共同体としての家族


「家族ってなんですか?」

と問われたらあなたは何と答えるのでしょうか。

この質問は国会議員さんにぶつけてみたいところです。どのように答えるかでその議員の、共同体にかんする基本的な価値観がわかるような気がします。

家族は共同体の最小単位です。

 

天下国家を語るのは案外簡単なのかもしれない。家族を語るほうが意外に難度が高いように思うのは私だけでしょうか。

「家族とは〇〇だ」というふうに、一語で文学的表現で断じるのは、それがとても格好の良い表現であっても、あまりに乱暴ではないかと思う。

多くの人は、家族の「価値」に照準を合わせて語るのではないだろうか。

もっと言えば、家族であることの合理的な良さ、功利的な良さ(心情含む)、平たく言えば「家族があるとこんないいことがあるよ」という側面についてです。デメリットも同時に語られるかもしれない。

生物学的な価値について語る人も少ないだろうけどいるに違いない。

 

「価値」以外についてはどうだろう。

例えば、私を「家族」という概念へ置き換えてみる。

私の中には、「その一味」の人間やらペットらが動き回っている。喜んだり怒ったり、憎しみ合ったり楽しみ合ったり、なんだかいろいろに動くので私(家族)のすがたも多様に変化する。

私の中の誰かが、私を指さして「家族とはこういうものだ」と言ったとしよう。それで私はどうなるか、どうにもならない。人間の言葉によって私のすがたがもし仮に決まるとすれば、中にいる人たちは「決定された私のすがた」のなかで窮屈に動きが取れなくなるだろう。私としても、つまらない(苦笑)

私は何を言いたいのだろう。

「家族とはこうだ」とか、「家族の良さと悪さはこういう面だ」だとか、「こういう家族を目指そう」だとか、もちろんそれは有っても差し支えないけれど、より優先されるべきは「すがた」のダイナミズムではないだろうか。

 

家族という共同体について考えることはそのまま、会社、国家、地域共同体、グループ、地球人類、あらゆる共同体について考えることの基本になるのではないでしょうか。

「井の中の蛙、大海を知らず」という、誰もが知っている言葉がありますけれども、大海は横に措きます。中に住む蛙たちが井戸をガチガチに固めてしまいました。それが井戸のあるべき姿だとして。しかし、もうこの井戸は形状を変えることはないという固定観念を棄て、蛙たちの動きによって井戸の形状が様々な形や大きさに融通無碍に変化するとしたらどうでしょうか。

井戸そのもののダイナミズムが生まれます。

無秩序では井戸の役目を果たせなくなります。秩序は、井戸の最も外側を覆う、柔軟性に富んでなおかつ決して破れない薄い膜として必要不可欠です。この薄い膜こそが、家族の規範であり、国家の規範であります。

他方では、井戸の中の酸素はどうだろうとか、水分は、気圧は、栄養はというふうに、内部構成員に与える井戸環境をどのようにしていくのかについても、大きなテーマになります。

家族とは、自分の心の中にあって、かつ、自分がその中にもいる井戸である。「日本」という国家観念も井戸である。会社も井戸だ。いろんな井戸に複合的に、しかも同時的に自分は存在しています。もうこうなると「井戸」という表現の画像・映像では喩えられなくなりますが。

 

もちろん上記の考察は家族の一面を語ったに過ぎません。

 

合理性や功利性ばかりに目が行く現代的価値観では、ものごとを目的的に考えすぎるきらいがあって、「なにが得か、なにが損をしないことなのか」という低レベルの計算高さでしか家族を捉えられないとすれば、それは、とても不幸なことだと私は思う。

重ね重ねになりますが今日の論考は「家族とはなんだろう」のごく一部であって、家族を構成する人たち(&ペットたち)の主観からの「家族」についても触れていません。けれど、こちらは案外考えやすいと思います。構成する個にとっての「家族(井戸)」との関係、中にいる構成員との相互関係、調和、絆、いろいろあると思います。

最も大切なのは、「家族になるとこんなに良いことがたくさんあるよ」といった推奨や啓蒙ではなく、「家族をつくるには経済的にこれくらいかかる」「子育てや夫婦関係の精神的負担が大変だよね」といったリスクマネジメントでもなく、学校教育でも社会でも教わることのない「家族ってなんだろう」を、おとなも子どもも一緒になって深く考え、建設的議論を行っていくことではないかというのが本記事での私の主張です。

 

家族に希望がありますように。

 

 

 

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