物語化


このウェブサイト全体のメニューは、当記事のようなその日の「断想」があり、主目的の「人類哲学の独創」「私の美学建設」がある。そして最終的な創造として、主目的の二本立て内容を物語化し、子ども向けの小説として表現したい。生きる時間の制約はあるが、未来の子どもたちへコンテンツを残したい。

なぜ物語なのか。

ChatGPTに「物語効果」について聞いてみた。下記にその内容を転載しておく。

 


1.感情への訴求

物語は登場人物の喜びや苦しみ、挑戦や成功などの感情的な側面を描写することができます。感情は人間の価値観に密接に関連しており、物語が感情的な共感を呼び起こすことで、価値観を形成しやすくなります。

2.共感と認知の活性化

物語に登場するキャラクターや状況に共感することで、読者や視聴者は自分自身の経験と重ね合わせることがあります。これによって、物語の中での価値観が実際の生活にも関連づけられ、より深く理解されます。

3.複雑なテーマの探求

物語は現実の複雑なテーマや問題を簡潔に表現する手段です。人間は物語を通じて哲学的な問いや道徳的なジレンマに直面し、それについて考えることができます。これによって、物語が新たな価値観や視点を提供することがあります。

4.記憶と共有

物語は人々の記憶に残りやすく、また他人と共有しやすい形式です。物語は口承文化から始まり、伝承として次世代に引き継がれてきました。これによって、特定の価値観や教訓が広まり、社会的な共通の価値観が形成されることがあります。

5.想像力と創造性

物語は読者や視聴者に想像力を刺激し、別の現実を探求する機会を提供します。この過程で、新たなアイデアや価値観が生まれる可能性があります。

6.統合とアイデンティティの形成

物語は個人の経験や価値観を統合し、自己のアイデンティティを形成する手助けをします。自分自身の物語を見つけることで、価値観を自己と繋げることができます。


 

ChatGPTに整理をしてもらうと100人力だ。

 

 

「価値観原理」から議論を始める


道は全く見えず、高き山々の連なりが見えるだけだ。

前の記事で、「人類哲学の独創」についてのアウトラインをつくった。まずは4本柱となる原理のうち、価値観原理と概念原理から入っていく。予定する第一項目からスタートするつもりはない。その日その時の自分にとって最も高い関心をもつテーマから始める。まずは価値観原理論の第4章「価値観の形成と変容」から議論をスタートする。同原理論の他の章や概念原理論とも密接に関係してくるので、次の日の思い付きでどこに派生するかはわからない。哲学の議論に疲れ心が乾いてきたら、「私の美学建設」のほうへ移って、日本思想について書くかもしれない。アウトラインはあるが、計画はあるようでない。

価値観の形成と変容には、広範な構成要因と複雑な関係性を含む。

例えば歴史認識が価値観に影響を与えるのは自明の理であるけれども、歴史についての事実は瞬間的な現象記録にしかなく、事実起点および事実を恣意的に繋ぎ合わせての憶測によって、人類は歴史の物語を創作してきた。歴史の物語はほとんどが幻想であり虚像である。

そう考えてゆくと、「歴史を解釈するとはどういうことか」「歴史を信じるとはどういうことか」という哲学になってくる。まさに歴史哲学だと言える。

同様に、宗教や文学、映画、法、教育なども価値観に大きな影響を与えるが、例えば「宗教に対してどのように対峙するのか」「法に順う正義は外部価値への依存ではないのか」「教育は国家や大人の善価値観の押し付けではないのか」というふうにそれぞれが哲学になってくる。

価値観を考えること自体が哲学であり、もはや目的が何であるかさえ霧に包まれてしまうが、これでいい。そのうち視界は開けることだろう。

 

 

 

独創哲学の仮メニュー/2023年8月版


ターゲットは五千年後の子どもたち。

人類哲学の原理の理論体系を、網羅的に独創する。(ChatGPTが相棒)

五千年後まで色あせない普遍的な理論体系でなければならない。

 

1.構造原理(Structural Principles)

 〇 認識原理論(インプット・解釈・表象)
   Principle of Cognition (Input, Interpretation, Representation)

 〇 発現原理論(アウトプット・表現・創造)
   Principle of Expression (Output, Expression, Creation)

2.意味原理(Principles of Meaning)

 〇 概念原理論(イメージ・言語)
   Principle of Concept (Imagery, Language)

 〇 価値観原理論(価値・価値観の確立原理)
   Principle of Value and Belief (Establishing Values and Beliefs)

以上の4理論および相互関係を立体的に創造する。

4理論を下記の各種理論を創造する土台とし、人類哲学の基礎原理とする。

 

3.各種理論(Diverse Theories)

 〇 思考論
   Theory of Thinking

 〇 感情論
   Theory of Emotion

 〇 欲求論
   Theory of Desire

 〇 志向性論
   Theory of Orientation

 〇 社会関係論
   Theory of Social Relations

 〇 倫理論
   Theory of Ethics

 〇 思想論
   Theory of Thought

 〇 宗教論
   Theory of Religion

 〇 自然論
   Theory of Nature

 〇 時間論
   Theory of Time

 

以上が基礎原理に上積みされる各種理論。(予定)

 

 

思想というモンスター


哲学と思想を対比するとき、思想の領域の広さに絶望する。無限に枝分かれしていく価値観が思想を創る。だから思想の数は無限にある。哲学は一つの原理に収斂していく性質があり、思想は多元的かつ多様的に拡散していく性質をもつ。

人間はこのように生きたほうが良い、社会はこうなるほうが良い、こうなるほうが良いのだから、こうなるべきだ。というふうに思想は語る。善い悪いの善悪や役に立つ立たないの損得、美しい醜いの感性的価値、相対的比較のプラスとマイナスの二極があり、それを思想は語る。絶対的価値と言っても「価値」づけていることに相対比較が隠されている。

思想は怪物である。モンスターだ。魅惑的でもあり高圧的でもある。

個人の信念や美学、信条は主観的であり、それを他者に押し付けなければ主観にとどまるが、思想は客観的に語られ、世界の普遍的真理のごときである。思想を社会的原理に応用したのがイデオロギーだ。イデオロギーとは、機械的なシステムのように社会原理を設計し固定化しようとする思想だ。共産主義、民主主義、自由主義、個人主義(individualism)、…すべてイデオロギーである。

実存主義、唯物論、唯心論、独我論、そうした一つの原理で世界を正しく解釈できるというのも、私の分類においては思想である。

 

さて、私は個人的な生きかたの美学をもつが、社会はこうなると良いとか社会はこうあるべきだとか、正しい一つの解釈があるとか、人間はこう生きるべきだとか、そういう類のものは私にはない。元からなかったわけではなく、積極的に失っていったといえる。私に思想はない。

 

 

理解されたい客体


人には、自分のことを他者に理解してほしいという欲求がある。正しく自分について理解してほしいと。承認欲求や自己実現欲求には他者が必ず絡む。え?自己実現欲求って自分だけのことではないの?と思うかもしれないが、自己実現というふうに自己という言葉を客観的に使っている時点で、自己と他者の二つの対立概念をつくっており他者を意識している。自己実現には外部への自己表現が含まれる。もし他者を意識しないのであれば、自己も意識しない。客観的に自己という対象を設定しない。

さて、理解されたいというのは、自分を客体的対象として見ている。主体は理解する側にあると言外に位置付けている。飲食店もホテルも洋服屋も八百屋も、店舗を構えて客を待つ。主体は客であり、店舗は客体である。客の関心を得ようとしたり客の利益になることをアピールしたりするなどして、客に金銭を支払ってもらうことによって自分の利益にしようとする。どれほど複雑に見える事業やプロジェクトも、価値観を分解すれば実は単純な構造である。

他方、人間という個人については、「心」の理解と、「頭」の理解がある。

古い日本語では「情」をこころと呼んだ。読んだではなく呼んだ。心の理解は情の理解であり、頭の理解は知の理解である。知とは、おおむね、論理に言い換えてよいと思う。情の理解と論理の理解を、表現によって為すことができるとしたのが西洋文明である。自分が考えていることや心にある感情を、表現によって他者に伝えなければ意味がないと彼らは考えた。伝達表現は言語が中心であり、絵画や音楽もツールとした。

ここで問題となるのは、「理解されたい」「正しく理解されなければ意味がない」という思想にある。文章を書くにしても、万人に対して、普遍的に正しい意味がわかるように説明しなさいということを求められる。特にアングロサクソンの文化にその思想は濃い。ゆえにアメリカの学術書には具体的事例が嫌というほど書かれており、くどい。

理解されるということに価値を置く価値観についての研究は後日にするとして、理解されなくてもよい、というところに価値を置く価値観もあるということだけ、今回の断想で言及しておく。

読者は本を選ぶ。本や著者は読者から選ばれる。ふつうは。

私はニーチェ風にそれを逆転する価値観のほうに軸足を置く。それは傲慢だという批判は勝手にやってほしい。その批判者は読者にならなくてよい。

著者が、読者を選ぶ。

そういう内容のものを、今後も書いていきたい。

 

 

価値観の「探究」


探究にわざわざ「 」を付けて「探究」にしたタイトルを見てわかるとおり、今回は探究について少し考えてみる。

探求と探究はどう違うのか。いや、どのように二つの概念を私は使い分けているのか。日本人にとって漢字は便利なもの。探求とは探し求めるということである。探究とは探し究めるということである。求めることと究めること、この違いで十分わかる。

探し求めるとは、暗闇に両腕を前に開き「どこ?どこ?どこにある?」というイメージ、或いは「いったい、自分の求めるものはどこにあるのだろう?自分の求めるものは何なのだろう?」というイメージ、だいたいこんな感じかな。私にとっては。好奇心に似たイメージがある。

一方で、探究は「究める」「きわめる」(極める、窮める)ほうにの重心がかかり、徹底的に本質を究めようとそのルートを探っていくようなイメージがある。限界点をきわめる場合は極めるを使う。山頂を極めるとか。窮めるは窮するに通じ動きが取れなくなることに使う場合が多く、窮まる、窮状、窮鼠、困窮などに使われる語感だ。

究めるは、研究や学究という言葉があるように、頭を使って知性的に本質を突き詰めようとするイメージになる。「価値観について探究する」というふうに、既に究めようとする何かが決まっている。探し求める段階ではなく、価値観について徹底的に究めようとする、その姿勢や気持ちのことを探究心と言う。哲学的に探求することと哲学的に探究することは異なる。

言葉は概念イメージの一部であって全部ではない。私にとっての探求と探究の概念は、私が今日までその二つの言葉を使用してきたイメージに依拠しており、辞書に表されている語義はイメージの百分の一にも満たない。よっと万人が「探究」という言葉について、寸分狂わず同じ概念イメージをもつことはあり得ず、正しい「探究」概念などない。よって「探究とは何か」という普遍的なイメージを見つけようとする問いは、問い自体に矛盾がある。

私は価値観の「探究」をやっているけれども、それを言葉を尽くして万人に理解してもらおうとは全く思わない。なぜなら、言葉自体が個人の主観イメージの抽象物であり、不完全だからである。

 

 

 

価値観の現象学的性質


昨日の断想で見てきたように、価値観には連続的同一性の性質がある。毎分毎秒、外部からの情報や内面での思索、環境や身体状態によって価値観は刻々と変化するが、分断されることなく滑らかに連続している。

そのほかの現象学的性質について、項目に分けて議論していこうと思う。

 

1.価値観の固有性と共有性

価値観は個人固有のものである。固有になるにはどのような原理がはたらいているのか。一方で個人間から国家間にいたるまで、価値観には共有されるという性質がある。共有性には帰属欲求も絡む。固有性と共有性の相互関係性について考えを深めていく。

2.価値観の非分断的持続性

時々刻々と価値観は変化するが、途切れることなく連続している。アイデンティティの同一性に価値観の連続性はどのように関与しているのか。記憶の連続性と価値観の連続性について考えを深めていく。

3.価値観の感情性

価値観は欲求を生む。欲求は感情を生む。価値観は間接的に感情に結び付く。価値観が人間の心と結びつくことによって感情を生み出す原理について明らかにしていきたい。

4.価値観の意識性と無意識性

価値観は無意識領域に根付くと考えられるが、意識性が内省となって変容していく場合もある。価値観がどのように無意識に浸透し、どのように意識に現れるのか。

5.価値観の受容性

他者の価値観から影響を受け、自己の価値観が変化していく性質について。

6.価値観の影響付与性

自分の価値観を表現することによって他者に影響を及ぼし、他者の価値観が変化していく性質について。

7.価値観の多様性と相対性

8.価値観の統合性と矛盾性

9.価値観の発展性と変容性

 

価値観の現象学的性質について、現時点で項目別に分解してみた。今日の記事と7月25日の断想記事「『価値観原理』構想」の章立てをミックスさせ、価値観原理についての地図を網羅的に描いていく。

 

 

同一性


同一性について、少し考えてみよう。

自己同一性のことをアイデンティティと呼ぶことがある。この概念については以前、「帰属」を中心に断想を書いたことがある。今回は新しい視点で考える。

最も単純に、目が覚めたときの自分は、寝る前の自分と同じだと認識できるのはなぜか。それは記憶があるからだと皆言うだろう。記憶が再現されるからだと。

なるほど、では記憶とはいったいなんだろうか。

脳科学の文脈で海馬に記録されてどうのこうの、という物理的な面ではなく、哲学的な妥協を許さない論理として。そもそも科学的に記憶のメカニズムが解明されているとは全然言えないはずだ。

情報の記憶、たとえば出来事だとか知識的なことだとか。人工知能が言語として記録する種のことであれば、まだわかる。

しかし、個人固有の価値観であるとか、その価値観に伴う欲求や感情であるとか、それらは毎分毎秒、少しずつ変化しつつも前後が分断されることなくなめらかに繋がっている。この繋がりの同一性についてはどう考えたらよいのだろうか。なぜ感情にまで繋がりの同一性があるのだろうか。

いったいその原理はどうなっているのだろう。俗にいう「意識上」で認識されない無意識領域に、繋がりの同一性があるように思う。しかしその原理については、今はまったくわからない。

他者の同一性について、不思議に思ったことが最近ある。

20年ぶりくらいに7名の同窓生に先週会った。私は皆が既に集まっているお店に最後に入っていたので、全員を瞬間的に把握しようとした。顔や姿を見た瞬間にわからない人が数名いた。ところが声を聴いた瞬間、すぐに全員が誰なのかを完全に把握した。目よりも耳で感じようと自然にそうしたのか、それとも声がほぼ変わらないために偶然そうなったのか、それはわからないが、他者の同一性については声が一番頼りになるのは確かなのだろう。

同一性については、今日の記事のほかにも別の視点がある。今後、分類し整理していく。

 

 

死を恐れないために


たとえば突然、貴方は医師から癌の告知を受けたとしよう。今それを仮定として想像するのと、現実に告知を受けるのでは迫真さが全然異なるから想像通りにはいかないと思うが、それは横におこう。

死が真に身近に迫ってくる「感じ」は、たった一人の個別体験であり、自分がいなくなることであり、真っ暗な闇の世界に物音ひとつ聞こえない。考えることができない。それも永遠に。自分が永遠に消え去り二度と現れない。

おそらく、がん宣告を受けた人の多くは、永遠に不存在となる自分ということについて考える。それはそれは恐ろしい。永遠の「無」に恐怖する。宗教を信じる人にとっては仮想物語のフィクションに依存し、永遠の「無」からの逃避を欲求する。

私は39才のときに大腸がんの告知を受けた。直径3センチの大きさの腫瘍がS字結腸にあることがわかった。大きさと形状から考えて、ただのポリープではなくがんですと医師から告げられた。永遠の「無」の恐怖に一晩眠れなかった。しかし明け方まで考えていたら、「そもそも生まれる前は無だったんじゃないか?」となった。それで、心は落ち着いた。ぐっすり眠ることができた。

しかしよく考えてみると、生まれる前と死んだ後が同じ「無」だとは限らない。そうしてまた考え続け、これは未知なる新しい世界へのスタートだと思うようになった。これについては「死の完全肯定-別世界への新たなスタート」にまとめてあります。

最近は、別の二つの視点を考えている。

一つは、誰もが死ぬんだから仕方ない。何人もの身内が旅立っていったし、今地球上に生きている人たちも一人残らず全員がいずれ旅立つ。みんな一緒で自分もその中のひとりなんだから仕方ない。この視点は現実的で、あきらめの境地に入ることで恐怖は相当やわらぐかもしれません。

もう一つは哲学的な視点。なぜ永遠の「無」が恐いかの理由を考える。なぜ、なぜを繰り返していくと、自分に「価値観」があるからだという結論になる。価値観が一切なければ「無」はない。永遠もない。存在も非存在も評価がない。

ところで、宗教は永遠の「無」を失くすために、物語をつくってきた。物語の価値観を信じることで死を恐れなくなるという、素晴らしいアイデアを発見した人類最初の人に心から敬意を表したい。しかし哲学ではそうはいかない。価値観を捏造するのではなく、価値観を失うということはどういうことかについて考えていかねばならない。

「価値観原理論」の創造に、ますます力が入る。

 

 

母の日


小学6年生の5月、児童全員にカーネーションが学校から配られた。赤いカーネーションを子供から母親に贈る年一回の恒例行事だ。クラスひとりひとりに配られる。40人のうち39人に赤いカーネーションが、1人に白いカーネーションが担任教師から渡された。白の1人は私である。

前年の7月30日に母は35年5か月の短い人生に幕を下ろした。美容室を経営していた彼女の夢は日本一の美容師になることだった。毎週火曜日の休業日は片道2時間以上をかけて東京へ出向いていた。最新の流行と技術を学ぶために。そして既に新しい店舗の内装が始まっていて、当時としては画期的な5つの個室で接客をする企画だった。美容師の腕が良かったらしく、借家の自宅には常に住み込みの美容師見習いさんが2~3人いた。

順風満帆な33才の頃から母は、原因不明の腹痛に悩まされた。自宅で休むこともあったが仕事は続けた。亡きあとに叔母が教えてくれたが、出産時よりも強い痛みだと言っていたそうだ。誤診が続き入退院を繰り返したが、ある病院で医師から、すい臓がんの告知を代理人として父が受けた。父は長いあいだそれを母に告げることができなかったが、遂には告げたそうだ。

病のために夢をあきらめ、10才の息子と6才の娘を遺して世を去る無念さはいかばかりだっただろうか。亡き母を思い浮かべるたびに私は、母の無念の心に寄り添う。子供たちが育っていく環境に母親がいないことを、彼女は思い浮かべたはずだ。子供たちに申し訳ないと謝る気持ちがあったかもしれない。いや、あったのだと思う。

亡き母の無念を、本当の無念にしてはならない、子供たちに謝る気持ちのままにしておいてはならないと、そう思って私は生きてきた。母がいない子だからといってそれがどうしたと。母の独立自尊の精神、そのDNAをしっかりと受け継ぎ早々に私は自立した。成功や失敗の結果はどうであれ志を抱き、その内容が変化しても常に志をもち続け、己の可能性を信じて生きることが、無念の亡き母から無言のまま引き受けた、私の使命である。

私は、己の死の瞬間を迎えるまで、この使命感を失わずに我が道を行く。

一生のあいだ失わない使命感を私に贈与してくれた世界一の母。彼女にとって誇りに思える人間にはまだ遠い。7月30日は、私だけの贅沢な、母の日。

 

 

TOP
Copyright © 2017-2025 永遠の未完成を奏でる 天籟の風 All Rights Reserved.