今日は新しく作った「桜の人モード」で書きます。
昨日の記事で私は、捨て身の覚悟でと書きました。大袈裟に言えば死の覚悟ですが、日本に連綿と受け継がれてきた文化には、「思いきる覚悟」「美しく散る覚悟」「いさぎよい覚悟」「あきらめの覚悟」などいろいろとあって、一つの真理として「覚悟のすがた」を限定せず、しなやかに使いわけてきたのが日本人だと思うんですね。
『葉隠』、『平家物語』、本居宣長の“もののあはれ論”などから引いてくればきりがないほどさまざまな覚悟のすがたがある。この覚悟を体現している人は現代日本にもたくさんいると思うのですが、なかなか目立つところには出てきません。
とても大切な気構えだと思うんですよねえ。
以下、高見順(詩人 1907-1965) の『帰る旅』から引用します。
この旅は自然に帰る旅である
帰るところのある旅だから楽しくなくてはならないのだ
もうじき土に戻れるのだ
この詩は彼が癌を患い余命いくばくもないなかで書かれたものです。
ここには見事に「あきらめの覚悟」がある。つづきにこうあります。
大地に帰る死を悲しんではいけない
肉体とともに精神も わが家に帰れるのである
ともすれば悲しみがちだった精神も
おだやかに地下で眠れるのである
宗教的概念の「天国」や「極楽浄土」ではなく、大地に帰ると言っています。大地がわが家という感覚がいいですよねえ。意味として客観的に、「土に還る」という感覚に置き換えられないこともないですが、詩的には主観的に、私は「帰る」と、また「戻る」ということでしょう。そう書かれているからこそ心に響いてくるのだと思います。
物質世界の科学的感覚が現代文化の主流になっていますが、日本人のこうした「自然から生まれてきて自然へとまた帰る」という思想、おだやかに地下で眠れる精神という表現は、なんとなく私たちの心に、『おだやかな覚悟』を芽生えさせてくれるような気がします。
年初新春に桜花の心。