観念世界の視点と視座


前の記事のように、人間は個人固有の想像力によって、観念世界に幾つもの空間を創造する。そして、それぞれの空間内に自分と他者など個々の「視点」をつくり、その視点から空間内を見つめる。一方では空間の外からその空間全体を俯瞰し把握する「視座」をつくる。つまり「異なる私」が空間の数だけ創られる。その空間の広さは「視角」によって「視野」が変わり、思索と想像の奥行きと議論の掘り下げによって「視界深度」が変わる。視野と視界深度は遠近法によって主体が動かす。個人差は大きい。

ところで、視点と視座は、「主観」と「客観」で表現することもできる。しかし、この二つの言葉は定義が個々によって違うことがある。特に日本人が使う「主観」という概念は、本来の西洋哲学用語である subject の概念から離れた意味が付加され、混乱が生じている。私は、本来の西洋哲学概念での「主観」「客観」をここでは使用する。

さて、実在世界での視点や視座について語られることがあるが、それはすべて、実在世界を自分の観念世界に焼き直し再現しており、観念世界に自分が創造した各種空間(小世界)に設定した視点や視座のことで、実在世界に視点や視座があるわけではない。ここは勘違いしてしまっている人が多いのではないだろうか。実際には、視点と視座は仮想視点と仮想視座であり、想像的観念空間のなかにある。つまり全盲のかたにも当然、仮想視点と仮想視座がある。物理的な実在の「目」は一切使わない。

これらの観念世界における視点や視座で思考し判断した内容を実在世界に投影する。簡単に言ってしまえば、この投影に自分の「動き」を加えたものが「表現」の本質である。

冒頭の視点についての説明として、具体例を挙げてみよう。

目の前にA君がいる。私に相談話をしている。この時点で「私」は存在しない。私の観念空間上で「私」を対象化しない。話をしているA君しか存在しない。まだA君の視点にも立たず、二人が形成する言論空間も創っていない。「私」「自分」〈私〉などに主体を対象化しない場合にのみ、主観(機能)を使った主観(判断)が成立し、私はこれを「純粋主観」と名付けている。

次に、私がA君の相談に答えようとする際に「私は」というふうに主語を発し、「私」を対象化する。このとき私は初めて、A君と「私」が、私の観念上に二人が存在することを自覚する。つまり「私は」という言葉を発する直前に、自分という概念を意識し、かつ対象化し、「私」という代名詞を使う。このこと自体、客観という機能を使っている。しかしあくまで観念上では私の視点で話すので、客観(機能)を使った主観(判断)ということになる。例えばA君に対して「もし私だったらこうするああする」は主観(判断)である。一方で、A君の視点でA君の価値観や性格を私の想像力によって加え、「A君だったら(私と違うので)こうしたらどうかな?」とアドバイスをした場合は、客観(機能)を使った客観(判断)となる。

そして、A君の価値観と性格を加えたA君の視点から、私を見る。私が、A君にはどう映っているかを推測などの想像によって判断することも、客観(機能)を使った客観(判断)である。

この説明で私の論考における「視点」を直ちに理解できる人はごく少数かもしれない。

次に、A君と私の二人が存在し対話している空間をメタ認知し、私を私ではない第三者のようにとらえる。二人の関係性や対話のやり取り全体を把握し判断しようとする見地が「視座」である。

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上記の具体例は、一対一の最も単純なコミュニティ空間である。コミュニティ空間は人類レベルに至るまで、多種多様であり構造は非常に複雑である。また、例えば抽象概念空間など、他の種類の空間もまた複雑である。しかしどれほど構造が複雑になろうとも、「視点」と「視座」の根本原理は上記の具体例の応用であるので、メカニズムとしてはシンプルである。

 

 

観念世界の空間創造


前の記事を少し補足しておこう。実在世界なくして観念世界はないと書いた。なぜなら、観念世界に意味と価値をもとに表象を形成するには、「概念」「言語」「価値観」「論理」といった材料が必要であり、材料についての十分な理解も必要であるからだ。これらの材料と、その理解を手助けしてくれる他者は文献を含めて、自分の環境としての実在世界に存在している。観念世界は随時更新されるが、自分の知らない新しい材料は実在世界から提供を受ける。ゆえに、観念世界は実在世界から創られると言える。

そのようにして創られた観念世界に、私たちは幾つもの「空間」を想像力によって創造している。無自覚に創造しているから気づいていないだけだ。その幾つもの空間は小世界と言い換えても良いかもしれない。どのような「空間」を創造しているのかについて分析し以下に分類する。但し、空間の種類、空間の形象、空間の広さや奥行きなどについては、個人の想像力に全面依存するため個人差は非常に大きい。

 

観念世界の創造空間

1.物理的空間

三次元的な停止している空間。物理的な環境や場所を想像し、地理的な特徴、建造物、風景などを観念世界に再現する。このような想像空間は地図、風景画、建築設計などに関連する。

2.時間軸的空間

まず過去を見つめ、研究者の文献などをもとに歴史空間を想像する。その歴史の時間が経過していくなかでの物語を想像力を駆使して創造する。「今」においても時間経過の「流れ」を意識し、「今」起きている物語を推理し想像する。過去から「今」の延長上に未来に起こることを想像する。時間軸的な想像空間は、他の空間と複合的に創造されることが多い。

3.社会的空間

地球人類全体を俯瞰する空間から1対1の対人空間まで、コミュニティー内における人間関係やコミュニティー全体的な状況を把握し表現するための空間を創造する。国家や地域共同体、会社などの法人、趣味の集団、思想など価値観的集団、友人、家族などが含まれる。コミュニケーションや対人関係の想像に関連する。

4.自然環境空間

大自然の営み、気温や気圧、太陽、月、大気、海水、雲や雨、地震や台風などの自然災害、ウイルスや細菌、植物を含めたあらゆる生物、そうしたあらゆる大自然のダイナミズムを自分の環境としてとらえ空間を創造する。

5.抽象概念的空間

哲学に代表されるすべての学問における抽象的な概念を、視覚的に把握し展開し、表現するための想像空間を創造する。数学的な概念、哲学的なアイデア、科学の理論、複雑なプロセスなどを含む。例えば、このウェブサイトにおける断想記事のほとんどは、抽象概念的空間をつくり考察を展開している。

6.経済的空間

個人としては自分の仕事としての経済活動上、あるいは家計上、収入と支出や資産と負債の数値と時間経過における流れを把握し、経済的空間を想像する。或いは会社や取引先など全体の経済空間や、国家レベルの経済空間、地球レベルのグローバル経済空間、それらを推測し推定する判断によって、経済的な空間とダイナミズムを想像力と使ってあらゆる経済空間を創造する。

7.心象的空間

感情や感性によって空間を創造する。心象的な想像空間では、幸福、悲しみ、緊張などの感情や、アイデアや記憶の状態を表現する。

8.仮想空間

インターネット上でのオンラインゲームやメタバース、テキストでやりとりされるSNSなど、バーチャルリアリティーの仮想環境を想像力によって空間を創造する。ここでは仮想の場所やキャラクターを観念世界に作り出す。

9.空想空間

架空の世界やファンタジーの領域を創造する空間。既に他者によって創作された小説、制作された映画などの世界観に没入する。或いは自分の空想によって物語を創作し、空想空間を創造する。

10.宗教的空間

ひとつの宗教内で創作されている物語や宗教教義を、自分の観念世界にそのまま再現することを試みる。そうして世界観空間を創造する。信仰者はその空間が実在するということを信じる。既に創造されている世界観ではあるが、概念の言語化であるため完璧はなく、多くの欠けている部分や誤っている部分については自分の想像力によって世界観を補正する。みずから新しい宗教を立ち上げる宗教家は、自分の想像力によって既存の宗教を改変したりゼロから組み立てるなどして宗教的世界観を創造する。

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次の記事では、創造された空間における視点と視座について検討する。

 

 

実在世界が観念世界を創る


実在世界がどのように形成されるのかについては、観念世界を分析していく後半にその場面がくる。まずは観念世界がどのように生成され、形成され、変容し、主体によって活用されているのかについて考えてみる。

観念世界は、実在世界からの信号を私たち人間が受け取るところから始まる。生後、実在世界なくして観念世界はない。実在世界は、無限空間と無限時間か、またはそれに近い膨大な時空を形成している。しかし、私たち人間ひとりが直接信号を受け取り可能なのは、個々におけるその時々の「知覚空間」しかない。代表的な五感感覚だけではなく、10~20種の身体性感覚によって、実在世界の知覚空間から信号を受け取り、「感知」する。

感知だけでは何も生じない。感知から「認知」へのプロセスがある。スピードの速さに応じて、第一に「身体性感覚」による判断、第二に「直観」と心性的な「勘と感性」による判断、第三に「思考」による解釈と理解による判断が行われる。私はこの「身体性感覚」「直観」「勘と感性」「思考」の四つを、判断するための「機能」と位置付ける。思考機能には「技術」がある。

これらの機能を生かすには知識と知恵、価値観が必要である。生後まもない赤ちゃんのときから人間は、睡眠時以外、認知を常に繰り返すことで学習経験を積む。経験によって知識と知恵、価値観を獲得する。

ところで、これらの機能が何について判断するのかの種類については、9月23日の記事『「判断する」ことの種類分解』に書いた。上記の四機能については、詳細を後日、別記事に書く予定をしている。

四機能のいずれか、または重複の判断によって、実在世界のごく小さな一部である私的知覚空間の感知から認知までの知的作業が、人間の観念世界内で行われる。

以上は認知プロセスを表したもので、観念世界に一歩足を踏み入れた程度であり、ここからが観念世界の本番である。次の記事では、観念世界の100%を形成する「想像」について考えていこう。「想像」は、推測や推理、推論によって「想定」や「予想」「構想」にもなり、創造力によって「理想」「幻想」「妄想」「空想」にもなる。他者のこころを推し量るなど、共感や感情的想像にも関連する。

この想像に使われるのは、上記四機能のうち「身体性感覚」を除いた、「直観」「勘と感性」「思考」の三機能となる。

 

 

実在世界と観念世界


1.「実在世界>観念世界」

物理的な宇宙空間は、物理的な私よりもはるかに大きい。塵以下の極小である。顕微鏡を使っても存在を確認できないほど極小だ。その極小な私の中に展開している観念世界は宇宙全体のことをどれだけ知っているだろうか。1%どころか0%に限りなく近い値となるだろう。よって実在世界は観念世界よりもはるかに大きい。

2.「観念世界>実在世界」

人間の観念世界は、物理的な空間をとらえるだけではない。私は想像する。宇宙空間を想像するし、人間社会の空間で関係性や価値観地図を想像する。過去を歴史や経験から想像し、その延長上から未来を想像し、「今」の流れをつかむという時間軸空間を想像する。インターネット上で仮想空間を想像する。哲学や思想を考える際には抽象概念空間を想像する。あるいはまったくの空想の、例えば小説や映画などのコンテンツからファンタジー世界を想像する。想像は無限であるので、観念世界は実在世界よりもはるかに大きい。

3.「実在世界=観念世界」

実在世界と比較してどれほど私が極小の物理的存在で、宇宙空間のすべてをほとんど何も知らないとしても、私は観念世界で知らないということを知っている。知る知らないは基準にならない。一方、私の想像は無限であり観念世界が無限であるとしても、私は実在世界に存在する物質であり、物質から観念が生じている過程を考えれば実在世界を超えることはできない。実在世界が私に投影され、私が観念世界を実在世界に投影しているので、二つの世界は等価である。

このように視点をずらせば、実在世界と観念世界を比較すること自体、私の観念ゲームである。これが本質であることは自明ではあるけれども、これを言い始めると終着点はニヒリズムになる。せっかく生きているのだから、知的活動をいきいきとやっていこう。

実在世界と観念世界の関係を明らかにしていくとともに、観念世界の構造とダイナミズムについての原理を精緻に分析し、人間原理の全容を網羅的に体系化する。この数か月間で、青写真はできている。

 

 

 

「判断する」ことの種類分解


「判断する」とはどういうことか。判断を行うことは、人間が生きる上で最も重要な行為の一つである。判断は単なる「判る」にとどまらず「決定する」という行為を含意する。私たちは、あらゆる情報を判別し決定する。常にジャッジしているんだ。判断保留も判断に含めるとすれば、判断の連続によって生きることができていると言える。例えば、その情報は正しいのか誤りなのかとか、幾つかの選択肢を相対評価して行動や言動を決定するとか、日常全て、自分自身が判断したことによって人生が成立している。

子どもは未だ判断能力が未熟だからという理由で親の保護下にあり、自由な意思決定と行動の制限を受ける。子どもを危険から回避させ、彼らにとって安全な環境を整えるためには当然だ。では、子どもの判断能力はどのようにして向上していくのか。「判断すること」は極めて重大なテーマであるが、子どもの教育において「判断する」という概念を、いったい誰がロジカルに教えているのだろうか。教えることができる人が、たった一人でも日本に存在しているのだろうか。

最も重要な点は、判断が意志に直結するということだ。自由な意志は自由な判断からしか生成されない。意志について語るのならば、まず判断について語らねばならない。もっとも、ここでの「自由な」という形容概念については精緻な哲学的議論が必要になり、しかし、今回は「自由」には踏み込まない。

まず、”何を” “どのように”「判断する」のかについて分解してみよう。

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1.真偽判断

その情報について真実か虚偽かの判断をする。その情報以外の情報を活用し、論理的な推論と客観的な認識によって事実か否かを判断する。

2.正誤判断

因果関係を成立させるロジックが、落ち度なく形成されているかどうかを判断する。相対関係から因果関係を推論した場合に正確性はどの程度あるかを判断する。専門知識や統計データなどのエビデンスの裏付けをとる。思考技術も必要。

3.時間的判断

過去の出来事や経験に対する評価と反省を行って判断する。 未来の出来事や結果を予測し、緻密な推論の仮説を立てて判断する。未来の可能性に対して、広く開いた視野をもつこと。

4.自己価値観判断

自己の価値観基準によって主観的に判断する。身体的健康上の判断、安全と危険の判断、功利的な損得判断、道徳的判断、美的および美学的判断、信念的判断など。

5.社会価値観判断

社会の価値観基準に沿って客観的に判断する。社会利益的判断、倫理的判断、人間関係的判断、社会秩序的判断(公平や公正)、自然科学のロジックによる判断など。

6.感情的判断

感情はその時々の環境状況や身体状態によって変化する。好悪感情による判断、楽しいか気乗りがしないかの判断、他者それぞれ個々に対する愛情や友情または嫌悪感情による判断、その時の幸不幸の感情による判断、不安や恐怖感情による判断、憤怒や義憤による判断、悲哀感情による判断、他者の感情に配慮した感情判断など。

7.目的的判断

問題解決、創造、自己実現、自己成長、社会貢献、社会実現、自然環境保全などに関連して判断する。目的へ向かう動きのある判断。

8.判断保留判断

早急に判断しなければならないこと以外の場合、1~7の判断項目を検討した上で、現時点では判断を保留するという判断をおこなう。

9.意思決定判断

可能な行動オプションから適切な行動を選択し判断する。1~8を統合して意思決定し、意志へと昇華させる。

 

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以上が、「判断理論」を独創するための、現時点での「判断種類」についてのアウトライン。考え付いた概観を書いてみただけなので、まだまだ原案もいいところ。

 

 

サイト雑感


前の記事で「人類哲学の独創」についての最新MENUをアップした。MainTitleとSubTitleを決めた。構造原理における認識と表現とのあいだに「欲求」を加えた。この原理の中核は意志がどのようにして生成されるかにある。

それにしても、1年9か月ぶりに復活した断想7月24日から8月30日までの記事を再度読んでいくと、自分でいうのもなんだが充実している。概念、価値観、思考、宗教、日本の忍、物語化と神話、これらについての探究がいい感じになっている。考察したそれぞれについては、整理しながら固定ページへ移していこう。固定ページの構造も変えなくてはならないのだが、これが面倒で二の足を踏んでいる。

「人類哲学の独創」だけでなく、「私の美学建設」のほうもブラッシュアップしたい。これらは「断想」とともに、このウェブサイト内だけの創造知である。誰に読んでもらおうとも誰に理解してもらおうとも思わない。だいたい物好きの変人くらいしか読まない(読めない)ものを書いているから。ウェブサイトに記事として投稿するというのは一つの表現ではあるが、実質的には整理の意味が強い。

表現の本命は「小説の創作」である。これは「5000年後の未来の子どもたち」が想定読者であり、その内容は、「人類哲学の独創」と「私の美学建設」のすべてを小説というレトリック手法によって、《子どもたち自身が考えてゆくためのコンテンツ》として創る。要するに、「人類哲学の独創」と「私の美学建設」がある程度進まないと、小説の全体構成ができず、話を始められない。

とはいえ、そんなことではきりがない。なにしろ「人類哲学の独創」と「私の美学建設」は、構造も内容も常にブラッシュアップされていく、つまり変化し続けていくので永遠に確定することはない。私の死後も確定するものであってはならない。【永遠の未完成】として「完成」させる。やる限りは、永遠に世界一なるコンテンツを開発する。

もはや俺の体は俺のための体ではない。腹を括ろう。

そういえば、8月19日にも「サイト記事を振り返って」という雑感を書いていたなあ。月に一度くらい、既に他者となった自分が書いた1か月分を読み直すことは有意義なことのようだ。

9月は断想を20日間休んだ。途中で、毎日必ず書くという縛りはやめようと思った。自縄自縛で追われる心理になるのは馬鹿らしい。そもそもルーティンワークは大の苦手である。他のことで忙しかったり気分が乗らなかったりしたときに、無理に書く必要はない。それよりも、充実した内容の記事を書いていくこと、これに尽きる。

哲学にしても美学にしても、それを網羅的に体系化するには考えなくてはならない。つまり「思考」が必要で、思考理論の一部として思考の「技術論」を先に創るほうが良さそうだ。概念や価値観について哲学的探究をするのにも、思考の技術は欠かせない。思考技術に伴って必要になるのは判断理論。思考は解るために。判断は判るために。

雑感にしてはずいぶん重くなってしまって、今日はエッセー感ないな。

 

 

独創哲学の仮メニュー/2023年9月版


先月8月6日に作った仮メニューをブラッシュアップした。1か月半も経つと明らかに変わる。3の各種理論については暫定的な項目なので、今後、大きく変わる可能性がある。1の構造原理と2の意味原理については、ほぼ確定的。

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『人間原理論』
The Theory of Humanity

--〈哲学的探究からの独自の洞察と創造知〉--
Original Insights and Creative Wisdom from Philosophical Inquiry

1.構造原理(Structural Principles)

 (a) 認識原理論(インプット・表象・解釈・思考・直観・直感・心的勘)
   Principle of Cognition (Input, Representation, Interpretation, Thinking, Intuition, Sences, Hunch)

 (b) 欲求原理論(判断・感情・志向性・意志・欲求)
   Principle of Disire (Judgement, Emotion, Orientation, Will, Disire) 

 (c) 表現原理論(アウトプット・行動・実践・創造・社会的活動)
   Principle of Expression (Output, Action, Practice, Creation, Social activety)

2.意味原理(Principles of Meaning)

 (a) 概念原理論(イメージ・言語)
   Principle of Concept (Imagery, Language)

 (b) 価値観原理論(価値・価値観の確立原理)
   Principle of Value and Belief (Establishing Values and Beliefs)

3.各種理論(Diverse Theories)

 〇 思考理論
   Theory of Thinking

 〇 直観理論
   Theory of Intuition

 〇 判断理論
   Theory of Judgment

 〇 欲求理論
   Theory of Desire

 〇 感情理論
   Theory of Emotion

 〇 志向性理論
   Theory of Orientation

 〇 意志理論
   Theory of Will

 〇 社会関係理論
   Theory of Social Relations

 〇 思想理論
   Theory of Thought

 〇 倫理理論
   Theory of Ethics

 〇 宗教理論
   Theory of Religion

 〇 自然理論
   Theory of Nature

 〇 時間理論
   Theory of Time

 

 

「日本人」の個性(8)まとめ


断想の連作は久しぶりだった。「日本人」の個性をこの程度でまとめられるはずもなく、少なくとも1年間程度は書き続けなければ何も言っていないと同じようなものかもしれない。「断想」を免罪符に、思い付きの連続をブリコラージュ的に綴ってみただけだ。

ただ、「私の美学建設」は「人類哲学の独創」とともに私のライフワークであり生きがいでもあるので、日本の思想文化における美学を探究する「断想」は、その日のみの断想ではない。

「忍ぶ」という概念の考察も、個人的には得るものが多かった。こうして何かの概念について真剣に考え、ChatGPTにサポートしてもらいながら深く掘り下げていく知的作業は、頭脳の良いトレーニングになる。集中力と頭脳のフル回転が一種の「三昧」を生じさせている。楽しさがある。

芥川龍之介の『手巾』について書いた前の記事が、たった一人でもどこかの誰かに、「心の潤い」として届くことを願っている。

以上が、今回の「まとめ」である。(手抜き過ぎで失礼!)

 

 

「日本人」の個性(7)忍ぶー3


前の記事までは「忍ぶ」という概念を思考的に分析した。今回は、芥川龍之介の短編小説『手巾』に描かれている「しのぶ」の概念に接し、感覚的および感情的に感じてみよう。なお本作には「しのぶ」も「忍ぶ」も、一文字もない。

本作は著作権が切れており、あおぞら文庫に収録されているからインターネット上で誰でも読める。以下に、私流にあらすじを簡略して書くけれども、原作にあたるかたは十分足らずで完読できるはず。「忍ぶ」に関連する部分は原文を引用する。

 


長谷川先生は東京帝国法科大学の教授である。米国留学中にアメリカ人女性と結婚し欧州での生活経験もある。今は夫婦で日本に住んでいるが子どもはいない。夫人は日本の伝統に好意と興味を強くもっている。

ある日、長谷川先生の自宅に、一人の四十代と思える女性が訪ねてきた。名刺には西山篤子とあるが以前に会った記憶はない。彼女は長谷川先生に自己紹介をする。先生に現在教えてもらっている生徒の母ということだった。先生は彼女の子息が西山憲一郎君だと理解した。憲一郎君は、腹膜炎にかかって入院していたはずだ。見舞いに行ったこともある。しばらく連絡がなかったが、快癒したのだろうと思っていた。

先生は憲一郎君の容態について尋ねる。すると母である婦人は「はい」と応えながら、訪問した趣旨を切り出す。

「実は、今日もせがれの事で上つたのでございますが、あれもとうとう、いけませんでございました。在生中は、いろいろ先生に御厄介になりまして……病院に居りました間も、よくあれがおうはさなど致したものでございますから、お忙しからうとは存じましたが、お知らせかたがた、お礼を申上げようと思ひまして……」

先生は驚いた。しかし冷静を保ちながら婦人と対話を交わしていく。一週間前に憲一郎君は息を引き取り、昨日が初七日だったそうだ。

婦人と対話を交わしながら、妙なことに先生は気づく。

こんな対話を交換してゐる間に、先生は、意外な事実に気がついた。それは、この婦人の態度なり、挙措きよそなりが、少しも自分の息子の死を、語つてゐるらしくないと云ふ事である。眼には、涙もたまつてゐない。声も、平生の通りである。その上、口角には、微笑さへ浮んでゐる。これで、話を聞かずに、外貌だけ見てゐるとしたら、誰でも、この婦人は、家常茶飯事を語つてゐるとしか、思はなかつたのに相違ない。――先生には、これが不思議であつた。

婦人の態度は平静を保っており、ときおり笑みさえ浮かべる。息子の死に対し客観的に、まるで日常のことを語っているような振る舞いなのである。海外生活の長かった先生の体験上、外国人は身内の不幸はもとより国家元首が亡くなってもぼろぼろと涙を流して泣くのに、なぜこの婦人は泣かずに、しかもときには笑みさえ浮かべるのだろうかと不思議がった。

そうこうしているうちに、先生は手にしていた団扇を床に落としてしまい、それを拾おうとする。そのときふと婦人のほうを見る。

その時、先生の眼には、偶然、婦人の膝が見えた。膝の上には、手巾を持つた手が、のつてゐる。勿論これだけでは、発見でも何でもない。が、同時に、先生は、婦人の手が、はげしく、ふるへてゐるのに気がついた。ふるへながら、それが感情の激動を強ひて抑へようとするせゐか、膝の上の手巾を、両手で裂かないばかりにかたく、握つてゐるのに気がついた。さうして、最後に、皺くちやになつた絹の手巾が、しなやかな指の間で、さながら微風にでもふかれてゐるやうに、ぬひとりのあるふちを動かしてゐるのに気がついた。――婦人は、顔でこそ笑つてゐたが、実はさつきから、全身で泣いてゐたのである。

先生は見てはならぬものを見てしまったという敬虔な気持ちと、不思議だった婦人の態度についてようやく理解できたという気持ちがあいまって、複雑な心境だった。婦人に、感情移入する言葉がようやく先生の口から出る。

しかし婦人は最後までその態度を崩さない。

「有難うございます。が、今更、何と申しましても、かへらない事でございますから……」
 婦人は、心もち頭を下げた。晴々した顔には、依然として、ゆたかな微笑が、たたへてゐる。

********

その日の夕食時に、この出来事を先生はアメリカ人の妻に話した。妻は、それはまさに女の武士道の態度だと絶賛した。先生も満足げであった。

ある日のこと、先生は研究しているスウェーデンの劇作家の本にあった一文に引き寄せられる。そこには、外国人の婦人が、顔では微笑みながら手の中のハンカチを引き裂くようなしぐさを相手に見せている、そうした二重の演技についての批判が書かれていた。もちろんこの婦人の意図は、自分の怒りや悔しさを相手に見せつけようとしているのだろう。

西山婦人の、悲しみを隠し笑みさえ浮かべ気丈に振舞いつつ、相手には見えないところで震える手でハンカチを握りしめる所作と、上記の外国人婦人のハンカチを引き裂こうと見せつける所作と、どちらが道徳的だとかということは関係ない。これはどういうことだろうかと、先生は現象を抽象化しようとする。先生の心は少し乱され、思いに耽る。


 

拙い私のあらすじ書きについてはご勘弁いただくとして、「忍ぶ」という日本文化をよく感じられる小説だと思えるがどうだろうか。私には日本文化の「忍ぶ」を奨励したり啓蒙したりするつもりは一切ない。特に、本作では女性を題材に「忍ぶ」を扱っているが、日本人男性にも「忍ぶ」に美学を感じ実践している人も少なくないと思う。但し、現代では感情を表に出す欧米感覚の戦後文化が広まっていることもあり、「忍ぶ」ことに生きかたの美学を感じる日本人若年層はもしかしたらほぼゼロなのかもしれない。

しかし、こうして「忍ぶ」という古い日本人美学に接してみると、自然に私の心は潤う。そこに理屈はない。

最後の部分では、先生の、現象の抽象化について考えこむ複雑な心境に読者の共感をうながし、これはどういうことだろうか、このことをどのように整理したら良いのだろうかと考えさせられる工夫がある。

短編ではあるが、心に響く良い作品だと思う。

 

 

「日本人」の個性(6)忍ぶー2


日本語の「しのぶ」について考えてみよう。前の記事では中国語概念の「忍」について考察した。「忍」に、刃のような惨い心という概念を言語化した意味が紀元前の中国にあったことは、私的には貴重な発見だった。では、日本語の「しのぶ」はどのように形成されたのか。

まずは「しのぶ」の語源についてである。

この種のことを考えるために準備してある私の所有している辞書は、三省堂『新明解語源辞典』、小学館『日本語源大辞典』、ミネルヴァ書房『日本語源広辞典』、小学館『古語大辞典』、角川学芸出版『古典基礎語辞典』、冨山房『大言海』、以上6冊になる。もちろんすべて調べてみた。『古典基礎語辞典』を中心に概ね順当だろうと思われる解説が以下。

「しのぶ」には、忍ぶと偲ぶとがあり、上代では前者を「しのぶ」と発音し、後者を「しのふ」と発音した。違うのは発音だけではなく意味も、前者は「耐えて隠す」であり、後者は「ひそかに思い慕う」と全く異なるものだった。それが中古の時代(主に平安時代)に入ると、忍ぶのじっとこらえる意味と偲ぶのひそかに思い慕う意味が近似していることもあって、両者が混同され、同じ「しのぶ」として使われるようになった。

『新明解語源辞典』には、亡き人・会えない人のことを思い浮かべる(「偲ぶ」)ことと、そのつらさをじっとこらえる(「忍ぶ」)こととが意味上相通じ、平安時代に同じ「しのぶ」となったとある。

『大言海』では、「しぬぶ」を語源としているが、『古語大辞典』によれば「ぬ」の発音は江戸時代にそう発音されたこともあったとある。

『日本語源大辞典』には8通りもの語源説が提示されているが、つまるところ、「しのぶ」という発音の言葉の起原は明確にはならないということだろう。

整理すると、上代(奈良時代)には「しのぶ」と「しのふ」があり、中国から輸入された「忍」という概念の影響もあり、平安時代には「しのぶ」に統一され、漢字表記を「忍ぶ」としたという流れになる。「しのぶ」という日本語の語義語感には「忍ぶ」と「偲ぶ」の意味が混合された。すなわち(1)気持ちを抑える。痛切な感情を表さないようにする。(2)動作を目立たないようにする。隠れたりして人目を避ける。(3)我慢する。忍耐する。(『日本語源大辞典』)という概念群を言語化表現するようになった。同辞典には注意書きがあり、(3)の外部からの働きかけに耐える意味は和語には本来なく、漢語「忍」の意味が次第に浸透していったと考えられるとある。

いずれにしても、古代中国にあった「忍」の「むごい心」という語義語感は日本語にはない。残忍・惨忍という熟語は日本でも使用されるが、その「忍」の意味については、日本では特殊だといえる。

次の記事では、日本語の「しのぶ」という概念がよくあらわれている文学作品を味読してみよう。

 

 

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