大衆の克服(4)―エリートの定義変更


前の記事からのつづき。

「大衆の隷属根性の克服」をテーマとする考察を今回もとりあげる。

その前に。

A.大衆

B.エリート

大衆批判については、上記の二つの枠組みで、BからAに対し「隷属根性」を批判されることがほとんどだ。本ブログのスタンスとしては、A+B=Cの全体的俯瞰視点から、自らもAであることを念頭に置きつつ書いてきた。

『愚民社会』という書で、宮台真司さんはAを「田吾作」と呼び、大塚英志さんはAを「土人」と呼び、B側からAを侮蔑している。宮台さんは「エリートが大衆をリードする社会が良い」というふうに、自分の社会思想を隠さず主張しているが、それはそれで意見の一つとして良いと私は受け容れている。

エリート主義についての是非は文末に少し触れる。プラトンの「哲人政治」も範疇に入ってくるし、何をもってエリートと定義するのかから始めなくてはならない。膨大なテーマであるし、「エリート」にそれほど興味をそそられないので深くは書けない。

 

以下、大衆批判(隷属根性批判)について、オルテガ、ニーチェ、安岡正篤先生の著書から引用する。

 

社会はつねに、少数者と大衆という、二つの要素の動的な統一体である。少数者は、特別有能な、個人または個人の集団である。大衆とは、格別、資質に恵まれない人々の集合である。

だから、大衆ということばを、たんに、また主として、≪労働大衆≫という意味に解してはならない。大衆とは≪平均人≫である。それゆえ、たんに量的だったもの―群衆―が、質的な特性をもったものに変わる。すなわち、それは、質に共通すにするものであり、社会の無宿者であり、他人から自分を区別するのではなく、共通の型をみずから繰り返す人間である。

(中略)

現時の特徴は、凡庸な精神が、自己の凡庸であることを承知のうえで、大胆にも凡庸なるものの権利を確認し、これをあらゆる場所に押しつけようとする点にある。

(オルテガ著『大衆の反逆』)

 

もっとも卑しいと見なされるのは、易々として人の意を迎える者、すぐ仰向けに寝転がる犬のような卑屈な人間。

(中略)

我欲が憎悪さえ覚える程に嫌悪するのは、決してわが身を防衛しようとしない者、浴びせられた毒ある唾や悪意の眼差しをも、黙って呑み込んでしまう者、どこまでも我慢強い者、すべてに耐え、すべてに満足する者だ。これこそ奴隷の性(さが)なのだ。

(中略)

へし折られ、ぺこぺこ頭を下げる者、仕方なくまばたきをして見せる目、抑えつけられた心、そして平べったい臆病な唇で口づけをするあの心にもない譲歩の仕方、これら一切を、幸福な我欲は下劣と呼ぶ。

またそれは、奴隷や老いぼれや疲労者が、まことしやかに語る一切を浅知恵と呼ぶ。

(ニーチェ著『ツァラトゥストラはこう語った』 三つの悪)

 

むしろ世の中が大衆化すればする程、その大衆のためにエリートが必要である。必要なばかりでなく、益々エリートが出て来る。

なんとなれば大衆というものは政治性・政治能力というものを持たない。大衆はその場その場、その日その日の自分の生活そのものに生きておる。

他人や全体との関係、或いは十年百年先の問題等に対する感覚もなければ思想もない。だから大衆をそのままに放任しておけば、その社会は大衆心理というものによって動物的になるばかりでなく、あらゆる闘争・破壊・頽廃の中に落ち込んでしまう。

その大衆のために秩序を立て、規律を作って、大衆を混乱や破壊から救い、新しい価値・光明のある人間社会を建設してゆく、そういうエリートがなければならない。

(安岡正篤著『日本の伝統精神』)

 

三者三様の大衆批判である。

「こういう言いかたされると嫌だなあ」と思うのは当然だと思う。

彼らは俗にいう、「上から目線」だ。

現代社会で「上から目線」は嫌われるが、嫌うだけで、上から目線に真っ向から反発し喧嘩を吹っ掛ける、気骨・反骨精神のある個人を最近目にしなくなっているのも事実だ。他方、上から目線で他人を寛容することは、子どもを育てた親や部下を育てた上司を経験した者ならば誰でも持つ視点であろうし、悪いことばかりではない。たんに上から目線を嫌がるのは、奴隷根性の卑屈な精神が混ざっているからという場合もある。

私はこの三人には、特にニーチェと安岡先生には特別の敬意をはらって学ばせていただいているが、「そうじゃないだろ!」と反発するところは反発する。「信者」になればそれこそ畜群・隷属になってしまう。

感情を排して読めば(エリート目線であることを無視して読めば)、上記の内容に部分的に同意できる点が多々ある。

前の記事にも書いたけれど、隷従しひれ伏す人は、同時に、見下し支配する人でもある。支配的地位にいるような人でも、人を見下すような人(例えばエリート意識の強い人)は、力関係でより強い人に必ず隷従しているはずだ。卑しき隷属根性には、エリートと大衆の差は無く、或いはエリートほどその意識が強いのかもしれない。

三者三様の批判の中から、何かヒントをつかめそうな気もする。

 

ここで、日本の政界と大衆の関係を例にとってみよう。

上述のようなレベルの低い大衆がマジョリティーとなって政治家を選ぶ、民主政治のポピュリズムが悪い作用を及ぼしていると思える現代社会。大衆の顔色をたえずうかがいながらパフォーマンスを演じる政治家俳優たちが席巻しているという事実。

当事者意識の薄い観客である大衆が支持し生み出した政治家であるから、安倍内閣を批判するのは天に唾するようなものである一方、自民党内にも野党にも安倍総理の代わりとなれる政治家は一人もいない。或いは見えない。

これは日本だけの問題ではなく、トランプとヒラリーをのどちらかを選べと問われたアメリカ大統領選、いま行われているフランスの大統領選にしても同様ではなかろうか。

ゲームのトランプのカードで言えば、エースやキング、クイーン、ジャックに値する候補者は一人もなく、3~5あたりのカードを並べられてここから選べというようなものだ。

 

大衆がエリートと思われる人を選んだ結果が、今の現代社会である。

しかし、エリートは心魂が穢れている者ばかりかと言えばそうではないだろう。

何をもってエリートとするかについて、今までほとんどの場合、「知」や「能力」「経験」の表層、表に明らかになっていることのみをみて判断されてきた。

これからの時代は、その人間の本性・性根であるとか、心魂といった一人間の根源的価値を中心に、高貴な人であるかどうかを見極めていく方向へ向かうべきであろう。それはもちろん知性の否定であってはならないが、今までの「知」の地位を、「智恵」を経て「叡知」へと昇格させていくことが一つのテーマになるのではあるまいか。

 

大衆とエリートに振り分けて考えることは従来形式の一つの視点ではあるが、社会全体、社会を構成する国民全体を大衆としてとらえることも別の一つの視点として有効であると思う。つまりエリートも大衆なのだ。

自分を含めた現代人すべての畜群性、隷属性、当事者意識の希薄性等について、克服するにはどうしたら良いかを考えつづけ行動へ移していきたい。

 

 

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