絶対的空間感と相対的空間感


 

山の人モード

人間は見たもの聞いたもの五感すべてで捉えたものを、自分の脳内でアレンジし、変化させてしまうことが往々にしてある。

過去の体験に頼り、判断能力を過信し、自己内に築いてある価値観と照らし合わせ、そのときの体調や感情、欲求によって、自分の手で事実を歪めてしまう。

こうして正直な自分の気持ちを表して書いているつもりで、自我が「私は正直に心のうちを書いている」と思っていても、無意識層にある人格多面性が自我を騙しているかもしれない。

またある時は、悪魔の代弁者的な偽悪を書かせていることがあるかもしれない。

本当の正直はあり得るのだろうかを考えることは哲学的思惟ですね。

事実という概念はなにかを考えることも哲学的思惟だと思う。

 

「見る」「聞く」は能動的行為ではなく受動的行為である。感覚器官に受動させるために意志し行為しているために能動行為と錯覚してしまうけれど。いや、能動行為としての「見る」「聞く」がある、という見解も一側面からはアリだなあ。

いずれにせよ、例えば「見た」のは平面像であり、立体空間像に組み立てているのは脳内においてだ。脳は事実を事実化せず不事実化していると言える。

盲目の人の立場になれば、彼らは脳内で自分が今いる周囲を「相対的」空間イメージとして感覚していると同時に、「絶対的」空間イメージとしても感覚しているとしか思えない。機会があれば聞いてみたいと思う。

前者は自分が今いる地点が絶対位置で、自らが移動することで相対的に空間が変わる。

後者は空間が絶対空間感としてぴたりと動かない。

 

よく方向音痴の人は空間認識ができないとか弱いとか言うけれど、違うように思う。自分の視点固定の相対的空間感が優位で、動かない絶対的空間感というイメージをつくれないのではないだろうか。

単純に街を歩くのでも、相対的空間感と絶対的空間感を混合させたなかで私は歩いていて、それが普通だと思っている。絶対的空間感によって自分の今いる位置と向きが(頭の中の地図上に)はっきりとわかるので、方向音痴にも迷子にもならない。もし、相対的空間感しか持ちえないとすれば、ちょっと恐ろしくて道を歩けなくなるかもしれない。

相対的空間感しか持ちえない人に、絶対的空間感の話をしても体験がないのだからさっぱりわからないということになりそうだ。とすれば、ようやくひとつの謎が解けたように思う。亡くなった従姉は頭が良いのに方向音痴で迷子になりやすく、車のバックでの車庫入れと縦列駐車が大の苦手だった。

絶対的空間感は生得的なものではなく習得的に訓練されたものだと思います。

サッカー選手は自己視点のイメージと、サッカーコートの高さを含めた動かない空間イメージの両方を混合しなければポジショニングを上手く取れないだろうし、体操選手の鉄棒演技は、演技する空間を不動のものとしてイメージしなければ、とても自己視点のイメージだけでは高難度の技を演技できない。いや、バク転さえできないかもしれない。

絶対音感と相対音感も同じような関係だと思う。

絶対的時間感と相対的時間感もあり得ると思う。

味覚や臭覚、触覚もまた然り。

冒頭に書いたように、自己視点を中心とした相対的感覚は脳内で変更されたイマジネーション(想像の産物)であり、絶対的感覚もイマジネーション、両方とも内的なイマジネーションである。その複雑性を自在に自分の中で活用している。まるでサーカス。

 

個人差も大きいし、自己内の変化も大きいのだから、人間関係に摩擦が生じるのは当然なのでしょう。

脳内でサーカスのようなことをやっているのだから、間違うことがあって当然であるし、正直なつもりが嘘をついていたということがあっても当然であるし、知らないうちに観点を変えて話をしているし、自分の意見もどんどん変化していくわけで、それは他人も同じ。

独立独歩で自己主張をする人同士であれば、6割くらい共感できればすごく相性が良いほうだと思います。

直接会って話すことと比べると、電話でやりとりするときでさえ齟齬が生じることが多々ある。テキストでの表現ややり取りにはメリットもあるけれど、受け取る側(認識し解釈する側)への依存度がけっこう高いように感じる。

 

やはり私的には、ブログは自分自身との対話であり、アウトプットされた自分像の観察と内省が主目的にならざるをえないのか。

いや、今日がそんな気分のモードだからなのでしょう。

 

まとまりもなく徒然に書いた長文に付き合わせてしまいましたね。

いつもありがとう。