人間知バイアス


一般的な人がもつ人間知バイアスの一つについて書いてみよう。人間知バイアスの全部ではなく、ごく一部である。

「~のために」をほとんどの人は考えるだろう。私も考える。しかし多くの一般的な人は「~のために」が必ずあると考える。因果関係を単純に目的論に重ねてしまう。原因があるから結果がある。それを動機と目的に重ねて考える。例えば何のために生きるのかとか、その人のその行動には自己利益目的があるはずだとか、必ず目的が原理としてあると思い込んでしまう。

一般社会に流通している常識のなかには、目的論の論理で誤って信じさせられていることが幾つもある。例えば「人間には生きる本能がある」とか、「生物には生きようとする本能がある」とか。このことをちょっと難しい言葉に変えて「自己保存本能」などと呼称する人もいる。そして「生存を目的としているから」ということを論拠として論を立てるが、人間だけでなく生物に、生きようとする本能があるという原理の証明はない。仮説の議論のなかでそう見立てているだけである。そう見立てているだけなのに論拠にしてしまうのは知性が低い。これが人間知バイアスである。そして、雰囲気だけの説得力で他の知性の低い人をそう信じさせてしまう。

同じようなことに「種族保存本能」がある。生物には自分の種を子孫に残そうとする本能があるという仮説だ。これも原理の証明はない。人間知バイアスでそう見立てているだけだ。この「本能」とやらが事実かのように、大手を振って俗世でデカい顔をしてのさばっている。それでも、この種の話に振り回され自らも振り回す人々を上から目線で、知性が低いのだから仕方ないと突き放せばいいだけなので、寛容な人であれば問題はないのだが、どうしても、「めちゃくちゃな論拠ででたらめなこと言うな」と、人間ができていない私はそう思ってしまう。

上記の目的論で見立てるケースのように、人間は、人間知性のバイアスをかける。先入観がなければ実在世界の何も認識できないという議論もある。そして、このバイアスはすべて人間の観念世界に生じている。私は上記の「本能仮説」については判断保留として、とてもじゃないが論拠に使えるたぐいのものではないと気づいたけれども、私の観念世界の中にも、このバイアス以外の誤った固定観念が幾つか形成されていることは確実だと思っている。自分でそれに気づかずに、人間知バイアスをかけている。

ただ、「人間知バイアス」があるということを知っているか知らないかでは全然違うということは言える。

 

 

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