
日本の最高峰の議会である国会では、連日のように非建設的なワイドショー的話題に多くの時間が割かれていますが、いい加減にしてほしいと思います。
そのなかで出てきた「教育勅語」のお話。
稲田防衛大臣はどうやら、「教育勅語を復活させて道義国家を目指すべき」というふうに考えているようです。私的には、国難の際には天皇の臣下として皇道を守れという文言は憲法違反ではないのかなと思っておりますが、それ以外はごく普通のことで、教育勅語に頼らなくても学校や家庭で教えていることではないのでしょうか。
道義国家を目指すべきという個人的思想は自由だと思います。
道義国家は特に悪いことでもないですが、内容はほぼ朱子学と言ってよいと思います。朱子学は儒教の中でも保守的、封建的傾向があります。その是非は横に措くとして。
でもね、なさけないです。
戦前の教育勅語の精神を取り戻すとか、なんの進化も工夫もない。
佐藤一斎は『言志四録』で次のように述べています。
道は固(もと)より活(い)き、学も亦(また)活く。儒者の経解において、釘牢縄縛(ていろうじょうばく)して、道と学をあわせて幾(ほとん)ど死せしむ。須(すべか)らく其の釘を抜き、其の縛を解き、蘇回するを得せしめて可なるべし。(『言志後録102』)
※経解 経書の解釈
簡単に意訳してみます。
過去に先賢が記した書物や言葉を解釈する際、せっかくの活きた智恵であるのに、それを釘づけにして鵜吞みにし、縛りつけるようでは偉大な道も学問も死んでしまう。先賢の智恵の固定化を解放し、自ら堅くなった頭を解放し、応用しようと自らの智恵を使って努力する。そうすることで初めて先賢の智恵が現代によみがえる。
稲田さんが道義国家を目指すと言うのならば、道義の大家たる佐藤一斎に習わないでどうするんですかと言いたい。
「教育勅語の精神を取り戻す」などということは道義の教えに反します。佐藤一斎に習うのならば、先賢の智恵(教育勅語)を縛りから解放し、現代の価値観を考慮したうえで未来の社会を想像しつつ、変革していかなくてはならない。そうして初めて教育勅語が活かされるということではないでしょうか。