寛容について


「寛容」ということばは、日常では美徳のように語られることが多い。しかし、このことばもまた多面体であり、単純に「やさしく受け入れる」だけでは説明できない。まず語源を手がかりにすると、英語の”tolerance”はラテン語の”tolerare(耐える・こらえる)”に由来する。つまり元々は「耐えること」「我慢すること」に近い感覚だった。そこから発展して「異なるものを受け入れる態度」へと言葉の重心が移ってきた。

歴史的な流れも興味深い。宗教間対立や宗教迫害の時代には、寛容はしばしば政治的選択の一部だった。近代になると、啓蒙や自由主義の文脈で寛容が理想化されるようになり、異論や多様性を認めることが社会の成熟のしるしと見做された。しかし近年は、寛容の呼びかけが逆に社会的緊張を生む局面が見られるようになった。自発的に育つ「相互のゆるし」と、外から命じられる「寛容の強要」とでは、結果がまるで違うからである。

ここで幾つかのタイプを区別しておきたい。ひとつは、日常的な信頼や互恵に支えられた自然発生的な寛容である。これはコミュニティの厚みや社会資本と結びつき、安心を増す方向に働く。もうひとつは、制度や言説によって外から押しつけられる寛容である。例えば「多様性の名のもとに異論を抑える」「形式的な寛容を義務化する」といったやり方である。こうした外発的な寛容は、規範の正当性を傷つけることがあり、結果的に逆効果を招く危険がある。

寛容の逆説的性質についても触れておく必要がある。カール・ポパーが指摘した「寛容のパラドックス」——無制限の寛容は不寛容な勢力の台頭を許し、結果的に寛容な社会そのものを破壊する——は現代でも重要な論点である。これは単なる理論的問題ではなく、極端な思想や暴力的な行為に対してどこまで寛容であるべきかという実践的な問いを投げかける。 

また、寛容は文化的文脈によって大きく異なる表れ方をする。西欧的な寛容観は個人の権利と自由を基盤とするが、東アジアの文脈では「和」や「調和」の維持という集団的価値と結びつく。中東やアフリカの一部では、部族や宗教共同体の慣習法における「許し」の概念が寛容の基盤となることもある。これらの差異は、グローバル化の中で寛容を議論する際の複雑さを生む。

寛容の機能は二面性を持つ。ポジティブには、対話と共生の基盤をつくり、多様な生き方を許容することで社会の創造性を高める。ネガティブには、無制限な容認は、被害の放置や権利侵害の温床になるという問題を生む。ここで重要なのは「寛容の条件」を問うことである。誰に対して、どの程度、どのような文脈で寛容を要求するのか。要求の仕方が権力的だと、寛容は形骸化し、被害者の安心を損なう場合がある。

また、寛容は権力と切り離せない。寛容を宣言する側がどのような立場にあるかで、同じ「寛容」という語がまったく違う政治的意味を帯びる。支配的な言説が「寛容であれ」と市民に押しつけるとき、それはしばしば反対意見の抑圧装置に転用される。だから寛容を論じるとき、倫理的な美辞麗句だけでは不十分で、力関係の分析が欠かせない。

寛容と安心の関係も複雑である。適度な寛容は社会の緊張を和らげ、多様な人々の共存を可能にすることで安心を生む。しかし過度の寛容、特に強制された寛容は、既存の共同体の規範を揺るがし、予測可能性を損なうことで不安を増大させる。例えば、急速な移民受け入れに対する「寛容であれ」という要求が、受け入れ側コミュニティの不安を増幅させる事例は各国で見られる。 

さらに、デジタル時代における寛容の新たな課題も浮上している。SNS上での「キャンセルカルチャー」は、表面的には不寛容への批判だが、その手法自体が新たな不寛容を生むという指摘がある。オンライン空間での寛容は、匿名性、拡散速度、文脈の欠如といった特有の条件下で機能するため、従来の寛容論では捉えきれない側面を持つ。

 

最後に、今後の論考での扱い方を定める。
「寛容」を、
(1)自発的に生まれる寛容
(2)外から課される寛容
という二つの形に分けて分析する。両者を区別することで、寛容がいつ社会の安心を育むのか、いつ逆に安心を蝕むのかを見分けやすくなる。

私の論考での定義は次のように置く──「寛容とは、異なる他者や表現を許容する態度や制度であり、その機能と帰結は、その起源(自発的か外発的か)と、それが作用する権力構造および規範の正当性によって決まる」。


次の稿では、寛容に対する批判を展開してみよう。

 

 

規範と自由


私たちは大量生産された衣服を買って身にまとう。どのような衣服が良いかの選択基準を、私たちはどう決めているのだろう。情報の洪水の中、機能性やデザイン、価格、ブランド、それら外部の価値観が自分のなかに取り込まれ、無自覚に物語化された選択基準が密かに生じている。

そうして「既製品」の衣服を身に着ける。

この原理は、私たちの「生きかた」にも、ほぼ同じように働いている。

 

現代の多くの人は自ら、「どう生きるべきか」をゼロから構築する能力を持たない。というよりも、時間・エネルギー・知能・精神的強靭さが要求されすぎる。既存の宗教教義や既に市民権を得ている道義は、「生き方の地図」としてすでに完成されているため、安心や帰属を提供してくれる。人にとっては迷わないこと自体に大きな価値がある。

しかし、既存の教義や道義に従うだけでは自己の独自性が失われ、他者の作った枠組みに従属することになる。それは主体的な生の創造という観点からは不自由な生き方である。思考停止は自己の可能性を閉ざす。

もし人が迷いを恐れる存在ならば、自ら生きかたを編んでいく者は、迷いそのものを生の糧に変える存在だとも言えるのではないか?

 

宗教や武士道のような規範は、たとえるなら「大量生産の服」であり、誰が着ても一定の形に整えてくれる。だからこそ、社会的秩序や連帯が保たれる。規範に従うことで他者との共通言語が生まれ、安心して他者と関係を築ける。

ただし、それは「自分の体に合わない服」を無理に着ることにもなる。結果として、本当の自己と他者に見せる自己が乖離し、内面的には「窮屈さ」や「偽り」を抱える。

秩序と安心を得るために「窮屈さ」を引き受けることは、合理的な取引なのか?それとも人間個性を失うことの表れなのか?

 

ニーチェが「自分の価値を創造せよ」と言ったのは、まさにこの「既製品の服を着るな」という批判と同じ構造だ。しかし彼自身は「超人」の実践者になれなかった。つまり、思想としては到達しても、生存戦略としては極めて過酷すぎた。

だが、「実践できなかったから無価値」とは限らない。むしろ、実践の困難さを自覚した上でなお思想を提示した点に、哲学としての力がある。

実践できない思想は虚構なのか?
それとも、人間を挑発し続けることで次世代に火をつける「挑戦の種」なのか?

 

根底には「死の意識」と「不安」がある。動物は本能的に生きるが、人間は自分の生が有限だと知るため、「正しい生き方」という問いが必然的に生まれる。既製の宗教や道義はこの不安に即答を与えてくれる。

しかし不安から逃れるために規範を選ぶのだとすれば、それは「自由からの逃走」(エーリッヒ・フロム的な構造)であり、主体性を放棄した選択になる。

「安心を得るために規範に依存する生きかた」と「孤独に耐えながら自分で美学を築く生きかた」、どちらが良いのかという相対的価値判断は可能なのか?
そうして優劣のレッテルを貼ることに、どのような意義があるのだろう?

 

規範を原理的に採用すると選択肢は狭まり、精神的エネルギーの消費は抑えられる。その結果、内的な「迷い」や葛藤(=心理的エントロピー)は小さくなる。一方、自ら美学を築く道は試行錯誤を伴い短期的に不安が増すが、長期的には独自性と成熟をもたらす。

習慣的な内省、失敗と反省、実践(=インプット・アウトプット・休息の循環)を繰り返すことで「不確実さに耐える能力」は成長する。

低いエントロピーの状態はストレスが小さい。共同体規範(宗教、武士道など)は強い連帯感と行動的一貫性を生み、その教義や道義に従っていれば良い。しかし個人の創造性や批判精神は強く抑えこまれ、規範の牢獄に自由な精神が閉じこめられる。

 

では次に、自由な精神であることへの批判を始めよう。

 

自由を賛美する言説は多い。だが、自由が常に善であるとは限らない。まず単純な批判から入ると、「自由の誤用」がある。自由を放擲すると、それは自己中心性、無責任、さらには他者への無関心へと容易に転じる。規範を放棄した結果としての無為や怠惰は、個人の尊厳を守るどころか、むしろ他者の尊厳を侵害することすらあり得る。

次に、「高潔さの独善化」である。自由を理念的に掲げる者は、しばしば自らの生きかたを倫理的優位のしるしとして振る舞う誘惑に囚われる。自作の美学は真摯な自己表現であり得るが、それが他者の選択を「未熟」「怠惰」「偽り」と軽んじる口実になれば、自由は排他性へと変質する。つまり、自己の自由が他者への不寛容を隠す覆いになる危険がある。

さらに実際的な問題として、「成果責任」の所在があいまいになる点がある。規範に従うことで生じる不自由は確かに窮屈だが、一方で社会的保障や相互扶助という形で安全網も提供する。完全に「自由な我流」を貫徹した者が失敗したとき、誰がその困難のケアを担うのか。自由は美徳であるだけでなく、責任と補償を伴う制度を必要とするのだ。

最後に、自由を放擲することの文化的・歴史的影響を指摘したい。

個々がすべて自作の価値を貫く社会では、共通の言語や慣習が失われ、公共的合意の基盤が脆弱になる。合意形成のコストが跳ね上がれば、共同体は分断され、協調行為が困難になる。その結果、生産的な公共性や長期的な政策継続が損なわれるリスクがある。

しかし、ここで重要なのは「批判=否定」ではない。
自由の問題点を指摘するのは、自由を放棄させることが目的ではなく、自由を成熟させるためだ。つまり、自由は責任と節度、そして共感と結びつくときに真価を発揮する。

自由を育てるとは、単に“好き勝手をする”ことではなく、他者の存在を前提にしながら自己の美学を磨くことである。
これができたとき、自由は自己の栄養であると同時に、社会の維持にも寄与する成熟した力となるのかもしれない。

 

 

 

 

 

ミンスキー『心の社会』


この本では、心がどうはたらくかを説明しよう。知能は、知能ではないものからどのようにして現れてくるのだろうか。この問いに答えるために、この本では、心がたくさんの小さな部分を組み合わせて作れることを示そうと思う。ただし、それぞれの部分には心がないものとしよう。

このような考え方、つまり、心がたくさんの小さなプロセスからできているという考え方を、《心の社会》と呼ぶことにする。また、心を構成する小さなプロセス一つひとつを、エージェントと呼ぶことにする。心のエージェントたちは、一つひとつをとってみれば、心とか思考をまったく必要としないような簡単なことでしかない。それなのに、こうしたエージェントたちがある特別な方法でいろいろな社会を構成すると、本当の知能にまで到達することができるのである。

(産業図書版 安西祐一郎訳 マーヴィン・ミンスキー『心の社会(The Society of Mind』)』

 

ミンスキーの大著『心の社会』は上記の文章から始まる。

ひとことでいえば、この本との出会いに大感謝である。最近、出会うことができた。どこかで、ギルバート・ライル『心の概念』に対してミンスキーが『心の社会』を書いたというような内容の文章を読んだのがきっかけだった。ライルの『心の概念』は私の愛読書のひとつなので。ふたりとも「心」をタイトルに入れているがライルは哲学者、ミンスキーは科学者であり、心理学者ではない。

マーヴィン・ミンスキー(1927-2016)は、マサチューセッツ工科大学(MIT)で長く教授を務めていたユダヤ系アメリカ人。数学の博士号をもつ。バリバリの理数系の人で、同大学の人工知能研究所創設者のひとりである。コンピューターサイエンスを専門とする科学者が、1987年に『心の社会』という本を著した。日本での翻訳書は1990年に出版され現在21刷。574ページでしかも二段組の大著だというのに4300円+税は安い。

しかし、いわゆる「読書家」が好むような本ではない。一冊を完読して内容を理解しようとしても、たぶんほとんどの一般読書家は挫折するに違いない。仮に読了できたとしても完読に意味はない。

この本は、私が人間の原理を哲学的に解剖していくことと同じように心の解剖を行っている。思考する論理構造の志向性が私と同じなのだ。だから一冊をとおしてこういうことだ、というのではない。断片的に読める。上記引用にあるとおり、「エージェント」たちが《心の社会》を創造する、なぜ創造できるのかはわからない。でも、原理としてそうなっているじゃないか。ならば、「エージェント」ひとつひとつについて精緻に分析してみよう、という試みだ。心理学臭は一切ない。科学者が人工知能をつくるために哲学をしている、という見かたが相応しい。

「エージェント」は多岐にわたり、全部でいくつあるかまだわからないが、章立ては第30章まである。興味を惹かれる章のタイトルを抜き出してみると、第2章「全体と部分」、第3章「争いと妥協」、第4章「自己」、第6章「洞察と内省」、第8章「記憶の理論」、第11章「空間の形」、第12章「意味の学習」、第13章「見ることと信じること」、第15章「意識と記憶」、第16章「感情」、第18章「推論」、第20章「文脈とあいまいさ」、第22章「表現」、第24章「フレーム」、第28章「心と世界」、第29章「思考の領域」、第30章「心の中のモデル」。30章全部が魅力的だが、特に魅力的な章タイトルを抜粋してみた。私がライフワークとして取り組んでいる『人類哲学の独創』と重なる部分が半分程度ありそうだ。

章タイトルが魅力的だけでなく、ぱっと任意のページをめくってそこの項目を5分ほど読むと、必ず哲学的なインスピレーションが得られる。私が独創するためのインスピレーションを与えてくれる、今まで出会った本の中で最高の本と言ったら褒め過ぎだろうか。いや、褒めているのではなく、私との相性が最高の本なのだ。なにしろ私は古典的な哲学書を「事典」のように扱う。そのなかの一文が何らかのインスピレーションを与えてくれることが最大の期待であり、プラクシスやテオリアよりもポイエーシスを好む。

内容については、別の固定ページに研鑽のひとこまとして綴っていく予定。

というわけで、もし私と同じようなポイエーシス的な哲学クリエイター志向の人がいらっしゃれば(滅多にいないと思うけれど)、この本を強くお勧めしますし、一方で、研究者タイプの人にも参考になるかもしれません。

 

 

『愛するということ』―2


フロムの愛する技術は、知→尊重→責任→配慮という4要素の流れによるものだった。私は流れではなく、3要素を技術として独立させ考えてみようと思う。

相手をよく知ることは大切だ。しかしよく知らなくても尊重はできるだろう。また、責任についても尊重の範囲内に収まると考える。配慮にかんしては実践であるので単体の要素としたほうが解りやすい。

よって、まず第一に「尊重」を技術としてとらえ、その内容を吟味していく。第二に「配慮」という技術についての吟味。最後に私なりに考えた、愛することに欠くべからざる要素ではないかと思う第三の技術を提示したい。では、「尊重する」から始めていこう。

 

1.尊重する

相手をひとりの人間として捉えるときの価値は、私と同等の価値であることをまず考える。同じひとつの生命であり、私が誕生から死まで多様な人生を歩み生を終えること、それは、相手にも同等の「自分の生の大切さ」があるということを、少しの疑いもなく完全に認めることから尊重は始まる。

私が私の生命と人生がたった一度きりのかけがえのないものと考えることと同じように、相手のそれも相手にとってかけがえのないものである。私が唯一無二の存在であると同じように、相手も唯一無二の存在であり、他の誰かに代替することなどできない人である。このことは、失って初めて気づくことがある。或いは失ってその重みにあらためて気づく。

第一段階の、自分と同等に相手を尊重するという技術は、相手に対峙して磨くものではない。独りで磨くものだ。まず、自分自身がたった一度きりの生を歩む一人の人であるということを脳髄にまで叩きこむ。それには習練が必要だ。これを私は正しい自己愛と定義づける。正しい自己愛ができてこそ、正しい他者愛ができると考える。

第二に、正しく自己を愛するには、正しく自分自身を知らなければならない。自分をよく知るには自分について高い関心を抱かねばならない。この方法は他者にたいしてもそっくりそのまま援用できる。相手に対する高い関心が必要だ。

では自分の、或いは相手の、「何に対して」の関心が必要なのか。ここは重要部分であると思う。尊重に限らずすべての技術において「何に対して」つまり「詳細な対象」は何か。これについては三つの技術の内容をつまびらかにしたのちに書くことにする。既に「対象」は私のロジックの中で細分化され明確になっている。

さて、第三段階の尊重は「信じる」という大きなテーマになる。

真実であること、虚偽ではないことを信じるといった表面的で些細なことではない。むしろ、仮に嘘をつかれてもそんなことでは微動だにしない「信じる」がある。

ひとつは「人間のこころ」そのものを信じる。いや人間に限ったことではない。犬や猫のペットを想像してみてほしい。彼らは人間の言葉を使えないから真偽はわからない。しかし彼らには「こころ」があって、飼い主はその「こころ」を信じてはいないか。一点の曇りもなく全面的に信じてはいないか。ペットの「こころ」を信じることで、ペットの方も飼い主の「こころ」を信じているのではないか。私にはそう思える。否、そうとしか思えない。

科学的な証明はできない。しかし、非言語的に信じることの相互作用は、人間同士にも存在すると私は考えている。

次に、可能性を信じる。自分の可能性を信じることに長ければ、相手の可能性を信じることは自然にできる。何の可能性かについては後述する「対象」に。また、可能性には実現可能性と潜在可能性とがあり、これは先日のコラム【可能性主義論を提唱する準備として】に書いたとおり。

ひとつめの技能「尊重する」だけでも、以上のように範囲は広い。今考えつくままに書いたものであるので、他の尊重もあるにちがいない。

尊重するという態度は技術として磨くことができる。

 

 

『愛するということ』―1


世界的にロングセラーとなっているエーリッヒ・フロム著『愛するということ』を数年間にわたって何度か読み返してきましたが、今回は「愛する」よりも「技術」に焦点をあてて考えています。

原著のタイトルは『THE ART OF LOVING』で、直訳すれば「愛することの技術」です。「技術」を表す英単語は他に [technique] [skill] があり狭義では [technology] も入りそうです。本書タイトルで著者は [art] を用いています。

[skill] に関していえば、個人に内在する技能そのものを表し、主に仕事上でのことに使用されるので適切ではないのかもしれません。では [technique] と [art] はどこが違うのか。テクニックは方法や手順であり、主に身体性や知性を用いる際に使うのかなと幾つかの辞典を調べていて思いました。[art] は感性や心を使って何かを産みだす技能という語感かなと。あくまで個人的な語感印象ですが。
ちなみに参考にした辞典は、大修館書店『ジーニアス英和大辞典』、小学館『ランダムハウス英和大辞典 第2版』、研究社『新英和大辞典 第6版』、研究社『英語語源大辞典』です。

本文内容には、[technique] や [skill] と表現してもよい意味内容で技術という言葉が使われている箇所が幾つもあります。原文でどうなっているかわかりませんが。

本論考では、それら英語的意味の区別は枝葉の部分だと思うので横に措き、すべての「技術」の語義を日本語的に分解して捉え、愛する根幹の技術を考えてみたいと思います。

 

まず、本書第2章「愛の理論」p48 から引用します。

愛の能動的性質を示しているのは、与えるという要素だけではない。あらゆる形の愛に共通して、かならずいくつかの基本的な要素が見られるという事実にも、愛の能動的性質があらわれている。その要素とは、配慮、責任、尊重、知である。(紀伊国屋書店 鈴木晶訳 エーリッヒ・フロム著『愛するということ』1991年新訳版)

要素の指摘は重要部分です。愛することの技術はこの4点だと言っているに等しいからです。理論的には、この4要素レベルの高低で愛する技術の優劣が定まるとフロムは考えたのだと私は解釈しました。

配慮とは、子どもに対する母の愛のように、愛する者の生命と成長を積極的に気にかけることであり、愛の本質はそのために働くことであり育てることであると述べています。

責任とは、愛する者から求められた時に私が応じることであり、応じる用意が事前にあるという意味で、身体的または精神的に相手から求められればそれに応じることだと述べています。

尊重とは、相手が唯一無二の存在であることを知る能力であり、私のためや私の仕方ではなく、その人なりの仕方で成長することを望むことで、それには私の独立性が必要であると述べています。

知とは、気遣いすることを動機として相手をよく知ることであり、現象としての状態を洞察し知ることでもあり、更に掘り下げ相手と融合して知るというレトリックまで使っています。

最後の知にはより多くのページが割かれているので、精神分析学に携わったフロムが最も言及したかった部分のように感じました。

4要素の一連の文脈は、配慮には責任が必要であり、責任には尊重が必要であり、尊重には知が必要であると。これを順に戻すと、まず知ることで尊重する準備が整い、尊重することで責任を負う準備が整い、責任を感じることで配慮することができるという、知から始まり配慮が行われるというロジックだと解釈しました。

以上は本書内容の重点部分にかんする私の解釈であり、私の意見・考察ではありません。

次の稿では、フロムの理論を参考にしながら私の論考を書いていきます。

 

 

無意識の調律(2)


暗中模索のまま進む「無意識の調律」ですが、調律を行うのはあくまで無意識であって、意識上の私はそのサポートをするしかない。意図的な調律はできない。

意識上に生じる「私」は私全体の主人公ではないのだ。

私全体の主人公は無意識であり、意識は無意識の出先機関のようなもの。これを意識上の私が感覚にまで落としこめるかどうか。無意識が主人公であることを頭でわかるだけでなく感覚にまで。

無意識の定義が必要かなと思う。

ざっくり言えば、意識活動以外のすべてが無意識である。私の肉体も無意識の領域にある。意識上では感覚もできず動きを変えることもできない胃や腸、肝臓などの臓器、消化器、すべての神経、ホルモン物質、記憶、価値観、生理現象、生命の生死にいたるまで、すべてが無意識の領域にある。

意識も無意識の範疇と言えるのかもしれない。

一生命体の全体の本質が無意識なのだ。

 

無意識の調律(1)


「無意識の“調律”」をライフワークにしていこうと思う。

科学にはならないとは思うけれど、普遍的な何かを目指してみよう。

“調律”することが「良い」のではない。「良い」は“調律”のなかに含まれなければならない。この点は哲学的な精確さを追求する。“調律”の意義があるとすれば、進めながら発見できるのかもしれない。要は私の好奇心というだけなのだが。

論理を組み立て常に考察し、実験してゆく。

実験体は自分自身である。

例えば、現代人の多くは「柔軟な思考がよい」という価値評価を下すことが多い。それはそれでいい。私も柔軟さはよいと思う。しかし剛直さもよいと思う。この二つは、同時に成立し得ない。対立する価値は世界にやまほどあるが、同時に成立し得ないがために、「私はこっち。あなたはどっち?」というふうに、どちらかの価値を「正しい」として定立させようとする。私はこれを定立させず常に留保状態とし、そのたびごとに無意識に決定してもらおうと思う。そのための“調律”である。

上記の例で柔軟性と剛直性を価値均等に併存させるために、例えば、老荘、淮南子から柔軟性を学び、一方で葉隠の武士道から剛直性を学ぶというふうに。

理性と野生、知性、感性、情感、それぞれをどのように活性化させていくか、どのような交響曲を無意識が奏でるようになるかのベースは、“調律”のアートにある。

 

 

リベラリズム考(11)―新構想


今回が本シリーズのラストの記事となります。

 

新しいリベラリズムを構想する。

個人主義と共同体主義の公正、自由と正義、自由主義の他律化など、相反する価値が混在しているリベラリズムは下手をすれば社会混迷の原因になりかねない。克服すべき点は多いがもっとも現実的な「寛容のパラドックス」を題材に、新しいリベラリズム構想を練っていくことにする。

 

■ 現代における寛容・多様性を認めよ運動

右側に挙げた各主義はリベラリズムの寛容と衝突する場面をよく見かける代表的な主義で、衝突の場合もあれば融和する場合もあり、上記に挙げた以外の主義も当然ある。このA図ではあくまで対立する主義に対して、リベラリズムが「あなたたちは多様性を認めるべきだ」と主張することを示したもの。

しかし、右側の主義から「多様性を尊重するのならば我々の主義主張も多様性のひとつとして認めるべきだ」とリベラリズムは反論される。

A図の先鋭化した運動で、リベラルからの非多様性主義への言葉狩りなどの攻撃、社会の側から同調圧力をかけようとするメディアの喧伝もあり、息のつまる閉塞した社会になってしまっている現状がある。表現の自由は大幅に制限されており病的とも言えるレベル。多様性の押し付けが不寛容化しているのだ。

次に、アメリカの最高裁判例にもあるが、多様な主義を寛容の精神で許容した場合にどうなるか。

 

■ 多様な主義を内包するリベラリズム

 

リベラリズムが多様な主義を内包しようとする。それはそれぞれの主義を一方的に認めることであって、排他的な主義、多様性を認めない主義をも認めることとなる。

B図の内包は次のC図と同義となる。

 

つまるところバラバラの主義が乱立してしまうだけで、アメリカではリベラルと保守主義の対立の溝が深まった。A図とC図の双子のリベラリズムがアメリカンリベラルのジレンマの正体だ。

リベラリズムはそのままでは寛容のパラドックスを克服できない。井上達夫氏は自著の中で「反転可能性テスト」という方法を用い、「相手の立場に立って自分が許容できないことは正義ではない」という論法で多様性受容のための克服を企図しているが、少々強引に正当性を図るための理屈論だというのが今のところの私的感想です。根本的な寛容パラドックスの解決にはならないと思う。

 

■ メタリベラリズム新構想

私は次のD図の、メタリベラリズムとリベラリズムのダブルビュー(二重視点)による立体的なリベラリズムを新しい構想として提唱したい。

 

メタリベラリズムは全体の高次の視点からリベラリズムをも内包する。

メタリベラリズムだけではメタにならずB図になる。リアリティは内側のリベラリズムにある。二重性が重要なポイントだ。

内側のリベラリズムは常にメタリベラリズムの視点に沿って、メタの全体性において「どの程度まで寛容を主張したらよいのか」のさじ加減を整えるのである。多様主義の全体性にとって最も重要な点は、保守主義や民族主義、社会共産主義、独裁専制主義にいたるまで、『共存』を第一義とし、よほどのことがない限り潰してはならないということ。メタの寛容精神である。メタの視点をもったリベラリズムは社会に向けて、或いは社会の側から寛容を押しつける主張はしない。排他主義についてはけん制しつつ、みずからは多様性を実践し、みずからが排他主義者を排除する排他主義者にならないこと。

「怪物と闘う者はみずから怪物にならないように注意するがいい。君が深淵をのぞきこむならば深淵もまた君をのぞきこむ。」(ニーチェ『善悪の彼岸』146番)

 

このメタ認知と現実主張の二重性、二面性は、社会における個人においても、行っている人は無自覚のうちに行っているはずだ。

メタの視点で全体観をもって、左の主張が強すぎれば右の側に沿った主張をし、右の主張が強すぎれば左の側に沿った主張をする。極端に左右に偏った主張をする場合すらある。

「衡平(こうへい)」を感覚的にとらえ、常に一方が極端に勝ったり負けたりすることを防ぎ、両者の溝を深めてしまわないようにし、全体がどこへ向かえばよいのか、全体がどうあったほうがよいのかに常に気をくばる。もちろんその全体性に明確な正しい道、正解や正義は無いが、メタの「正しさ」を考えようとすることと全く考えないのとでは格段の差がある。

 

一個人の内面価値を考えても、リベラリズム、保守主義、ナショナリズム、グローバリゼーション、家族主義のほか複数の価値観が混在しており、時と場面、相手、自己心理によって使い分けているほうが自然であるし健全だろう。無理をして一元の主義やイデオロギー・宗教観に自分を染め、原理主義的主張をするのはあまりに単純で、人間知性の劣化へばく進しているように感じられてならない。

 

D図の右側に「他律」を入れてもいい。

「他律で生きたい」、もっと言えば「依存で生きたい」という人を否定すべきではないと思う(正直に告白しますが私は他律をずっと批判していました。考えが変わりました)。自律したいという内発があってはじめて自律が成立するのであって、自律を押しつけたり誘導したりすれば相手側にとっての他律にほかならない。

すべてにおいて自律できるはずもなく、国家や法や社会の秩序、その時代の道徳やモラル、そうした他律に従うことで自律や自由が生きるというのは疑いようのない事実である。そのことを深く理解したうえでリベラリズムは堂々と自律を主張すべきだ。

 

メタリベラリズム構想は、マルチカルチュラリズム(多元文化主義・B図とC図)を二重化した世界観ですが、更に、三重化も可能ではないかとぼんやり考えています。

以上で、今回のリベラリズム考シリーズは終了です。

 

 

リベラリズム考(10)―概括


今回のシリーズで、リベラリズムについての要点をある程度はあきらかにすることができたと思う。しかし、遠く2500年前の古代ギリシア時代に淵源をもつ、リベラリズムの歴史における深淵の一端をうかがえたに過ぎない。本格的な独自考察は今後じっくりと進めるつもりです。ジョン・スチュアート・ミルの『自由論』、アイザィア・バーリンの『自由論』、ジョン・ロールズの『正義論』、マイケル・サンデルの共同体主義からのリベラリズム批判などを中心に関連著書を味読し、新しいリベラリズム構想のヒントとしたい。

本稿ではここまでの理解を整理し見解を概括しておくことにします。

 

■ リベラリズムの四原則

1.公正としての正義秩序を社会に構築し、その中で個人の自由を最大化する。

2.多様な個性、文化、思想をもつ人々が共存できる社会を目指す。

3.自律した個人主義に基づく成熟した共同体を形成する。

4.固着した価値観に囚われず、人間の理性の力を信じ社会を変革してゆく。

 

■ リベラリズムの陥穽

1.公正が独善となって社会圧力が強まり、全体主義的に価値一元化した正義になることがあり得る。

2.道徳と正義公正の衝突、道徳と多様性の衝突、表現の自由と人権の衝突、人類が築いてきた制度と自由権の衝突、これらが起こった場合にリベラリズムを原理主義的に振りかざせば、悪や不公正、逆差別が勝利することになりかねない。

3.進歩主義の変革による結果が国民や人類にとって善となるとは限らず、不幸で悪となる可能性が十分にある。

4.国家の伝統や文化慣習が次々に破壊され、歴史の重みのない浅薄な国柄になってしまう。

5.現代日本の現状では自律を欲する人は少数派であり、しかも自律可能な人はわずか一部である。大多数の人々は宗教を含め他律に依存することを欲する。他律をも多様性として内包できることがリベラリズムではないか。

6.寛容は不寛容を寛容できない(寛容のパラドックス)。もし排他主義や差別主義的な者を多様性として寛容すればその者たちはやり放題となり、しかも排他的に外部に敵をこしらえ内部求心力を高めるのであるから、強力で横暴な勢力となるのは現代を鑑みても、或いは歴史が示すところを鑑みても自明である。

 

■ リベラリズムの欠陥回避

1.リベラリズムを原理主義的に扱うことを避ける。他の社会善的価値と衝突した際には全体性のバランスを考慮し折れるところは折れ、主張が先鋭化しないように抑制する。急進的で硬直的な変革ではなく柔軟で緩やかに、時間をかけた厚みのある変革を目指す。

2.リベラリズムの主義主張を他者や社会に押しつけない。メディアや社会がそうした空気を作って国民に圧力をかけることは個人の自由意思と意志決定の自由を阻害する。それは社会からの他律により人を動かそうとするものであって、リベラリズムの思想とは逆行する。個人の内発的自律がすべてだとする。

3.多様性や寛容を主張しない。成熟した個人主義の資質としてみずからが内的に多様であることを理解し、自分の個性の自由を他者や社会へ向けて主張するのであるから、他者の個人主義的多様性を認めることや寛容の精神は内包できる。共同体における他者関係の公正性がこれを支える。

4.リベラリズム的価値を固定化しない。善悪観や正義概念は時代と共に移り変わってゆくものであることを忘れずに、価値を普遍的に固定化しようとせず、次世代を築いてゆく人たちに新しい価値創造を委ねる勇気をもつ。次世代を担う人たちもこの精神を承継してゆく。

5.ケースによってはリベラリズムを否定する原理主義的に扱わないことによって生じる不利益はリベラリズムの論理一貫性を欠くところにある。一貫性を欠くことよりも大きな不利益が生じる可能性が予測できるときには、人間的な総合判断によって一貫性を欠くことをためらわない。

 

以上が今回のシリーズにおけるリベラリズムの概括です。

欠陥回避の方法を私になりに考察してみましたが、寛容のパラドックスや他律を望む人はどうなのかなどの課題はそのまま残ってしまいます。すべての課題を超克できる新構想を考えています。今のところその発想は端緒だけですが。

次の記事ではリベラリズムの新しい構想私案の概観を記し最終回とします。

 

 

リベラリズム考(9)―批判


リベラリズムには多面的な主張があることが解ってきた。

自由に境界を超えてゆこうとすること、現状の価値を理性の力によって変革しようとすること、進歩を良いこととすること、先入観の排除および事実と分析、個人主義と自律、他者の個人主義的主張を理解し認める寛容、公正としての正義など。

19世紀よりこうした多面的価値観が交錯しながら、つまりある面とある面では矛盾を抱えつつもそれぞれの主観上で半ば強弁的に整合性をもたせ、「啓蒙的な社会運動」の色合いを濃くしていったのである。

不寛容に対する寛容、グローバリズムとグローバリゼーション、自律の他律化、リバティのフリーダム化等の矛盾と葛藤をそのままに、現代ではメディアや自称リベラルがリベラリズムとは言えないリベラルを気取り、大衆を煽り立てた活動が先鋭化している。(ポリティカル・コレクトネス等)

上記のリベラリズムにおけるそれぞれの多面的性格への批判は、例えば共同体主義(コミュニタリアニズム)や保守主義(コンサヴァティズム)と価値対立する点においては当然ある。価値の対立については今回は立ち入らない。

 

今回取り上げるのは、リベラリズムという社会運動に対する批判である。リベラリズムを社会運動化したことによって、個人のリベラリズムの自由と自律を台無しにしてしまっていることについて、ニーチェは以下のように看破している。

それは、あまりに長いあいだ、霧のように「自由な精神」という概念を不透明にしてきた、古い愚かな先入観と誤解を、われわれ双方から吹き払わなければならない、という負い目なのだ。ヨーロッパの国々や、また同様にアメリカにも、いまやこの名前を濫用しているあるものがあり、われわれの意図や本能のなかにあるものとはほぼ反対のものを欲する、ある非常に偏狭な、捕えられ鎖につながれた種類の精神の持ち主がいる。(中略)

彼ら、この誤って「自由な精神」と呼ばれる連中は、手短かに悪い言い方をすれば、水平化する者たちの仲間であり――民主主義的な趣味とその「近代的理念」の能弁で筆達者な奴隷である。

彼らはいずれも孤独をもたない人間、自分自身の孤独をもたない人間であり、勇気と一応の礼儀を心得ていないわけではない、野暮で健気な若僧たちだが、ただ、ひどく不自由で、おかしいほど浅薄であって、とりわけ、これまでの古い社会の諸形式のなかに、ほぼすべての人間的な悲惨と失敗の原因を見ようとする、根本性向をもっている・・・・・・そこで、真理は幸いにも逆立ちすることになるわけだ!

彼らが全力をあげて手に入れようと努力しているのは、万人のための生活の保証、安全、快適、安心をともなった、畜群がもつ、あの一般的な、緑の牧場の幸福である。彼らがたっぷりと歌いあげた歌と教説はといえば、「権利の平等」と「すべての悩めるものに対する共感」の二つであって――つまり苦悩そのものは彼らによって、除去されなければならないあるものとして受けとられるのである。

われわれ逆の立場に立つ者、これまで「人間」という植物はどこで、またどのようにしてもっとも力強く大きく成長してきたか、という問いに対して眼と良心とを開いたわれわれは、次のように想定する――人間の成長はその都度これとは逆の諸条件のもとで行われたのであって、そのためにはその状況の危険性が巨大なまでに増大しなくてはならず、その工夫と扮装のちからが(その「精神」が――)長い圧迫と強制のもとで繊細かつ大胆にまで発達し、その生の意志が無制約の力の意志にまで高められなければならなかったのだ、と。

――われわれはまた想定する――苛酷、暴行、隷属、路上や胸中にある危険、隠遁、ストア主義、あらゆる種類の誘惑術と悪魔的所業、さらには、人間におけるすべての邪悪なもの、恐ろしいもの、暴虐なもの、猛獣や蛇のような性質は、その反対物と同じくらい、「人間」という種族の向上に役立っているのだ、と。

(中略)

われわれ「自由な精神」がまさにもっとも話好きな精神でないからといって、何の不思議があろう? われわれがまた、精神というものは何から自己を解放しうるのか、その場合には精神はおそらくどこへ駆り立てられてゆくのかを、どんなことがあっても洩らしたがらないからといって、何の不思議があろう?(中略)

われわれは「自由思想家」すなわち「リーブル・パンスール」や「リベリ・ペンサトーリ」や「フライデンカー」とはある別のものであり、「近代の理念」の代弁者を好んで自称する、これらすべての健気な連中とも別のものである、と。

(白水社版 ニーチェ全集 ニーチェ著『善悪の彼岸』44番「第二章 自由な精神」 )

 

われわれの「自由な精神」と、リベラリズムを社会運動として「我こそは自由な精神だ。解放者だ。」と唱えている人たちとは全く違う、むしろ真逆な自由な精神を論じている。

 

文中、「水平化するもの」とは、平等の名のもとに「みんな同じ顔になれ!」と社会の側から命令する、自由主義を全体主義化した「社会からの専制」運動のことを言う。

何について平等を目指しているかと言えば、「万人のための生活の保証、安全、快適、安心をともなった、畜群がもつ、あの一般的な、緑の牧場の幸福」であり、苦悩は除去されなければならないとする理想。

もしかするとそれは当然じゃないかと考える現代人のほうが多いかもしれない。しかしニーチェは深い。

けっして、個人みずからが、安全や快適、安心を求めることを全面否定しているのではない。苦悩や危険、邪悪、恐怖は、その反対物と同じくらい、「人間」という種族の役に立っている、と言っているのがその証左である。

人道的に人間同士が殺し合う戦争は悪であり平和を善とする価値に間違いはない。しかし歴史を俯瞰すれば戦争が人類種の役に立ってきたとも言えるのだ。少なくとも戦争によって人類種が滅亡することはなく、逆に七十数億人まで増え続けているのだから人類種にとって戦争は悪だとは言い切れないと、柔軟に思考することが哲学である。

むしろ植物が剪定されて枝ぶりが良くなるように、厳しい自然環境に適応した生物だけが生き残ってきたように、競争淘汰と適者生存の双方が機能して人類種が成り立ち、人類種においても同様の仕組みが機能したことによって爆発的に人口が増えて現代人に至っている。

 

しかしニーチェは自分で述べておきながら禁を侵しました。本質的な「自由な精神」は外へ向けて自由な精神を語ってはいけないにもかかわらず、ニーチェは上記のように同著で述べてしまったのです。人類種にとって本質的に必要な「自由」は、ニーチェ自身が述べているとおり自由の肯定論を述べてしまうことが読者にとっては他律となりかねない。ニーチェの「力への意志」はナチスに利用されることになってしまった。

 

文中、「リーブル・パンスール」は原著で libres-penseurs (フランス語)、「リベリ・ペンサトーリ」は liberi pensatori (イタリア語)、「フライデンカー」は Freidenker (ドイツ語)となっておりいずれも英訳すれば Free thinker です。章タイトルの「自由な精神」は原著で freier Geist 、英訳本で free spirit 。

ニーチェは「超人」というモチーフ(ロールモデル)を創造しました。これは Superman と英訳されているのですが、原著では Übermensch す。この場合にドイツ語の Überbeyond の語感が相応しく、日本語義的な万能のスーパーマンではなく、原義は「人間を超えて(ゆく何者か)」であります。ここは重要なポイントだと思います。

あらゆる近代的価値にNOを突きつけ価値転倒を試みたのがニーチェ哲学であり、先入観を疑い、現時点での流行的なモノに対して徹底的な変革を望み、人を超えてゆく超人という概念さえをも創造しました。彼の述べる自由な精神とは現代で言うのならばリバタリアニズム(超個人主義)であり、他律を断固として拒否し徹底した自律を説いている。まさに、ニーチェは正真正銘、最強のリベラリズム哲学者でありました。

 

次はリベラリズム考シリーズのラストとして、現代的リベラル社会運動ではないリベラリズムの本質としてあるべきすがたを私なりに整理し、現時点での総括とします。

 

 

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