元旦にあたっての幸福論


 

光の人モード

幸福であることが他人に対しても義務であることは、十分に言われていない。幸福である人以外には愛される人はいない、とは至言である。しかし、この褒美が正当なものであり当然なものであることは忘れられている。不幸や倦怠や絶望が、われわれすべての呼吸している空気のなかにあるからだ。そこでわれわれは瘴気(しょうき)に耐え、精力的な手本を示していわば共同生活を浄化する人々に対し、感謝と戦士の栄冠をささげる義務がある。それゆえに、愛のうちには幸福たらんとの誓い以上に奥深いものはなにもない。自分の愛する人たちの倦怠や悲しみや不幸以上に、克服しがたいものがあろうか。男も女も、そのすべてが絶えずこう考えるべきであろう。

つまり、幸福というものは、といっても自分のために獲得する幸福のことだが、もっとも美しく、そしてもっとも寛大な捧げものである、と。

(白水社 アラン著作集2『幸福論』 p278)

 

アランは感情は周囲へ伝染するものだと言います。憎悪の感情も幸福の感情も伝染するものであると。ゆえに、愛する人や周囲の人たちを幸福にしたいのならば、幸福を捧げたいのであれば、みずからが幸福になることは義務なのだと。

幸福とは心が満たされることだという広義の意味では、『老子』の「足るを知る」がそうなのかもしれない。しかし足るを知ったところで自己満足の域を出るものではなく未来への希望とはならない。老子のこの言葉は戒めの金言です。

幸福という名詞を「停止した状態」のごとく西洋風に使うよりも、私たち日本人は「幸せになる」や「幸せな気持ちになる」という心の動きを幸福という言葉の語感に感じとるのではないでしょうか。

そこには必ず比較対象となる過去の自分のこころがあって、知らず知らずのうちに相対化して幸せの感情を創りだしているのです。

アランの幸福論にそって言うのならば、私のこころは昨日よりも幸せでなければならない。いや、昨日よりも幸せであろうとする、その命運はみずからの主体性にあるのです。他の誰かが、社会が、白馬に乗った王子さまが突然現れて自分を幸せにしてくれるのではない。もし仮に偶然宝くじに当たったとしても、それはホンモノの幸せではない。

 

元旦にあたって私がまず手に取ったのはアランの幸福論でした。

多くの人が元旦には気分を一新し新年の誓いを立てたりする。今年はこうしようああしようと、自分の心のなかから湧き上がってくる志に前を向こうとする。ところが去年も同じではなかったかという疑惑が生じてきます。いったい去年の今日のあの志はどうしたのかと内省する。

アランは幸福になることは義務であり、「礼儀」だとも言います。

礼儀の優雅さはダンスのようなもので、一朝一夕にして礼儀を身に着けることはできない。習慣化してこそ礼儀を身に着けることができる。人が見ていない自分一人だけのときにこそ礼儀が試されると。

日本伝統の「カタチ(形)・型・作法」を大切にする文化には、アランの幸福論に通底するものがあることに気づきます。優雅な型の習慣化が礼儀となり、みずからの心に美しさをはぐくみ、愛する人へのもっとも寛大な捧げものになる。

 

昨年にはなかった「新しい型」を、今日より実践し習慣化していこうという新しい試みが、私のささやかな新年の決意であるとともに、みずからへの希望となりました。

皆さまにおかれましては、本年が幸多き一年となりますように。

 

平成三十年 元旦

 

 

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