千の顔と一つの顔


広辞苑で「洗脳」ということばを引く。新しい思想を繰り返し教え込んで、それまでの思想を改めさせること。とある。では「思想」も引いてみよう。哲学の[thought] に対する和製漢語として成立しているのでその部分を引く。判断以前の単なる直観の立場に止まらず、このような直観内容に論理的反省を加えて出来上がった思惟の結果。思考内容。特に、体系的にまとまったものをいう。とある。大辞林と大辞泉を引いても同様な内容で、留意すべき点は、社会的・政治的な見解を表すことが多い。とある。

私なりに簡略すると、思想とは、世界を解釈する原理として、無数の価値観を一つに統合し体系づけられた価値基準。とでも言おうか。世界のすべてをこの価値基準に基づいて評価する。洗脳という言葉に潜む悪い語感を一旦排除して言うならば、宗教はカルトに限らず常に、信仰者を洗脳することが本質だろう。ここで起きているのは、無数の価値観を固定化するハッキングである。価値観がハックされる。繰り返し教え込むことで成し得る。一旦完全にハックされてしまうと、元通りの価値観をとり戻すことは難しくなる。

実は、宗教の洗脳のみならず私たちは日常的に、無数の価値観のうち一部にたいし、ハックのチャレンジを受けている。例えばテレビCM。例えばマスメディア。例えばTwitterなどに流される「大きな声」「マジョリティーを装う声」。何度も何日間も繰り返し同じ情報や類似情報が流され、脳内の価値観を侵食してゆく。その思想上での「良い、悪い」を、永遠不変の「良い、悪い」のように思いこんでしまう。

唯一つの思想は、一つの顔しかもたない。

もしかすると人間は習性として、唯一つの思想への価値観収斂を自然欲求するのかもしれない。これは今後の研究課題だ。多くの日本人のおもしろいところは、神道、仏教、儒教、道教の思想が混在となった世界を受け容れている精神性にある。つまり、その時々で世界の解釈を変えることが可能なわけだ。もちろん日本人のなかにも唯一つの思想を頑強に信じる人もいる。しかし思想混在型の人が日本には多いように私は感じる。

思想混在型では、それぞれの思想の価値観が自分のなかでぶつかり合い、無数の解釈と判断が可能になる。あくまでこれは自分の外部にある世界解釈であって、自分の生きかた、信条や個人的規範とは異なることに留意しておこう。

思想混在型の人は、千の顔をもつ。

一つの顔と千の顔を相対比較し、どちらが良いか悪いかを問うものではない。ただ、千の顔に慣れた人を、唯一つの思想に洗脳することは不可能に近いだろうと思う。

価値観の原理についての考えを深めることは、人間のさまざまな営為において有利になるが、悪用も可能となってしまうので取扱注意である。

 

 

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