毎年この時期になると先の大戦が話題になります。特に神風特攻隊については、マイナス評価として語られている文章をよく目にします。空の神風よりも先に、人間魚雷として実用化された海の回天で散っていった英雄も忘れてはなりません。
作戦についての是非、賛否は横に措きまして、まさに体当たりで玉砕していった英雄たちの精神とはどういうものであったかについて考えます。
軍の命令で仕方なく(内心では玉砕したくないのに)志願した英雄もいるでしょう。
みずから一番槍となることを目指して果敢に志願した英雄もいるでしょう。
彼らの動機付けは、日本国のためであり、日本に残してきた親族など愛する人のためでもあり、日本国民全員のためでもあり、日本男児としての矜恃を発揮したものでもあったと思います。なかには戦場で友人や親族の死を目にし憎悪感情で任務にあたったかたもいたでしょう。
私は無条件で、手放しで、特攻で玉砕した英雄を男として最高の生きざまだったと讃えたい。
彼らのおかげで現代の平和な日本があるという感謝ももちろんありますが、それよりも、『葉隠』にみられる日本伝統の武士道精神を体現した、男としてこれ以上ない死に場所であり死にざまだと断言したい。
「公」のために、或いは他者のためにいざという時には命を惜しまないという覚悟は素晴らしいの一語に尽きる。
8月1日の記事 『「日本」という個性(3)』 で『葉隠』の武士道について触れました。武士道には『葉隠』の武士道と新渡戸稲造の『武士道』があると書きました。
ところが先日、書店で相良亨氏(1921-2000 倫理学者・東京大学名誉教授/このブログでたびたび引用)が書いた『武士道』という文庫本を発見し、今も味読中なのですが、著者によれば新渡戸稲造の『武士道』は儒学的士道であるというのです。武士道ではなく士道であると。また、『葉隠』からさかのぼること約200年、戦国時代の甲州武田家には『甲陽軍艦』という葉隠に近い精神論で武士道について著わされた書があるそうで、機会をみつけて読んでみたいと思っています。
『葉隠』冒頭の有名な、
武士道といふは、死ぬ事と見附けたり。
上記一連の文章には以下の文言があります。
我人、生くるほうが好きなり。多分好きのほうに理が付くべし。
若し、図にはづれて生きたらば腰抜けなり。この堺危うきなり。
これについて著者の相良氏はこう述べます。
それは一部の人の理解するように死への憧憬ではない。少なくとも直接的に死への憧憬を示すものではない。死はともかく、武士にとっても、好ましからざること、我人は生きる方が好きなのである。が、その死への道をえらべというのである。それは悲壮ですらある。しかし、その死への決断によって、武士としてもっともかけがえなく貴重なものを確保しうるというのが死ぬ事と見付けたりなのである。
(講談社学術文庫版 相良亨著『武士道』)
また、哲学者であり相良氏の師である和辻哲郎氏の、「死の覚悟」を「死生を超えた立場」と比較して、覚悟を「まだ自分の身命にこだわっている」・「こだわるのはまだ私を残した立場である」 との言及に、覚悟とは悲哀を踏まえたものであると言います。むしろ内心に悲哀なくしてそれを振り切る覚悟はない。そして、死の覚悟はあらかじめ心に定めておくのが武士道であると述べます。
覚悟を「死の覚悟」に限定して考えると、死を覚悟するということは、死において自己が無になるという事実から目をそむけることなく、しかもその死をおそれず毅然と事に処し、あるいは敢然と死地に突入すべく心にきめることである。あらかじめ心に定めるところがあって死に直面してもなお毅然たる態度をとりうる武士、あるいは事に望んで敢然と死に突入しうる武士が死の覚悟ある武士であり、かかる生き方を可能ならしめるかねての心の姿勢が覚悟なのである。
(同書)
前の文章とともに要約すれば、武士道といふは死ぬ事と見付けたりとは、生を軽視し死を最上とするのではなく、また、生からの逃げのための死は軽蔑すべきであって、人は誰でも生きることが好きであり、否、生を好きでなくてはならない。その好きな生に対し、断固とした決意で死を覚悟する。この決意はその時その場で決めるのではなく、あらかじめ決めておき、毎日毎日が、死への覚悟をいつ実行してもよいという精神生活である。
他方、無駄死にはしないということも説かれています。
「死ぬ覚悟」を毎日常に持ちつづける精神状態というのは尋常ではありません。
武士は仕える殿様のために死ぬというのは間違いで、そうした上下関係は死の動機としては薄く、あくまでも武士としての自分個人の矜恃の問題であります。
死ぬ覚悟を実行するためには必ず「大義」が必要だったという一面も忘れてはなりません。公けのために、多くの民を救うためならば喜び勇んで命を捨てるのです。
戦国時代、江戸時代、明治維新、大正昭和と連綿として受け継がれてきた、こうした武士道精神が日本男児の血に流れているからこそ、日露戦争で大国ロシアに勝ち、日清戦争で大国中国(清)に勝てた。第二次世界大戦においては、武器力・科学力・財力において圧倒的に優位であった欧米列強に対し、アメリカ以外の英、仏、蘭を粉砕し東南アジアから追い出しました。
ロシアに日本が占領統治されていたらどうなっていたでしょう。中国(清)に占領統治されていたらどうなっていたでしょう。おそらく日本という国家は消滅していたと思います。北方領土やチベットのようになっていたに違いない。
アメリカ軍が強引に日本本土に上陸し地上戦を行わなかったのは、特攻を受けた心理的ダメージが大きな要因だったというアメリカ人の分析を読みました。また、アメリカが大きく優位にたった後の、沖縄での日本軍および現地の抵抗、硫黄島での日本兵の戦いぶり(死者・日本兵約2万、アメリカ兵約7千)も、地上戦占領を断念した要因でした。
多大な犠牲を払った戦争を、すべて「悪」だと教育されてきたのが戦後の日本人です。
しかしそれは反知性的で単純な表層であって、国の存亡がかかるいざというときに、敵国の軍隊が日本に地上戦を仕掛けてきたらどうでしょう。国を守るために、婦女子を守るために、わが命などくれてやると覚悟し進んで戦いに出るのが日本男児でありましょう。自衛隊にすべてお願いしますなどというのは、男の風上にも置けない。
そうして人民軍兵士と戦って相手を殺さなければ自分が殺されるという事態において、殺人は「悪」でしょうか。亡国に抵抗する自衛戦争は「悪」ですか。
単純に「暴力は悪い」とは口が裂けても言えない筈です。暴力を暴力によって抑え込むのが警察です。自衛隊は暴力装置と言って叩かれた政治家がいましたが、日常の平和な治安があるのも、警察という暴力装置があるから安心できるわけです。
アメリカが世界一の大国になったのも、量的にも技術的にも圧倒的な軍事力という暴力装置があるからです。
暴力を軽視してはなりません。根底で、経済を支えているのも平和を支えているのも暴力であって知性ではありません。北朝鮮の暴力に対し知性のなすすべはありません。アメリカの軍事力という暴力に日本は頼り切っています。平和ボケとよく言われますが、現代日本人が知性を過信しているのは事実でしょう。
「戦争を繰り返さない」とは、みずからは戦争を仕掛けないということであって、戦争を仕掛けられ攻撃を受けたら、国を守るために、多くの人を守るために、婦女や子どもを守るために、死を覚悟し、暴力によって闘うのが男としては当然ではないですか。
まさに、「今そこにある危機」に対して腹を括っておかねばなりません。いざ有事になったときに右往左往して逃げたり命乞いするようでは、武士道精神で散っていった先人の英雄たちにどう顔向けができましょうか。
相良亨氏の『武士道』を読んだうえでこうしてアウトプットしていくと、男として生きること、実際にいま男として生きていることを考えさせられます。相良氏は暴力とは無縁の倫理学者であるのに、彼もまた儒学的士道よりも『葉隠』の武士道のほうに男として刺激を受けていたことがありありとわかります。
男とはなにか。
男の生きざま、男の死にざまとはなにか。
余計なお世話ですが、女性のかたは、女とはなにか、女の生きざまとはなにかというテーマで、一度じっくりと考えてみてはいかがでしょうか。もしかすると女としての人生がさらに豊かになるかもしれません。