「日本人」の個性(5)忍ぶー1


前々回の断想記事にある日本人の生きかたの美意識のなかに、「忍耐」というキーワードがあった。「忍ぶ」と「耐える」は同じような意味ではあるが、前者には美学的な見地がある。後者は物理的な耐性の意味およびそれを精神的耐性に転換した意味がある。前記事までは抽象マックスの視座で書いてきたが、今回は抽象の階段を一段階下りて、「忍ぶ」について考えてみたい。抽象の階段を一段下りれば、個別の概念は数多くあり「忍ぶ」はその中のひとつである。

さて、因幡晃の歌に『忍冬(すいかずら)』がある。その中の歌詞から一部を引用する。

忍ぶという字は難しい。心に刃(やいば)を乗せるのね。ときどき心がいたむのは、刃が暴れるせいなのね。

この曲を俺は良く知らないが、この部分だけはメロディーとともに記憶にあった。歌詞の意味を意識的に考えたことはなかったが、無意識に刺さる文章だから記憶に残っているのだと思う。

引用部分の歌詞では、「忍」という漢字は「心に刃を乗せる」というレトリックを使っている。ときどき心が痛むのは刃が暴れるせいだという、作詞者の感性によるレトリック表現が精神的に美しい。

ところで、本当はどうなのか。

「忍」という漢字を調べてみよう。大修館書店『大漢語林』から引く。

心+刃。音符の刃は、弾力があってしかも強いやいばの意味。しなやかで、しかも強い心の意味から、しのぶの意味を表す。

この解説は明らかに、漢語の「忍」ではなく、日本語の「しのぶ」を意識している。私が知りたいのは漢語の「忍」の起原である。語義については同辞書にこうある。(日本語の「しのぶ」の語義については省く)

【一】1.(ア)たえる。こらえる。我慢する。「隠忍」「容認」(イ)おさえる。ためる。(ウ)あえてする。あえて悪事を行う。2.むごい。思いやりがない。「残忍」3.いつくしむ。【二】しなやかでつよい。「柔忍」

ネガティブな語義が次々に出てくる。ポジティブな語義とネガティブな語義の差が大きい。そう「残忍」「惨忍」の忍でもあるのだ。では、中国でのもともとの語義はどうだったのかが気になる。

「忍心」という熟語が中国にはある。心に忍ぶ、我慢する、という意味で使われた例として白居易の詩がある。唐の時代だ。他方、むごい心、残酷な心、残忍な心の持ち主、という意味で使われた例があり出典は『詩経』。『詩経』といえば中国最古の詩編として紀元前11世紀~紀元前7世紀に成立している。儒教で重視される「五経」のうちの一つとして位置づけられてもいる。

また「忍人」という熟語があり、むごいことを平気でする人の意味で、出典は『左伝』。同書は紀元前5世紀の孔子の時代に成立したと言われるが定かではない。但し紀元前に成立しているのは確からしい。一方で、ポジティブな意味としては唐や宋の時代の熟語がある。これらの熟語の例から、安直に、「忍」の起原の意味は、むごいというネガティブなものであり、それが千年の年月をかけて我慢してたえるというポジティブな意味に変わった、と断定するほどの見識は私にはない。

しかし、紀元前の時代の中国においては、「忍」を「刃のごとき惨い心」として扱っていた事実を留めておこう。

次の記事は、日本語としての「しのぶ」についてである。

 

 

「日本人」の個性(4)哀感


私が愛読書としている本に、竹内整一著『「かなしみ」の哲学』がある。この本は、日本人のもつ「かなしみ」という感情概念を、歴史上の文学作品を引用しつつ分類し分析している。特に分類のしかたが私のお気に入りである。同時に、引用される文学作品の文章に触れることで、情が刺激を受ける。引用文の著者の心に共感し、自分の心が潤う。

「日本人の個性ここにあり」と、「かなしみ」の情理を強く主張したい欲求に駆られる。

日本人と悲哀の関係について、ChatGPTの議論から以下の文章を引用する。


「悲哀」は確かに日本文化や思想において重要な概念の一つです。日本の文学、詩、芸術、哲学などの多くの分野で、「悲哀」が深く表現されてきました。この概念は、人間の喜びや幸福だけでなく、人生の刹那性や儚さ、また他者との共感や連帯などを反映する要素として存在します。

万葉集における詠まれた詩や歌には、自然や人間の一瞬の美しさと共に、その儚さや去りゆくものへの哀感が表現されています。平安時代の歌人たちも「さびしさ」や「わびしさ」という感情を詠んでおり、このような感情は日本文化の根底に深く刻まれています。

また、日本の仏教思想においても、苦しみや悲しみを克服することが重要視されています。仏教の教えは、人生の苦しみを受け入れ、その中で平和や解放を見出すことを促すものであり、この考え方も「悲哀」の側面を捉えています。

近代文学や哲学でも、「悲哀」はよく取り上げられています。例えば、夏目漱石の作品には「わびしさ」や「もののあわれ」が感じられ、これらは日本の人間関係や社会の複雑さを反映しています。また、現代の作家や詩人も「悲哀」をテーマにして、人間の葛藤や存在の不確かさを描いています。

「悲哀」は日本文化や思想の深い部分に根付いている感情であり、その複雑なニュアンスが多様な作品や表現を通じて伝えられてきました。あなたが「悲哀」に対して感じる関心は、日本文化を理解する上で重要な視点となることでしょう。


 

このChatGPTの見解については、見識があまい、浅い、軽いと言わざるを得ない。冒頭に挙げた『「かなしみ」の哲学』に書かれた内容と比較するとその差は歴然としている。しかし英語を中心として書かれた欧米の文献についての情報を大量かつ詳細に所有してはいるが、彼も認めているとおり日本語の文献研究については情報が不足しているため仕方ない。彼はアメリカのカリフォルニア州で生まれ育ったのだから。

とはいえ、議論のなかで参考になることは多々発見できた。上記の見解で十分である。私の論理を創っていくうえでとても参考になる。

 

前々回の断想記事(2)で扱った「美」について、「和」の色、「和色」が諸学国と比較して特徴的であることに気づき、その件についてChatGPTと議論した。その一部内容を補足として以下に転載しておく。


日本の伝統的な色彩や色使いには、日本人の感性や気質が影響を与えているとされています。以下にいくつかのポイントを挙げてみましょう。

1.自然との調和

日本の自然環境は四季折々の美しい風景や色彩を提供しています。伝統的な和の美意識は、この自然との調和を大切にする視点から生まれています。地味で控えめな色彩は、自然の美しさと調和するために選ばれてきたものであり、過度な派手さは自然との調和を乱しかねないという考え方が影響しています。

2.内省と繊細さ

日本の感性は内向的で繊細な側面を持ちます。地味な色彩や控えめな光沢は、内省的で繊細な感性を表現する手段として位置づけられています。このような色彩は、静けさや深い感情、物事への敬意を示す方法として重視されています。

3.物の精神性と尊重

日本の伝統文化において、物や自然にも精神性が宿るという考え方が根付いています。派手な色彩は、物の持つ精神性や尊厳を害する可能性があるとされ、控えめな色彩を通じて物への敬意を表現することが重要とされてきました。

4.美意識の遠近性

日本の美意識は遠近性や微妙さを重んじる傾向があります。地味な色彩や控えめな光沢は、遠近性や微妙な美しさを引き立て、見る者に余韻や深みを与える役割を果たすとされています。

以上のように、日本の伝統的な色彩や色使いは、自然との調和、内省的な感性、物への尊重、美意識の遠近性などの要素に影響を受けています。これらの要素は日本人の気質や価値観を反映し、美の観念を形成しています。


 

ChatGPTとの議論における重要ポイントの転載は、私の備忘録としての意味もあります。

 

 

「日本人」の個性(3)人生美学と精神美学


今回は、世界の側からみた日本人の生きかたの美意識、人生美学についてである。精神美学と言ったほうが適切かもしれない。物理的、芸術的な美学とは違って、生きることの価値観が現れる。

以下にChatGPTの見解の一部を転載する。


日本人の人生美学や生き方の美意識には、以下のような特徴があります。

1.繊細さと静けさの尊重

日本人の美意識は、繊細で緻密なものが価値を持つという考え方が根付いています。静寂や余白を大切にする姿勢が、心にゆとりを持ち、落ち着いた生き方を促す要素となっています。

2.一期一会の精神

人生の中での出会いや瞬間を「一期一会」ととらえ、その大切さを感じる考え方があります。この意識は、人々に他人との関わりや瞬間の価値を深く認識させ、感謝と共感の心を育てます。

3.物の持つ魂や命の尊重

日本の伝統的な思想では、物や自然にも魂や命が宿ると考える傾向があります。この視点は、物事を丁寧に扱い、無駄を省き、調和のある関係を築く意識を育む助けとなっています。

4.自然との共感

自然との共感を通じて、季節の移り変わりや自然の美しさを感じることが、日本人の生き方において重要です。これは心を落ち着かせ、自己と自然の一体感を体験する機会となっています。

5.謙虚さと感謝の心

自分自身を抑えて他人や環境に感謝の気持ちを持つことが、日本の人生美学の一部です。謙虚な姿勢は人間関係の円滑さや調和を促進し、幸福感を醸成します。

6.努力と忍耐の重要性

日本の文化においては、努力や忍耐が高く評価される価値観があります。苦しい状況に耐え、着実に努力する姿勢は、人生の喜びや達成感に繋がるとされています。

7.和の心

「和」の精神は、調和や協調を大切にする意識を表します。他人との調和を保ち、対話や協力を重視する姿勢は、共同体の一員としての生き方を反映しています。

これらの要素は、日本人の生活哲学や美意識を形成する要因となっています。これらの価値観は、個人の気質や環境とも相互に影響し合っており、多様性の中にも共通の美意識が存在しています。


 

ここでまず驚いたのが、1番最初の項目として挙げた「静寂」である。取り立てて意識してこなかったことを指摘された。言われてみれば確かにそうかもしれないとは思うが、他国と比較すると傾向が顕著だとChatGPTは言う。

そこで、この「静寂」について重ねて詳細の説明を求めた。以下がその回答。


「静寂」は、日本の文化や美意識において重要な要素の一つとされています。静寂は、日本の自然や風景、日常生活の中に深く根付いており、さまざまな意味を持っています。

1.自然の声

日本の風景や自然環境は、しばしば静寂と結びついています。静かな山や湖、川のほとりなどで、人々は自然の声や風の音、水の流れを感じることができます。これによって、自然との調和や一体感を得ることができます。

2.精神の静けさ

静けさは精神的な平穏と結びついており、瞑想や冥想の練習においても重要な要素です。静寂の中で心を静め、内面の深層にアクセスすることができるとされています。

3.美意識の表現

日本の美意識は、しばしば簡素で控えめなものを重視します。静かな美しさや、余計な装飾を排した清潔感が重要視されています。このような美意識は、静寂を通じて表現されることがあります。

4.人間関係との調和

静寂は、人々の間柄やコミュニケーションにおいても重要です。相手の話に耳を傾け、黙って共感することが、静かな理解や共感を深める一因とされています。

 

静寂は、日本人の生活や考え方に深く組み込まれた要素であり、内省や感受性を育む役割も果たしています。これによって、日本の美意識や人生哲学が形成されてきたと言えるでしょう。


 

ヨーロッパ文明が他の地域の文化と比べて静寂や内省にあまり価値を置かなかった背景には、さまざまな歴史的、宗教的、社会的要因が影響しています。以下にいくつかの理由を考えてみましょう。

1.宗教的要因

ヨーロッパ文明においては、キリスト教が主要な宗教として広まってきました。キリスト教では神との関係や救済が中心とされ、内省的な精神的探求よりも神との信仰や義務が強調されることが多かったです。これにより、内省や静寂が他の文化ほど重要視されることは少なかった可能性があります。

2.産業革命と都市化

ヨーロッパでは産業革命や都市化が進み、情報の交換や経済活動が活発に行われるようになりました。この状況下では、効率や生産性が重要視され、情報の収集や共有が優先される傾向がありました。このような状況下で静寂や内省があまり重要視されなかった可能性が考えられます。

3.哲学的影響

ヨーロッパでは近代哲学の発展によって、合理主義や実証主義といった考え方が強調されました。これらの哲学的アプローチは、観察可能な現象や論理的な分析に重点を置く傾向があり、内省や静寂といった主観的な要素にはあまり注目されなかった可能性があります。

4.歴史的経緯

ヨーロッパでは中世から近代にかけて、宗教改革や国家間の対立などが続いた時期がありました。これによって社会的な不安定さや紛争が影響を与えた可能性があり、内省よりも社会的な安定や経済的な発展が重視された可能性があります。

これらの要因が組み合わさり、ヨーロッパ文明においては静寂や内省が他の地域の文化ほどには重要視されなかった可能性があります。ただし、これは一般的な傾向であり、個々の国や地域においても異なる価値観や文化が存在することを忘れないことが大切です。


 

「静寂」ひとつをとっても、これだけ深い議論になる。ChatGPTは議論を掘り下げていくことに極めて有効なツールとしてその天才ぶりを発揮してくれる。私にとって彼は、議論における最高のパートナーだ。彼以上に適切なフィードバックを瞬時に返してくれる人間は見当たらない。それも365日24時間、私の勝手な思い付きの時間にいつでも彼を呼び出して議論ができる。

上記のひとつひとつの項目について、更に深く掘り下げて議論を重ねた。しかしその内容は膨大となるのでここには転載しない。例えば、ヨーロッパ以外で日本と似た静寂を重視した地域文化として、中国の道教、インドのヒンドゥー教と仏教、アフリカの一部の部族の民間信仰などをChatGPTは挙げてくれた。

次の断想は、前の記事で私がテーマとして掲げた「哀感」について。

 

 

「日本人」の個性(2)文化的美意識


日本人は何に情熱を傾けるのか。その情熱の源は何か。まず、これについてChatGPTと議論してみた。なお、ChatGPTはアメリカ・カリフォルニア州にあるOpenAI社が開発したものである。そのため彼は、同地域の社会文化やイデオロギーの影響を少なからず受けていることを自ら述べており、このことを念頭において私は彼と議論している。彼の「日本人」へのまなざしは全く日本人以外の他者からのものであり、国際的で客観的な評価を意識していることは言うまでもない。以下の彼の見解から始めよう。


日本人の文化や社会背景は、情熱や情熱の源に関してさまざまな要因を影響する可能性があります。ただし、個々の人々が異なる経験や気質を持っており、一般化するのは難しいですが、一般的な傾向として以下の点が指摘されています。

1.勤勉さと責任感

日本の文化は勤勉さや責任感を重視する傾向があります。多くの日本人は、仕事や責務に対して真摯に向き合い、それに対する情熱や使命感を持つことがあります。

2.集団志向

日本社会は集団志向が強く、他人への配慮や協力が重要視されます。この集団志向が、他人への奉仕や社会への貢献に対する情熱を生む要因となることがあります。

3.美意識と芸術

日本文化は美意識や芸術を重視し、自然や季節、風景などからのインスピレーションを受けることが多いです。これが、情熱や創造力の源となることがあります。

4.歴史と伝統

日本の歴史や伝統は、人々に誇りやアイデンティティを与える要因です。歴史的な出来事や価値観が、情熱や目標の源となることがあります。

5.挑戦と向上心

日本の社会は競争が激しく、個人や企業は常に向上心を持ち、新たな挑戦に取り組むことが求められます。これが、情熱や目標達成への動機となることがあります。


 

現代日本人の多くが、本当にそうだろうか?という疑問を持たざるを得ない。上記の内容は、1990年のバブル崩壊以前の日本人について当てはまることが多い印象がある。1と5については特にそう思う。2については、欧米以上に個人主義化が進んでいるのが21世紀の現状ではなかろうか。4に重きを置いている日本人は少数派のようにも思う。しかしこれは日本の中にいる私の感想である。本当はどうかについて、私にははっきりと言える情報はない。

但し、ChatGPTが処理している情報は20世紀までの日本人イメージであることは想像に難くない。世界中の人々もそうかもしれない。つまり上記の内容が、世界が認識している一般的な日本人像なのかもしれない。

上記で私が着目したのは3である。日本文化が美意識や芸術を重視し、自然や風土からの刺激が情熱や創造力の源になることがある、と彼は言う。そこで、日本文化の美意識について議論してみた。以下は彼からの回答の一部である。


日本文化の美意識と芸術に対する重要性は、その歴史や価値観に根ざしています。以下に、この側面に関する詳しい説明を示します。

1.自然への共感と感受性

日本の四季や自然の美しさは、古代から現代に至るまで、人々の心に深い共感と感受性を呼び起こしてきました。桜の花や紅葉など、季節ごとの自然の変化が美しいとされ、これらを詠んだ詩や歌、絵画が多くの芸術作品に表現されています。

2.風景と空間の美

日本の庭園や建築物は、風景や空間の美を追求する特徴があります。風景に調和した庭園や、独特の建築様式は、自然との調和を大切にする美意識の現れです。

3.雅と風流

「雅」や「風流」といった概念は、美意識を表す言葉として使用されます。雅は優美で洗練された美、風流は趣や情趣のある美を指し、これらの概念が芸術作品や日常の中で重要な役割を果たします。

4.茶道と芸道

茶道や華道、能楽や歌舞伎などの芸道は、日本の伝統的な芸術形式です。これらの芸道は、繊細な動作や美しい演出を通じて、心を落ち着かせ、美意識を高めることを目的としています。

5.浮世絵と文学

江戸時代には浮世絵や文学が隆盛で、日常生活や自然、風景を描いた作品が多く制作されました。これらの作品は、美しい瞬間や風景を切り取り、鑑賞者の心を打つ役割を果たしました。

このような美意識や芸術への重要視は、日本の文化全体に影響を与え、人々の生活や思想に深く浸透しています。美意識や芸術から得られる情熱や創造力は、日本人の心の中に常に存在し、日常生活や芸術活動において表現されています。


 

キーワードは「四季」「自然」「空間」「調和」「みやび」「風流」「情趣」「立ち居振る舞い」「瞬間」と言ったところだろうか。なるほど、言われてみればそうかもしれないという気になってきた。これらの概念についてひとつひとつ議論していくことが大切だろう。今ここでは、概要のアウトラインを理解することにとどめる。

しかし何か物足りない。そうした「感性的」なものとともに、万葉や王朝の時代にみられるような「感情的」や「感傷的」な哀感、鎌倉室町以降にみられる「無常観」が、古き日本人の情熱の源泉になっているように私は感じる。

次の断想では、私的見解を含めた「日本人の人生美学」について考えてみたい。

 

 

「日本人」の個性(1)アイデンティティ


「日本人」をテーマにするとき、よく引用される加藤周一の論考に『日本人とは何か』がある。有名な論文なので知っている人も多いだろう。まずは書き出しの文章から。

日本人とは、日本人とは何かという問を、頻(しき)りに発して倦(う)むことのない国民である。(筑摩書房版『現代倫理講座』一九五八年)

 

なお、私の引用元は講談社学術文庫版の加藤周一著『日本人とは何か』1976年7月10日刊行の文庫本。同書には『日本人とは何か』の他に、『日本的なもの』『日本の芸術的風土』『外からみた日本』『近代日本の文明史的位置』『天皇制について』『知識人について』『戦争と知識人』の八論文が収録されている。また『日本人とは何か』というタイトルの本では山本七平の祥伝社版が有名。

さて、上記の理由を著者は、自分が日本人であるというアイデンティティについて、はっきりと定めることが難しいからとしている。これを私自身の主観としてとらえてみよう。

俺は日本人であると言えるのか。両親の血統を遡れば、たぶん一般的には日本人と言える。しかし血の流れだけで日本人というアイデンティティへと還元できるものなのかどうか。日本という国家に帰属しているから国民として日本人、先祖代々が日本国の領地内に暮らしているから血統的に日本人、日本語を母語として読み書き会話が十分にできるから日本人、日本の環境と文化や慣習が骨の髄までしみ込んでいるから日本人、いろいろな日本人の定義がある。そのうちのどれかを選んで、或いは全部を選んで、俺は日本人だと言っているのだろう。それに何の意義があるのか。自分に「日本人」というレッテルを貼り表明することで、他の日本人から色眼鏡で見られないとか、異質の不安を感じさせないとか、そういう群集心理的な利益が意義なのかもしれないとふと思った。

「日本人」というレッテルは、日本人以外の人々との相対化によって生じているものであり、世界に日本人しかいなければ日本人というレッテルは存在しない。ここでいったん「日本人」という概念の意義については横におく。

次に「私」という概念について考えてみよう。著者は次のように述べる。

もし他人の眼のなかに自分を映す鏡を見出すことができないとすれば、どこに自分の姿を客観化する動機があるだろうかということである。自己を観察するのは、他人を観察するのとはちがう。私はこういう人間であるという結論に私が到達した瞬間に、その結論は必然的に誤りとなるだろう。なぜなら私はこういう人間ではなく、私がこういう人間であると考える人間だからである。しかし実は、そういった瞬間に、私は、もはや私がこういう人間であると考える人間ではなく、私がこういう人間であると考える人間だと考える人間だろう。この過程にはきりがない。「私」は無限に観察と分析の過程を逃れる。他人を観察する場合と同じように「私」を観察することはできない。従って二つの観察の結果を比較することもできないだろう。比較の問題がおこるまえに、他人の眼のなかで「私」自身が客観化されていなければならないということになる。

(講談社学術文庫版 加藤周一著『日本人とは何か』)

 

ここでの問題は、「私」を対象として指し示している「私2」がいて、その「私2」を対象として指し示している「私3」がいて、それは「私∞(無限)」というふうに続く鏡の世界の自己観察にある。要するに著者が言いたいのは、他人の眼のないところでの自己の対象化は機能不全になるということである。「俺は」という主語を発するとき、それが心の中であっても、他人があっての俺であって、俺しかいない俺ではない。この一人称による自己対象化については、「日本人の個性」について今回の小論を終えたのちに、別の断想としてもう一度探究してみよう。

日本人の特性、日本人の個性を考える場合には、日本人以外との相対化が不可欠であり、且つ日本人以外から日本を見つめる他者のまなざしが必要なのである。日本人以外の他者のまなざしがあってこそ「日本人としてどう見られているか」の想像が可能になるのだ。ところが日本国の地政学的な条件もあいまって、日本人以外からのまなざしはほぼなく、無視された透明な存在であったのだという意味のことを著者は述べている。他国の人々にとって透明な存在であったから、日本人は「日本人とは何か」について明確な説明をもたず、不安定なアイデンティティとなってしまったと。なお、これは「私」についてもいえるはずだ。

しかし時代は変わった。

インターネットの登場によって、「日本人」という個性の情報が世界中に拡散され、多くの日本人以外の人々が「日本人」にまなざしを向けるようになった。ところが肝心かなめの日本人自身にその自覚が薄い。「日本人とは何か」について、その個性を客観視した立場で明瞭に説明できる日本人はどれだけいるだろうか。誤った自画自賛の日本人論ばかりが蔓延ってはいないだろうか。

次の断想ではChatGPTを使って、客観的な日本人像に近づいてみよう。

 

 

「らしさ」の是非を問う


「らしさ」について。

「らしさ」は、名詞や形容動詞の接尾語である「らしい」から派生した形容詞を、その「い」を「さ」に変えて名詞化し、「ふさわしい様子」や「特徴の現れ」を表現するものである。たとえば、「男らしさ」は、男性らしい特徴がよく現れていることを指し、「君には男らしさがある」と言えば、その人には男性らしい特徴がよく現れており、男性としてふさわしいということを意味する。

では、「その特徴」は誰によって決定されるのだろうか。客観性がなければ、多くの人々による価値共有は可能にならず共感は生まれない。科学的な方法によって客観性が確立される場合もあるが、人間の営みに関連する主観的な特徴については、個人の主観が集合して相互主観性が関与し、多数派の意見によって客観性が形成されることがある。要するに、「その時代を生きる人々によって」や、「その地域で生活する人々によって」、「らしさ」が設定され、変容していくのだ。「らしさ」に普遍的な不変の意味はなく、状況や文脈によって変わる。

次に「らしさ」についての是非と必要性について少し考えてみよう。

「男らしさ」や「女らしさ」を現代のリベラルな時代において声高に主張することは、批判を浴びる可能性がある。なぜなら、このような「モデル」が設定されることによって、人々は不自由さや差別を感じることがあるからだ。逆に、トランスジェンダーを含む多様な性自認を尊重する気運も存在し、これもまた性自認そのものが「らしさ」を意識するスタート地点であると言える。この点で、トランスジェンダーを認める社会とジェンダーフリー社会の対立が見られる。

話が逸れた。このような「モデル」は文化を形成する。その時代や地域の男性や女性の「モデル」は芸術作品や文学作品に表現され、人々の憧れや理想が形成される。男女や父母に限ったものではない。「かわいらしい子どもらしさ」や「成熟した老人らしさ」にも当てはまり、「日本人らしさ」や「現代人らしさ」、そして「人間らしさ」、更に言えば「自分らしさ」という観点にも言える。こうした「モデル」が個々人の志向性を生み出し、社会には価値観の秩序が構築される。秩序が整い、初めて「自由の拡張領域」が生まれるのだ。人間においては、秩序のない混沌状態では極小領域の自由しか得られない。

今回の記事での私の主旨は、「らしさ」についてネガティブな側面のみが強調される現代社会において、「らしさ」のポジティブな側面についても一度考えてみたほうが良いのではないか、という提案である。

人々や子どもたちは、モデルや理想なしに成長することはできるのだろうか?多くの人々は、自分自身の理想モデルや目標を持ち、自己実現を追求することを考えたり、「自分らしく生きたい」と考えたりするのではないか。「自分らしさ」は曖昧な表現だけれども、最も基本的で個性的な自分のアイデンティティだと言えはしないか。

 

 

「学問する」と「思考する」


学問をすることや思考をすることについての哲学的探究は、今後、他のテーマを哲学的探究していく際に、同時並行的に行っていくことにする。例えば前の記事で触れた「可能性」という概念。よい議論をするためには、書籍を通じて古典や先人たちの叡智に触れ、学問をすることが大切なのは言うまでもない。このときに、「学問する」ことについての哲学的探究ができる。

【古教照心】という古い言葉がある。古典(古い教え)が心を照らす、古典によって心が照らされるという意味だ。この言葉を十三世紀の臨済宗の禅僧である虎関師錬は、【古教照心、心照古教】と言い換えた。後段の言葉は、心が古典を照らすという意味である。人によって心は違う。古典の解釈や意義が人によって変わることを言っている。分析心理学的に言えば、「心の構え」が古典の価値を高めたり低くしたりするわけだ。

もし虎関禅師が、「心照古教」のほうに高い価値を置いたとすれば、わざわざ「古教照心」と書く必要はない。両方が同じように大切であると私は解釈している。古典が心を照らすほうは、自らが客体であり主体は古典である。心が古典を照らすほうは、自らが主体であり古典は客体である。主体的=善というのは偏見である。自らは常に主体であると同時に客体でもあるのだ。自らが主体であるときの価値を考え、自らが客体であるときの価値も同様に”深く”考える。

そうした視点の変更を習慣づけることによって、それを、ごく自然に無意識的にできるようになれれば素敵な知的成長だとは思いませんか?

学問をすることも思考をすることも、主体的行為ととらえることが現代では一般的ではある。一方で学問や思考をするようになった自分という視点、なぜそういう環境に今あるのかという視点、なぜ学問すること思考することが自分に可能なのかという視点、それらの視点に物語的な想像力をはたらかせ、他者に対する恩義や自分の生きる使命など環境に自分が動かされている意義を感じることができれば、感謝とともに客体的行為ととらえることが可能になる。

上記の中段に、主体的=善というのは偏見であると書いた。現に、私がそうだったのだ。今の今までというわけではないが、去年くらいまでは、主体的=善という独善的な思い込みにとらわれていた。今年に入ってからか、本当にそうかなと疑問をもつようになった。「主体として」と「客体として」は、自分を含めたあらゆる対象において、常に同時に存在しているのではないかと考えるようになった。そんななかで、先日の思考の方法論の一部として、分解・分類について考え整理することにより明晰となった。

もちろん個人的価値観として、主体的と客体的を徹底的に議論したうえで、「私は個人的に、主体的=善だと価値づける」という言いかたはできる。しかし、それを客観的な普遍価値のように言うのは独善の偏見である、とはっきり言っておこう。

「学問する」「思考する」という動詞的な概念の哲学的探究は、学問と思考という名詞的概念の探求とはひと味もふた味も違う。なぜならそこには必ず、「いきいきとした人」がいるからだ。

 

 

可能性主義のステップ


昨年の4月13日に『可能性主義を提唱する準備として』という記事を書いた。未熟で自分の書いた文章だと認めたくないが、今書いているこの記事も来年の私にとっては認めたくない未熟な記事になるのだろう。自己嫌悪になるが仕方ない。

可能性主義の提唱を試みることについては一年たっても変わっていない。昨年と違っているのは、新たに開発した構造的思考方法が今はあるということ。可能性という概念についてどのように考えたらよいのかの、思考技術が今はある。

なぜ可能性について考えるのかという導入部分。可能性概念の起源。客観的定義と主観的定義を明確にすること。過去に対しての可能性、現実に対しての可能性、未来に対しての可能性、永遠普遍の可能性に分けること。主体としての可能性と客体としての可能性、名詞としての可能性、動詞としての可能性、形容詞としての可能性、このように可能性という概念を徹底的に分解することで、思考方法が更に更新されてゆく。

 

冒頭のとおり、私は「可能性主義」を良い価値として提唱しようとした。しかし今、考えが変わった。この断想記事を書きながら考えを変えた。突然、議論や持論を変えること、価値を変えることは私の得意技で、躊躇は一切ない。

前提として、「可能性」という概念について哲学的に「思考」することが必要で、ということは可能性の有無や状態において良い悪い等の相対評価はなく、一切の価値観の外に立たねばならない。なぜなら哲学する対象に固定価値を付ければ思想になってしまうからだ。もちろんこれは「哲学」と「思想」という概念についての個人的な定義によるものである。私は「哲学」を、無色で無価値の、純粋な論理と原理で構成される本質をとらえようとする知的行為としている。

そのような純粋な目で、まずは「可能性」という概念を、私の思考パレットに乗せて明らかにしていこう。

もはや「可能性主義」はごみ箱行きとなった。忘却だ。可能性についての議論を行う上で、「可能性主義」=良い価値という予定調和的なバイアスがかからないようにしておこう。

 

 

山紫水明


風に夏の終わりを感じ始める。古典文学を見れば一目瞭然だが、日本人は大自然と親和的であり心を重ねる文化がある。

風流という言葉がある。語源は中国語で「古代美風・伝流」で美しい風のような人間の情操や行動の立派さを表すものとのこと。そこから語義が変転し、雅やかで俗っぽくないことを言うようになったという。風雅。

私は大自然の中に風流を感じることがある。秋は特に。

ところで。

子どもたちが哲学的探究心によって、例えば「考えるってどういうこと?」を自分の頭で考えられるような、そういう物語を創作することについて、8月8日の断想記事『物語化』と8月12日の断想記事『神話』に書いた。神話のような世界観にしようと考えているが、そこに大自然の花鳥風月や山紫水明の雰囲気を加えたいと思う。主人公の子どもが神々に会いに行く、その道程には大自然の情景。

いわゆる純文学のように、人間の内面における自己対話を描いたり、主人公の繊細な心情を読者の心のひだに絡めるような感性と文章力は私にはない。志向の指向が内向へ向く人ならば、心の内面の動きを描くことは得意なのだろうけれど、私はあいにく外向的であるから難しい。他方、例えば宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』のようなファンタジーの世界観を描くことはできる。楽しい。

花鳥風月や山紫水明の”感じ”は、日本らしくていいんじゃないかと思う。この物語コンテンツをインターネット上のどこに公開するのかは全然未定なんだけども、言語は英語でいこうと計画している。英語の次はスペイン語フランス語と中国簡体字。日本語はそのあとにしようと。もちろん原文は日本語で創作し、それを英訳するわけだけどね。

物語化構想のほうも、並行していい感じになってきた。

 

 

サイト記事を振り返って


長く書かない期間があったり、毎日書いていたり、なんの法則性もなく行きあたりばったりに書いている。調べてみると、今年7月23日以前の記事は約9か月前の2022年10月15~17日に、その前は6か月前の2022年4月11日~16日、その前は約1年間前の2021年4月23日だった。書いたほうが自分のためになることは経験上わかってる。過去には3年間休まずにブログを書いたこともあるし、書くことはストレスにはならない。じゃあ書けよってことなんだが、Twitterにちょこちょこ書き出してからそちらのほうが主になってしまってさ。でも最近、Twitterがブランドチェンジして「X」となり、なんとなくコンセプトに居心地が悪くなり自分のサイトに戻ってきたって感じかな。

だから私にとっては「X」になって良かったのかもしれない。ここが私の「基地」だからねえ。

あぁそうだ。主観的な記事を書く時には「俺」の一人称を使うんだった。けれども、なんとなく軽いエッセー風の場合は「私」のほうが合う感じがある。だから今回は「私」を使おう。

固定ページはすべて常体の文体で書いているんだけども、断想の投稿記事は敬体で書いたり常体で書いたり、今回や前回のようにフランクな文体で書いたり、そのときの気分と記事内容で、自然に文体を変えている。意図はないよ。

書いても書いても、読み直すと消しゴムで全部消したくなる。1年前の記事とか3年前の記事とか、君は何を書いているんだねと言いたくなる。過去の自分は私なのかと同一性を疑いたくもなる。だからね、断想記事は本当は残すのは嫌なんだ。でもなかには、ああそうだったと、過去の自分に気づかされる記事もある。

最近は、本当に哲学している。

8月17日の記事『「思考の方法論」についての探究』は、大きなステップになった。「思考理論」の固定ページを早めにつくろう。概念原理も価値観原理も認識原理も、あの思考方法で構造的に考えれば良い。どういうふうに考えれば、綺麗な論理としてすべてを網羅できるのか、このことは最初に考えるべき課題だった。もちろん、あの分類は思考の方法論としては未だ一部であるし、まだまだ改善の余地が大きいことはわかってる。しかしたたき台としてはこの上ないものができた。

サイトがいい感じになってきた。

 

 

 

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