「自我」と「己」、「みずから」と「おのずから」


 

鳥の人モード

「自ら」と書いて、「みずから」とも読みますし「おのずから」とも読みます。漢字が同じなので意味も同じように思えますが、まったく異なっており正反対とも言える視点というか現れかたなんですよねえ。

「みずから」は「身つから」、「おのずから」は「己つから」が語源だそうです。これを頭に入れながら心の仕組みのことを少し考えてみます。

 


 

(心の図 1)

人の心は複雑で図で表せるほど単純でないのは承知の上で書きます。心の図1は球形だと思ってください。グレーの部分が自分の外側の世界、赤の部分が自分の世界で心。ふつう私たちは赤のことを「私」と呼びます。

 

 

 

(心の図 2)

さて次の心の図2です。この赤い球形を縦に切って内部構造を見てみると、赤の部分は外側の卵の殻のような薄い部分で、内部ではぎっしりと黒い領域が占めています。仮に、赤の部分を「表層自我」と呼び、黒の部分を「深層自我」と呼ぶことにします。通常は表層自我は深層自我のことを知りません。言葉を変えれば赤は意識、黒は無意識(潜在意識)です。たまに自分の深層自我が現れてくるのを表層自我が感じ取れることがあります。「あれ?なんで私はあんな言動をとってしまったんだろう」とか、「魔が差した」とか、「急にアイデアが閃いた」とか、なぜか左足右足を交互に出して歩いているとか、習い性によって自動的に動いていることなど、みんな体験してると思うんですけどどうですか。

赤の部分は大脳新皮質と言ってよいかもしれません。黒の部分はそれ以外の脳全部、顔も手足も内臓も血管も、新皮質以外の身体全部の「生」が黒の部分にあるとします。

 

(心の図 3)

表層自我(赤)も深層自我(黒)も、あとからくっついてきたモノですから、くっついてくる前の純粋無垢な何かがあるはずだと考えることができます。それが図3の中央にある白い部分で、これを仮に「純粋な己」と呼ぶことにしましょう。この純粋な己って万人共通っていうふうに考えることもできますよね。そうすると万人共通なのに、なんでたまたま私がこの純粋無垢な部分に宿ったんだろう、確かめることもできない純粋な己ってなんだろうという疑問が湧いてきます。

 

(心の図 4)

じゃあ、今からでも表層自我と深層自我をとっぱらってしまえば、純粋無垢な己だけで世界を見ることができるはずだと考えた人がいました。お釈迦さんですね。これを「正見」と言ったわけです。そうすると自分は中身も全部真っ白の球形になることができると。禅宗に『十牛図』というのがあるのですが、そこでは牛の尻尾が本来の己の一部だと言っているので、黒(牛)と赤が仲良しになり一体化することで真っ白になれるイメージでしょうか。それってユング心理学の光と影の統合に似てるんです。ユングは真っ白を目指さなかったけど。

 

 

(心の図 5)

すると今までグレーに見えていた外部の世界も白くなって一体化してしまう。自分=世界だということになるのではないかと。これが仏教の悟りの考えかただと私は思っているんですが、「そんな単純なもんじゃねえんだよ!」と怒られそうですね。図5となったところで、また世の中の価値を取り込みますから、すぐに深層自我や表層自我がくっついてくる。またやり直しと、円環的にこれを繰り返しているのが高僧と呼ばれる人なのか。わかりませんけども。

 

さて、じゃあ、「私」とはどれのことを指しているのでしょうか。図1なのか、図2全体なのか、図3の純粋な己を本来の私だと思っているかもしれません。単層決定論なのか重層論なのか人それぞれなのでしょう。

でも、そもそも表層自我でしか私たちは世界を感覚できず、思考することもできずと考えるのが一般的です。仮に白の玉の純粋な己が私の本質だ!と思っても、赤がそう思ってるだけですね。もし悟って赤も黒もなくなって図4になったとしたら、歩くことも食べることも話をすることもできなくなりますよね、自動車が危険だと知らずすぐに死んでしまいそうです。理論的には。迷宮ですが、上記はすべて「仮説」ですので理論を超越しても許されるのではないかとも思います。人間が論理づけること以上の、どれほど人間の知能が発達しても未解決のレベルがあると私は思っています。

ニーチェは図2の深層自我に気づいて、黒い部分こそが私の本性だとした。これが西洋の「無意識の発見」の論理的端緒となった。それまで西洋では赤の表層自我だけしかなくて、赤が万能でなんでもできる、自分のすべてをコントロールできると考えてきたのです。二―チェは赤みたいな薄っぺらい自我で、自分すべてのコントロールなんてできやしないんだと主張しました。

ユングはこれを発展させて図3とし、赤黒白全部を含めて「自己」としました。他方、仏教でも浄土宗において親鸞は、黒の部分こそ本性だとして民に布教し悪人正機だから安心しなさいと諭しました。おそらく親鸞自身は図3以降の心得があったと思いますが、彼は僧の「職」(プロフェショナル)に徹したのだと私は考えています。(浄土真宗という呼称ができたのは親鸞没後で、親鸞自身は法然の浄土宗信徒です)

 


 

(心の図 6)

さて、私はと言えば、どれが「私」なのかは言語の問題なのでけっこうどうでもよくて、仕組みのほうにずっと興味があるのです。白の純粋無垢な己が本当にあるのだろうかと、あってもなくてもわからないのですが、それよりも、己の本質自体が変化し続けていると考えたいタイプです。それが図6です。ちょっと大きくブルーにしてみました。

赤の表層自我も黒の深層自我もすべて受け容れて、なくならなくていいし、なくそうとも思わない。その代わりに中央の変化する「己」がなんとなくいい感じになっていくといいなあと。私自身の個人のことを言えば、すべてをブルーの己に任せ、赤と黒の自我で自分をコントロールしようとするのは爪の先ほどもなく、完全に、きっぱりと、諦めています。(苦笑)

自分の自我で自分全体を律する、正す、自分と格闘する、という発想が私にはありません。自分の内面の調整はすべてブルーの「己」に委ねています。というのも、長いこと生きた経験上で、私にはこのスタイルが一番合っていると得心したからです。

 

冒頭の「自ら」に戻りますが、「みずから」は表層自我の赤からの意識的な自我の発動です。きわめて西洋近代的な自我だと思います。そして「おのずから」が、中央の変化する「己」から、まず黒全体にそれが反映し、黒が赤を動かすイメージになります。「己」には意志や意識はなく、釈迦が言ったように外部世界の表象を正見によって純粋に見ることもできず、なんといったらいいんだろう、オーラみたいな、そういう影響を心全体に与えているイメージです。

「おのずから」の考えかたは日本独特のものらしく、次の投稿記事になるかどうかはわかりませんけども、愛読書のうちの一冊、相良亨(倫理学者 1921-2000)著 『日本人論』 から引用しつつ、もう一度イメージし直してみようかなと思っています。想像が膨らむ楽しい時間です。

 

 

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