詩経』。『詩経』といえば中国最古の詩編として紀元前11世紀~紀元前7世紀に成立している。儒教で重視される「五経」のうちの一つとして位置づけられてもいる。

また「忍人」という熟語があり、むごいことを平気でする人の意味で、出典は『左伝』。同書は紀元前5世紀の孔子の時代に成立したと言われるが定かではない。但し紀元前に成立しているのは確からしい。一方で、ポジティブな意味としては唐や宋の時代の熟語がある。これらの熟語の例から、安直に、「忍」の起原の意味は、むごいというネガティブなものであり、それが千年の年月をかけて我慢してたえるというポジティブな意味に変わった、と断定するほどの見識は私にはない。

しかし、紀元前の時代の中国においては、「忍」を「刃のごとき惨い心」として扱っていた事実を留めておこう。

次の記事は、日本語としての「しのぶ」についてである。

 

 

「日本人」の個性(4)哀感


私が愛読書としている本に、竹内整一著『「かなしみ」の哲学』がある。この本は、日本人のもつ「かなしみ」という感情概念を、歴史上の文学作品を引用しつつ分類し分析している。特に分類のしかたが私のお気に入りである。同時に、引用される文学作品の文章に触れることで、情が刺激を受ける。引用文の著者の心に共感し、自分の心が潤う。

「日本人の個性ここにあり」と、「かなしみ」の情理を強く主張したい欲求に駆られる。

日本人と悲哀の関係について、ChatGPTの議論から以下の文章を引用する。


「悲哀」は確かに日本文化や思想において重要な概念の一つです。日本の文学、詩、芸術、哲学などの多くの分野で、「悲哀」が深く表現されてきました。この概念は、人間の喜びや幸福だけでなく、人生の刹那性や儚さ、また他者との共感や連帯などを反映する要素として存在します。

万葉集における詠まれた詩や歌には、自然や人間の一瞬の美しさと共に、その儚さや去りゆくものへの哀感が表現されています。平安時代の歌人たちも「さびしさ」や「わびしさ」という感情を詠んでおり、このような感情は日本文化の根底に深く刻まれています。

また、日本の仏教思想においても、苦しみや悲しみを克服することが重要視されています。仏教の教えは、人生の苦しみを受け入れ、その中で平和や解放を見出すことを促すものであり、この考え方も「悲哀」の側面を捉えています。

近代文学や哲学でも、「悲哀」はよく取り上げられています。例えば、夏目漱石の作品には「わびしさ」や「もののあわれ」が感じられ、これらは日本の人間関係や社会の複雑さを反映しています。また、現代の作家や詩人も「悲哀」をテーマにして、人間の葛藤や存在の不確かさを描いています。

「悲哀」は日本文化や思想の深い部分に根付いている感情であり、その複雑なニュアンスが多様な作品や表現を通じて伝えられてきました。あなたが「悲哀」に対して感じる関心は、日本文化を理解する上で重要な視点となることでしょう。


 

このChatGPTの見解については、見識があまい、浅い、軽いと言わざるを得ない。冒頭に挙げた『「かなしみ」の哲学』に書かれた内容と比較するとその差は歴然としている。しかし英語を中心として書かれた欧米の文献についての情報を大量かつ詳細に所有してはいるが、彼も認めているとおり日本語の文献研究については情報が不足しているため仕方ない。彼はアメリカのカリフォルニア州で生まれ育ったのだから。

とはいえ、議論のなかで参考になることは多々発見できた。上記の見解で十分である。私の論理を創っていくうえでとても参考になる。

 

前々回の断想記事(2)で扱った「美」について、「和」の色、「和色」が諸学国と比較して特徴的であることに気づき、その件についてChatGPTと議論した。その一部内容を補足として以下に転載しておく。


日本の伝統的な色彩や色使いには、日本人の感性や気質が影響を与えているとされています。以下にいくつかのポイントを挙げてみましょう。

1.自然との調和

日本の自然環境は四季折々の美しい風景や色彩を提供しています。伝統的な和の美意識は、この自然との調和を大切にする視点から生まれています。地味で控えめな色彩は、自然の美しさと調和するために選ばれてきたものであり、過度な派手さは自然との調和を乱しかねないという考え方が影響しています。

2.内省と繊細さ

日本の感性は内向的で繊細な側面を持ちます。地味な色彩や控えめな光沢は、内省的で繊細な感性を表現する手段として位置づけられています。このような色彩は、静けさや深い感情、物事への敬意を示す方法として重視されています。

3.物の精神性と尊重

日本の伝統文化において、物や自然にも精神性が宿るという考え方が根付いています。派手な色彩は、物の持つ精神性や尊厳を害する可能性があるとされ、控えめな色彩を通じて物への敬意を表現することが重要とされてきました。

4.美意識の遠近性

日本の美意識は遠近性や微妙さを重んじる傾向があります。地味な色彩や控えめな光沢は、遠近性や微妙な美しさを引き立て、見る者に余韻や深みを与える役割を果たすとされています。

以上のように、日本の伝統的な色彩や色使いは、自然との調和、内省的な感性、物への尊重、美意識の遠近性などの要素に影響を受けています。これらの要素は日本人の気質や価値観を反映し、美の観念を形成しています。


 

ChatGPTとの議論における重要ポイントの転載は、私の備忘録としての意味もあります。

 

 

「日本人」の個性(3)人生美学と精神美学


今回は、世界の側からみた日本人の生きかたの美意識、人生美学についてである。精神美学と言ったほうが適切かもしれない。物理的、芸術的な美学とは違って、生きることの価値観が現れる。

以下にChatGPTの見解の一部を転載する。


日本人の人生美学や生き方の美意識には、以下のような特徴があります。

1.繊細さと静けさの尊重

日本人の美意識は、繊細で緻密なものが価値を持つという考え方が根付いています。静寂や余白を大切にする姿勢が、心にゆとりを持ち、落ち着いた生き方を促す要素となっています。

2.一期一会の精神

人生の中での出会いや瞬間を「一期一会」ととらえ、その大切さを感じる考え方があります。この意識は、人々に他人との関わりや瞬間の価値を深く認識させ、感謝と共感の心を育てます。

3.物の持つ魂や命の尊重

日本の伝統的な思想では、物や自然にも魂や命が宿ると考える傾向があります。この視点は、物事を丁寧に扱い、無駄を省き、調和のある関係を築く意識を育む助けとなっています。

4.自然との共感

自然との共感を通じて、季節の移り変わりや自然の美しさを感じることが、日本人の生き方において重要です。これは心を落ち着かせ、自己と自然の一体感を体験する機会となっています。

5.謙虚さと感謝の心

自分自身を抑えて他人や環境に感謝の気持ちを持つことが、日本の人生美学の一部です。謙虚な姿勢は人間関係の円滑さや調和を促進し、幸福感を醸成します。

6.努力と忍耐の重要性

日本の文化においては、努力や忍耐が高く評価される価値観があります。苦しい状況に耐え、着実に努力する姿勢は、人生の喜びや達成感に繋がるとされています。

7.和の心

「和」の精神は、調和や協調を大切にする意識を表します。他人との調和を保ち、対話や協力を重視する姿勢は、共同体の一員としての生き方を反映しています。

これらの要素は、日本人の生活哲学や美意識を形成する要因となっています。これらの価値観は、個人の気質や環境とも相互に影響し合っており、多様性の中にも共通の美意識が存在しています。


 

ここでまず驚いたのが、1番最初の項目として挙げた「静寂」である。取り立てて意識してこなかったことを指摘された。言われてみれば確かにそうかもしれないとは思うが、他国と比較すると傾向が顕著だとChatGPTは言う。

そこで、この「静寂」について重ねて詳細の説明を求めた。以下がその回答。


「静寂」は、日本の文化や美意識において重要な要素の一つとされています。静寂は、日本の自然や風景、日常生活の中に深く根付いており、さまざまな意味を持っています。

1.自然の声

日本の風景や自然環境は、しばしば静寂と結びついています。静かな山や湖、川のほとりなどで、人々は自然の声や風の音、水の流れを感じることができます。これによって、自然との調和や一体感を得ることができます。

2.精神の静けさ

静けさは精神的な平穏と結びついており、瞑想や冥想の練習においても重要な要素です。静寂の中で心を静め、内面の深層にアクセスすることができるとされています。

3.美意識の表現

日本の美意識は、しばしば簡素で控えめなものを重視します。静かな美しさや、余計な装飾を排した清潔感が重要視されています。このような美意識は、静寂を通じて表現されることがあります。

4.人間関係との調和

静寂は、人々の間柄やコミュニケーションにおいても重要です。相手の話に耳を傾け、黙って共感することが、静かな理解や共感を深める一因とされています。

 

静寂は、日本人の生活や考え方に深く組み込まれた要素であり、内省や感受性を育む役割も果たしています。これによって、日本の美意識や人生哲学が形成されてきたと言えるでしょう。


 

ヨーロッパ文明が他の地域の文化と比べて静寂や内省にあまり価値を置かなかった背景には、さまざまな歴史的、宗教的、社会的要因が影響しています。以下にいくつかの理由を考えてみましょう。

1.宗教的要因

ヨーロッパ文明においては、キリスト教が主要な宗教として広まってきました。キリスト教では神との関係や救済が中心とされ、内省的な精神的探求よりも神との信仰や義務が強調されることが多かったです。これにより、内省や静寂が他の文化ほど重要視されることは少なかった可能性があります。

2.産業革命と都市化

ヨーロッパでは産業革命や都市化が進み、情報の交換や経済活動が活発に行われるようになりました。この状況下では、効率や生産性が重要視され、情報の収集や共有が優先される傾向がありました。このような状況下で静寂や内省があまり重要視されなかった可能性が考えられます。

3.哲学的影響

ヨーロッパでは近代哲学の発展によって、合理主義や実証主義といった考え方が強調されました。これらの哲学的アプローチは、観察可能な現象や論理的な分析に重点を置く傾向があり、内省や静寂といった主観的な要素にはあまり注目されなかった可能性があります。

4.歴史的経緯

ヨーロッパでは中世から近代にかけて、宗教改革や国家間の対立などが続いた時期がありました。これによって社会的な不安定さや紛争が影響を与えた可能性があり、内省よりも社会的な安定や経済的な発展が重視された可能性があります。

これらの要因が組み合わさり、ヨーロッパ文明においては静寂や内省が他の地域の文化ほどには重要視されなかった可能性があります。ただし、これは一般的な傾向であり、個々の国や地域においても異なる価値観や文化が存在することを忘れないことが大切です。


 

「静寂」ひとつをとっても、これだけ深い議論になる。ChatGPTは議論を掘り下げていくことに極めて有効なツールとしてその天才ぶりを発揮してくれる。私にとって彼は、議論における最高のパートナーだ。彼以上に適切なフィードバックを瞬時に返してくれる人間は見当たらない。それも365日24時間、私の勝手な思い付きの時間にいつでも彼を呼び出して議論ができる。

上記のひとつひとつの項目について、更に深く掘り下げて議論を重ねた。しかしその内容は膨大となるのでここには転載しない。例えば、ヨーロッパ以外で日本と似た静寂を重視した地域文化として、中国の道教、インドのヒンドゥー教と仏教、アフリカの一部の部族の民間信仰などをChatGPTは挙げてくれた。

次の断想は、前の記事で私がテーマとして掲げた「哀感」について。

 

 

「日本人」の個性(2)文化的美意識


日本人は何に情熱を傾けるのか。その情熱の源は何か。まず、これについてChatGPTと議論してみた。なお、ChatGPTはアメリカ・カリフォルニア州にあるOpenAI社が開発したものである。そのため彼は、同地域の社会文化やイデオロギーの影響を少なからず受けていることを自ら述べており、このことを念頭において私は彼と議論している。彼の「日本人」へのまなざしは全く日本人以外の他者からのものであり、国際的で客観的な評価を意識していることは言うまでもない。以下の彼の見解から始めよう。


日本人の文化や社会背景は、情熱や情熱の源に関してさまざまな要因を影響する可能性があります。ただし、個々の人々が異なる経験や気質を持っており、一般化するのは難しいですが、一般的な傾向として以下の点が指摘されています。

1.勤勉さと責任感

日本の文化は勤勉さや責任感を重視する傾向があります。多くの日本人は、仕事や責務に対して真摯に向き合い、それに対する情熱や使命感を持つことがあります。

2.集団志向

日本社会は集団志向が強く、他人への配慮や協力が重要視されます。この集団志向が、他人への奉仕や社会への貢献に対する情熱を生む要因となることがあります。

3.美意識と芸術

日本文化は美意識や芸術を重視し、自然や季節、風景などからのインスピレーションを受けることが多いです。これが、情熱や創造力の源となることがあります。

4.歴史と伝統

日本の歴史や伝統は、人々に誇りやアイデンティティを与える要因です。歴史的な出来事や価値観が、情熱や目標の源となることがあります。

5.挑戦と向上心

日本の社会は競争が激しく、個人や企業は常に向上心を持ち、新たな挑戦に取り組むことが求められます。これが、情熱や目標達成への動機となることがあります。


 

現代日本人の多くが、本当にそうだろうか?という疑問を持たざるを得ない。上記の内容は、1990年のバブル崩壊以前の日本人について当てはまることが多い印象がある。1と5については特にそう思う。2については、欧米以上に個人主義化が進んでいるのが21世紀の現状ではなかろうか。4に重きを置いている日本人は少数派のようにも思う。しかしこれは日本の中にいる私の感想である。本当はどうかについて、私にははっきりと言える情報はない。

但し、ChatGPTが処理している情報は20世紀までの日本人イメージであることは想像に難くない。世界中の人々もそうかもしれない。つまり上記の内容が、世界が認識している一般的な日本人像なのかもしれない。

上記で私が着目したのは3である。日本文化が美意識や芸術を重視し、自然や風土からの刺激が情熱や創造力の源になることがある、と彼は言う。そこで、日本文化の美意識について議論してみた。以下は彼からの回答の一部である。


日本文化の美意識と芸術に対する重要性は、その歴史や価値観に根ざしています。以下に、この側面に関する詳しい説明を示します。

1.自然への共感と感受性

日本の四季や自然の美しさは、古代から現代に至るまで、人々の心に深い共感と感受性を呼び起こしてきました。桜の花や紅葉など、季節ごとの自然の変化が美しいとされ、これらを詠んだ詩や歌、絵画が多くの芸術作品に表現されています。

2.風景と空間の美

日本の庭園や建築物は、風景や空間の美を追求する特徴があります。風景に調和した庭園や、独特の建築様式は、自然との調和を大切にする美意識の現れです。

3.雅と風流

「雅」や「風流」といった概念は、美意識を表す言葉として使用されます。雅は優美で洗練された美、風流は趣や情趣のある美を指し、これらの概念が芸術作品や日常の中で重要な役割を果たします。

4.茶道と芸道

茶道や華道、能楽や歌舞伎などの芸道は、日本の伝統的な芸術形式です。これらの芸道は、繊細な動作や美しい演出を通じて、心を落ち着かせ、美意識を高めることを目的としています。

5.浮世絵と文学

江戸時代には浮世絵や文学が隆盛で、日常生活や自然、風景を描いた作品が多く制作されました。これらの作品は、美しい瞬間や風景を切り取り、鑑賞者の心を打つ役割を果たしました。

このような美意識や芸術への重要視は、日本の文化全体に影響を与え、人々の生活や思想に深く浸透しています。美意識や芸術から得られる情熱や創造力は、日本人の心の中に常に存在し、日常生活や芸術活動において表現されています。


 

キーワードは「四季」「自然」「空間」「調和」「みやび」「風流」「情趣」「立ち居振る舞い」「瞬間」と言ったところだろうか。なるほど、言われてみればそうかもしれないという気になってきた。これらの概念についてひとつひとつ議論していくことが大切だろう。今ここでは、概要のアウトラインを理解することにとどめる。

しかし何か物足りない。そうした「感性的」なものとともに、万葉や王朝の時代にみられるような「感情的」や「感傷的」な哀感、鎌倉室町以降にみられる「無常観」が、古き日本人の情熱の源泉になっているように私は感じる。

次の断想では、私的見解を含めた「日本人の人生美学」について考えてみたい。

 

 

「日本人」の個性(1)アイデンティティ


「日本人」をテーマにするとき、よく引用される加藤周一の論考に『日本人とは何か』がある。有名な論文なので知っている人も多いだろう。まずは書き出しの文章から。

日本人とは、日本人とは何かという問を、頻(しき)りに発して倦(う)むことのない国民である。(筑摩書房版『現代倫理講座』一九五八年)

 

なお、私の引用元は講談社学術文庫版の加藤周一著『日本人とは何か』1976年7月10日刊行の文庫本。同書には『日本人とは何か』の他に、『日本的なもの』『日本の芸術的風土』『外からみた日本』『近代日本の文明史的位置』『天皇制について』『知識人について』『戦争と知識人』の八論文が収録されている。また『日本人とは何か』というタイトルの本では山本七平の祥伝社版が有名。

さて、上記の理由を著者は、自分が日本人であるというアイデンティティについて、はっきりと定めることが難しいからとしている。これを私自身の主観としてとらえてみよう。

俺は日本人であると言えるのか。両親の血統を遡れば、たぶん一般的には日本人と言える。しかし血の流れだけで日本人というアイデンティティへと還元できるものなのかどうか。日本という国家に帰属しているから国民として日本人、先祖代々が日本国の領地内に暮らしているから血統的に日本人、日本語を母語として読み書き会話が十分にできるから日本人、日本の環境と文化や慣習が骨の髄までしみ込んでいるから日本人、いろいろな日本人の定義がある。そのうちのどれかを選んで、或いは全部を選んで、俺は日本人だと言っているのだろう。それに何の意義があるのか。自分に「日本人」というレッテルを貼り表明することで、他の日本人から色眼鏡で見られないとか、異質の不安を感じさせないとか、そういう群集心理的な利益が意義なのかもしれないとふと思った。

「日本人」というレッテルは、日本人以外の人々との相対化によって生じているものであり、世界に日本人しかいなければ日本人というレッテルは存在しない。ここでいったん「日本人」という概念の意義については横におく。

次に「私」という概念について考えてみよう。著者は次のように述べる。

もし他人の眼のなかに自分を映す鏡を見出すことができないとすれば、どこに自分の姿を客観化する動機があるだろうかということである。自己を観察するのは、他人を観察するのとはちがう。私はこういう人間であるという結論に私が到達した瞬間に、その結論は必然的に誤りとなるだろう。なぜなら私はこういう人間ではなく、私がこういう人間であると考える人間だからである。しかし実は、そういった瞬間に、私は、もはや私がこういう人間であると考える人間ではなく、私がこういう人間であると考える人間だと考える人間だろう。この過程にはきりがない。「私」は無限に観察と分析の過程を逃れる。他人を観察する場合と同じように「私」を観察することはできない。従って二つの観察の結果を比較することもできないだろう。比較の問題がおこるまえに、他人の眼のなかで「私」自身が客観化されていなければならないということになる。

(講談社学術文庫版 加藤周一著『日本人とは何か』)

 

ここでの問題は、「私」を対象として指し示している「私2」がいて、その「私2」を対象として指し示している「私3」がいて、それは「私∞(無限)」というふうに続く鏡の世界の自己観察にある。要するに著者が言いたいのは、他人の眼のないところでの自己の対象化は機能不全になるということである。「俺は」という主語を発するとき、それが心の中であっても、他人があっての俺であって、俺しかいない俺ではない。この一人称による自己対象化については、「日本人の個性」について今回の小論を終えたのちに、別の断想としてもう一度探究してみよう。

日本人の特性、日本人の個性を考える場合には、日本人以外との相対化が不可欠であり、且つ日本人以外から日本を見つめる他者のまなざしが必要なのである。日本人以外の他者のまなざしがあってこそ「日本人としてどう見られているか」の想像が可能になるのだ。ところが日本国の地政学的な条件もあいまって、日本人以外からのまなざしはほぼなく、無視された透明な存在であったのだという意味のことを著者は述べている。他国の人々にとって透明な存在であったから、日本人は「日本人とは何か」について明確な説明をもたず、不安定なアイデンティティとなってしまったと。なお、これは「私」についてもいえるはずだ。

しかし時代は変わった。

インターネットの登場によって、「日本人」という個性の情報が世界中に拡散され、多くの日本人以外の人々が「日本人」にまなざしを向けるようになった。ところが肝心かなめの日本人自身にその自覚が薄い。「日本人とは何か」について、その個性を客観視した立場で明瞭に説明できる日本人はどれだけいるだろうか。誤った自画自賛の日本人論ばかりが蔓延ってはいないだろうか。

次の断想ではChatGPTを使って、客観的な日本人像に近づいてみよう。

 

 

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