『日本』という個性(6)


 

桜の人モード

結局、幽玄に美しさを感じるのは、けっして見えない「玄」をわれわれの想像の中に置くことで、全体観が、心の中におのずと描き出されるということでしょう。

例えば今日のアイキャッチ画像の、雲海の下に別の世界があることを、無意識のうちに想像(補完)しながら全体観をとらえているはずです。

「秘すれば花なり」にも通底する、「不完全、未完成のものゆえに美しい」という日本特有の美学を、岡倉天心(1862-1913)は『茶の本』で次のように述べています。

 

「数奇家(アンシンメトリカル)」はわが国の装飾大系のさらに別の側面を暗示している。日本の美術品が左右対称性(シンメトリー)を欠いていることは、西洋の批評家がしばしば指摘してきた。これはまた、道教の諸理想が禅道を通じて現れた世界である。

(中略)

それらの哲学の弾力性は、完全そのものよりも完全を求める過程に重きを置いた。

真の美は、不完全を心の中で完全なものにする人だけが発見することができる。

人生と芸術の力強さは、伸びようとする可能性の中にある。

茶室では、全体の効果を自分とのかかわりの中で完全なものにすることが、客めいめいの想像力にゆだねられている。禅道が世に広まった思考様式となって以来、極東の芸術は、完成だけでなく反復をも、左右対称の表現として故意に避けてきた。

意匠の画一性は、想像力の新鮮さにとって致命的と見做された。

(講談社学術文庫 岡倉天心著 『茶の本』 p62-63 )

 

完全なものをわざと作らない。左右対称にしない。同じ模様を繰り返さない。

「伸びようとする可能性」に、私たちはオーラのようなものを感じるのです。

子どもや若者のなかには強いオーラを放つ子がいます。すべてがそうではなりませんが、可能性を強く感じさせる子がいる。

 

余力、余情の可能性があることを、思考することによって安心したり希望や自信をもつのではない。感覚的感性が言葉にならないなにかを自然に捉え、個人的想像力を駆使して、今ある全体像を飛躍させ新しい全体像の完成を目指そうと欲する。

日本人が結果よりもプロセスを重視する傾向があることも、同根ではあるまいか。

生きているプロセスひとつひとつが、プロセスが連なっている姿が、これからそのプロセス上に生を創ろうと意欲する心が、その「さま」が、美しいかどうかの対象になってくる。

 

われわれが人生と呼ぶ、愚かしい労苦の狂瀾怒濤に浮かぶ自分自身の存在を、正しく律する秘訣を知らない人びとは、幸福と自足の外観をよそおうことにむなしく努めながらも、いつも悲惨な状態にいる。

われわれは、精神の平静を保とうとしてはよろめき、水平線上に浮かぶどの雲にも、嵐の前兆をみる。

 

しかし、永遠にむかってうねって行く大波の中に、喜びと美がある。

なぜ、大波の霊に共鳴しないのか。あるいは列子のように、つむじ風に跨って行こうとしないのか。

(同書 p94-95 )

 

※列子 ・・・古代中国で老子や荘子と同じ流れをくむ思想家。風に乗るような自由な気風。

世間体、体裁、他人からの承認欲求、そうした人格の浅い部分での人生活動が人間の生きる(あるいは生きた)値打ちではない。承認欲求を満たすための見栄や虚栄心は、常に不安や嫉妬感情を抱え込む。私たちの生命活動とは、もっともっと人格の深い層にある本源が活性化してゆくことではないか。

自分の過去や現実の評価、それもくだらない世間の評価に固執してはならぬ。

ここから未来へ向かう道は可能性に満ちており、そこにこそ喜びと美がある。その喜びと美を追い求める者だけが、光のオーラを身にまとい、美しい人生を歩みつづける。

 

人生のはかなさを、仕方のないものとして消極的に受け容れるのではなく、はかなさの美を積極的に認識するとき、残る生に内蔵される喜びの可能性は最大となる。