人生意義のセオリー(4)自己実現


 

鳥の人モード

前の記事 からのつづきです。

人生の意義は、「志」「野望」を達成すること、または、その目的に向かって歩み続けることで最大化されます。敢えて「野望」という刺激的な言葉を使っていますが、耳障りの良い言葉で言えば自己実現です。私的欲求とその現実化です。

「自己実現」という言葉は、現代日本の世俗の手垢がつき過ぎ陳腐化している感があり避けていたのですが、今日のこの記事では自己実現のほうを使用してみます。まず前の記事でのチャートを再掲します。

人生の意義に「志」と「野望」を書き添えているのは、どちらか一方ではなく、どちらもという「両立」の意味です。なぜ「志」だけでは駄目で「自己実現」が必要なのかを論理的に明確にしたい。

 


 

1.公的な「志」と私的な「自己実現」

「志」とは例えば「戦争のない世の中にする」「世界中の人たちが感動する映画を作る」「全ての癌を治せるようにする」など。

「自己実現」を上記の事がらにミートすると「世界平和に貢献したことによってノーベル賞の受賞者になる」「世界最高の映画監督になる」「癌の治癒薬を開発したことで後世に名を残す」などになります。

言語の定義や語感は人によって若干異なるかもしれませんが、私は「志」を私心のない公的なこととし、「自己実現」を敢えて角度のついた言葉でいうのならば、エゴイズムに基づく私的欲求の実現と考えています。

 

2.「志」は同志を集める

志を抱き達成を目指して歩んでいると、低い確率ですが同志とめぐりあって志を共有しコラボレーション(協働)的に動けるようになることがあります。但し、人と人は全く同じ価値観や感情をもつ人格にはなることはできません。背景に抱えること(家族の事情など)も異なり、変節は日常茶飯事ですし、死ぬまで同志であることは稀だと思います。

どれほど高い志を抱きそれを世に訴えても、多くの人は「立派なことをしてますね、頑張ってください」と励ましはすれども、同志以外の人は自分のことで手いっぱいで、けっして汗を流そうとせずお金の寄付がせいぜいでしょう。

 

3.「自己実現」はファンを集める

もしテニスプレイヤーの大坂なおみ選手が「私は世の中の人に感動を与えるためにテニスをやっている」と言い、これが第一義だとしたらどうでしょう。ちょっと白けた感じになりませんか。

「私はグランドスラムの優勝者になる」「世界一の女子テニスプレイヤーになる」という個人的な自己実現の目標があって、そこに向かって厳しい練習にも耐え、精神的圧力にも耐え、わが道を突き進んでいるのですよね、彼女は。

そうすると「大坂なおみ選手に世界一の女子テニスプレイヤーになってほしい」というファンが生まれます。「テニスを通じて世界中の人々に感動を与える」との「志」であれば、そう多くのファンは生まれないとは思いませんか。

 

4.水清ければ魚棲まず

人間の本性(ほんせい)は生きることです。生物の本性も同じです。他人が死んでも自分だけは生きのびたい(子どもや最愛の人は別としても)。自分のエゴイズムを真正面から見つめると世界のいろいろなことが見えてきます。

スポーツの優勝は他の全選手の敗北を意味します。他の選手を押しのけ倒して頂点を目指すのがスポーツです。一人だけの生き残りです。そのスポーツに人々は熱狂する。原初的な感情が揺さぶられる。

そして応援する選手の自己実現を自分の自己実現に重ね合わせる心理がはたらきます。それがナショナリティに基づくならば、ナショナルの一員である自分が誇らしい。自分のバックボーンが肯定的評価を受けることによって自分が肯定されたように感じとる。ごく普通の心理ですね。

元来、人間の本性の一部にはエゴイズムがある。

他者の自己実現が、自分のエゴイズムの代替となって刺激を受ける。ファンになって応援する。ヨーロッパのサッカーチームのサポーターには自分の人生を賭けて応援している人が大勢います。もちろん嫉妬感情の刺激もありますのでアンチも当然生まれます。自己実現の道を敢然と歩めばファンもできるが敵もできる。敵をつくることから逃れるすべはありません。

エゴイズムのないところには、なかなかファンは生まれないものです。この人の自己実現のためなら自分が汗を流そう、そうしたくなる。「水清ければ魚棲まず」です。

「志」は他者の理性に訴える。「自己実現」へ向かって頑張る姿は他者の感情を揺さぶる。

 

5.「少年よ、野望を抱け」が正しい

クラーク博士の名言に「少年よ、大志を抱け」とありますが、日本人の大人の手が入った誤訳だと思います。Boys, be ambitious の「ambitious」「野心的な」です。

思うに、クラーク博士は野心が人間のエネルギーの根源になりやすく、多くの人々に応援されることをよく知っていたのではないかと。利己心なき公的な「志」は確かに美しく善です。直接的な社会貢献です。けれど、はたして少年は心の底から納得するでしょうか。それで納得して自己実現を考えない少年は好ましい少年でしょうか。親ならば我が子に「自分のために生きて欲しい」と願いませんか。

人は成熟し中高年に入ってくると野心が徐々に薄れてゆくものです。自分自身の「自己実現」に対する欲求が減っていく。私もそうです。自分にはもう難しいという意識もはたらくのでしょう。しかし「志」のほうは持ち続ける人は終生持ち続ける。自己実現よりも志のほうが高貴に思える。だから、利己主義はだめだ、公的に善いことを「志」とせよ、私心を捨てよと、枯れた中高年者が子どもや若者にこれを押しつけているのかもしれませんね。

 


 

現代の日本は全ての子どもや若者に優等生を求めます。他人を傷つけないように、傲慢にならないように、偏見を持たないように、寛容な理解者であるようにと、してはならないことがいっぱいで不自由極まりなく、一度の失敗で負け組の烙印を押される世相への恐怖心は相当なプレッシャーでしょう。インターネットで汚点は拡散され永久に残り続ける恐怖もある。そしてその道を歩むことは、その道とは異なる道をゆく人に対する批判者になってしまうということです。これではますます生き辛い閉塞的な社会になってしまうのではないでしょうか。

シャネルのオーデトワレ系ブランドの一つに「エゴイスト」があります。確か90年代に誕生した男性用なのですが、このようにエッジの効いたネーミングは日本ではまず無理でしょう。

「エゴイスト? いいじゃないか!」‥この風潮が日本にも育つといいなと思っています。

 

清らかな「志」が必要ないということではありません。「志」は必要です。「志」とは正反対の、脂ぎったエゴイズムに裏打ちされた「自己実現」の欲求を、「志」と両立、連動させることで大きなパワーアップが望める、というのが今日の記事の主張です。

 

つづく。