存在論の解決へ


最近では物理学者が「時間は存在しない」と言っているし、「世界は存在しない」と言った哲学者もいるし、科学者の多数派のなかでは「自由意志は存在しない」というのが定説になっているらしい。

哲学には古くから「存在論」がテーマとしてある。近代ではハイデガーが有名ではあるが、彼の著書『存在と時間』は未完に終わった。「存在論」にかんしては解明できたとは言えないという評価が一般的だ。

ところで、「~とは何か?」といういかにも哲学的であるような問いの「~」に抽象概念名詞を入れ、それを言語で説明することは、問答自体が誤りだということを私は何度も主張している。わざわざ難しい複雑な論理をつくり、一般の人々をけむに巻くような問答というほかない。この論理については、今後明らかにする『概念原理論』のなかで詳しく書こうと思っている。私の頭の中では概念原理論のロジックについての青写真が描かれている。その青写真を言語にすることが面倒なのだが。

端的に言えば「存在とは何か」という問いは誤りだということである。これは「幸福とは何か」「哲学とは何か」「自由とは何か」などにも同様のことがいえる。名詞を入れて成立するのは、例えば「りんごとは何か」などである。

では、存在論についてはどう考えれば良いかというと、「ある(在る、有る)」とはどういう状態のことを言うのか、である。哲学的に考えるということは、難しく考えることではない。できるだけシンプルに考え、シンプルな美しい解答を出すということであり、数学に似ている。デカルトやスピノザにしても著名な哲学者に数学者出身が多いのはそのためかもしれない。数学は数字と記号を使った精緻な論理であるから。ハイデガーも《sein》「ある」(英語では《be》の語感が近い)とはどういうことかを考えた。

「ある」がどういう状態なのかについて考えるには、まず、【どこに】「ある」のかをはっきりさせよう。実在世界に物質として具象が「ある」状態の場合はわかりやすい。例えばりんごのように。ところが「時間」「世界」「自由意志」は物質ではない。人間の観念上に描かれる抽象概念である。つまり、観念世界に「ある」。では、どのような状態で「ある」のか。この考察の本質としては、どのような状態の概念の一面を、我々は「ある」と言語化しているのか、となる。

冒頭の「~は存在しない」などとけむに巻くような言葉について言えば、「時間はない」「世界はない」「自由意志はない」というシンプルな表現を使えば良い。シンプルにすることによって日本語が活躍できる。時間(世界、自由意志)という〈もの〉がないのではなく〈こと〉がないという思考の展開へと発展する。

10月1日からの4日間に断想記事で述べてきた内容に当てはめれば、「存在論」の半分以上は解決したようなものである。残りは、今回の「実在世界と観念世界」の理論の最終盤に書く予定をしている「観念世界が実在世界を創る」を加えることによって、「ある」の全容について明らかにできると思う。

 

 

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